第七十三話 開いている弁
第二候補は、主熱交換器入口側だった。
冷却水再循環枝路を離れると、通路の空気が少しずつ変わった。
湿り気よりも、熱が増える。
蒸し暑いというほどではない。
けれど、壁の奥からじわじわと温度が染み出してくるような感じがあった。
康生は首元に手を当てた。
「暑くなってきたな」
「環境温度、二十九・六度」
アオイが答える。
「数字で言われると大したことなさそうなのが嫌だ」
「湿度、七十四パーセント」
「急に嫌になった」
森川が計測器を見ながら頷いた。
「主熱交換器入口側は、補助炉の排熱が近いので温度が上がりやすいです。本来なら換気と冷却が効いているんですが、今は制限されています」
「練馬が止まっているので?」
康生が言う。
森川は少し困ったように笑った。
「はい。練馬が止まっているので」
「この施設、自分が止まってるせいで自分の修理が面倒になってるな」
「はい」
アオイが言った。
「自己復旧能力の低下です」
「言い方は正しいけど、腹立つな」
燈子が前を歩きながら言う。
「この先、床が少し滑ります。古い冷却水の漏れ跡があります」
「篠宮さん」
康生が言う。
燈子は振り返る前に答えた。
「案内だけです」
「早い」
「学習しました」
アオイが言う。
「案内のみ、記録継続」
「私、監視されていますね」
燈子が少し笑った。
「俺もされてます」
康生が言う。
「高出力運用は禁止です」
アオイが即座に続ける。
「ほら」
「大事にされているのですね」
「そう言われると、否定しづらい」
通路の先で、相馬が手を上げた。
「ここから温度上昇区画です。全員、防護面を下ろしてください。作業時間は短く」
防衛隊員たちが装備を確認する。
森川も防護面を下ろした。
康生は渡された簡易防護面を見て、少し顔をしかめる。
「俺も必要ですか」
「康生は温度耐性が通常人間と異なりますが、眼部、表面構造、右手末端部への影響が不明です」
アオイが言う。
「つまり必要か」
「はい」
「分かりました」
防護面を下ろすと、視界が少し暗くなる。
息苦しい。
いや、息をする必要はない。
それなのに、息苦しく感じる。
康生は自分の感覚に少しだけ腹が立った。
「人間っぽいの、面倒だな」
「康生は人間一般に近い心理反応を示しています」
「嬉しいけど面倒」
「両立します」
「最近それでだいたい片づけるな」
「便利です」
「便利って認めた」
燈子が小さく笑った。
その笑い声は、防護面越しでも分かった。
温度上昇区画へ入ると、空気がさらに重くなった。
壁面の配管には、黄色と赤の表示が残っている。
主熱交換器入口側。
高温注意。
自動遮断弁。
圧力緩衝槽。
天井の一部には断熱材が貼られていたが、ところどころ剥がれている。
そこから黒ずんだ金属が見えた。
床には、白く乾いた跡が筋のように残っている。
冷却水に含まれていた薬剤か、金属成分か。
踏むと、薄く粉が舞った。
森川が言う。
「この先が主熱交換器入口側の点検区画です。第一候補と違って、こちらは詰まりだけとは限りません」
「どういう意味ですか」
康生が聞く。
「センサー上は、入口流量が極端に低いです。ただ、圧力差の出方が少し変なんです」
「変」
「詰まっているなら上流側がもっと上がるはずです。でも、上がり方が弱い。流れていないのに、押してもいない」
康生は眉を寄せる。
「流れてないけど、詰まってる感じでもない?」
「はい」
「嫌なやつですね」
「嫌なやつです」
森川は即答した。
「森川さんも現場の人ですね」
「現場なので」
相馬が少しだけ笑った。
通路の奥に、分厚い扉があった。
主熱交換器入口側点検室。
高温注意。
自動遮断弁区画。
開放時、圧力確認必須。
扉の横に端末がある。
その表示は、黄色く点滅していた。
――主熱交換器入口側、点検申請待機。
――区画温度、上昇。
――換気能力、制限中。
――滞在推奨時間、十五分。
康生は顔をしかめた。
「時間制限つきか」
「通常人間の安全基準です」
アオイが言う。
「俺は?」
「不明です」
「不明が一番嫌だって言ったよな」
「はい」
森川が端末を操作する。
「練馬施設管理系、主熱交換器入口側点検室、入室申請。目的、冷却循環系閉塞確認。同行、暫定外部保守端末、A.O.I.、防衛隊、現地案内者、技術員」
端末が少し遅れて反応する。
――要求、受領。
――暫定外部保守端末、規約違反状態。
――低権限保守モード、確認。
――区画温度、上昇。
――入室、条件付き許可。
――滞在時間、監視。
「また規約違反」
康生がぼそっと言う。
「しつこい」
「監視継続中です」
アオイが答えた。
「分かってる」
扉が開いた瞬間、熱い空気が流れてきた。
汗をかく体なら、すぐに汗ばむだろう。
康生の身体はそうではない。
それでも、表面を薄く撫でられるような嫌な熱さがあった。
点検室の中は、配管と弁だらけだった。
中央に大きな円筒形の設備がある。
その手前に、太い配管が二本入り込んでいた。
片方が主系統。
もう片方が補助系統。
入口側の配管には、大型の自動遮断弁が取り付けられている。
その弁の表示灯は、緑だった。
――入口遮断弁、開。
――流量、低下。
――圧力、低下。
――温度、上昇傾向。
康生は表示を見た。
「開いてるのに流れてない?」
森川が頷く。
「そうです」
「じゃあ、中で詰まってるんじゃ」
「その可能性もあります。ただ、弁が本当に開いているかを確認したいです」
「表示が嘘ついてる可能性?」
「はい」
アオイがすぐに言う。
「弁開度センサーと実機位置の不一致は、経年劣化時に発生します」
「開いてるって言ってるけど、実は閉まってる?」
「可能性があります」
「機械まで見栄を張るなよ」
燈子が少し笑いそうになり、すぐ真面目な顔に戻した。
「この弁、前にも問題がありました」
康生が見る。
「知ってるんですか」
「三年前に、一度ここまで案内しました。技術班が確認して、センサーを補正したはずです」
森川が端末を見ながら頷く。
「記録にあります。三年前、入口遮断弁開度センサー再調整。作業結果、正常」
「正常、か」
康生は嫌な顔をした。
「その正常って、今あんまり信用できないですね」
「はい」
森川はすぐ同意した。
「現場では、再確認します」
「いいですね、その考え方」
「必要です」
「みんな必要って言う」
森川は少しだけ笑った。
アオイが設備を見上げる。
「手動開度確認機構があります。弁体位置を機械的に確認可能です」
「どこ?」
森川が配管の横へ回り込む。
「ここです」
そこには、小さな丸窓のようなものがあった。
汚れて曇っている。
その横に、細い目盛りと針がついていた。
針は、開の位置を指している。
康生は覗き込んだ。
「針も開」
アオイが言う。
「外部指示針もセンサー系に連動している可能性があります」
「じゃあ、窓は?」
森川が布で丸窓を拭く。
中は暗い。
古い油と汚れで、ほとんど見えない。
「照らします」
アオイが白い光を当てた。
康生は防護面越しに丸窓を覗いた。
中に、弁の軸らしきものが見える。
その奥に、金属の板。
流路を塞ぐもの。
康生は目を細めた。
「これ、開いてる?」
森川の声が硬くなる。
「…いえ」
アオイが解析する。
「実弁体位置、閉止寄り。推定開度、十二パーセント」
部屋が一瞬静かになった。
森川が端末を見る。
「表示は九十二パーセント開です」
康生は顔をしかめた。
「嘘がひどい」
「センサー軸の空回りか、開度伝達機構の破損です」
アオイが言う。
「つまり、開けたつもりで閉まってた」
森川は悔しそうに言った。
「流れないはずです」
相馬が周囲を確認する。
「手動で開けられますか」
森川は弁の横を確認する。
「手動ハンドルはあります。ただ、主系統側なので重いです。固着している可能性もあります」
千田が一歩前に出た。
「回しましょう」
「また重いやつですね」
康生が言う。
千田は静かに頷く。
「湿ってはいません」
「基準そこなんですね」
相馬もハンドルに手をかける。
「私も補助します」
燈子が一歩動きかけた。
康生とアオイが同時に見た。
燈子は止まった。
「案内だけです」
「よろしい」
アオイが言う。
「発言と行動の一致を確認」
「厳しい」
燈子は苦笑した。
森川が計器を見ながら指示する。
「急に開けないでください。十パーセントずつ。温度と圧力を見ます」
千田と相馬がハンドルを回す。
ぎぎ、と金属の鳴る音がした。
重い。
明らかに重い。
相馬の額に汗がにじむ。
千田の腕にも力が入っている。
「動いてる?」
康生が聞く。
アオイが丸窓を解析する。
「実弁体、微動。開度、十四パーセント」
「二パーセント」
「固着が強いです」
森川が端末を見る。
「温度、変化なし。流量、まだ低いです」
千田がもう一度力を込めた。
ハンドルが、少しだけ回る。
ぎぎぎ、と嫌な音。
次に、配管の奥で低い音がした。
ごう、と水が動きかける。
「止めてください」
森川がすぐ言う。
千田と相馬が止める。
計器の針が揺れた。
――入口遮断弁、実開度二十一パーセント。
――流量、微増。
――温度変化、監視中。
――圧力差、低下傾向。
「流れた」
康生が言う。
森川の声が少し明るくなる。
「はい。ただ、このままだと開度表示が信用できません。手動開度を基準に運用する必要があります」
「自動制御には戻せない?」
「今は無理です」
アオイが言う。
「センサー入力を無効化し、実開度を手動値として仮登録することは可能です」
「仮登録」
康生が端末を見る。
「練馬施設管理系。入口遮断弁の開度センサーを信用しない。実弁体位置を手動確認値に切り替えられる?」
端末が反応する。
――要求、受領。
――低権限保守モード。
――センサー無効化、要承認。
――代替入力、手動確認値。
――規約違反状態、監視継続。
――安全制約、照合。
「監視はもういいって」
「残存しています」
アオイが言う。
「知ってる」
表示が続く。
――条件付き許可。
――対象、入口遮断弁開度センサー。
――自動制御除外。
――手動開度、仮登録。
――保守記録、必須。
「保守記録、必須」
康生が繰り返す。
「書かないと駄目なのか」
森川が即答する。
「書きます」
「即答」
「記録がないと、次の人が死にます」
その言葉は軽くなかった。
康生は少し黙った。
「それは、書きましょう」
アオイが言う。
「記録は重要です」
「今回は本当にそうだな」
森川が端末に入力する。
――保守記録入力。
――入口遮断弁開度センサー、表示不一致。
――実弁体開度、手動確認。
――自動制御除外。
――手動開度基準、暫定運用。
――記録者、森川技士。
――確認者、暫定外部保守端末、石田康生。
康生は表示を見て顔をしかめる。
「確認者、俺?」
「暫定外部保守端末の承認が必要です」
森川が言う。
「規約違反者なのに」
「限定承認されています」
アオイが答える。
「便利なのか不便なのか分からない立場だな」
「両立します」
「またそれ」
康生は端末に左手をかざす。
「確認」
表示が白く点滅する。
――確認、受領。
――手動開度基準、暫定反映。
アオイが言う。
「これで施設制御系は、表示上の開度ではなく、手動確認値を基準に入口流量を再計算します」
「つまり、嘘つきセンサーを黙らせた」
「近似表現として適切です」
「分かりやすい」
森川は計器を見ながら言った。
「もう少し開けます。三十パーセントまで」
千田と相馬が再びハンドルを回す。
今度は先ほどより少し動く。
固着が少し剥がれたのかもしれない。
ぎぎ。
ぎぎぎ。
水音が太くなる。
配管の温度が、わずかに下がり始めた。
――実開度、三十パーセント。
――入口流量、回復。
――主熱交換器入口側、通水確認。
――温度上昇、低下傾向。
森川が息を吐く。
「流れました」
相馬もハンドルから手を離す。
「三十パーセントで固定します」
アオイが全体系統図を出す。
――冷却水再循環枝路、流量回復率二十二パーセント。
――主熱交換器入口側、流量回復率三十七パーセント。
――冷却循環系、低圧循環試験条件、一部充足。
――残存確認箇所、補助炉排熱連絡管。
康生は表示を見る。
「三十七パーセント」
「十分ではありません」
アオイが言う。
「でも、ゼロじゃない」
燈子が言った。
康生は燈子を見る。
「それ、持ちネタみたいになってきましたね」
燈子は少し恥ずかしそうに笑った。
「便利なので」
「現場の便利な言葉が増えていく」
森川は端末を閉じた。
「次は補助炉排熱連絡管です。ここが一番嫌です」
康生は嫌な顔をした。
「今までのより?」
「はい」
「何が嫌なんですか」
森川は少し間を置く。
「補助炉が今も低出力で動いているので、完全には冷えていません。それと、排熱連絡管は狭いです」
「狭い」
相馬が補足する。
「作業員が入れる場所は限られます。遠隔機械も一部しか使えません」
アオイが表示を確認する。
「第三候補、補助炉排熱連絡管。温度高。通信遮蔽あり。ピコマシン濃度、局所上昇」
「最後に嫌な情報足すな」
「必要です」
康生は右手を見た。
少し動きやすい。
ここに近づくほど、安定しているようにも感じる。
それが良いことなのかは分からない。
「ピコマシン濃度、局所上昇って、俺には?」
「不明です」
アオイが答える。
「不明多いな」
「はい」
燈子が言う。
「少し休んでから行きますか」
康生は燈子を見る。
「それ、篠宮さんも休むなら」
燈子は一瞬黙った。
「…はい」
「今の間」
「休みます」
アオイが言う。
「発言記録。篠宮燈子、休息を承諾」
燈子が苦笑する。
「また記録されました」
「記録は大事です」
千田が静かに言った。
森川が簡易の休憩スペースを指す。
「隣の点検員待機室が使えます。温度も少し低いです」
康生は頷いた。
「じゃあ、休憩。次が一番嫌なら、なおさら」
相馬も同意する。
「五分休憩。装備確認。補助炉排熱連絡管へ向かう」
点検室の扉が開く。
外の通路から、少しだけ涼しい空気が流れ込んだ。
主熱交換器入口側は、完全には戻っていない。
だが、嘘をついていた弁は見つけた。
閉じていた道を、少し開いた。
冷却水は、まだ細い。
けれど、確かに流れ始めている。
康生は配管の音を聞いた。
さっきよりも、少しだけ水の音が太い。
「次で、冷却系は一段落か」
「補助炉排熱連絡管の状態次第です」
アオイが答える。
「そこ、はいって言ってほしかった」
「不確実です」
「知ってる」
康生たちは、熱交換器の点検室を出た。
眠っている炉の奥で、水の道がまた一本、細く戻っていた。




