第七十一話 規約違反者
「…規約…違反者…確認」
古い施設の声が、途切れながら響いた。
康生の左手に、冷たい圧が増していく。
痛みではない。
だが、内側を細い針で探られているような不快感があった。
指先から腕へ。
腕から肩へ。
肩から頭の奥へ。
施設の何かが、康生を読もうとしている。
「アオイ」
康生は声を絞った。
「負荷上昇。強制監査プロセスが接続深度を上げています」
「切る?」
「推奨しません」
アオイの声は硬かった。
「急速切断時、康生側の構成乱れが再発する可能性があります」
「右手みたいに?」
「はい」
「嫌すぎる」
燈子が入口で身を乗り出した。
「切れないんですか」
「切断は可能です。ただし、康生に損耗が発生する可能性があります」
アオイが答える。
「施設側にも?」
相馬が聞く。
「施設制御系が監査途中で遮断された場合、隔離処理へ移行する可能性があります。以後、再接続難度が上昇します」
「つまり、ここで逃げると面倒が増える」
康生が言う。
「はい」
「最悪だな」
表示板に赤い文字が流れ続けている。
――強制監査、開始。
――登録個体、石田康生。
――登録状態、死亡済み。
――現接続状態、不一致。
――ピコマシン構成体反応。
――登録情報と現構成に差異あり。
――未登録改変、多数。
――規約整合性、確認不能。
「死亡済みって何度も出すなよ」
康生は顔をしかめた。
「記録上は正しいです」
アオイが言う。
「正しくても腹立つんだよ」
「理解しています」
「本当に?」
「はい」
固定台の腕置きが、康生の左腕をわずかに締めた。
「おい、締まったぞ」
「安全固定機構が作動しています」
アオイが端末を操作する。
「強制監査中の対象離脱防止です」
「俺に対しては安全じゃないな?」
「同意します」
「お前が同意するの珍しいな」
「この固定は康生の安全性を低下させています」
アオイの声が少しだけ低くなる。
「解除を試みます」
表示板の文字が乱れた。
――外部介入検出。
――監査妨害の可能性。
――補助固定、維持。
――対象保全、優先。
「対象保全って、俺を保全してるつもりか」
康生が言う。
「旧施設側の定義では、監査対象の状態保持と推定されます」
「標本扱いかよ」
「その表現に近似した扱いです」
「近似してほしくなかった」
麻生が一歩近づきかけ、千田が軽く腕で制した。
「麻生殿」
「…分かっております」
麻生は足を止めた。
祈りそうな顔をしている。
だが、祈らないようにしている。
今この場で祈られても困るが、その顔だけで少しだけ申し訳なくなった。
「麻生さん、大丈夫です」
康生は言った。
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「確定はできないので」
「では、こちらも願わずに見守ります」
「それ、ほぼ願ってますよね」
「声には出しません」
「ギリギリで助かります」
燈子が康生と麻生を交互に見たが、何も聞かなかった。
その代わり、燈子は相馬へ視線を向ける。
「防衛隊側から、監査停止権限は?」
相馬は首を振った。
「ありません。練馬施設の深部制御は旧管理系の権限下です。外縁防衛線の現地権限では、外扉と搬入区画の許可までです」
「シラヌイは」
「通信遅延あり。問い合わせ中」
相馬は通信端末を見る。
「ただ、艦からでも強制停止は難しいはずです」
「ですよね」
燈子は小さく息を吐いた。
康生は表示板を見る。
古い施設の文字列は、怒っているようにも、怯えているようにも見えた。
七百年前の登録情報。
死亡済みの利用者。
それなのに、接続している何か。
規約、登録、想定、そのどれもが違う。
だから監査する。
そういうことなのだろう。
「アオイ」
「はい」
「これ、俺を敵だと思ってる?」
「敵対判定ではありません。規約不整合対象として扱っています」
「それ、敵より面倒じゃないか?」
「場合によります」
「今は?」
「面倒です」
「珍しく素直」
アオイは端末に手をかざした。
「練馬施設管理系へ通知。現接続個体は、災害後環境における外部保守端末です。強制監査による損耗は、施設復旧任務を阻害します。監査深度を低下してください」
表示板が点滅する。
――要求、受領。
――外部端末、A.O.I.
――登録照合。
――登録状態、破損。
――管理者権限、確認不能。
――要求、保留。
「保留された」
康生が言う。
「想定内です」
「想定内なのか」
「はい」
「頼もしくない想定だな」
アオイは続ける。
「練馬施設管理系へ追加通知。現施設状態は、災害時保守条件に該当します。主反応炉停止、送電母線遮断、外縁防衛線機能低下、居住区維持能力低下。利用規約整合性より、生命維持系復旧を優先してください」
表示が乱れる。
――災害時保守条件。
――照合。
――主反応炉、停止。
――送電母線、遮断。
――外縁防衛線、機能低下。
――居住区維持能力、低下。
――生命維持系、優先項目。
赤い警告の点滅が、少しだけ遅くなった。
康生の左腕を締めていた固定が、わずかに緩む。
「お、効いた?」
「部分的に」
アオイが答える。
「強制監査は継続中。ただし、監査深度の上昇は停止しました」
「半分勝ち?」
「現時点では、負けていません」
「それも現場っぽい」
相馬が小さく言う。
「現場では重要です」
「防衛隊が言うと説得力あるな」
燈子は表示板を見つめていた。
「生命維持系を優先するなら、練馬は動かせますか」
「まだです」
アオイが言う。
「施設側が康生を保守端末として受け入れる必要があります」
「どうすれば」
アオイは一瞬だけ黙った。
その沈黙が、康生には嫌だった。
「アオイ?」
「康生本人による応答が必要です」
「俺?」
「はい」
「何を言えばいい」
「旧施設は、登録情報と現状態の不一致を問題視しています。康生が自分を旧登録個体そのものとして主張すると、死亡済み記録と矛盾します」
「俺、俺なのに?」
「はい」
「面倒くさいな、俺の存在」
「はい」
「そこは否定してくれ」
「事実です」
アオイは表示板を見る。
「別の定義が必要です」
「別の定義」
「石田康生の登録情報を基礎とする、災害時暫定外部保守端末。旧登録個体と同一の権限ではなく、復旧任務に限定した一時接続体として申告してください」
康生は顔をしかめた。
「つまり、俺は俺だけど、登録上の俺とは別扱いにしろってこと?」
「近似します」
「俺のアイデンティティが雑に処理されてる」
「生存性と任務成功率を優先しています」
「正しいけど嫌だな」
燈子が静かに言った。
「でも、今ここで必要なのは、施設を動かすことです」
康生は燈子を見る。
燈子の右腕には、新しい包帯。
左足はまだ少し庇っている。
それでも彼女は、まっすぐこちらを見ていた。
「石田さんが何者かを、この施設が全部理解する必要はないと思います」
燈子は続ける。
「今は、動かせる人が来た。それだけで十分です」
康生は少し笑った。
「すごく現場の人っぽい」
「そうですか」
「はい」
「なら、相馬さんたちに近づけたかもしれません」
相馬が小さく咳払いをした。
「現場としては、同意します」
康生は固定台に座ったまま、表示板を見た。
赤い文字が待っている。
規約違反者が死亡済みだから不一致となり、確認が不能。
七百年前の何かが、今の康生を分類しようとしている。
だが、分類されるためにここへ来たわけではない。
「練馬施設管理系」
康生は言った。
声が少し震えた。
それでも続ける。
「俺は、登録情報上の石田康生そのものじゃない」
その言葉は、自分で言っていて少し嫌だった。
「登録情報を基礎にしてるけど、今は災害後環境で再構成された、暫定外部保守端末です」
アオイが小さく補足する。
「復旧任務限定。生命維持系優先。強制監査深度の低下を要求」
康生は頷く。
「復旧任務限定。生命維持系優先。強制監査を浅くしろ」
「言い方」
アオイが言う。
「分かりやすいだろ」
表示板の赤が揺れる。
――申告、受領。
――登録個体、石田康生。
――現接続体、暫定外部保守端末。
――同一性、確認不能。
――復旧任務限定、申請。
――生命維持系優先、照合。
部屋の奥で、低い音が鳴った。
遠くのポンプが一つ、動きかけて、止まる。
照明が一度ちらつく。
康生の左手にかかる圧が、少し弱まった。
「どうだ」
「照合中」
アオイが答える。
表示が流れる。
――災害時保守規定、参照。
――管理者応答、不安定。
――補助管理系、判断代行。
――条件不足。
――追加承認、要求。
「追加承認?」
康生が言う。
相馬がすぐに答えた。
「防衛隊側の災害時復旧任務承認を出します」
彼は端末を操作する。
「新潟地上輸送班、相馬三尉。外縁防衛線維持および旧東京圏地下生存圏生命維持系確保のため、石田康生殿の復旧任務限定接続を承認」
燈子も一歩前に出た。
「旧東京圏外縁防衛協力者、篠宮燈子。外縁防衛線の機能回復、および居住区維持のため、同接続を必要と認めます」
麻生が続こうとして、一瞬迷った。
康生は少しだけ目を向ける。
麻生は静かに頷いた。
「防人村代表、麻生。海洋リン回収施設および奥飛騨炭素固定複合施設の正式再評価に繋がる復旧任務として、石田康生殿の接続を認めます」
康生は思わず言った。
「麻生さん、ちゃんと代表っぽい」
「村長ですので」
「失礼しました」
千田は黙っていた。
だが、槍を床に立て、短く言った。
「護衛、千田。接続中の康生殿を守ります」
施設がそれを理解したかは分からない。
だが、表示板には承認情報が並んだ。
――防衛隊災害時復旧承認、受領。
――現地防衛協力者承認、受領。
――民間集落代表承認、受領。
――護衛宣言、記録。
康生は最後の行を見た。
「護衛宣言、記録されてる」
「記録は大事です」
千田が言う。
「千田さんが言うと重いな」
アオイが続ける。
「A.O.I.より、康生の生存性維持を条件として、限定接続を承認します」
表示板が一瞬、白くなった。
長い沈黙。
部屋の誰も動かなかった。
そして、赤い警告が消えた。
――強制監査、深度低下。
――規約整合性、未解決。
――対象分類、規約違反状態。
――ただし、災害時復旧任務を優先。
――暫定外部保守端末、限定承認。
康生は息を吐いた。
「規約違反は消えないのか」
「消えていません」
アオイが言う。
「消えないんだ」
「はい」
表示が続く。
――規約違反者。
――復旧任務限定接続、許可。
――読取専用モード解除。
――低権限保守モードへ移行。
康生は力なく笑った。
「規約違反者のまま許可された」
「現場判断です」
相馬が言った。
康生は相馬を見る。
「今の、ちょっと上手いですね」
「ありがとうございます」
燈子も少しだけ笑っていた。
だが、アオイの表情は変わらない。
「康生、安心しないでください。規約違反状態は残存しています。権限は限定的であり、監査プロセスは停止していません」
「まだ見られてる?」
「はい」
「嫌だな」
「ただし、施設状態の読取と一部保守操作が可能になりました」
正面の表示板に、練馬施設の全体図が浮かび上がる。
暗い線。
赤い警告。
黄色の注意表示。
ところどころに残る緑色の稼働表示。
主反応炉区画は、真っ赤だった。
――主反応炉、停止。
――燃料供給系、隔離。
――点火系、保護停止。
――冷却循環系、一部閉塞。
――送電母線、遮断。
――蓄電系、劣化。
――外縁防衛線供給、制限中。
――居住区空調、制限中。
――浄水系、制限中。
――航空整備区画、休止中。
康生は表示を見つめた。
「赤すぎる」
「深刻です」
アオイが答える。
燈子が静かに言う。
「これが、今の練馬です」
康生は頷いた。
思っていたより悪い。
けれど、見えた。
何が壊れているか。
どこが止まっているか。
何を直せばいいのか。
ようやく、後始末の入口に立った気がした。
「最初に見るべきは?」
アオイが即座に答える。
「冷却循環系です。主反応炉再起動前に、冷却系の閉塞確認と迂回経路の確保が必要です」
「送電じゃなくて?」
「冷却が先です」
「ですよね」
康生は表示板を見る。
「練馬施設管理系。冷却循環系の詳細ログを出してください。あと、直近の閉塞位置推定」
表示が少し遅れて反応する。
――要求、受領。
――冷却循環系ログ、破損あり。
――閉塞推定位置、三箇所。
――第一候補、地下二層、冷却水再循環枝路。
――第二候補、主熱交換器入口側。
――第三候補、補助炉排熱連絡管。
康生は顔をしかめた。
「三箇所」
アオイが言う。
「全て確認が必要です」
相馬が端末を覗き込む。
「地下二層は、現在立入制限区画です」
燈子がすぐに言った。
「案内できます」
康生は燈子を見た。
「腕と足」
「動きます」
「またそれだ」
燈子は少しだけ笑った。
「ですが、場所は分かります」
アオイが康生を見る。
「康生は接続を一度切る必要があります。長時間接続は推奨しません」
「切って大丈夫?」
「現在なら低リスクです。強制監査深度は低下しています」
「じゃあ、一旦切る」
アオイが頷く。
「接続解除を実行します」
左手の圧がゆっくり抜けていく。
頭の奥のノイズが遠ざかる。
施設の寝息のような音が、ただの機械音へ戻っていく。
康生は固定台から背中を離した。
「うわ、疲れた」
「生理的疲労ではなく、情報負荷による心理的疲労と推定」
「疲れは疲れだ」
「はい」
「そこは認めるんだ」
アオイは康生の左手を確認した。
「左手、異常なし。右手、構造安定率維持。意識混濁なし」
「ならよかった」
「ただし、次回接続時も監視継続」
「分かってる」
燈子が少しだけほっとした顔をした。
「無事でよかったです」
康生は苦笑する。
「規約違反者扱いですけどね」
「でも、許可は出ました」
「限定ですけど」
「限定でも、前に進めます」
その言葉に、康生は少しだけ黙った。
限定でも、前に進める。
それは防衛隊の考え方にも似ていた。
全部直すのではなく、通る場所を直す。
完全な承認ではなく、限定承認。
それでも先へ進む。
康生は固定台から立ち上がった。
「じゃあ、冷却水の詰まりを見に行きますか」
「はい」
アオイが答える。
「高出力運用は」
「禁止」
「右手異常時は」
「停止」
「単独行動は」
「しない」
「はい」
「もう暗記してきたな」
「良い傾向です」
相馬が通信を開く。
「冷却循環系確認のため、地下二層へ移動する。護衛二名、技術員一名を追加」
燈子が武器を手に取ろうとした。
康生は思わず言う。
「篠宮さんは、案内だけですよ」
燈子は少し止まる。
「はい。案内だけです」
アオイが言う。
「努力します、ではありませんね」
燈子は苦笑した。
「はい。案内だけです」
康生は少し安心した。
完全ではない。
たぶん、この人は必要ならまた動く。
それでも今は、案内だけと言った。
なら、それでいい。
部屋の外では、練馬施設の低い機械音が続いている。
眠っていた炉は、まだ起きていない。
だが、その眠りの中に、ようやく道筋が見えた。
康生たちは、冷却循環系の閉塞箇所へ向かって歩き出した。




