第六十二話 日本海経由
康生が目を覚ました時、右手の感覚は少しだけ戻っていた。
完全ではない。
布の中で指を動かすと、まだわずかに遅れる。
水の中で手を握るような鈍さが残っている。
だが、昨日よりはましだった。
康生は寝起きの頭で、それを確認してから、ゆっくり息を吐いた。
「…まだあるな」
「右手の存在確認ですか」
すぐ近くでアオイが言った。
康生は目だけを動かす。
アオイは昨日と同じ場所にいた。
旧施設跡の壁際。
村人が勝手に整えた休憩所のような場所。
正確には、休憩所ではない気がする。
毛布。
風除け。
水の入った容器。
乾燥肉。
小さな木の札。
木の札には、何かが書かれている。
康生は見なかったことにした。
「お前、ずっと起きてたのか」
「監視していました」
「寝ろよ」
「睡眠は不要です」
「便利だな」
「はい」
「羨ましくはない」
「記録しました」
「しなくていい」
康生は身体を起こそうとして、少しだけふらついた。
すぐにアオイが手を出す。
康生はそれを見て、思わず顔をしかめた。
「支えられるほどじゃない」
「転倒リスクがあります」
「昨日からリスクだらけだな」
「実際に存在します」
「その言い方、変わらないな」
「必要です」
康生は諦めて、ゆっくり身体を起こした。
右手の布が少しずれる。
中の指先が見えた。
昨日よりは濃い。
透け方は弱くなっている。
だが、普通の手ではない。
皮膚の奥が薄く光を通しているように見えた。
「戻ってる?」
「高確率で回復傾向です」
「高確率」
「はい」
「完全には?」
「まだ保証できません」
「ですよね」
康生は右手を握った。
昨日よりは早い。
だが、まだ遅い。
「これで東京行き、許可出るのか」
「出ません」
即答だった。
康生はアオイを見る。
「早いな」
「条件を満たしていません」
「どれ」
「右手末端部の構造体密度が基準値未満です。通常給電試験が未実施です。作業艇補修が未完了です。藤倉亮太の左腕は同行不可です」
「最後は俺じゃないだろ」
「同行者条件です」
「それも条件か」
「はい」
康生はため息をついた。
「じゃあ、今日は準備か」
「はい」
「寝起きで仕事の話したくない」
「練馬地下核融合施設再稼働支援は優先度が高い案件です」
「知ってる」
康生は毛布をどけた。
その時、少し離れた場所から声がした。
「康生さん、起きましたか」
真衣だった。
手には湯気の立つ器を持っている。
康生は布を巻いた右手を慌てて膝の陰に隠した。
真衣はそれを見て、見ないふりをした。
その気遣いが、かえって刺さる。
「味噌汁です。具は少ないですけど」
「ありがとうございます」
器を受け取ろうとして、康生は一瞬迷った。
右手は使いたくない。
左手で受け取る。
真衣の視線が、ほんの少しだけ右手に落ちる。
「…痛みは」
「ないです」
「それは昨日も聞きました」
「今もないです」
「よかった、でいいんですか」
「俺も分かりません」
真衣は困ったように笑った。
「じゃあ、よかったかもしれない、にしておきます」
「その辺でお願いします」
康生は味噌汁を飲んだ。
温かい。
身体の中に、少しだけ現実が戻ってくる気がした。
ピコマシン濃度。
構造体密度。
中核特異点炉。
そういう言葉より、味噌汁の方がずっと分かりやすい。
「村の様子は?」
康生が聞くと、真衣は少し目を逸らした。
「落ち着いています」
「その言い方、落ち着いてないやつだ」
「…心配している人が多いです」
「心配だけですか」
真衣は沈黙した。
康生は味噌汁を置いた。
「やっぱり、御身を削った感じになってます?」
「言葉としては、少し」
「少し?」
「広がっています」
「少しじゃない」
「すみません」
「真衣さんが謝ることじゃないです」
康生は額を押さえた。
右手ではなく、左手で。
「違うって言っても駄目か」
「駄目というか…皆、見てしまいましたから」
「布しか見えてないだろ」
「布で隠さなければならないほどのことがあった、と見えます」
「観察力が嫌な方向に高い」
アオイが言った。
「信仰対象に関する観察精度は高い傾向があります」
「それ昨日も聞いた」
「重要事項です」
「嫌な重要事項だな」
真衣は器を持ったまま、小さく息を吐いた。
「でも、みんな康生さんを怖がっているわけではありません」
「そうですか」
「心配しています」
「心配と信仰って、混ざると怖いんですよ」
「分かる気がします」
「分かってくれるだけ助かります」
そこへ麻生が歩いてきた。
昨日より少し疲れた顔をしている。
村人への説明で苦労したのだろう。
康生は少し申し訳なくなった。
「康生殿。お加減は」
「昨日よりはましです」
「右手は」
「高確率で回復傾向、だそうです」
康生はアオイを見た。
「完全保証はなし」
「はい」
麻生は深く頷いた。
「では、回復のため、しばらく安定化領域で休まれるのですね」
「そうしたいんですけど」
「違うのですか」
「東京の件です」
麻生の表情が引き締まった。
昨日の通信内容は、すでに共有してある。
旧東京圏。
練馬地下核融合施設。
防衛隊技術班の広域派遣。
海と空の浄化施設の正式再評価。
村長として、その意味を麻生は理解していた。
「やはり、行かれるのですか」
「すぐには行きません」
康生は言った。
「ただ、回復して準備ができたら行きます」
「三沢よりも」
「はい」
麻生はしばらく黙った。
「康生殿のお身体のための場所ではないのですか、三沢は」
「そうです」
「ならば、そちらを優先すべきでは」
康生は意外そうに麻生を見た。
麻生が三沢を優先しろと言うとは思っていなかった。
「麻生さんがそれ言うんですか」
「私も、村も、康生殿に無理をしてほしいわけではありません」
その言葉は、真っ直ぐだった。
信仰混じりではない。
村長として、人を案じる声だった。
康生は少しだけ返事に詰まった。
「…ありがとうございます」
「ですが、練馬が動けば、海と空の施設を正式に止められる」
麻生は続ける。
「それも理解しています」
「だから迷うんですよ」
「迷われるのですね」
「そりゃ迷います」
「少し安心しました」
「何でですか」
「康生殿が、何も迷わず御身を差し出す方であれば、我々は止めることができません」
康生は嫌な顔をした。
「その言い方」
「失礼しました」
「でも、まあ、意味は分かります」
麻生は頭を下げた。
「村としては、康生殿の回復を優先していただきたい。その上で、行かれるなら支援します」
「助かります」
「ただし」
「ただし?」
麻生は康生の右手を見た。
「私も同行します」
「麻生さんが?」
康生は思わず聞き返した。
「はい。練馬地下核融合施設が動けば、防衛隊は海と奥飛騨の施設へ技術班を派遣できる。これは村にも関わる話です」
「村に?」
「海が痩せ、空が冷えれば、いずれ村にも影響します。旧文明施設の正式な運転目標リセットに村が無関係でいるわけにはいきません」
「いや、でも村長が村を空けるのは」
「真衣に任せます」
真衣が小さく息を呑んだ。
「私ですか」
「お前ならできる」
「急に重いことを言わないでください」
「私より厳しい時があります」
「褒めています?」
「かなり」
康生は少しだけ笑った。
「それは分かる」
「康生さんまで」
真衣が困った顔をしたが、拒む顔ではなかった。
「麻生さんが行くなら、防衛隊との話もしやすいか」
「はい。康生殿とA.O.I.だけでは、どうしても旧文明技術側の話になります。人間の集落として、どう関わるかを聞いておきたいのです」
康生は頷いた。
たしかに、その通りだった。
練馬の核融合施設を動かす。
防衛隊が航空運用を回復する。
技術班が海と奥飛騨へ行く。
それはもう、康生とアオイだけの後始末ではない。
人間の社会が、旧文明施設へ手を戻していく話だ。
麻生が同行する意味はある。
「じゃあ、同行者は俺、アオイ、麻生さん、千田さん?」
千田が少し離れた場所で頷いた。
「私が護衛として同行します」
「千田さんは休まなくていいんですか」
「老骨ですが、まだ動けます」
「その言い方、逆に不安になります」
「慣れてください」
「慣れたくないなあ」
亮太が顔を上げた。
「じゃあ俺も」
「お前は留守番」
康生が即答した。
「なんでだよ」
「怪我人」
「乗ってるだけなら」
「乗ってるだけが信用できない」
「今度こそ本当に乗ってるだけにする」
「信用できない」
「即答かよ」
アオイが淡々と言う。
「藤倉亮太の同行は推奨しません」
「アオイまで」
「負傷状態での同行は、本人および全体のリスクを上昇させます」
「分かってるけど」
千田が亮太を見る。
「今回は残れ」
「千田さんまで」
「私が行く」
「ずるい」
「年寄りなのでな」
「関係ある?」
「ある」
康生は苦笑した。
「亮太。村に残って、作業艇の隠し場所と旧施設周辺の警戒を頼む」
「警戒?」
「俺がいない間、村の方で何かあったら困る。麻生さんも千田さんもいない。真衣さんだけに任せるのはきついだろ」
亮太は少し黙った。
「それ、留守番をそれっぽく言ってるだけじゃないか」
「そうだよ」
「認めるのか」
「でも必要だ」
亮太は布で吊った左腕を見た。
悔しそうな顔をしたが、反論はしなかった。
「分かった」
「助かる」
「次は行くからな」
「怪我が治ってたらな」
「治す」
「その意気で寝ろ」
亮太は不満そうに頷いた。
アオイが表示を開く。
「移動経路について、シラヌイから追加提案があります」
「東京まで作業艇で行くんじゃないのか」
「推奨しません」
康生は顔をしかめた。
「今日はそればっかりだな」
「作業艇の長距離単独移動は、飛行型害獣、補助電源、康生の給電負荷、太平洋側の不安定要素を考慮するとリスクが高いです」
「太平洋側?」
「はい」
表示に古い日本地図が出る。
防人村の位置。
旧新門司近海。
日本海。
新潟。
そして旧東京圏。
線は、太平洋側ではなく日本海側を通っていた。
――推奨航路。
――防人村より旧新門司近海へ移動。
――防衛隊イージス艦と合流。
――艦載収容後、日本海側を北上。
――新潟方面にて上陸。
――旧関越方面より旧東京圏地下連絡路へ接近。
康生は表示を見て、しばらく黙った。
「遠回りじゃないか」
「はい」
「認めるのか」
「地理上は遠回りです。ただし、安全性は高いと推定されます」
「太平洋側は駄目なのか」
「東京湾側および太平洋側沿岸は、海棲型、飛行型の活動が不安定です。防衛隊の安定哨戒線は日本海側に偏っています」
「だから日本海」
「はい」
麻生が地図を見つめる。
「新門司近海で、艦に乗るのですか」
「はい」
アオイが答える。
「防衛隊イージス艦が合流予定です。シラヌイ搭載艦です」
康生は眉を寄せた。
「シラヌイの船か」
「正確には、シラヌイが搭載されている防衛隊艦です」
「似たようなもんだろ」
「異なります」
「今はどっちでもいい」
表示はさらに続いた。
――練馬地下核融合施設再稼働前の航空運用は限定的。
――防衛隊技術班の大量輸送には、海路および艦載輸送が最適。
――練馬再稼働後、ヘリ、垂直離着陸機、旧式輸送機材の再運用が見込まれる。
――当該航空運用により、海洋リン回収施設および奥飛騨炭素固定複合施設への正式派遣が可能。
康生はゆっくり息を吐いた。
「つまり、今は船で行く。練馬を動かしたら、次から空を使える」
「はい」
「その空で、海と奥飛騨へ技術班を送る」
「はい」
「やることが繋がってきたな」
「はい」
「嫌なくらい綺麗に繋がってきたな」
「論理的です」
「褒めてない」
麻生が静かに言った。
「防衛隊の艦に乗るなら、私が同行する意味はさらにありますな」
「そうですね」
康生は頷いた。
「防衛隊との話、俺だけだとたぶん雑になる」
「自覚があるのですね」
「ありますよ」
「意外です」
「麻生さん、たまに刺してきますよね」
「失礼しました」
真衣が少し笑った。
「村のことは任せてください」
「無理はしないでください」
「康生さんに言われたくありません」
「今日それ二回目だな」
「みんな思ってます」
康生は反論できなかった。
その後、アオイは村人向けの説明案を作った。
「康生は奥飛騨施設からの帰還時、旧文明作業艇の安定化のため一時的な負荷を受けました。現在は旧施設周辺の安定化領域で回復中です。右手の異常は一時的な構成乱れであり、祈祷、接触、供物、拝礼は回復を阻害する可能性があります」
康生は顔を上げた。
「最後いいな」
「接触制限を目的としています」
「祈ったら治らないってことにするのか」
「はい」
「供物も?」
「はい」
「採用」
真衣が少し笑った。
「供物、困っていましたから」
「もう来てるんですか」
真衣は目を逸らした。
「少し」
「何が」
「干し肉と、木の実と、あと小さな石が」
「石?」
「綺麗だったので、康生さんに、と」
康生は天を仰いだ。
青すぎる空は、ここからは見えない。
屋根があってよかった。
「気持ちはありがたいけど、困る」
「はい」
麻生が真面目な顔で頷いた。
「供物は禁止します」
「お願いします」
「ただ、見舞いとしての食料は」
「食料は助かります」
「では、見舞いと供物の線引きを」
「それ、めちゃくちゃ難しくないですか」
「難しいです」
アオイが言った。
「目的と配置方法で区別可能です。康生の前に置いて祈る場合は供物。食事として管理者に渡す場合は見舞いです」
「俺が管理者なの?」
「この場では真衣を推奨します」
「助かる」
真衣は少し驚いた顔をしたあと、頷いた。
「分かりました。私が預かります」
「お願いします」
こうして、康生の回復場所に関する妙な規則が一つ増えた。
祈祷禁止。
接触禁止。
供物禁止。
食料は真衣経由。
何の施設だ。
康生は考えないことにした。
昼前になると、作業艇の点検が始まった。
旧資材置き場跡まで戻ると、アオイが機体側面の布を外した。
外装には細い傷がいくつもある。
補助脚格納部の一部は歪んでいた。
姿勢制御板の保護カバーにも、わずかな亀裂が入っている。
「これで軽微だったのか」
康生が言うと、アオイは答えた。
「航行継続可能でした」
「飛べるなら軽微だな」
「危険な判断基準です」
「お前も軽微って言ってたじゃん」
「機体評価と行動判断は別です」
「ずるいって」
千田が横で機体を見ていた。
「これを直せば、新門司近海まで行けるのですか」
「完全ではありません」
アオイが答える。
「ただし、奥飛騨施設で取得した炭素固定材の生成ロジックを応用し、補修片を形成できます。破損部の固定、外装補強、給電端子の保護が可能です」
「材料は」
「奥飛騨施設から持ち帰った小片があります」
康生はアオイを見た。
「いつ持ってきた」
「サンプルとして取り込み済みです」
「食ったやつか」
「取り込みです」
「食ったやつだな」
アオイは答えず、作業艇の損傷部へ手をかざした。
黒い粉のようなものが、アオイの指先からゆっくり浮かぶ。
それが薄い膜になり、損傷部に貼りついていく。
次に康生の左手へ視線が向いた。
「康生、低出力の局所プラズマで焼結補助を」
「右手は使わない」
「左手で可能です」
「左も変になったら嫌なんだけど」
「通常出力範囲内です」
「今日、その言葉を信じるの難しいな」
「監視します」
「それも怪しい」
「推奨範囲内です」
康生はしばらくアオイを見た。
アオイも見返している。
表情はない。
でも、昨日の「推奨しません」を思い出した。
あれは、止める言葉だった。
今の「推奨範囲内です」は、たぶん本当に推奨範囲内なのだろう。
康生は左手を上げた。
「少しだけだぞ」
「はい」
細い白い光が、損傷部の黒い補修片に触れる。
じ、と小さな音がして、黒い膜が外装に馴染んだ。
康生はすぐに手を止める。
「どうだ」
「良好です」
「今の良好は信じていい?」
「はい」
「本当だな」
「はい」
「疑いすぎだな、俺」
「昨日の事象を踏まえれば妥当です」
「慰めになってない」
補修はゆっくり進んだ。
康生は何度も休みながら、左手だけで局所プラズマを使った。
アオイは補修片を形成し、作業艇の傷を塞いでいく。
千田は周囲を警戒し、麻生と真衣は村人を近づけないようにしていた。
遠巻きに見ている者たちはいた。
だが、真衣が作った説明の効果か、誰も近づいては来ない。
「祈祷、接触、供物は禁止です」
真衣が村人に説明している声が聞こえた。
「康生さんの回復を妨げる可能性があります」
村人たちは真剣な顔で頷いていた。
康生はその様子を見て、複雑な気持ちになった。
「祈らせないための説明が、祈りみたいに扱われてる」
「一定の効果はあります」
アオイが言う。
「それでいいのか」
「接触防止には成功しています」
「目的は達成してるけどさ」
「近似的には成功です」
「成功に、近似的とかあるんだな」
作業艇の補修が一段落した頃、シラヌイから追加データが届いた。
アオイが表示を開く。
――練馬地下核融合施設。
――主反応炉、停止中。
――補助炉、低出力待機。
――冷却系、一部閉塞。
――送電母線、遮断。
――地下生存圏への供給、不安定。
――復旧作業には、旧施設制御系への接続経験者を要する。
康生は表示を見た。
「接続経験者って、俺たちか」
「はい」
「他にいないのか」
「防衛隊にも技術班は存在します。ただし、旧文明環境施設への規約外仮承認、外部保守端末扱いでの接続、管理者不在施設の再評価申請実績は康生とA.O.I.が最も多い状態です」
「嫌な実績が増えてる」
「有用です」
「嬉しくない」
表示が切り替わる。
――現地状況。
――地下生存圏、人口多数。
――外縁区画に害獣侵入痕あり。
――現地防衛協力者、篠宮燈子。
――身体強化型ピコマシン適応個体と推定。
――継続戦闘により負傷蓄積。
康生は目を細めた。
「身体強化型」
「はい」
アオイが説明する。
「東京地下生存圏では、高濃度ピコマシン環境への長期適応により、一部の人間が神経信号を介して周辺ピコマシンを微弱制御できる可能性があります」
「つまり、魔法みたいなものか」
「魔法ではありません」
「分かってるよ」
「篠宮燈子は、その適応が戦闘に偏った人物と推定されます。筋力補助、反応速度向上、外皮補強、骨格負荷分散を行っている可能性があります」
「人間なのか」
「はい」
「なら、壊れるだろ」
「はい」
康生は少し黙った。
人間の身体は、便利な道具ではない。
出力を上げれば壊れる。
自分の右手がいい例だ。
篠宮燈子という女は、それを生身でやっているのかもしれない。
「英雄ね」
康生は呟いた。
「本人が望んでいる通称かは不明です」
「望んでなさそうだな」
「根拠は」
「俺が天輪様って呼ばれたくないから」
「主観的推定です」
「悪いか」
「参考情報として記録します」
「そこは記録していい」
アオイは短く頷いた。
夕方近くになって、康生の右手はさらに少しだけ戻っていた。
布をほどくと、透け方は昨日より明らかに弱い。
指の動きもましになっている。
ただ、完全ではない。
アオイが右手に手をかざす。
「構造体密度、回復傾向。基準下限に接近。通常給電試験は明朝実施を推奨します」
「今日じゃ駄目か」
「推奨しません」
「今日も出た」
「休息が必要です」
「分かったよ」
康生は布を巻き直した。
その夜、康生は旧施設跡の休憩所で横になった。
祈祷禁止。
接触禁止。
供物禁止。
食料は真衣経由。
その張り紙のような木札が、いつの間にか入口に立てられていた。
康生はそれを見て、笑うべきか悩んだ。
「これ、何の施設なんだよ」
「康生回復用安定化領域です」
アオイが答える。
「正式名っぽくするな」
「では、休憩所」
「それでいい」
「ただし、村内では聖域と呼ばれる可能性が高いです」
「やめてくれ」
「制御困難です」
「分かってる」
康生は右手を胸の上に置いた。
布越しに、指を軽く動かす。
まだ少し遅い。
でも、戻ってきている。
明朝、通常給電試験。
それが通れば、旧新門司近海へ向かう。
そこから防衛隊イージス艦に乗り、日本海を北上する。
新潟方面で上陸し、旧関越方面から東京地下へ入る。
三沢は後回し。
自分の中の炉を見る場所は、まだ遠い。
先に向かうのは、地下に人々が生きる東京。
練馬地下核融合施設。
そして、通称、英雄。
康生は目を閉じた。
「アオイ」
「はい」
「篠宮燈子って人、どんな人だと思う」
「情報不足です」
「だよな」
「ただし、継続戦闘により負傷蓄積とあります」
「うん」
「自分の損耗を過小評価している可能性があります」
康生は目を開けた。
「それ、俺に言ってる?」
「篠宮燈子についての推定です」
「本当か?」
「はい」
「疑わしいな」
「康生にも該当します」
「やっぱりな」
康生は小さく笑った。
自分の損耗を過小評価する英雄。
それは、人間らしいのか。
それとも、どうしようもなく危ういのか。
まだ会ってもいない相手のことを考えながら、康生はゆっくり目を閉じた。
明日は、右手がもう少し戻っているといい。
そう思うことくらいは、許される気がした。




