第六十一話 御身を削って
村へ戻った時には、日が傾き始めていた。
作業艇は、村の手前で速度を落とした。
森の影に紛れるように旧道へ入り、いつもの旧資材置き場跡へ向かう。
康生は前部補助席に座ったまま、布を巻いた右手を膝の上に置いていた。
右手はまだ薄い。
布で覆っているから見えない。
だが、感覚は誤魔化せなかった。
指先が遠い。
握ろうとすると、少し遅れる。
痛みではない。
痛みなら、まだ分かりやすかった。
自分の手なのに、自分のものではないみたいだった。
「康生、給電終了準備を」
アオイが言う。
「はいよ」
「右手は使用しないでください」
「分かってる」
「左手の接続を解除します」
作業艇が静かに停止する。
補助脚が下り、機体がわずかに沈んだ。
接続補助アームが康生の左手首から外れる。
ふっと、身体の奥の違和感が消えた。
今度は右手ではない。
それだけで、少し安心している自分が嫌だった。
「やっぱり気持ち悪いな」
「記録済みです」
「もういいよ、その記録」
「必要です」
「だろうな」
康生は補助席から降りた。
足元が少しふらつく。
千田がすぐそばに立つ。
「康生殿」
「大丈夫です」
「大丈夫には見えません」
「俺もそう思います」
「では、大丈夫ではありませんな」
「言い方」
亮太が後席から降りようとして、左腕に顔をしかめた。
「お前も無理すんな」
康生が言うと、亮太は不満そうに返した。
「康生さんに言われたくない」
「今は俺の方が偉い」
「どの辺が?」
「年齢」
「ずるい」
千田が亮太の肩を押さえた。
「亮太。お前も今日は黙って従え」
「…分かってます」
「その分かってますは、あまり信用できない」
「みんなして信用低いな」
「実績に基づく評価です」
アオイが言った。
「お前は黙ってろ」
亮太が小さく言う。
アオイは淡々と返した。
「記録しました」
「するなよ」
康生は少しだけ笑った。
笑えた。
それだけで、まだ大丈夫だと思いたかった。
作業艇には、錆びた鉄板と古い布をかけ直した。
前より雑だったが、今はそれでいい。
村人に見られなければ十分だ。
問題は、康生自身だった。
「右手、見えますか」
康生は布を巻いた手を見せる。
アオイが答える。
「布による視認遮蔽は有効です。ただし、動作遅延、保持姿勢、疲労状態から異常を推定される可能性があります」
「見た目より挙動か」
「はい」
「面倒だな」
「はい」
「そこは否定してくれ」
「否定できません」
「知ってた」
村へ向かう道は、いつもより長く感じた。
奥飛騨から戻った。
空を冷やし続けていた施設を、一時低負荷にした。
飛行型の群れから逃げた。
そのために、自分の一部を使った。
言葉にすると、ろくでもない。
村の入口に近づくと、見張り台の上から声が上がった。
「戻られた!」
すぐに別の声が続く。
「康生殿たちが戻られたぞ!」
康生は顔をしかめた。
「静かに戻りたかった」
「不可能です」
アオイが即答した。
「分かってるよ」
麻生が駆けてきた。
その後ろに、真衣もいる。
二人とも、安堵と不安が混ざった顔をしていた。
「康生殿!」
麻生が息を整える間も惜しむように言う。
「ご無事で」
「一応、戻りました」
「一応?」
麻生の視線が、康生の右手に落ちた。
布で巻かれた手。
左手でかばうような姿勢。
疲れた顔。
隠したつもりでも、隠れていない。
真衣が眉を寄せた。
「康生さん、その手」
「作業艇への給電で、ちょっと負荷が出ました」
「負荷」
「旧文明作業艇への給電時に発生した、一時的な光学的異常です」
康生は言ってから、失敗したと思った。
麻生が目を見開いた。
真衣も固まった。
亮太が後ろで小さく呟く。
「その説明、逆に怪しい」
「黙ってろ」
康生は低く返す。
アオイが補足した。
「康生の右手には、給電時の負荷に伴う一時的な構成不安定が発生しています。高濃度ピコマシン環境で静止すれば、高確率で回復する見込みです」
「それを先に言え」
「説明精度を優先しました」
「今は安心感を優先してくれ」
「学習します」
麻生はしばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
「康生殿が、御身を削られたのですか」
「違います」
康生は即答した。
「いや、正確には少し違わないかもしれませんが、その言い方は違います」
「空を鎮めるために」
「鎮めてません。奥飛騨の炭素固定施設を一時低負荷運転に移行しただけです」
「冷えた空を、止められた」
「止めたというか、弱めたというか」
「やはり」
「やはりじゃない」
真衣が口元を押さえた。
「手が…」
「見えてないだろ」
「見えなくても、分かります」
「分からないでくれ」
麻生の顔には、村長としての心配と、信仰に近い畏れが同時に浮かんでいた。
康生は、それが一番嫌だった。
心配されるのはまだいい。
でも、畏れられるのは困る。
「麻生さん」
「はい」
「これは神様っぽい話じゃないです。単純に、俺が無茶して失敗した結果です」
「失敗、ですか」
「はい」
「ですが、その無茶で戻られた」
「そうですけど」
「亮太も、千田も戻った」
「そうですけど」
「では、我らにとっては救いです」
康生は言葉に詰まった。
そこを否定するのは難しい。
実際に、全員生きて戻った。
それでも、その言葉が怖い。
救い。
御身。
空を鎮めた。
単語が少しずつ、康生から人間らしさを奪っていく。
「とりあえず、休ませてください」
康生は逃げるように言った。
「アオイの話だと、旧施設周辺の方が回復しやすいらしいので」
「聖域ですな」
麻生が言う。
「旧施設周辺の安定化領域です」
アオイが訂正した。
康生はアオイを見た。
「今の訂正は助かる」
「はい」
麻生は一瞬だけ困った顔をしたあと、頷いた。
「では、旧施設周辺の…安定化領域へ」
「努力を感じる」
「努力しております」
村の中へ入ると、人が集まり始めていた。
康生は右手を身体の陰に隠す。
だが、視線は集まる。
亮太の腕。
千田の服についた傷。
康生の疲労。
布を巻いた右手。
見られている。
観察されている。
信じられないくらい細かく。
誰かが小声で言った。
「康生殿の手が」
別の声が続いた。
「やはり、御身を」
「違う」
康生は振り返って言いそうになった。
だが、言わなかった。
言えば言うほど、広がる気がした。
真衣が前に出て、村人たちへ声をかける。
「康生さんたちはお疲れです。今日は休んでもらいます。詳しい話は、村長から後で伝えます」
麻生も頷いた。
「皆、道を空けよ。今は休息が先だ」
村人たちは慌てて道を空けた。
その反応がまた、康生の胃を重くする。
「アオイ」
「はい」
「俺、どんどん人間から遠ざかってないか」
「康生の自己認識上の不安として記録します」
「慰めろよ」
「康生は、康生です」
康生は少しだけ黙った。
「…雑だけど、それでいい」
「はい」
旧施設跡の近くに着く頃には、足取りがかなり重くなっていた。
アオイが静止を指示する。
康生は、旧施設の壁際に置かれた古い座席に腰を下ろした。
ここは、村人がいつの間にか整えてしまった場所だった。
屋根が補修され、風避けがあり、毛布が置かれている。
完全に休憩所だ。
いや、村人の扱いを見る限り、たぶん休憩所ではない。
「これ、何の場所ですか」
康生が聞くと、真衣が少しだけ目を逸らした。
「康生さんが休めるように」
「他には?」
「…祈らないようには言っています」
「祈る前提なんだな」
「言っても、聞かない人がいます」
「だろうな」
康生はため息をついた。
アオイが右手の布を少しだけ緩める。
布の下で、薄い指先が見えた。
真衣が息を呑む。
麻生も顔を硬くした。
「見ないでください」
康生が言う。
「すみません」
真衣はすぐに目を伏せた。
「でも、痛くないんですか」
「痛くはないです」
「それは、それで怖いですね」
「分かります」
アオイが右手に手をかざす。
「局所ピコマシン濃度を上げます。康生は右手を動かさず、静止してください」
「寝ていい?」
「推奨します」
「寝てる間に何かあったら」
「アオイが監視します」
「じゃあ、任せる」
「はい」
康生は目を閉じかけた。
その時、アオイがわずかに顔を上げた。
「通信」
康生は目を開けた。
「誰から」
「防衛隊AIシラヌイ」
「今かよ」
「優先度、高」
「今かよ」
二回言ってしまった。
アオイの周囲に、青白い通信表示が浮かぶ。
旧施設の壁に、短い文字列が走った。
――防衛隊艦載AIシラヌイより、規約違反者およびA.O.I.へ。
――旧東京圏復旧支援要請。
――対象、練馬地下核融合施設。
――再稼働支援を求む。
康生はしばらく画面を見た。
「三沢じゃなくて、東京?」
「はい」
アオイが答える。
「練馬地下核融合施設は、旧東京圏地下生存圏の主要電源の一つです」
シラヌイの文面が続く。
――当該施設再稼働により、旧東京圏地下生存圏の送電、浄水、空調、警戒網の安定化が見込まれる。
――また、旧東京圏防衛機構の一部再起動が可能。
――航空運用能力の回復により、防衛隊員および技術班の広域派遣が可能となる。
康生は眉を寄せた。
「航空運用」
「ヘリ、垂直離着陸機、旧式輸送機材の一部が候補です」
アオイが言う。
表示はさらに続いた。
――海洋リン回収施設、および奥飛騨炭素固定複合施設は、現在いずれも仮低負荷運転。
――正式な管理者再評価、および運転目標リセットには、現地技術班の派遣が望ましい。
――練馬地下核融合施設再稼働により、当該派遣計画を実行可能。
康生はゆっくりと息を吐いた。
「そう来るか」
三沢へ行く理由はある。
自分の中の見えない炉を監視するため。
次に同じことをしたら、どこが削れるか分からない。
だから、三沢へ行くべきだ。
だが、海と空の施設はまだ仮対応だ。
九十日。
あるいは、何かの条件で戻るかもしれない。
正式に止めるには、人間の技術班が必要。
その人間を運ぶには、航空運用が必要。
航空運用には、練馬の核融合施設が必要。
「俺の右手より、先に後始末か」
「康生の損耗管理を優先すべきです」
アオイが即座に言った。
その声は、いつもより少し硬かった。
康生は目を細める。
「お前はそう言うよな」
「はい」
「でも、海と奥飛騨、仮のままだぞ」
「はい」
「放っておくと、また戻る可能性がある」
「あります」
「東京が動けば、防衛隊が正式に処理できる」
「はい」
「じゃあ、行かない理由が弱い」
「康生の回復が不十分です」
「だから、すぐには行かない」
康生は布を巻いた右手を見た。
「でも、回復したら行く」
アオイは黙った。
麻生が不安げに言う。
「康生殿、今は休まれるべきでは」
「休みます」
康生は答えた。
「休んで、右手が戻る見込みが立ったら、東京へ行きます」
「三沢は」
真衣が聞いた。
康生は少しだけ笑った。
「俺のための三沢は後回しです」
「それは」
「よくない判断だと思います」
アオイが言った。
康生は頷いた。
「知ってる」
「推奨しません」
「今日、何回それ聞いたかな」
「必要なら何度でも言います」
「分かってる」
康生は目を閉じた。
「でも、練馬を動かせば、海と空の仮対応を正式にできる。東京の人たちも助かる。防衛機構も戻る。だったら、俺一人の都合だけで三沢を先にするのは無理だ」
「康生一人の都合ではありません」
アオイが言う。
「康生が損耗すれば、今後の全活動に影響します」
「それも分かってる」
「では」
「だから、回復してから行くって言ってる」
康生は目を開け、アオイを見た。
「それで妥協しろ」
アオイはしばらく沈黙した。
「…条件付きで同意します」
「条件」
「右手末端部の構造体密度が一定以上まで回復すること。通常給電で異常が再発しないこと。作業艇の損傷補修を行うこと。藤倉亮太の左腕を同行可能状態にしないこと」
亮太が顔を上げた。
「最後、俺だけ置いていく条件じゃないか」
「はい」
「はいじゃない」
康生は苦笑した。
「お前は留守番だな」
「嫌だ」
「怪我人」
「言うと思った」
千田が静かに言った。
「私が同行します」
「千田さんは休まなくていいんですか」
「老骨ですが、まだ動けます」
「その言い方、逆に不安になります」
「慣れてください」
「慣れたくないなあ」
麻生は通信表示を見つめていた。
「練馬の核融合施設が動けば、防衛隊が正式に海と空の施設へ向かえるのですね」
「そうらしいです」
康生は答えた。
「ならば、村としても支援します。食料、毛布、護衛の手配を」
「いや、護衛は」
「必要です」
アオイが言った。
「康生の回復期間中、村内警戒を強化する必要があります」
「そこか」
「はい」
真衣が頷く。
「分かりました。康生さんが休めるように、人の出入りも制限します」
「ありがたいですけど、祈る人は?」
「止めます」
「止まります?」
真衣は少し考えた。
「努力します」
「努力か」
「努力です」
康生は疲れた顔で笑った。
旧東京圏。
練馬地下核融合施設。
地下で生きる人々。
そして、そこにいるという現地の英雄。
通信の最後に、シラヌイから追加情報が表示された。
――現地防衛協力者あり。
――氏名、篠宮燈子。
――地下生存圏における対害獣戦闘の中核戦力。
――通称、英雄。
康生は薄く目を開けた。
「英雄ね」
アオイが答える。
「はい」
康生は布を巻いた右手を見た。
「天輪様よりは、ずっと人間っぽいな」
そう呟いて、康生は今度こそ目を閉じた。




