第六十三話 新門司近海
翌朝、康生は右手を見つめていた。
布は外してある。
掌は、昨日よりはっきりしていた。
指の輪郭も戻っている。
だが、完全ではない。
薄い。
よく見れば、皮膚の奥に光が通るような気配がある。
指を握ると、まだほんの少し遅れる。
それでも、昨日よりは自分の手だった。
「通常給電試験を開始します」
アオイが言った。
旧資材置き場跡。
錆びた鉄板と古い布で隠された作業艇の横に、康生は立っていた。
少し離れて、麻生、千田、真衣、亮太が見ている。
亮太は左腕を吊ったまま、不満そうな顔をしていた。
「本当にやるのか」
亮太が言う。
「やらないと出発できない」
康生は右手を見ながら答えた。
「左手でいいじゃん」
「右手が通常給電に耐えられるか確認しないと、東京に着く前に面倒なことになる」
「もう面倒なことになってるだろ」
「それはそう」
康生は否定できなかった。
アオイが作業艇の接続補助アームを展開する。
「試験は低負荷から開始します。異常が発生した場合、即時停止します」
「異常って」
「構造体密度低下、動作遅延増加、輪郭不安定化、痛覚類似反応、意識混濁、その他未分類の異常です」
「最後が一番怖いんだよな」
「未分類の異常は事前定義できません」
「正しいけど嫌な説明だな」
康生は右手を差し出した。
接続補助アームがゆっくり近づく。
昨日までは左手に繋いでいたものだ。
右手首に触れる直前、康生は思わず息を止めた。
怖い。
ただの接続だ。
通常給電だ。
アオイも推奨範囲内と言っている。
それでも、右手が透けた感覚を身体が覚えている。
痛みではなかった。
熱でもなかった。
自分の一部が遠ざかるような、あの感覚。
「康生」
アオイが言う。
「停止しますか」
康生はアオイを見た。
その問い方は、昨日までと少し違った。
実行する前に、本当に止まれる道を差し出している。
康生は小さく息を吐いた。
「いや、やる」
「了解しました」
補助アームが右手首に接続された。
ぞわり、と違和感が走る。
康生は顔をしかめた。
「やっぱり気持ち悪い」
「記録済みです」
作業艇の補助電源表示が点灯する。
――外部給電接続。
――低負荷給電開始。
――補助系統、受電確認。
康生は右手を見た。
薄くはならない。
指先も崩れない。
感覚は気持ち悪いが、昨日のように遠ざかる感じはない。
「どうだ」
「右手末端部の構造体密度、低下なし。動作応答、許容範囲内。輪郭不安定化、未検出」
「つまり?」
「低負荷給電は可能です」
「よし」
康生は少しだけ肩の力を抜いた。
アオイは続ける。
「中負荷へ移行します」
「まだやるのか」
「通常航行には中負荷が必要です」
「ですよね」
作業艇の内部で、低い音が鳴った。
補助脚の関節がわずかに動き、姿勢制御板が開閉する。
右手を通じて、機体の重さが薄く伝わってくる。
実際に重いわけではない。
だが、何かがこちらに寄りかかってくるような感覚があった。
康生は歯を食いしばる。
「これ、気持ち悪さの種類が増えてないか」
「通常給電に伴う感覚入力の増加です」
「増えなくていい」
「必要です」
「何でも必要にするな」
アオイの目の前に数値が並ぶ。
――中負荷給電、安定。
――右手末端部密度、変動軽微。
――異常拡大なし。
――通常航行、可。
アオイが顔を上げた。
「条件を満たしました」
康生は右手を握った。
指は動く。
少し遅いが、動く。
「東京行き、許可?」
「条件付きで許可します」
「まだ条件付きか」
「完全回復ではありません」
「分かってる」
補助アームが外れる。
康生は右手を胸の前で開いたり閉じたりした。
大丈夫。
たぶん大丈夫。
そう思った時、真衣が近づいてきた。
「康生さん」
「はい」
真衣は康生の右手を見ないようにしながら、包みを差し出した。
「食料です。見舞いではなく、道中用です」
「線引きが早い」
「供物ではありません」
「助かります」
「村の皆にも、そう説明してあります」
「祈ってません?」
真衣は少しだけ目を逸らした。
「声には出していません」
「それ、心の中では祈ってるやつですよね」
「心の中までは止められません」
「まあ、それはそうか」
麻生が後ろから歩いてくる。
背には荷を負い、腰には短い刃物を下げていた。
村長というより、旅装だった。
「本当に行くんですね、麻生さん」
康生が言うと、麻生は頷いた。
「はい。防衛隊との話を、村として聞いておく必要があります」
「船に乗ったことあります?」
「小舟なら」
「たぶん小舟じゃないです」
「でしょうな」
麻生は少しだけ緊張した顔をした。
千田はいつも通り静かに槍を担いでいる。
この人は船でも地下でも変わらなそうだった。
亮太だけが納得していない顔をしていた。
「俺、やっぱり行けると思うんだけど」
「無理」
康生は即答した。
「判断早すぎる」
「左腕」
「右腕あるし」
「そういう問題じゃない」
「乗ってるだけなら」
「乗ってるだけで済まない実績がある」
アオイが言った。
「藤倉亮太は、負傷状態でも危険時に行動する可能性が高いです」
「信用低いな」
「実績に基づく評価です」
亮太は不満そうに唇を曲げた。
康生は少しだけ声を落とす。
「亮太」
「何だよ」
「麻生さんも千田さんもいない。真衣さんが村を見る。旧施設周辺と作業艇の隠し場所を分かってるのは、お前だ」
亮太は黙った。
「俺が戻るまで、こっちを頼む」
「…留守番だろ」
「留守番だ」
「正直に言うなよ」
「でも必要だ」
亮太はしばらく下を向いていた。
それから、小さく頷いた。
「分かった」
「助かる」
「ただし、帰ってきたら次は行くからな」
「怪我が治ってたらな」
「治す」
「その意気で寝ろ」
「それ昨日も言った」
「大事だから二回言った」
亮太は少し笑った。
悔しそうではあったが、昨日よりは納得しているように見えた。
出発前、真衣が村人たちを下がらせた。
祈祷、接触、供物は禁止。
食料は真衣経由。
その規則は、昨日のうちに村へ広がっていた。
村人たちは、少し離れた場所で頭を下げている。
康生は顔をしかめた。
「見送りって、こうなるのか」
「接触禁止は守られています」
アオイが言う。
「目的は達成してるけど、絵面が駄目だろ」
「絵面?」
「いや、いい」
麻生が村人たちの方へ向き直った。
「皆、留守を頼む」
真衣が前に立つ。
「戻るまで、村は守ります」
その声は、思ったより強かった。
麻生が真衣に任せると言った理由が、少し分かった。
康生は作業艇に乗り込む。
前部補助席。
右手は使えるが、念のため接続は左手に戻すことになった。
「通常航行は左手給電です」
アオイが言う。
「右手、試験した意味は?」
「緊急時の選択肢確認です」
「緊急時って言葉、嫌いになってきた」
「必要です」
「だろうな」
麻生と千田が後席に座る。
昨日まで亮太がいた場所が空いている。
康生は少しだけ振り返った。
亮太が片手を上げる。
康生も左手を上げた。
「行くぞ」
「はい」
作業艇が浮いた。
補助脚が格納され、機体が静かに前へ滑る。
旧資材置き場跡を離れ、森の影を抜ける。
村が後ろへ遠ざかっていく。
見張り台。
畑。
旧施設跡。
人々の小さな姿。
康生はその全てを見ないようにして、それでも見ていた。
「新門司近海まで、どのくらい?」
「途中の害獣反応、風向、旧道崩落状況により変動します。現在推定では、休憩を含めて半日程度です」
「近いような遠いような」
「作業艇の速度制限があります」
「昨日の飛行型に追われた時くらい速くは?」
「推奨しません」
「聞く前から分かってた」
作業艇は低く進んだ。
山を抜け、崩れた道路の上を滑り、川の跡を越える。
かつて町だった場所は、緑に沈んでいた。
ビルの骨だけが残り、道路標識は錆び、電柱は傾いている。
麻生が後席から外を見ていた。
「これほど広い土地が、人の手を離れたのですな」
「俺の時代は、もっとごちゃごちゃしてましたよ」
康生は言った。
「道路があって、車が走って、コンビニがあって、信号で止められて」
「信号?」
「光で進んでいいか止まれか教えるやつです」
「人がそれに従うのですか」
「だいたいは」
「不思議ですな」
康生は少し笑った。
「俺からすると、信号より天輪様の方が不思議ですけどね」
麻生は困ったように笑った。
「それは、努力します」
「お願いします」
千田は黙って外を見ていた。
時々、崩れた建物や森の奥へ視線を向ける。
「害獣反応は?」
康生が聞く。
「小型反応、遠方に二。追尾なし」
アオイが答える。
「飛行型は」
「現在検出なし」
「助かる」
「油断は推奨しません」
「言うと思った」
作業艇は昼過ぎ、海の匂いに近づいた。
最初に見えたのは、錆びた高架だった。
その向こうに、広い水面がある。
旧新門司近海。
康生の記憶にある港とは違う。
岸壁は崩れ、クレーンは折れ、コンテナは赤茶けた塊になっている。
水際には、旧道路の残骸と、波に削られた建物の土台が並んでいた。
海は静かだった。
静かすぎる。
「…海って、こんなに静かだったか」
康生が呟く。
「風速が低く、波高も小さい状態です」
アオイが答える。
「そういう意味じゃない」
海面の色は暗い。
場所によって、妙に澄んでいる。
生き物の気配が薄い。
海洋リン回収施設を思い出す。
栄養を抜かれすぎた海。
きれいすぎる水。
数字の上では、良好とされていた場所。
「ここも、繋がってるんだな」
「はい」
アオイが言う。
「海洋リン回収施設の影響域は広範です。ただし、この海域における直接影響度は未確定です」
「未確定でも、気分は悪い」
「主観的反応として妥当です」
「そういうところだけ理解があるな」
作業艇は崩れた岸壁の陰に入った。
アオイが通信を開く。
「防衛隊艦へ通信します」
青白い表示が浮かぶ。
――外部保守端末、指定合流地点へ到達。
――規約違反者、A.O.I.、同行者二名。
――収容要請。
しばらく沈黙があった。
波の音だけが聞こえる。
康生は落ち着かない気持ちで海を見た。
「来てるのか」
「接近中です」
「見えないけど」
「低視認航行中と推定」
「船なのに?」
「旧防衛隊艦には、電磁・光学・音響ステルス機能が搭載されています」
「船も忍ぶ時代か」
「必要です」
「だろうな」
次の瞬間、海面の向こう側が揺らいだ。
最初は蜃気楼のように見えた。
空と海の境目が歪み、そこに黒い線が浮かび上がる。
線は、ゆっくりと形になった。
巨大な艦首。
低く鋭い船体。
灰色の装甲。
甲板に並ぶ閉じた砲塔と、斜めに立つ平面アンテナ。
康生は口を開けた。
「…でか」
麻生が息を呑む。
千田ですら、わずかに目を細めた。
海面を割るように、その艦は姿を現した。
旧文明の幽霊みたいだった。
だが、死んではいない。
艦体側面に、かすれた白い文字が見える。
――防衛隊護衛艦 しらぬい。
アオイの表示に、新しい通信が開いた。
――こちら、防衛隊艦載AIシラヌイ。
――外部保守端末および同行者を確認。
――収容準備完了。
――甲板誘導を開始する。
康生はゆっくり息を吐いた。
「船っていうか、基地だな」
「艦です」
アオイが訂正した。
「どっちでもいいよ」
「正確性は重要です」
「はいはい」
艦の甲板に、青白い誘導灯が走った。
閉じていた装甲板の一部が開き、作業艇を収容するための区画が姿を見せる。
光は、崩れた岸壁の上に道を描いた。
作業艇がゆっくり前へ出る。
康生は巨大な艦を見上げた。
日本海周りで、東京へ。
まずはこの艦に乗る。
海と空の仮対応を正式に終わらせるため。
東京地下を動かすため。
「アオイ」
「はい」
「俺、こういうのに乗る予定の人生じゃなかったんだけど」
「現在の康生に人生設計の継続性はありません」
「ひどい」
「事実です」
「事実でも言い方」
作業艇が、しらぬいの甲板へ向かって滑り上がる。
海の上で、旧文明の艦が静かに康生たちを迎え入れた。




