第六十九話 壁の内側
「お願いします」
篠宮燈子がそう言ったあと、外縁防衛線はすぐに日常へ戻った。
日常。
そう呼ぶには、あまりに物騒だった。
赤い警告灯はまだ回っている。
通路の奥では、閉鎖された六番枝路の確認作業が続いている。
防衛隊員が武器を構えたまま、壁面表示を見ていた。
整備員が工具を持って走り、担架を押す人間がその横を通る。
誰も、大きな声を上げない。
慌ててはいる。
だが、混乱はしていない。
慣れているのだ。
康生はそれが少し嫌だった。
「六番枝路、二次侵入反応なし」
壁面表示に文字が流れる。
――外縁六番枝路、封鎖維持。
――中型害獣反応、消失確認。
――隔壁損傷、軽微。
――負傷者、一名。
――搬送中。
燈子がその表示を見上げる。
「軽微なら、よかったです」
「篠宮さん」
近くの防衛隊員が声をかけた。
「右腕、見せてください。出血してます」
燈子は自分の右腕を見た。
包帯の端が、少しだけ赤くなっている。
「あとで大丈夫です」
「あとでは駄目です」
隊員は即答した。
燈子は少し困ったように笑った。
「練馬へ案内してからで」
「その前です」
康生は思わず燈子を見た。
このやり取りにも、慣れがあった。
怪我をしても、あとでと言う人。
それを止める人。
たぶん何度も繰り返してきたのだろう。
アオイが静かに言う。
「右前腕部、出血反応。歩行時、左脚荷重回避。疲労兆候あり」
「聞こえてるからな」
康生が小声で言う。
「観測結果です」
「本人の前で言うなよ」
燈子がこちらを見て、少し笑った。
「大丈夫です。いつものことなので」
康生は顔をしかめた。
「それ、大丈夫じゃない人の言い方ですよ」
燈子は少しだけ目を丸くした。
そして、なぜか嬉しそうに笑った。
「初対面で、それを言われるとは思いませんでした」
「すみません」
「いえ。正しいです」
正しいと言われると、康生は困る。
燈子は近くの簡易処置台へ向かった。
防衛隊員が慣れた手つきで包帯を外し、傷口を確認する。
ひどい傷ではない。
だが、新しい傷の下に、古い傷がいくつもあった。
右腕だけではない。
防護服の継ぎ目から見える首筋にも、左手の甲にも、細い傷跡が残っている。
康生は見ないふりをした。
見ないふりをしたのに、見えてしまった。
「石田さん」
燈子が処置を受けながら声をかける。
「はい」
「練馬施設へは、ここから地下連絡車で向かいます。外縁から中間居住区を抜けて、旧環状補修路へ入ります」
「地下連絡車」
「小型の車両です。今乗ってきた装甲輸送車よりは、少し揺れません」
「それは助かります」
「ただ、途中で電力制限区間があります」
「助からない情報がすぐ来た」
燈子は申し訳なさそうに笑った。
「すみません。練馬が止まっているので」
その言葉が、また出た。
練馬が止まっているので。
門が手動で、砲塔が三割で、迎えも遅れ、移動も不便。
傷の処置も後回しにされそうになる。
全部、そこにつながっている。
康生は嫌でも理解していく。
「作業艇はどうします?」
相馬が貨物輸送車の方を見た。
荷台の作業艇は、検査用の光を浴びたまま固定されている。
その姿は、やはりどう見ても荷物だった。
燈子が答える。
「練馬施設の搬入口まで、貨物車で運びます。途中の高さ制限が二箇所ありますが、支持架を下げれば通れるはずです」
「通れる、はず」
康生は嫌な顔をした。
「通れます」
燈子は言い直した。
「今、気を遣って言い直しました?」
「はい」
「正直ですね」
「不安にさせたくなかったので」
「すでに不安です」
「すみません」
燈子はすぐ謝る。
それが少し気になった。
英雄と呼ばれる人間の言葉にしては、腰が低い。
いや、だからこそ英雄と呼ばれるのかもしれない。
周囲が頼りたくなる人間。
本人が断らない人間。
頼まれたら、少し無理をしてしまう人間。
康生は、嫌な想像を振り払った。
簡易処置が終わると、燈子は新しい包帯を巻かれた右腕を軽く曲げ伸ばしした。
処置をした隊員が言う。
「今日の戦闘は、もう控えてください」
「できるだけ」
「篠宮さん」
「分かっています」
分かっている人間の返事ではなかった。
康生は思わずアオイを見た。
アオイも燈子を見ていた。
「何か言わないのか」
康生が小さく聞く。
「康生に対する発言であれば、高出力運用は禁止です」
「俺じゃなくて」
「篠宮燈子に対する行動権限はありません」
「そういう問題か」
「はい」
アオイは少しだけ間を置いた。
「ただし、負荷蓄積は明らかです」
「だよな」
燈子が近づいてきた。
「お待たせしました。案内します」
「腕、大丈夫ですか」
「動きます」
「大丈夫か聞いたんですけど」
燈子は一瞬考えた。
「動きます」
「答え変わってない」
「すみません。こちらでは、それが大丈夫の意味になることが多くて」
康生は返す言葉を失った。
壁の内側でも、外縁はまだ戦場なのだ。
相馬が部隊に指示を出す。
「装甲輸送車一号、ここで待機。貨物二号は練馬搬入口まで同行。人員は地下連絡車へ移乗」
「了解」
防衛隊員たちが動き出す。
康生たちは、燈子の案内で防衛区画の奥へ進んだ。
歩き始めると、外縁防衛線の大きさが分かった。
左右の壁には仮設の詰所が並び、上部の足場では整備員が配線を直している。
床には何度も補修した跡がある。
ところどころに、害獣の爪痕のような深い溝が残っていた。
その横を、人々が普通に歩いている。
工具箱を持つ人。
空の弾倉箱を運ぶ人。
湯気の立つ容器を抱えた人。
壁際で眠るように座っている防衛隊員。
康生はその一人を見た。
若い男だった。
ヘルメットを膝に置いたまま、目を閉じている。
眠っているのか、気を失っているのか分からない。
隣の女が、彼の肩に毛布をかけた。
何も特別な光景ではない。
ただ、疲れている人間がいて、それを見た誰かが毛布をかける。
その普通さが、逆に胸に残った。
「ここで生活してるんですね」
康生が言うと、燈子は首を横に振った。
「外縁で暮らす人は少ないです。ここは防衛と整備の区画です。居住区は、もう少し内側にあります」
「でも、人の匂いがする」
「ここで働く人が多いので」
「働く場所か」
「はい」
燈子は前を見たまま言う。
「壊れる場所なので、直す人が必要です」
康生は少しだけ笑った。
「どこも同じですね」
「同じ、ですか」
「壊れたら、直す人が呼ばれる」
「石田さんも?」
「まあ、そうですね。俺もだいたい、それで呼ばれます」
「では、同業ですね」
「篠宮さんは直す側ですか?」
燈子は少し考えた。
「壊れないように、塞ぐ側です」
「それも大事ですね」
「はい」
短いやり取りだった。
けれど、燈子の言葉は妙に落ち着いていた。
自分が戦っていると言わない。
守っているとも言わない。
塞いでいると言う。
穴を、侵入口を塞ぐ。
壊れかけた場所を、身体で塞ぐ。
康生は、その表現が嫌だった。
通路の先に、別の区画が見えてきた。
防衛区画よりも、少し明るい。
天井から吊られた照明が、ところどころで揺れている。
壁面の配管には断熱材が巻かれ、床には簡易の案内線が引かれていた。
人の数が増える。
ただし、子どもはやはり見えない。
その代わり、作業帰りらしき大人たちが足早に通り過ぎる。
彼らは燈子を見ると、少しだけ表情を緩める。
声をかける者もいた。
「燈子さん、六番は?」
「閉じました。しばらく近づかないでください」
「了解」
「腕、大丈夫?」
「処置しました」
「ちゃんと休んで」
「練馬へ行ってから」
相手は何か言いたそうな顔をしたが、結局それ以上は言わなかった。
康生はそのやり取りを見ていた。
誰も、彼女を拝まない。
誰も、頭を垂れて膝をついたりしない。
ただ、心配している。
そして、止めきれない。
それが、余計に重かった。
麻生も黙っていた。
村で康生を見る人々とは違う。
けれど、似ている部分もあると感じているのかもしれない。
「篠宮殿は、皆に慕われているのですな」
麻生が言った。
燈子は少し困ったように笑った。
「どうでしょう。よく怒られます」
「心配されているのです」
「それなら、ありがたいです」
「ありがたいなら、聞き入れるのもよろしいかと」
燈子は一瞬、言葉に詰まった。
康生は内心で少し驚いた。
麻生が言うと、重い。
信仰の言葉ではないのに、重い。
燈子は小さく頷いた。
「努力します」
アオイが反応する。
「努力します、は実行保証ではありません」
康生は思わずアオイを見る。
「お前が言うと刺さるな」
燈子が少しだけ笑った。
「厳しい方ですね」
「厳しいです」
アオイは即答した。
「康生の生存性維持を優先しています」
「いいことです」
「はい」
「俺も会話に入ってる?」
康生が言うと、アオイは康生を見た。
「はい」
「入ってる感じがしない」
「康生の話題です」
「本人抜きで進めるな」
燈子が今度ははっきり笑った。
その笑い方は、年相応に見えた。
疲れは消えないし、傷も消えない。
それでも、少しだけ普通の人に見えた。
通路の奥に、地下連絡車が停まっていた。
小型の車両だった。
低い箱形の車体に、左右へ短い連結器がある。
タイヤではなく、床に埋め込まれた案内レールに沿って走るらしい。
車体には補修跡が多く、側面には手書きで「第七―練馬」と書かれていた。
康生はそれを見て言った。
「電車?」
燈子が答える。
「昔の電車ではありません。地下連絡車です。旧保守用搬送機を改造しています」
「だいたい電車では?」
「近いです」
アオイが言う。
「乗員輸送用の簡易軌道車両です」
「やっぱり電車だ」
「近似します」
「近似ばっかりだな」
車両の横では、整備員が蓄電ユニットを交換していた。
二人がかりで重そうな箱を持ち上げ、床下へ差し込む。
「蓄電で走るんですか」
「はい」
燈子が頷く。
「送電が不安定なので、区間ごとに蓄電ユニットを交換しながら走ります」
「面倒ですね」
「練馬が動けば、少し楽になります」
また、それだ。
康生はもう、苦笑するしかなかった。
「本当に全部そこですね」
「全部ではありません。でも、大きいです」
燈子は連絡車の扉を開ける。
「練馬が動けば、外縁の砲塔が戻ります。警戒網も少し戻ります。空調も、浄水も、搬送路も安定します」
「それで、篠宮さんも少し休める?」
燈子は扉に手をかけたまま、少しだけ止まった。
そして、笑った。
「そうなると、助かります」
たぶん、本心だ。
けれど、どこか遠慮があった。
休みたいと言わずに、助かると言う。
康生は、それも嫌だった。
「じゃあ、動かしましょう」
「はい」
燈子は短く答えた。
連絡車に乗り込むと、内部は思ったより狭かった。
向かい合わせの座席。
壁に固定された手すり。
天井の低い照明。
窓はほとんどない。
康生、アオイ、麻生、千田、燈子、相馬。
それに防衛隊員二名が乗り込む。
貨物輸送車は別の搬送路を通り、作業艇を練馬施設の搬入口へ運ぶらしい。
康生は少し不安になった。
「作業艇、別行動ですか」
燈子が頷く。
「高さ制限の関係で、貨物路を使います。練馬の搬入口で合流します」
「また荷物扱い」
「丁重に運びます」
「丁重な荷物扱い」
アオイが言う。
「貨物路の監視系へ接続しました。作業艇の位置は追跡可能です」
「ならいいか」
「勝手に飛ばさないよう、給電端子は封鎖状態を維持します」
「まだ信用されてない」
「はい」
「即答かよ」
連絡車の扉が閉まった。
外の音が少し遠くなる。
整備員が手を上げる。
運転席の防衛隊員が、短く確認する。
「第七西北連絡門発、練馬方面。乗員八名。蓄電残量八十二。次区間送電、不安定。低速運転で出ます」
「了解」
連絡車が動き出した。
がたん、と軽い衝撃。
次に、低い振動。
康生は座席の手すりを掴んだ。
「揺れる」
「装甲輸送車より揺動は小さいです」
アオイが言う。
「比較対象が悪い」
燈子が申し訳なさそうに言った。
「すみません。古い車両なので」
「篠宮さんが謝ることじゃないです」
「そうですね」
そう言いながら、燈子はまた少し謝りそうな顔をした。
連絡車は、防衛区画の奥へ進む。
窓の外は暗い。
時々、照明のついた横道が流れていく。
そこに人影が見えた。
荷物を押す人。
配管に手を当てて確認している整備員。
扉の前で待機する防衛隊員。
ほんの一瞬だけ、遠くに明るい広場のような場所が見えた。
多くの人が見える。
布の屋根の合間に、地面に並んだ箱。
何かを配っているらしい列。
「今のは?」
康生が聞くと、燈子が答えた。
「外縁市場です。居住区へ入る前の配給と交換所です」
「市場」
「小さいものですが」
「地下にも市場があるんだ」
「人がいれば、物を交換します」
麻生が頷いた。
「村と同じですな」
「そうですね」
燈子が少しだけ柔らかく笑った。
「規模は違いますが、たぶん同じです」
康生は窓の外を見続けた。
地下都市。
外縁防衛線。
市場。
配給。
工具。
包帯。
警告灯。
未来というより、必死に続いている現在だった。
連絡車の照明が一度、弱くなった。
室内が薄暗くなる。
すぐに非常灯が点いた。
「停電?」
康生が言う。
燈子が前を見る。
「送電が落ちただけです。蓄電で走れます」
「本当に、不安定なんだな」
相馬が通信を確認する。
「次区間、電力供給低下。速度を落とします」
運転席から返答がある。
「了解。低速継続」
連絡車の速度がさらに落ちた。
暗い通路を、ゆっくり進む。
アオイが表示を出す。
――練馬地下核融合施設まで、推定到達時間二十八分。
――送電母線、不安定。
――環境中ピコマシン濃度、上昇傾向。
――康生右手末端部、構造安定率、微増。
康生は右手を見た。
また少し、動かしやすい。
「右手、少し戻ってるっぽい」
「はい」
アオイが言う。
「ただし、安定要因は未確定です。過信しないでください」
「分かってる」
「高出力運用は禁止です」
「それも分かってる」
燈子が康生の右手を見た。
今度は、見なかったことにはしなかった。
「その手も、無理をしているんですね」
康生は少しだけ驚いた。
「分かります?」
「少しだけ」
燈子は自分の右腕を見る。
「動くから大丈夫、とは限らないので」
康生は苦笑した。
「さっき俺が言ったやつですね」
「はい。刺さりました」
「すみません」
「いえ。正しいです」
二人とも、同じような返事をした。
それに気づいて、康生は少し嫌になった。
アオイが二人を見る。
「類似傾向を確認」
「言うな」
「記録します」
「するな」
燈子が小さく笑った。
連絡車は、練馬方面へ進む。
通路の先に、今までより明るい光が見えてきた。
白ではない。
青でもない。
古い設備の黄色い照明と、非常灯の赤が混じった光。
壁面表示に、新しい文字が出る。
――練馬地下核融合施設、外部搬入区画。
――旧管理区域、接近。
――認証準備。
連絡車がゆっくり停止した。
扉の向こうから、低い機械音が響いている。
防衛区画の音とは違う。
人の声でも、車両の振動でもない。
大きな施設が、眠りながら息をしているような音だった。
康生は右手を握った。
「ここが、練馬」
燈子が頷く。
「はい。今の東京地下で、一番動いてほしい場所です」
アオイが康生の横に立つ。
「接続前に、施設状態の確認を行います。康生、単独接続は禁止です」
「分かってる」
「右手異常時は停止」
「分かってる」
「高出力運用は」
「禁止」
「はい」
康生は扉を見た。
その向こうに、練馬地下核融合施設がある。
海を正式に戻すため。
奥飛騨を正式な管理に戻すため。
東京地下の壁を、少しでも人間の手から機械へ戻すため。
そして、傷だらけの彼女が、少しでも座れるようにするため。
康生は息を吐いた。
必要のない呼吸だった。
それでも、吐いた。
「じゃあ、後始末を始めますか」
扉が開いた。
古い施設の空気が、ゆっくり流れ込んできた。




