第六十六話 新潟上陸
目が覚めた時、康生はしばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
天井が低い。
壁は灰色。
身体の下には硬い寝台。
背中には、重く一定した振動。
それから思い出した。
護衛艦しらぬい。
日本海航路。
新潟へ向かう途中。
康生は、胸の上に置いていた右手を見た。
指は閉じている。
ゆっくり開く。
昨日より動きはいい。
まだ完全ではない。
それでも、右手はそこにあった。
「起床を確認」
壁の表示板からシラヌイの声がした。
康生は少し顔をしかめる。
「見られてるなあ」
「医療監視です」
アオイが寝台の横に立っていた。
「お前もか」
「はい」
「二重監視」
「必要です」
「言うと思った」
康生は身体を起こした。
寝台から足を下ろすと、床がわずかに震えている。
船酔いはしていない。
そもそも、この身体で酔うのかは分からないが。
「気持ち悪くはないな」
「船酔い症状は確認されていません」
アオイが言う。
「珍しくいい知らせ」
「ただし」
「言うな」
「今後、上陸艇への移動時に揺動が増加する可能性があります」
「言うなって言っただろ」
「事前情報です」
「嫌な事前情報だな」
康生は右手を握った。
指先の反応は昨日より少し早い。
アオイがその動きを見ていた。
「右手末端部の構造体密度、基準下限を上回っています。通常行動は可能です」
「給電は」
「低負荷に限定してください」
「中負荷は」
「推奨しません」
「はいはい」
シラヌイが続ける。
「本艦医療監視系でも、右手密度回復傾向を確認。ただし、損耗履歴あり。高出力運用は禁止」
「禁止、まだ有効か」
「有効です」
「厳しいな」
「必要です」
康生は立ち上がり、軽く肩を回した。
身体は重い。
けれど、動ける。
それを良いことだと思うべきか、動けてしまうことを怖がるべきか、少し迷った。
「現在位置は?」
「旧新潟沿岸沖です」
シラヌイが答えた。
「本艦は低視認航行を維持したまま、上陸地点へ接近中。港湾施設の崩落、海底地形変化、海棲害獣反応を考慮し、艦の直接接岸は行いません」
「じゃあ、どうやって降りるんだ」
「艦載短距離輸送艇により、沿岸の地上輸送班と合流します」
「また別の乗り物か」
「はい」
「酔わない?」
「個人差があります」
「それ嫌いになってきた」
休息区画を出ると、麻生と千田が通路で待っていた。
麻生は少し寝不足に見える。
だが、顔色は悪くなかった。
「麻生さん、酔いました?」
「いえ。船というより、動く建物のようでした」
「分かります」
千田はいつも通りだった。
「千田さんは?」
「問題ありません」
「本当に何でも平気ですね」
「そうでもありません」
「何が苦手なんですか」
千田は少し考えた。
「湿った靴下です」
「急に生活感あるな」
麻生が少し笑った。
通路を進むと、昨日の収容区画ではなく、艦の側面に近い揚陸区画へ案内された。
厚い隔壁の向こうに、低い船体の輸送艇が固定されている。
艇というより、装甲の箱だった。
上部は低く、側面は厚い。
前方に小さな操縦区画があり、後部に人員用の座席が並んでいる。
「これが上陸艇?」
「艦載短距離輸送艇です」
シラヌイが答えた。
「だから、だいたい上陸艇だろ」
「用途は近似します」
「今日は近似でいいだろ」
上陸艇の横で、黒瀬艦長が待っていた。
灰色の制服の上に、薄い防護ベストを着ている。
「おはようございます、石田殿」
「おはようございます」
「体調は」
「右手はまだ変ですけど、動けます」
「動けることと、無理をしてよいことは別です」
康生は一瞬黙った。
「みんな同じこと言う」
「必要だからです」
黒瀬は少しだけ表情を緩めた。
「地上輸送班と合流後、本艦は沿岸沖で待機します。必要に応じて通信支援、広域監視、限定火力支援を行います」
「限定?」
「旧関越方面に入ると、山地、崩落構造物、地下連絡路が多くなります。本艦からの直接火力支援は制限されます」
「つまり、艦がいるから安心、とはならない」
「はい」
シラヌイが補足する。
「本艦の監視範囲から外れる区間があります。A.O.I.および地上輸送班の判断が重要になります」
「急に不安になるな」
「必要な不安です」
「そんなものあるのか」
「あります」
アオイが言った。
「危険認識は生存性を向上させます」
「二人がかりで不安を正当化するな」
黒瀬が少し笑った。
「不安を持っていてください。ただし、動けなくなるほどではなく」
「現場の言い方だ」
「現場なので」
康生は頷いた。
その言い方は嫌いではなかった。
上陸艇に乗り込む前、康生は作業艇のことを思い出した。
「俺たちの作業艇は?」
「本艦収容区画にて補修確認中です」
シラヌイが答える。
「上陸後、地上輸送班の貨物輸送車へ固定します」
「置いていくわけじゃないんだな」
「はい。練馬作戦後の移動、および以後の三沢方面移動に必要な機材と判断します」
「じゃあ、俺たちはこれに乗るけど、トゥクトゥクも一緒に陸へ上げるってことか」
「はい」
アオイが続けた。
「ただし、作業艇で直接上陸することは推奨しません。外装補修部の定着確認、姿勢制御板の過負荷履歴確認、給電端子の再検査が必要です」
「俺が飛ばすより、荷物扱いの方が安全ってことか」
シラヌイが答える。
「加えて、上陸地点周辺は海棲型および飛行型の探知可能性があります。艦載短距離輸送艇は低視認航行、装甲防護、緊急回収に対応しています」
「つまり、人間は安全な箱で降りる。トゥクトゥクは荷物として運ぶ」
「近似表現として適切です」
「急に雑な輸送だな」
「必要です」
「便利なものなのに、扱いが雑だなあ」
黒瀬が言った。
「壊さず運ぶことも、立派な運用です」
「現場の言い方だ」
「現場なので」
康生は少し笑った。
上陸艇の座席に座ると、すぐに固定ベルトが肩と腰を押さえた。
康生は顔をしかめる。
「拘束感すごいな」
「急制動時の安全確保です」
シラヌイが言う。
「急制動しないでくれ」
「状況によります」
「状況、頑張れ」
麻生も固定ベルトに戸惑っていた。
千田は静かに受け入れている。
「千田さん、本当に何でも受け入れますね」
「船の中では、船の決まりに従うべきでしょう」
「正論」
「それに、落ちるよりはよい」
「確かに」
隔壁が閉じた。
一瞬、外の音が消える。
次に、低い機械音が響いた。
上陸艇が艦内レールに沿って動く。
暗い射出口のような場所へ運ばれていく。
康生は思わず息を止めた。
「これ、撃ち出される感じじゃないよな」
「射出ではありません」
シラヌイが答える。
「降下搬出です」
「似たような言葉に聞こえる」
「異なります」
「信じるぞ」
外部扉が開いた。
灰色の海が見えた。
朝の日本海は、重い色をしていた。
空は低く、雲は厚い。
波の上に、細かな白い線が走っている。
上陸艇が外へ出た瞬間、初めて船らしい揺れが来た。
「うわ」
康生は思わず声を漏らした。
床が上下した。
身体は固定されているのに、内臓だけが一瞬遅れる。
「揺れるじゃねえか」
「上陸艇は本艦より揺動抑制能力が低いです」
「先に言え」
「事前に伝達済みです」
「そうだった!」
麻生が固定具を握った。
「これが、酔う、ですか」
「まだ入口です」
康生は真顔で答えた。
「入口なのですか」
「はい。知らない方が幸せです」
千田は前方を見たまま言った。
「私は大丈夫そうです」
「湿った靴下以外、強すぎる」
上陸艇は波を割って進んだ。
しらぬいの艦影は、すぐにぼやけ始める。
灰色の海と空の境目に溶け、やがてほとんど見えなくなった。
あれだけ巨大な艦が、消える。
康生はその光景を見て、改めて防衛隊の異質さを感じた。
旧文明の技術を使いながら、今も人が運用している。
施設のように暴走しているのではない。
止まれない善意でもない。
規律と判断で、動かしている。
それは少しだけ、頼もしかった。
「左前方、沿岸接近」
シラヌイの声が上陸艇内に響く。
「地上輸送班、通信範囲内」
すぐに別の声が入った。
若い男の声だった。
「こちら新潟地上輸送班、相馬。上陸艇を確認。誘導ビーコン送信中」
康生は顔を上げた。
「人間?」
「はい」
アオイが答える。
「防衛隊地上輸送班長、相馬三尉」
「三尉って偉いのか」
「下級幹部に相当します」
「たぶん現場の人だな」
「はい」
上陸艇の前方表示に、海岸線が映る。
昔の港ではなかった。
そこにあるのは、壊れた防波堤と、砂に埋もれた道路と、傾いた標識だった。
岸壁は崩れている。
大型船が近づける場所ではない。
その少し内側に、平らに整備された着岸帯があった。
新しいものだ。
金属板とコンクリート片を組み合わせた簡易の上陸地点。
そこに、三台の車両が並んでいた。
低い装甲車。
荷台を持つ貨物輸送車。
そして、後方に細長いアンテナを伸ばした通信車。
貨物輸送車の荷台には、作業艇を固定するための支持架が用意されていた。
「ちゃんと迎えがいる」
康生が言う。
「ちゃんとしてるな、防衛隊」
「必要です」
シラヌイが返した。
「そろそろその返しにも慣れてきた」
「記録しました」
アオイがいつもの返しをした。
康生はため息を吐きながら応じる。
「俺たちの思い出がいっぱいだな」
上陸艇が着岸した。
前方の装甲板が開き、冷たい風が吹き込む。
海の匂いと、錆びた金属の匂い。
それから、湿った土の匂い。
康生は固定ベルトを外し、立ち上がった。
少し足元がふわつく。
「揺れてないのに揺れてる感じがする」
「上陸後揺動感です」
アオイが言う。
「名前ついてるのか」
「一般的な現象です」
「嫌な一般」
麻生も慎重に立つ。
「地面が、ありがたいですな」
「分かります」
千田は何事もなかったように降りた。
「やっぱり強い」
「靴下は乾いています」
「そこなんですね」
上陸地点には、防衛隊員が五名待っていた。
灰色と黒の装備。
肩に小型の火器。
顔の一部は防護面で覆われているが、こちらを見る目は疲れている。
先頭の男が敬礼した。
三十代くらいに見える。
短く刈った髪。
口元に浅い傷がある。
「新潟地上輸送班、相馬三尉です。石田康生殿、A.O.I.、防人村代表麻生殿、護衛千田殿を確認しました」
康生は軽く頭を下げる。
「石田です。よろしくお願いします」
「こちらこそ。練馬までの地上輸送を担当します」
「遠いですよね」
「旧関越方面の地下連絡路を使います。地上を長く走るよりは安全です」
「安全な道、残ってるんですか」
相馬は少しだけ苦笑した。
「安全と言うより、危険の種類が分かっている道です」
康生は少し黙った。
「それ、すごく現場っぽいですね」
「実際、現場ですので」
黒瀬艦長と同じ返しだった。
防衛隊の人間は、こういう言い方をするのかもしれない。
麻生が一歩前に出る。
「防人村の麻生です。村の代表として同行します」
「承知しています。地上輸送中、村代表としての安全を確保します」
「よろしくお願いします」
相馬は千田にも目を向けた。
「武器保持は確認済みです。車内では固定をお願いします」
「承知しました」
千田はすぐに答えた。
相馬の視線が、康生の右手に一瞬だけ向いた。
だが、黒瀬と同じように何も言わなかった。
康生は、その沈黙に少しだけ救われた。
上陸艇の後方で、別の作業機械が動き始めた。
しらぬい側から送られてきた貨物用の小型搬送台が、作業艇を載せてゆっくりと降りてくる。
反重力で浮いている時とは違う。
今の作業艇は、完全に荷物だった。
「…なんか、急に格下げ感あるな」
康生が呟くと、アオイが答えた。
「輸送形態の違いです」
「便利な御車が、荷台行き」
「旧文明小型長距離作業艇です」
「言い方を正しても荷台行きだろ」
搬送台は貨物輸送車の後部へ進み、支持架の上に作業艇を固定した。
金属アームが左右から伸び、機体を押さえる。
――作業艇、貨物輸送車へ固定完了。
――姿勢制御板、固定保護。
――給電端子、保護封鎖。
――輸送状態、安定。
シラヌイの声が告げる。
「これで、練馬まで持っていけるんだな」
「はい」
アオイが言う。
「現地で必要に応じて再起動可能です。ただし、再点検後に限ります」
「はいはい。勝手に飛ばしません」
「記録しました」
「信用低いな」
相馬が地図を開いた。
「出発前に、状況を共有します」
通信車の側面に、地図が表示される。
旧新潟沿岸。
内陸へ伸びる輸送路。
山地。
旧関越道。
地下連絡路。
旧東京圏外縁。
いくつかの区間は赤く、いくつかは黄色で示されている。
「赤、多くないですか」
康生が言う。
「多いです」
相馬はあっさり認めた。
「認めるのか」
「隠しても意味がありません」
「現場だ」
「はい」
相馬は地図を指す。
「沿岸から旧長岡方面までは、地上輸送路を使います。そこから旧関越補修路に入り、山地を抜けます。旧トンネル区画の一部は崩落していま
すが、防衛隊が維持している連絡路があります」
「連絡路って、地下?」
「半地下、地下、崩落した高速道路の残骸、旧保守トンネルを組み合わせたものです」
「嫌な組み合わせ」
「ですが、飛行型に見つかりにくい」
アオイが補足する。
「上空遮蔽が多い経路です。康生の作業艇による露出飛行より安全です」
「作業艇でそのまま行くよりはマシか」
「はい」
「マシな選択ばっかりだな」
「この世界では一般的です」
「嫌な一般、二回目」
シラヌイの通信が入る。
「本艦は沿岸沖で待機します。地上輸送班への広域監視支援を継続。ただし山地地下区間では通信遅延、遮断の可能性あり」
「その時は?」
康生が聞く。
相馬が答えた。
「現地判断です」
「不安になる言葉だな」
「頼もしい言葉でもあります」
相馬は淡々と言った。
「現地にいる者が判断しなければ、間に合わないことがあります」
康生は少しだけ相馬を見た。
この人も、現場の人間だった。
正しい手順だけでは足りない場所を、何度も通ってきた顔をしている。
「分かりました」
康生は頷いた。
「現地判断、お願いします」
「こちらこそ。旧施設制御系に関しては、石田殿とA.O.I.の判断を仰ぎます」
「責任が重い」
「お互い様です」
「防衛隊、そういうこと言う人多くないですか」
「そうですか」
相馬は少しだけ笑った。
車両に乗り込む前に、康生は海を振り返った。
しらぬいは見えない。
だが、どこかにいる。
見えない巨大な艦が、沖で待っている。
その安心感と、見えないものに守られている不安が同時にあった。
「アオイ」
「はい」
「見えない支援って、ありがたいけど落ち着かないな」
「康生は視認可能な安全要素を好む傾向があります」
「普通そうだろ」
「人間一般に近い反応です」
「それはちょっと嬉しい」
シラヌイが通信越しに言う。
「本艦は低視認状態を維持します。必要時には通信支援を行います」
「見えなくてもいるってことだな」
「はい」
「了解」
康生は装甲輸送車に乗り込んだ。
内部は狭かった。
座席は硬く、窓は小さい。
壁には固定具と表示板が並んでいる。
麻生は隣に座り、千田は向かいに座った。
アオイは通路側に立つ。
相馬は前方席に座り、隊員たちがそれぞれの位置についた。
扉が閉まる。
外の風の音が消えた。
「出発します」
相馬が言う。
装甲輸送車が動き出した。
後方では、作業艇を載せた貨物輸送車も続く。
最初はゆっくり。
次に、がたん、と大きく揺れた。
康生は思わず手すりを掴む。
「船より揺れるじゃねえか」
「地上路面状態が不良です」
アオイが言う。
「知ってたけど!」
麻生も固定具を握る。
「地面とは、安定しているものではなかったのですな」
「場所によります」
千田は平然としている。
「千田さん、これも平気なんですか」
「靴下は乾いています」
「ほんと、それが基準なんですね」
車両は旧新潟の街跡を進んだ。
窓の外には、低い建物の残骸が流れていく。
雪に押し潰されたような屋根。
壁から伸びる蔦。
折れた信号機。
錆びた車の骨。
遠くに、かつて高速道路だったものが見えた。
巨大なコンクリートの線が、途中で崩れ、森に飲み込まれている。
「俺の時代の道だ」
康生は呟いた。
「これが」
麻生が窓の外を見る。
「車がたくさん走っていた道ですか」
「はい」
「これほどの道を作って、それでも壊れるのですな」
「俺の時代からは七百年ですからね。人が手を入れなくなってからでも、三百年くらいは経ってるはずです」
「三百年」
麻生は小さく繰り返した。
「人がいなければ、道も森に戻る」
「そうですね」
康生は窓の外を見た。
道も建物も、橋も標識も、みんな人が使うから形を保っていた。
使わなくなれば、世界は少しずつ奪い返す。
それが自然なのかもしれない。
でも、その自然の中に、害獣が混じっている。
旧文明施設の暴走が混じっている。
自然だけに戻れなかった世界。
「面倒だな」
「何がですか」
麻生が聞く。
「人がいないと壊れるものと、人がいない方が戻るものが混ざってるところです」
麻生は少し考えた。
「見分けが難しいのですな」
「はい」
「だから、後始末ですか」
「たぶん」
相馬が前方から言った。
「よい表現だと思います」
「防衛隊に広がってません?」
「黒瀬艦長から聞きました」
「早いな」
「現場では、分かりやすい言葉が早く広がります」
「変な言葉広げたな」
装甲輸送車は、崩れた道路を避けながら内陸へ進んだ。
途中、二度止まった。
一度目は、道路上に倒れた鉄骨を車両の前部アームで押しのけるため。
二度目は、前方に小型害獣の反応が出たためだった。
表示に赤い点が二つ浮かぶ。
――小型害獣反応、二。
――距離、中。
――進路交差可能性あり。
相馬が静かに言う。
「減速。右側廃線跡へ迂回」
運転席の隊員が答える。
「了解」
康生は身構えた。
「戦わないんですか」
「避けられるなら避けます」
相馬は言った。
「練馬到達が目的です」
康生は、眠る前に考えたことを思い出した。
逃げているのではない。
進むために避けている。
「防衛隊って、本当に防衛なんですね」
「攻める余裕がないだけです」
相馬は淡々と返した。
「でも、それで生き残っています」
康生は返事をしなかった。
装甲輸送車は廃線跡へ入り、草に埋もれたレールの横を進んだ。
遠くの建物の陰で、何かが動く。
細い脚。
低い背中。
こちらを見た気がした。
だが、追っては来ない。
赤い点が表示の端へ流れ、やがて消えた。
「追尾なし」
アオイが言う。
康生は息を吐いた。
「毎回戦わないの、助かる」
「康生の高出力運用は禁止です」
「分かってる」
「確認です」
「はいはい」
昼を少し過ぎた頃、車両は山に近づいた。
空気が変わる。
海の湿り気が薄れ、冷たい山の匂いが混じる。
道路の残骸は少なくなり、代わりに崩れた斜面と、古い防音壁の破片が増えた。
やがて前方に、巨大な暗い口が見えた。
山の斜面に開いた、黒い穴。
その周囲を、金属の補強材が支えている。
古い標識は読めない。
だが、かすれた文字の一部だけが残っていた。
――関越。
康生は思わず前のめりになった。
「関越道か」
「旧関越方面連絡路、入口です」
相馬が言った。
「元の高速道路の一部と、保守トンネル、防衛隊補修路を接続しています」
「この中を通るのか」
「はい」
アオイが表示を確認する。
「上空露出が減少します。飛行型害獣からの発見リスクは低下します」
「代わりに?」
「閉鎖空間リスクが上昇します」
「だよな」
シラヌイの声が通信に入る。
少しだけノイズが混じっていた。
「本艦からの直接監視は、この先段階的に低下します。地上輸送班、A.O.I.、現地中継機を優先してください」
「シラヌイ、ここでお別れ?」
「通信支援は継続します。ただし、遅延および一時遮断の可能性があります」
「見えない上に声も遠くなるのか」
「はい」
「不安だな」
「必要な不安です」
「それ昨日も聞いた気がする」
装甲輸送車は、連絡路の前で一度停止した。
後続の貨物輸送車も止まる。
荷台の上で固定された作業艇が、低い振動に合わせてわずかに揺れていた。
康生はそれを見て、変な気持ちになった。
あれがなければ、ここまで来られなかった。
けれど今は、自分たちの後ろで荷物として運ばれている。
便利なものは、仕事を増やす。
本当に、その通りだった。
相馬が隊員に短く指示を出す。
前方の照明が点く。
古いトンネルの奥に、青白い誘導灯が一つずつ灯っていく。
暗闇の中へ、細い道ができた。
麻生が息を呑む。
「山の中に、道を保っているのですか」
相馬が答える。
「完全ではありません。ですが、東京へ入るための数少ない道です」
康生は黒い入口を見つめた。
海から、山へ。
艦から、車へ。
しらぬいの広い監視から、狭い地下連絡路へ。
安全圏が、少しずつ細くなっていく。
「アオイ」
「はい」
「閉じ込められるの、嫌なんだけど」
「理解しています」
「言い方が優しい」
「康生の心理的負荷を考慮しました」
「助かる」
「ただし、進入は必要です」
「そこは変わらないんだな」
「はい」
康生は右手を軽く握った。
少し遅い。
だが、動く。
今はそれでいい。
装甲輸送車がゆっくり動き出す。
貨物輸送車も、その後ろに続いた。
旧関越方面連絡路。
東京へ続く、暗い山の口。
その奥から、冷たい空気が流れてきた。
土と金属と、古い排気のような匂いが混じっている。
人が作った道の匂いだった。
康生は、その匂いを懐かしいと思ってしまった自分に少し驚いた。
車両は青白い誘導灯に沿って、暗闇の中へ入っていった。




