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規約違反者と監視AI 〜目覚めた未来で、人間扱いされたくて〜  作者: 八汐
第七章 地下の英雄

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第六十四話 しらぬいの艦

作業艇は、青白い誘導灯に沿って護衛艦しらぬいの収容口へ滑り込んだ。

外から見上げた時も大きかった。

だが、内側に入るともっと大きい。

装甲に囲まれた収容区画は、体育館のように広かった。

床には固定用の溝が走り、壁には格納された作業機械が並んでいる。

天井からは白い光が降りていた。

古い施設の白さとは違う。

ここは清潔というより、無駄がなかった。


「でかいな」


康生が呟く。


「防衛隊護衛艦です」


アオイが答えた。


「見れば分かる」

「正確性は重要です」

「さっきも聞いた」


作業艇の下から固定アームが伸びた。

機体がわずかに揺れ、床に押さえつけられる。


――外部作業艇、固定完了。

――給電接続、不要。

――搭乗者、降機を許可。


無機質な声が区画に響いた。

アオイではない。

もっと硬い。

温度のない声だった。


「これ、シラヌイか」

「はい」


アオイが答える。


「防衛隊艦載AIシラヌイです」

「硬い声だな」

「軍用AIです」

「お前もAIだけどな」

「設計思想が異なります」

「それは何となく分かる」


前部補助席から降りる時、康生は右手を使わないようにした。

左手で機体の縁を掴み、ゆっくり床へ下りる。

床はわずかに温かかった。

艦そのものが生きているような低い振動が、足の裏に伝わってくる。

麻生も慎重に降りた。

顔には驚きが隠せていない。


「これは…船なのですか」

「俺も、船って言われると困ります」


康生は周囲を見回した。


「基地か工場に近いですね」


千田は最後に降り、槍を手にしたまま静かに立つ。

警戒している。

それを見て、壁面の表示が一つ点灯した。


――携行武器確認。

――長柄武器、一。

――敵対意思、未検出。

――保持を一時許可。


千田がわずかに眉を上げた。


「許可されましたな」

「許可されてよかったですね」

「許可されぬ場合は」

「考えたくないです」


康生が言うと、シラヌイの声が即座に返った。


「許可されぬ場合、当該武器は一時封鎖区画に収容されます」

「聞いてないのに答えた」

「艦内安全管理上、必要な情報です」

「やっぱり硬い」


収容区画の奥の扉が開いた。

灰色の装甲服を着た隊員が二名、静かに入ってくる。

顔は透明な面で覆われていたが、こちらを見る目は人間のものだった。

一人が敬礼する。


「防衛隊護衛艦しらぬい、収容班です。外部協力者、石田康生殿、A.O.I.、同行者二名を確認しました」


康生は少し戸惑った。


「どうも」

「艦内検査を実施します。害獣由来汚染、腐食性物質、寄生性粒子、未分類ピコマシン干渉を確認します」

「また汚染扱いか」

「安全確認です」


シラヌイが言った。


「旧文明施設でも似たようなこと言われたな」

「当該施設の検査精度は不明です。本艦の検査を優先してください」

「張り合わなくていいんだよ」


アオイが静かに言う。


「シラヌイ、本対象は奥飛騨炭素固定複合施設にて除塵処理を受けています」

「記録を受信。ですが、防衛隊艦内規定により再検査は省略不可」

「了解しました」

「意外と素直だな」


康生が小声で言うと、アオイが返した。


「艦内規定に従うことは合理的です」

「お前も規定とか好きだったっけ」

「康生ほど嫌ってはいません」

「俺基準にするな」


検査はすぐに始まった。

床の溝から薄い光が上がり、康生たちの身体をなぞる。

天井から細いアームが下り、服や靴、作業艇の外装を数秒ずつ照らした。

表示が並ぶ。


――腐食性物質、微量。

――隔離不要。

――外部環境粒子、多数。

――除去処理を実施。

――ピコマシン反応、対象二。

――うちA.O.I.端末反応、一。艦内許容範囲内。

――未登録高密度ピコマシン反応、一。艦内標準値を超過。


康生は嫌な予感がした。


「対象一名って、俺だろ」

「はい」


アオイとシラヌイが同時に答えた。


「二人で返事するな」


シラヌイが続ける。


「A.O.I.端末反応は登録済み。構成安定。艦内干渉、許容範囲内」

「俺だけ不審物扱いか」

「未登録高密度反応です」

「言い換えても不審物だろ」


床から乾いた風が吹いた。

衣服の砂や細かい粒子が吸い取られていく。

奥飛騨の施設の除塵より、少し乱暴だった。

麻生が驚いて袖を押さえる。


「これは」

「汚れを取ってるだけです」


康生は言った。


「俺も最初、嫌でした」

「今は」

「今も嫌です」

「そうですか」


千田は目を細めたまま耐えていた。

槍の先にも光が走り、すぐに表示が変わる。


――長柄武器、外部環境粒子付着。

――除去完了。

――保持継続を許可。


「槍まで掃除された」


康生が言うと、千田は真面目に頷いた。


「ありがたいことです」

「そこ、ありがたいんですね」

「道具の手入れは大切です」

「確かに」


検査光が康生の右手で止まった。

布は巻いていない。

今朝の試験後、右手は一応、見た目だけならほとんど戻っている。

だが、完全ではない。

表示が一段細かくなる。


――石田康生。

――右手末端部、構造体密度低下履歴あり。

――現在、密度回復傾向。

――運動応答、基準内。

――中核構造との連動状態、観測不十分。

――追加検査を推奨。


康生は顔をしかめた。


「追加検査って何するんだ」

「非侵襲観測です」


シラヌイが答える。


「痛い?」

「痛覚発生確率、低」

「低って言われると逆に嫌なんだけど」


アオイが一歩前に出た。


「シラヌイ。康生の内部中核構造について、現行の艦内検査系で直接観測可能ですか」

「不可。艦内通常検査系では外部構造、密度分布、出力残滓の推定に限定されます」

「では、追加検査は現時点で不要です。康生の心理的負荷が大きい」


康生はアオイを見た。


「お前、今俺を理由に止めた?」

「はい」


シラヌイの声が少しだけ間を置いた。


「心理的負荷は任務遂行に影響します。追加検査を保留します」

「保留されました」


康生は右手を軽く握る。


「助かった」

「記録しました」


アオイが言った。


「それは記録していい」

「はい」


収容班の隊員が少しだけ視線を動かした。

人間らしい反応だった。

だが、余計なことは言わない。


「艦内案内を開始します。作業艇は収容区画にて固定。補修確認は航行中に実施可能です」

「俺たちはどこへ?」


康生が聞く。


「第一会議区画へご案内します。艦長、およびシラヌイより作戦概要を説明します」

「艦長いるんだ」

「はい」

「AIだけじゃないんだな」


康生が言うと、シラヌイが即座に返す。


「本艦の指揮権は人間の艦長にあります。シラヌイは艦載AIとして航行、防衛、戦術支援、情報統合を担当します」

「ちゃんとしてる」

「当然です」

「今、ちょっと誇った?」

「感情表現は搭載されていません」

「絶対ちょっと誇っただろ」


アオイが横から言った。


「シラヌイは軍用AIであり、自己機能への評価を任務上の必要情報として返答しています」

「お前もかばうんだな」

「正確性を補足しました」

「AI同士の会話、面倒だな」


収容区画を出ると、艦内通路が続いていた。

通路は狭くない。

だが、無駄がない。

壁には手すりがあり、床には滑り止めがある。

ところどころに隔壁があり、通過するたびに扉が静かに閉じた。

麻生は一つ一つを見ていた。


「人が、これを保っているのですか」


案内の隊員が答える。


「はい。自動整備機構もありますが、人員による確認を継続しています」

「これほどのものを」

「必要です」


シラヌイが言った。

康生は小さく笑う。


「お前、アオイより必要って言うな」

「必要性の提示は判断共有に有効です」

「二人とも似てるんじゃないか」

「異なります」


アオイとシラヌイが同時に言った。


「そこは揃うのかよ」


第一会議区画は、艦の中央に近い場所にあった。

扉が開くと、中には長い机と複数の表示板がある。

壁一面に、日本列島の地図が浮かんでいた。

日本海側。

新潟。

旧関越。

旧東京圏。

練馬地下核融合施設。

さらに、海洋リン回収施設と奥飛騨炭素固定複合施設も小さく表示されている。

机の向こうに、白髪混じりの男が立っていた。

年齢は五十代くらいに見える。

背筋が伸びている。

灰色の防衛隊制服。

左頬に古い傷があった。

男は康生たちを見て、静かに敬礼した。


「防衛隊護衛艦しらぬい艦長、黒瀬です」


康生は慌てて軽く頭を下げた。


「石田康生です。ええと、よろしくお願いします」

「こちらこそ。ご協力に感謝します」


黒瀬艦長の視線が、康生の右手に一瞬だけ向いた。

だが、何も言わなかった。

康生は少しだけ安心した。

黒瀬は麻生にも向き直る。


「同行者の方ですね」


麻生が一歩前へ出る。


「防人村の麻生と申します。村の代表として同行します」

「承知しました。民間集落代表として扱います」

「ありがとうございます」

「千田です」


千田も短く名乗る。


「護衛として同行しております」


黒瀬は頷いた。


「艦内での武器保持は、シラヌイ管理下で許可されています。ご協力ください」

「承知しました」


康生はそのやり取りを見ていた。

ちゃんとしている。

驚くくらい、ちゃんとしている。

村では天輪様扱い。

旧施設では外部保守端末扱い。

この艦では、協力者扱い。

どれも人間そのものではない気がするが、少なくとも拝まれてはいない。

それだけで少し楽だった。

会議区画の中央に、シラヌイの表示が立ち上がる。

人型ではない。

白い線で構成された艦影と、文字列の束。

アオイのように少女の形は取らない。


「A.O.I.、データ同期を要求します」


シラヌイが言う。


「同期範囲を指定してください」


アオイが答えた。


「海洋リン回収施設の仮低負荷運転ログ。奥飛騨炭素固定複合施設の仮低負荷運転ログ。石田康生の損耗事象概要。作業艇運用ログ」

「康生の損耗事象概要については、康生本人の同意が必要です」


康生はアオイを見た。


「俺の同意いるのか」

「はい。個体損耗情報です」

「個人情報みたいに言うな」

「近似表現として適切です」

「いや、ありがたいけど」


シラヌイが返す。


「任務遂行上、必要な情報です」


アオイは即答した。


「康生の生存性維持上、共有範囲の制限が必要です」


会議区画が少し静かになった。

康生は、二つのAIの違いをそこで見た気がした。

シラヌイは任務を見る。

アオイは任務も見るが、その中に康生を入れてくる。


「概要だけならいい」


康生は言った。


「ただし、俺の中身がどうこうって話は、分かる範囲だけにしてくれ。俺も分かってないし」

「了解しました」


アオイが言う。


「限定共有を実施します」


シラヌイは一拍置いてから答えた。


「受信します」


表示に複数のログが流れた。


――海洋リン回収施設、仮低負荷運転。

――期間、九十日。

――管理者再評価、未完了。

――奥飛騨炭素固定複合施設、仮低負荷運転。

――期間、九十日。

――主要評価項目再設定、未完了。

――石田康生、高出力運用時に右手末端部密度低下。

――原因、中核特異点炉短時間高出力化および外部質量補填源不足と推定。

――詳細、観測不十分。


黒瀬艦長が眉を動かした。


「九十日」

「はい」


アオイが答える。


「いずれの施設も暫定措置です。正式な運転目標リセットには、現地技術班による再評価と管理者権限に準ずる手続きが必要です」


黒瀬は地図を見た。


「つまり、練馬を動かさなければ、我々は海と奥飛騨へ十分な人員を送れない」


シラヌイが続ける。


「現状、航空運用能力は限定的。艦載小型機は防衛任務を優先。広域派遣に必要な回数、燃料、整備能力が不足しています。練馬地下核融合施設再稼働により、旧東京圏の電力、送電、整備施設、航空支援設備の一部が復旧します」


康生は表示を見ながら呟いた。


「今は船で回るしかないけど、練馬が動けば空が使える」

「はい」


シラヌイが答える。


「ヘリ、垂直離着陸機、旧式輸送機材の再運用が見込まれます」

「その空で、正式な後始末をする」

「その表現は非公式ですが、内容は概ね正しい」

「概ねか」


黒瀬艦長が少しだけ笑った。


「我々としては、正式な復旧任務と呼びます」

「俺としては、後始末です」

「では、正式な後始末ということで」


康生は思わず艦長を見た。


「乗ってくるんですね」

「現場では、通じる言葉も必要です」

「助かります」


麻生が地図の海と奥飛騨を見つめていた。


「もし正式に止められれば、海も空も戻るのですか」


シラヌイが答える。


「完全な回復は保証できません。ただし、現行の過剰回収、過剰浄化を停止し、地域環境に合わせた運転目標へ移行できれば、長期的な回復確率は上昇します」

「長期的」

「はい」


麻生は静かに頷いた。


「村一つでは、及ばぬ話ですな」

「だから、防衛隊が必要なんでしょうね」


康生は言った。


「俺だけでも、アオイだけでも、仮止めが限界でした」


アオイが訂正する。


「現時点では、仮低負荷運転までです」

「同じだろ」

「厳密には異なります」

「こういう時だけ厳密」


黒瀬艦長が表示を切り替えた。

練馬地下核融合施設の断面図が浮かぶ。

地下に広い円筒構造。

主反応炉。

補助炉。

冷却系。

送電母線。

制御中枢。

周囲に地下生存圏へ伸びる通路。

一部は赤く表示されている。


「練馬施設の現状を説明します」


黒瀬が言う。


「主反応炉は停止。補助炉は低出力待機。冷却系の一部に閉塞。送電母線は遮断。施設管理AIは応答不安定。地下生存圏への電力供給は、複数の小型炉と蓄電系でかろうじて維持しています」


康生は断面図を見た。


「よく保ってますね」

「保っている、というより、限界まで削っている状態です」


黒瀬の声は落ち着いていた。

だが、内容は重かった。

シラヌイが補足する。


「空調能力低下。浄水能力低下。外縁警戒網欠落。害獣侵入痕、複数。現地防衛協力者への負担が増大」


表示に、一人の名前が出る。


――篠宮燈子。


康生は目を細めた。


「通称、英雄」

「はい」


シラヌイが答える。


「地下生存圏における対害獣戦闘の中核戦力。身体強化型ピコマシン適応個体と推定。継続戦闘により負傷蓄積」


黒瀬が口を開く。


「彼女がいなければ、外縁区画は二度失われていた可能性があります」


康生は黙った。

人間のまま、地下で戦っている。

負傷を蓄積しながら。

中核戦力と呼ばれるほどに。

その言葉は、褒め言葉のようで、危険信号にも聞こえた。


「人間一人に、中核って言葉使うの嫌ですね」


康生が言うと、黒瀬は頷いた。


「同感です」

「でも、そう呼ばなきゃいけない状況なんですね」

「はい」


会議区画に、少し重い沈黙が落ちた。

アオイが静かに言う。


「康生と類似した自己損耗傾向がある可能性があります」

「それ、昨日も言ってたな」

「重要です」

「分かってる」


シラヌイが言う。


「篠宮燈子の損耗管理は、現地医療班が実施しています。ただし、戦闘頻度が管理可能範囲を超えています」

「だから練馬を動かす」


康生が言った。


「防衛機構を戻して、その人の負担を減らす」

「はい」


黒瀬が頷く。


「練馬施設の再稼働は、東京地下生存圏の命綱です。同時に、海と奥飛騨を正式復旧するための足になります」


康生は息を吐いた。


「やっぱり、行かない理由が弱いな」


アオイがすぐに言う。


「康生の回復は完全ではありません」

「分かってる」

「無理な高出力運用は禁止です」

「禁止まで来たか」

「はい」

「推奨しませんより強いな」

「必要です」


シラヌイが言った。


「本艦としても、石田康生の高出力運用は現時点で推奨しません。損耗範囲が不明であり、任務継続性を低下させる可能性があります」


康生は少し驚いた。


「シラヌイも止めるのか」

「任務遂行上、不確定要素の拡大は望ましくありません」

「理由は違うけど、結論は同じか」


アオイが言う。


「はい」

「変なところで意見が合うな」

「必要な一致です」


黒瀬艦長が話を戻した。


「本艦はこれより日本海側を北上し、新潟方面へ向かいます。途中、低視認航行を維持します。新潟沿岸で地上輸送班と合流し、旧関越方面より東京地下連絡路へ進みます」


麻生が地図を見た。


「東京へ行くのに、日本海から入るのですな」

「太平洋側および東京湾側は、海棲型と飛行型の活動が不安定です」


シラヌイが答えた。


「また、近年、太平洋側の深部に大型反応の断片があります」


康生は顔を上げた。


「大型反応?」

「確定情報ではありません。海流ノイズ、旧兵器残骸、害獣反応のいずれか判別不能」

「嫌な候補ばっかりだな」

「現時点では東京湾接近を避ける理由の一つです」


アオイが補足する。


「新潟経由は遠回りですが、相対的に安全です」

「安全な遠回りね」


康生は地図を見つめた。

新門司近海から日本海へ。

新潟。

旧関越。

東京地下。

遠い。

だが、線は繋がっている。


「分かりました」


康生は言った。


「俺は練馬で旧施設制御系に接続する。アオイが補助。麻生さんは村代表として防衛隊と現地の話を聞く。千田さんは護衛。高出力運用はしない。右手に異常が出たら止まる」


アオイが即座に言う。


「最後を明文化してください」

「今言っただろ」

「再確認です」

「右手に異常が出たら止まる」

「記録しました」

「記録していい」


シラヌイも続けた。


「本艦作戦記録にも反映します」

「そっちはちょっと恥ずかしいな」

「必要です」

「はいはい」


黒瀬艦長が小さく頷いた。


「では、これより本艦は出航します。到着までの間、石田殿には休息を推奨します」

「みんな休めって言う」

「必要だからです」


黒瀬の声は少しだけ柔らかかった。


「あなたが倒れれば、練馬は動かない。練馬が動かなければ、海と空の正式復旧も遅れる。休息も任務です」


康生は一瞬黙った。


「それ言われると、寝るしかないですね」

「そうしてください」


会議区画の壁に、外部映像が映る。

しらぬいの艦首が、静かに波を割っている。

港の残骸が遠ざかる。

崩れた岸壁。

赤茶けたクレーン。

静かすぎる海。

艦はゆっくりと進路を変えた。

日本海へ向かって。

康生は映像を見ながら、右手を軽く握った。

まだ少し遅い。

だが、動く。

今はそれでいい。


「アオイ」

「はい」

「艦って、揺れる?」

「通常航行では揺れを抑制します」

「酔わない?」

「個人差があります」

「そこは断言してくれ」

「断言できません」


黒瀬艦長が少しだけ笑った。

麻生が真顔で聞く。


「酔うとは、どういう状態ですか」


康生は麻生を見た。


「知らない方が幸せなやつです」

「そうですか」

「はい」


シラヌイが淡々と告げた。


「出航準備完了。低視認航行へ移行します」


艦内の音が、わずかに変わった。

重く、深い振動。

巨大なものが、自分の意志で動き出す音。

防衛隊護衛艦しらぬいは、旧新門司近海を離れた。

まずは新潟へ。

空ではなく、海から。

冷え込む空気を割りながら、艦は北へ船首を向けていた。

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