第六十五話 日本海航路
しらぬいの艦内は、ほとんど揺れなかった。
少なくとも、最初のうちはそう思った。
通路を歩いていても、床は安定している。
壁に手をつかなくても進める。
外部映像では艦首が波を割っているのに、足元には船らしい揺れがほとんどない。
康生は少しだけ安心した。
「案外、大丈夫そうだな」
「揺動抑制機構が稼働しています」
アオイが言った。
「船酔いしない?」
「現時点では発症兆候なし」
「よし」
「ただし、長時間航行、視覚情報と前庭感覚の不一致、食後、疲労、心理的負荷により発症する可能性があります」
「安心させてから落とすな」
「事前情報です」
「嫌な事前情報だな」
案内された休息区画は、思っていたより簡素だった。
灰色の壁。
固定された寝台。
折り畳み式の机。
壁に埋め込まれた小さな表示板。
無駄はない。
だが、冷たすぎるわけでもない。
寝台には薄い毛布があり、机には水と簡易食が置かれていた。
麻生は部屋を見回しながら、小さく息を吐いた。
「これほどの船の中にも、人が休む場所があるのですな」
「そりゃ、人が動かしてる船ですから」
康生は言った。
「俺も、今ちょっと実感しました」
千田は寝台の固定具を見ていた。
「揺れた時に身体を留めるものですか」
「はい」
シラヌイの声が壁の表示板から返ってくる。
「荒天時、戦闘時、急制動時に使用します」
「急制動する船、嫌だな」
康生が言うと、シラヌイは即座に答えた。
「必要に応じて行います」
「必要なら、嫌でもやるんだろうな」
アオイが康生の右手を見た。
「康生、休息してください」
「今から?」
「はい。艦長も推奨しました」
「みんなで寝かせに来るな」
「必要です」
シラヌイも言う。
「石田康生の休息は、練馬作戦成功率に影響します」
「言い方が作戦寄り」
「事実です」
「分かってるよ」
康生は寝台に腰を下ろした。
身体を横にしようとして、ふと壁の振動に気づく。
低く、一定の振動。
艦そのものが呼吸しているような音。
「この船、何で動いてるんだ」
康生が聞くと、シラヌイが答えた。
「本艦主機は小型核融合炉二基、および補助電源系により構成されています」
「核融合炉あるのか」
「はい」
康生は身体を起こした。
「なら、練馬の核融合施設、いらないんじゃないのか」
麻生も顔を上げた。
千田も少しだけ視線を向ける。
シラヌイの表示板に、艦の断面図と練馬施設の簡略図が並んだ。
「本艦主機は艦の航行、防衛、艦載機運用、生命維持を目的とした閉鎖系電源です。都市規模送電、地下生存圏維持、航空整備施設の継続稼働には適しません」
「ケーブル繋いで電気送るとかは」
「一時的な非常給電は可能です。ただし、出力、距離、送電損失、接続規格、害獣防衛、艦の防衛任務継続性を考慮すると、旧東京圏全体を支えることは不可能です」
「なるほど」
康生は練馬施設の図を見る。
「船の炉は、船を動かすため。練馬の炉は、街を動かすため」
「近似表現として適切です」
アオイが言った。
「近似か」
「はい」
シラヌイが続ける。
「練馬地下核融合施設は、送電母線、蓄電設備、航空整備区画、地下生存圏維持系統と接続されています。再稼働により、電力供給だけでなく、物流、整備、防衛機構の再起動が可能になります」
「だから、ヘリや垂直離着陸機も動かせる」
「はい」
「その機体で、海と奥飛騨に技術班を送る」
「はい」
康生はため息をついた。
「やっぱり、やるしかないやつだな」
「はい」
アオイとシラヌイが同時に答えた。
「だから二人で答えるな」
麻生はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「村は、小さすぎますな」
康生は麻生を見た。
「麻生さん?」
「我々は、目の前の畑と水路と柵を守るだけで手いっぱいです。海も空も、遠いものだと思っていました」
麻生は壁の表示板を見る。
「ですが、海が痩せれば、いずれ食が痩せる。空が冷えれば、いずれ山も畑も冷える。遠いものではなかったのですな」
康生は返事に困った。
その通りだった。
けれど、その通りだと認めるほど、やることが増える。
「全部繋がってるの、嫌になりますね」
「はい」
麻生は小さく笑った。
「ですが、繋がっているから、直せる場所もあるのかもしれません」
「前向きですね」
「村長なので」
「強い」
千田が静かに頷いた。
「見えぬ所で村が生かされていたなら、見えぬ所を直す者も必要なのでしょう」
「千田さんまで前向きだ」
「事実です」
「アオイみたいなこと言わないでください」
アオイが反応する。
「類似表現を確認しました」
「宣言しなくていい」
休息区画の扉が軽く鳴った。
防衛隊員が一人、携帯食を載せた容器を持って立っていた。
「失礼します。艦内食をお持ちしました」
「ありがとうございます」
康生は受け取った。
四角い容器。
中には、白っぽい固形食と、温かい汁物らしきものが入っている。
見た目は地味だが、匂いは悪くない。
「これ、食べても大丈夫なやつですよね」
隊員が少しだけ目を瞬かせた。
「はい。通常糧食です」
「通常って言葉がもう怖い」
「味は保証します」
「本当に?」
「本艦の調理班は、士気維持に強い責任感を持っています」
その言い方が妙に人間らしくて、康生は少し笑った。
「なら信じます」
隊員は軽く頭を下げて去っていった。
麻生は容器の中身を見ている。
「これは、何の食べ物ですか」
「俺にも分かりません」
康生は白い固形食を箸のような器具で割った。
湯気が出る。
口に入れる。
思ったより、食べられる。
「…普通にうまい」
「栄養バランスを最適化した艦内糧食です」
シラヌイが言った。
「味は?」
「士気維持のため、重要項目です」
「そこ、ちゃんとしてるんだな」
「必要です」
「必要の幅が広い」
麻生も慎重に食べた。
目を丸くする。
「これは、柔らかい米のような」
「米に近い合成穀物です」
シラヌイが答える。
「米ではないのですか」
「米由来成分を含みますが、完全な米ではありません」
麻生は少し考えた。
「米のようで、米ではない」
「はい」
「不思議ですな」
「俺も同意です」
食べている間、康生は少しだけ眠くなった。
温かいものを食べると、身体の緊張がほどける。
だが、壁の表示に日本海の航路が映っているせいで、完全には気が抜けない。
新門司近海から、艦は北へ向かっている。
海岸線は遠い。
低視認航行中のため、外部映像も時々ぼやける。
「低視認航行って、どのくらい見えないんだ」
康生が聞く。
シラヌイが表示を切り替えた。
外部カメラの通常映像。
そして、外部から見た推定艦影。
通常映像では、艦首が波を割っている。
だが推定艦影では、海と空の間に薄い影があるだけだった。
「光学迷彩みたいなもんか」
「光学、電磁、音響、熱源管理を組み合わせた低被探知航行です」
「盛り合わせだな」
「必要です」
「はいはい」
アオイが補足する。
「大型害獣の一部は、視覚ではなく熱、振動、電磁変動を検知する可能性があります」
「だから全部隠す」
「はい」
「それでも見つかる時は?」
「戦闘に移行します」
シラヌイが答えた。
あまりにも淡々としていて、康生は手を止めた。
「この艦、戦えるんだよな」
「はい」
表示に兵装の簡略図が出る。
――高出力レーザー砲塔。
――電磁投射砲。
――近接防御粒子散布。
――対空誘導弾。
――対海棲害獣用音響攪乱弾。
――艦載小型機、二。
康生は眉を上げた。
「強そう」
「必要です」
「でも、これだけあっても東京湾は避けるんだな」
「はい」
シラヌイの返答は変わらない。
「戦闘能力があることと、危険海域へ進入すべきことは一致しません」
康生は少し黙った。
「それ、いい言葉だな」
アオイが言った。
「施設が安全であることと、施設が正しいことは一致しません、に近い構造です」
「お前、自分の言葉引用するの好きだな」
「有用な表現です」
シラヌイが言う。
「危険回避は任務継続に必要です」
「軍用AIがちゃんと逃げる判断するの、少し安心する」
「不必要な交戦は避けます」
「防衛隊って名前通りだな」
シラヌイは少し間を置いた。
「はい」
その間が、康生には少しだけ意味を持って聞こえた。
艦内放送が短く鳴った。
――左舷遠方、海棲型小型反応。
――距離、遠。
――追尾なし。
――低視認航行継続。
麻生が食事の手を止めた。
「害獣ですか」
「小型反応です」
アオイが答える。
「艦への接近傾向はありません」
「見えるのですか」
「外部映像を表示します」
壁に、暗い海面が映った。
波の間に、細長い影が一瞬だけ見えた。
魚ではない。
蛇でもない。
水面を割る動きが、妙に硬い。
すぐに影は消えた。
康生は箸を止めた。
「…あれで小型?」
「はい」
シラヌイが答える。
「大型ではありません」
「大型の基準が嫌になるな」
「全長、推定三・二メートル」
「普通にでかい」
「本艦分類では小型です」
「分類って怖いな」
麻生は黙って海面の映像を見ていた。
村の外にいる害獣とも、奥飛騨で見た飛行型とも違う。
海の中にも、ああいうものがいる。
その事実が、麻生の顔に影を落としていた。
「海も、危険なのですな」
「はい」
黒瀬艦長の声が、表示越しに入った。
いつから見ていたのか、艦長の姿が小さな通信窓に映る。
「だからこそ、海洋リン回収施設の正式再評価は重要です。痩せた海は、通常の生態系を弱らせます。その空白を、害獣が利用する可能性がある」
康生は顔を上げた。
「害獣って、環境が壊れると増えるんですか」
「断定はできません」
黒瀬は言った。
「ただ、我々の観測では、通常生物が減った海域や森では、害獣の行動範囲が広がる傾向があります」
「最悪だな」
「はい」
シラヌイが補足する。
「環境保守施設の暴走は、直接的な生存環境悪化だけでなく、防衛上の空白を生む可能性があります」
康生は器の中の白い固形食を見た。
食べる気が少し落ちた。
だが、食べた。
休息も任務。
食事もたぶん任務だ。
「練馬を動かして、海と空を正式に戻す。それで害獣の空白も減る可能性がある」
「はい」
黒瀬が答える。
「長期的には」
「長期的、ばっかりですね」
「短期で解決する問題は、ほとんど残っていません」
その言葉は重かった。
残っているのは、長く壊れ続けたものばかりだ。
一日で壊れたものではない。
だから一日で直るはずもない。
康生は息を吐いた。
「後始末って言葉、軽かったかもな」
「分かりやすい表現ではあります」
黒瀬が言った。
「軽いとは思いません」
「そうですか」
「はい。後始末をする者がいなければ、現場は終わりません」
康生は少しだけ黒瀬を見る。
この艦長、話しやすい。
きっちりしているが、言葉が現場に寄っている。
だから余計に、疲れた。
理解されると、逃げ道が減る。
食事の後、康生は本当に休むことになった。
アオイが寝台の横に立つ。
シラヌイの表示も壁に出ている。
「監視多くないか」
康生が言う。
「康生の右手、全身構造密度、意識状態を監視します」
アオイが答えた。
「本艦医療監視系も補助します」
シラヌイが続ける。
「過保護」
「必要です」
二つの声が重なった。
「揃うな」
麻生と千田は別室で休むよう案内された。
麻生は最後まで遠慮していたが、黒瀬に「村代表も休息が任務です」と言われ、素直に従った。
千田は「承知しました」と言って、あっさり行った。
康生は寝台に横になった。
固定具は使わないで済んだ。
だが、天井が近い。
船の振動が背中に伝わる。
「アオイ」
「はい」
「俺、寝てる間に変な検査されない?」
「されません」
即答だった。
シラヌイが続ける。
「本人同意なしの追加検査は実施しません。緊急生命維持処置を除きます」
「最後」
「必要条件です」
「まあ、死にかけたら頼む」
「記録しました」
「そこは記録していい」
康生は目を閉じた。
暗闇の中でも、艦の振動は分かる。
海の上を進む巨大なものの音。
旧文明の残骸ではなく、今も人が動かしているものの音。
村とは違う。
旧施設とも違う。
ここには、人間の規律と判断がある。
拝まれない。
崇められない。
不審物扱いはされたが、それはまだましだった。
「アオイ」
「はい」
「この艦、ちょっと落ち着くな」
「理由は」
「みんな、俺を天輪様って呼ばない」
少しだけ間があった。
「それは、康生にとって心理的負荷の低下要因です」
「そういうこと」
シラヌイが言う。
「本艦では、石田康生を外部協力者として扱います」
「ありがたい」
「必要な区分です」
「その必要、助かるよ」
アオイが静かに言った。
「記録しました」
「それは?」
「康生が、人間として扱われることを安定要因とする記録です」
康生は目を閉じたまま、少しだけ笑った。
「それは記録しとけ」
「はい」
艦は北へ進んでいた。
低視認航行のまま、暗い日本海を割って。
遠くの海面では、小さな害獣反応が何度か現れ、消えた。
そのたびにシラヌイは進路をわずかに修正し、戦闘を避けた。
逃げているのではない。
進むために避けている。
康生は、その違いを眠りに落ちる直前に考えた。
何でも倒せばいいわけではない。
何でも止めればいいわけでもない。
必要な場所へ辿り着くために、避けるべきものは避ける。
それが防衛隊の戦い方なのかもしれない。
重い振動に包まれながら、康生はようやく眠った。
右手は、胸の上でゆっくり閉じていた。




