第七十話 眠る炉
扉が開いた。
古い施設の空気が、ゆっくり流れ込んでくる。
冷たいのか、温かいのか分からない空気だった。
湿ってはいない。
外縁防衛線の人の匂いとも違う。
金属と油と古い樹脂に、わずかな焦げ臭さ。
それから、空気を何度も濾過した後のような、乾いた匂い。
康生は思わず顔をしかめた。
「旧施設の匂いだ」
「複数の工業系揮発成分を検出」
アオイが答える。
「数字にしなくていい」
「まだ数字は提示していません」
「そういう問題じゃない」
燈子が少しだけ笑った。
「ここに入ると、皆そう言います。匂いが違うって」
「外縁とは違いますね」
「はい。ここは、人が暮らす場所ではなく、機械が眠る場所です」
眠る。
その言葉は、この空間によく合っていた。
扉の向こうは、広い搬入区画だった。
天井は高く、壁には大型の配管とケーブルラックが走っている。
床には黄色い誘導線が引かれ、ところどころに古い警告表示が残っていた。
練馬地下核融合施設。
主反応炉区画。
高電圧設備。
冷却循環路。
許可なき立入禁止。
文字は読める。
だが、いくつかの表示板は割れていた。
照明は半分ほどしか点いていない。
生きている設備と死んでいる設備が、同じ壁に並んでいる。
康生は、足元の振動に気づいた。
外縁防衛線のざわめきとは違う。
護衛艦しらぬいの振動とも違う。
もっと低い。
もっと奥から来る。
「動いてるんですか」
康生が聞くと、燈子が頷いた。
「補助炉だけです。主反応炉は止まっています」
アオイが表示を出す。
――練馬地下核融合施設。
――主反応炉、停止。
――補助炉、低出力待機。
――蓄電系、不安定。
――送電母線、遮断。
――冷却循環系、一部閉塞疑い。
――施設管理AI、応答不安定。
「止まってるのに、音がする」
「完全停止ではありません」
アオイが言う。
「補助炉、冷却ポンプ、環境維持設備、保守用電源の一部が稼働しています」
「寝てるけど、呼吸はしてるみたいな」
「近似表現として適切です」
「なら、起こし方を間違えると危ないやつだな」
「はい」
即答だった。
康生は少しだけ嫌な顔をした。
「そこは、ちょっと否定してほしかった」
「危険認識は必要です」
「分かってる」
燈子が前を歩き出す。
「こちらです。外部保守端末用の接続室は、この先にあります」
「外部保守端末って、俺のことですよね」
「はい」
「やっぱり人間扱いではない」
「すみません」
「篠宮さんが謝ることじゃないです」
燈子は少しだけ困ったように笑った。
「つい」
康生はそれ以上言わなかった。
この人は、何でも一度自分の方へ引き寄せてしまうのかもしれない。
悪い癖だと思う。
他人事とは言いづらかった。
搬入区画の横で、貨物路のゲートが開いた。
低い警告音とともに、別経路から貨物輸送車が入ってくる。
荷台には、作業艇が固定されていた。
支持架に押さえられ、給電端子を封鎖された姿は、やはり完全に荷物だった。
「来た来た」
康生が言う。
「作業艇、貨物路経由で練馬搬入口へ到達」
アオイが確認する。
――貨物二号、到着。
――旧文明小型長距離作業艇、固定状態良好。
――外装補修部、異常なし。
――給電端子、封鎖維持。
康生は少し安心した。
「無事でよかった」
「康生は作業艇に愛着を持っています」
アオイが言う。
「足だからな」
「移動手段として重要、という意味ですね」
「分かってるなら聞くなよ」
「確認です」
「その確認、だいたい分かっててやってるよな」
作業艇を見上げていた整備員が、康生に声をかけた。
「この機体、施設接続に使うんですか」
「使うかも、くらいです」
アオイが答える。
「現時点では、直接給電源としての使用は推奨しません。補助端末、通信中継、保守ログ保持装置として利用可能です」
康生はアオイを見る。
「俺より先に答えたな」
「作業艇運用に関する安全判断です」
「正しいけど」
整備員は頷いた。
「搬入口横の保守待機区画へ固定します。必要になったら呼んでください」
「お願いします」
康生が言うと、整備員は少しだけ意外そうな顔をした。
「はい」
その顔で、康生は少しだけ気づいた。
ここでは、外部保守端末と呼ばれている。
作業艇の持ち主でもある。
資料上は、人間かどうか怪しい存在なのだろう。
その相手が普通にお願いしますと言ったので、少し拍子抜けしたのかもしれない。
康生は苦笑した。
「俺、そんなに変ですかね」
「康生の登録種別は特殊です」
アオイが言う。
「聞きたかったのは、お前じゃない」
「回答しました」
「知ってる」
燈子が小さく笑った。
「変かどうかは、まだ分かりません。でも、話しやすそうで少し安心しました」
「それは、たぶん褒め言葉として受け取ります」
「はい。褒めています」
燈子はそう言ってから、少し歩く速度を落とした。
左足をかばっている。
康生は気づいたが、何も言わなかった。
言えば、また「動きます」と返ってくる気がしたからだ。
接続室へ向かう通路は、外縁よりずっと静かだった。
人はいるけれど少ない。
白い作業服を着た技術員が、壁面端末の前で何かを確認している。
防衛隊員が二人、通路の曲がり角に立っていた。
施設内の照明は不安定だった。
点いている場所は明るいが、少し先は暗い。
照明が落ちている区画には、仮設の投光器が置かれている。
「これでも、練馬施設の中では安定している方です」
燈子が言った。
「今、聞きたくない情報でした」
「すみません」
「謝らないでください」
「すみま…いえ、分かりました」
燈子は途中で言い直した。
康生は少しだけ笑った。
「努力してますね」
「努力します、は実行保証ではないそうなので」
「刺さってますね」
「はい」
アオイは特に反応しなかった。
康生はアオイを見る。
「お前、いいこと言ったみたいな顔してない?」
「表情変化はありません」
「気分の話」
「気分は未定義です」
「本当か?」
「現在、定義検討中です」
康生は一瞬黙った。
「そういうこと言うようになったな」
「記録しました」
「それはもう覚えてくれ」
「努力します」
「お前もか」
燈子がまた少し笑った。
通路の奥に、厚い扉があった。
緊急保守接続室。
外部管理者用接続端末。
施設制御系隔離接続口。
文字がいくつも並んでいる。
扉の横には、古い認証装置があった。
手のひらを当てるような窪み。
眼球認証らしきレンズ。
そして、旧式のカードスロット。
どれも半分壊れているように見えた。
相馬が言う。
「通常の防衛隊認証では、ここから先へは入れません。篠宮さんの現地権限と、シラヌイからの一時認証で外扉までは開きます」
「中は?」
「外部保守端末の接続が必要です」
康生は扉を見る。
「俺か」
「はい」
アオイが前に出る。
「接続前に、手順を確認します」
「はい」
「康生は単独で施設制御系に接続しない」
「はい」
「右手は使用しない」
「はい」
「左手による低負荷接続のみ」
「はい」
「異常が出た場合は、ただちに離脱」
「はい」
「高出力運用は」
「禁止」
「はい」
燈子がそのやり取りを見ていた。
「いつも、こうなんですか」
「最近は、こうです」
康生が答える。
「以前は?」
「たぶん、もっと雑でした」
アオイが言う。
「康生は過去、高出力運用時に自己損耗を軽視しました」
「言い方」
「事実です」
燈子は康生の右手を見る。
「それで、その手に」
「たぶん」
康生は右手を軽く握った。
「ちゃんとは分かってませんけど」
「分からないまま動くのは怖いですね」
燈子が言う。
康生は少しだけ燈子を見た。
「篠宮さんも、そういうの多そうですね」
燈子は答えなかった。
ただ、少し困ったように笑った。
それが答えだった。
相馬が端末を操作する。
「外扉、開放します」
認証装置が低い音を立てる。
ランプが何度か赤く点滅し、次に黄色へ変わった。
――防衛隊一時認証、確認。
――現地防衛協力者権限、確認。
――外部保守端末、未接続。
――接続室外扉、開放。
重い扉が、ゆっくり開いた。
中は、小さな部屋だった。
壁一面に旧式の端末が並んでいる。
だが、その半分以上は暗い。
床にはケーブルが走り、いくつかは仮設の中継器につながれていた。
部屋の中央に、椅子のようなものがある。
椅子というより、固定台だった。
両側に腕を置く場所があり、正面には半透明の表示板が吊られている。
康生は顔をしかめた。
「座らされる感じが嫌なんだけど」
「外部保守端末用安全固定台です」
アオイが言う。
「名前で安心できない」
「接続中の転倒、意識混濁、筋硬直に備えた設備です」
「さらに安心できない」
相馬が言う。
「現在、この固定台を使える人間はいません。旧施設規格の接続に耐えられないためです」
「俺は?」
「あなたは人間扱いされていないので」
「言い方」
相馬は少しだけ申し訳なさそうにした。
「すみません。現場の表現として正確ではありませんでした」
「いや、正確すぎて嫌なだけです」
アオイが固定台を調べる。
「物理固定機構、一部稼働。神経接続補助、停止。外部端末給電口、低出力なら使用可能。絶縁状態、要確認」
「使えるのか」
「限定的に」
「また限定」
「必要です」
「シラヌイみたいなこと言うな」
「学習中です」
「やめろ、その学習」
燈子が部屋の入口で止まった。
「私はここで待ちます。中の詳しい操作は、技術員とアオイさんに任せた方がいいので」
「篠宮さんは施設の操作はしないんですか」
「できません。扉を開けたり、保守班を案内したりはしますが、炉そのものは触れません」
「じゃあ、いつもここまで?」
「はい」
燈子は奥の暗い端末を見る。
「いつも、ここまでです」
その声には、少しだけ悔しさが混じっていた。
ここまで来られる。
でも、動かせない。
壊れた場所まで人を運ぶことはできる。
塞ぐことはできる。
だが、根本を直すことはできない。
康生は、燈子が言った「塞ぐ側」という言葉を思い出した。
「じゃあ、ここからは俺の仕事ですね」
燈子が康生を見る。
「お願いします」
また、その言葉だった。
命令ではない。
祈りでもない。
ただのお願い。
それが、康生には一番重かった。
「やれるだけやります」
「無理は」
燈子は言いかけて、止まった。
康生は少し笑った。
「今、無理しないでくださいって言おうとしました?」
「はい」
「篠宮さんに言われると、重いですね」
「すみません」
「謝らないでください」
「…はい」
アオイが固定台の横に立った。
「康生、左手のみ接続してください。右手は膝の上。異常が出た場合、私が強制切断します」
「了解」
康生は固定台に座った。
背中が冷たい。
腕置きに左手を乗せる。
金属の溝が、手首の位置に合った。
古い端末が低く唸る。
アオイがケーブルを確認する。
技術員が絶縁状態を見ている。
相馬が入口側で周囲を警戒する。
千田は槍を持ち、何も言わずに立っている。
麻生は、祈りそうな顔をして、必死に祈らないようにしている。
康生はそれを見て、少しだけ笑った。
「麻生さん」
「はい」
「祈らないでくださいね」
麻生は真面目な顔で頷いた。
「安定化を願うだけに留めます」
「それ、ほぼ祈りでは?」
「言葉にはしません」
「なら、ギリギリで」
燈子が不思議そうに見ている。
「祈られるんですか」
康生は深くため息を吐いた。
「いろいろあって」
「いろいろ」
「はい。いろいろです」
アオイが言う。
「康生は防人村において、神格化傾向を受けています」
「説明しなくていい」
燈子は一瞬目を丸くした。
そして、少し考えてから言った。
「大変ですね」
康生は少し救われた気がした。
「そこ、拝まないんですね」
「拝んだ方がいいんですか」
「やめてください」
「では、やめます」
「助かります」
燈子は小さく笑った。
「こちらでも、変な呼ばれ方をすると困りますから」
「篠宮さんも?」
「少しだけ」
それ以上は言わなかった。
康生も聞かなかった。
アオイの声が、いつもより硬くなる。
「接続開始。出力、最小。康生、異常があれば申告してください」
「分かった」
左手首に、冷たいものが触れた。
次の瞬間、指先から細い電流のような感覚が走る。
痛くはない。
だが、不快だった。
頭の奥に、遠いノイズが入る。
眠っている施設の、寝息のような音。
水の流れる音。
止まったポンプ。
閉じた遮断器。
どこかで回り続ける小さな補助炉。
情報が、細い糸のように康生へ触れてくる。
「うわ、気持ち悪い」
「接続状態、低負荷で安定」
アオイが言う。
「これで安定なのか」
「はい」
「旧施設、だいたい気持ち悪いな」
「記録しました」
「そこはしなくていい」
正面の表示板が点いた。
古い文字列が流れる。
一部は欠け、一部は化けている。
だが、読める部分もある。
――外部保守端末、接続。
――通信系、隔離。
――施設制御系、読取専用モード。
――認証情報、照合中。
康生は息を止める。
必要のない呼吸。
それでも、止めた。
表示が一度暗くなった。
次に、低い合成音声が流れた。
「…外部…保守…端末…確認」
声は途切れ途切れだった。
古い録音を、水の底から聞いているような音だった。
「施設管理AIですか」
アオイが問う。
しばらく反応がない。
次に、表示が乱れた。
――管理AI応答、不安定。
――補助管理系、応答。
――認証情報、破損。
――再照合。
康生の左手に、少しだけ圧がかかる。
「アオイ」
「確認しています。接続負荷、わずかに上昇。許容範囲内」
「許容範囲って言葉、嫌いになりそう」
「必要な表現です」
表示板に、康生の名前が出た。
石田康生。
その文字を見た瞬間、部屋の空気が少し変わった気がした。
燈子が入口で息を呑む。
相馬が表示を見る。
麻生も、千田も、何も言わない。
表示は続く。
――旧登録情報、照合。
――登録種別、外部保守端末。
――個体識別、石田康生。
――最終活動記録、七百年以上前。
――生体状態、死亡済み。
――現接続状態、不一致。
康生は顔をしかめた。
「死亡済みって出た」
「記録上は正しいです」
アオイが言う。
「正しくても嫌だろ」
「はい」
さらに文字が流れる。
――ピコマシン構成体反応。
――登録情報と現構成に差異あり。
――未登録改変、多数。
――規約整合性、確認不能。
康生は嫌な予感がした。
「おい」
表示板が赤く点滅する。
――警告。
――登録個体、石田康生。
――利用規約違反状態。
――強制監査を開始します。
部屋の照明が、一瞬落ちた。
低い音が、施設の奥から響く。
アオイが康生の肩を掴んだ。
「康生、接続維持。負荷上昇。強制切断準備」
康生は表示を睨んだ。
「七百年後に規約違反で怒られるのかよ」
古い施設の声が、途切れながら答えた。
「…規約…違反者…確認」
康生の左手に、冷たい圧が増した。




