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規約違反者と監視AI 〜目覚めた未来で、人間扱いされたくて〜  作者: 八汐
第六章 冷えた空

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第六十話 透けた手

谷の陰で、作業艇は動きを止めていた。

上には木々が覆いかぶさっている。

その隙間から、青すぎる空が細く見えた。

空の向こうでは、飛行型の影がまだ旋回している。

近くはない。

だが、いなくなったわけでもない。

康生は、左手で右手を包んだまま座っていた。

右手はある。

指も動く。

感覚も、完全に消えてはいない。

だが、薄い。

掌の向こうに、膝の影が透けて見える。

指先の輪郭が、光に溶けかけている。


「…気持ち悪いな」


康生が呟くと、アオイが答えた。


「構造体ピコマシン密度が低下しています」

「見れば分かる」

「視認情報だけでは定量評価できません」

「そういう意味じゃない」

「はい」


アオイは康生の右手へ視線を向けたまま、淡々と続ける。


「右手末端部の構成密度は低下していますが、形状維持は継続しています。動作指令への応答も遅延はありますが確認できます」

「つまり、すぐ崩れるわけじゃない」

「現時点では」

「その言い方、やめてほしいんだよな」

「断定できません」

「分かってるよ」


康生は右手をゆっくり握った。

指は閉じた。

だが、少し遅い。

自分の指なのに、遠くから糸で引いているような感覚がある。


「箸、持てるかな」

「現在、食事の予定はありません」

「そういう話じゃない」

「生活動作への影響確認ですか」

「そこまで正式に言うと嫌になるな」


アオイは少しだけ首を傾けた。


「では、日常動作への影響」

「大して変わってない」

「記録しました」

「記録しなくていい」

「必要です」

「何に」

「康生の維持に必要です」


康生は黙った。

その言い方は、前より少しましだった。

だが、今はましだからこそ胸に引っかかる。

自分の身体を維持する。

そんなことを、他人に心配される状態になっている。


「…記録しとけ」

「はい」


少し離れたところで、千田が亮太の左腕を確認していた。

布をほどき、吊り直し、腫れと痛みの具合を見る。

亮太は顔をしかめていたが、声は出していない。

康生はそちらへ視線を向けた。


「亮太、大丈夫か」

「痛い」

「正直でよろしい」

「でも、折れてはないと思う」


千田が頷いた。


「骨が動いている感じはありません。ただ、かなり響いたようです」

「悪い」


康生が言うと、亮太は少し眉を寄せた。


「康生さんが謝ることじゃないだろ」

「俺が無茶した」

「無茶しなかったら、たぶん全員落ちてた」

「そういう計算はしてる」

「じゃあ、謝るなよ」


亮太は右手で左腕を押さえたまま、少しだけ笑った。


「でも、次は先に言え」

「言ったら止めただろ」

「止めた」

「だから言わなかった」

「やっぱりまずいやつじゃん」


康生は苦笑した。

笑った拍子に、右手の指先がまた少し震えた。

亮太の視線がそこへ落ちる。


「それ、戻るのか」


静かな問いだった。

康生はすぐには答えられなかった。

自分でも分からないからだ。

代わりに、アオイが答える。


「一時的な現象である可能性はあります。ピコマシン濃度の高い環境で静止し、構成体の再配列を行えば、高確率で回復する見込みがあります」

「高確率?」


亮太が聞き返す。


「はい。完全回復は保証できません」


康生は右手を見たまま、息を吐いた。


「保証できないことが増えたな」

「はい」

「そこは否定してくれ」

「否定できません」

「知ってた」


千田が静かに言った。


「康生殿。村へ戻れば、回復の手立てはあるのですか」

「たぶん、旧施設の周りならましです」


アオイが補足する。


「村周辺、特に旧再構成施設跡の周辺は、ピコマシン濃度が比較的高い状態です。康生の構成体安定化には有利です」

「聖域か」


千田が呟いた。

康生は顔をしかめた。


「その言い方、村人に広めないでください」

「すでに広まっております」

「知ってるから嫌なんですよ」

「では、旧施設周辺の安定化領域」


アオイが言う。


「長い」

「聖域」

「戻すな」


亮太が小さく笑った。

その笑いも、すぐに消えた。

上空から、かすかに鳴き声が聞こえたからだ。

高い、金属を擦るような声。

遠いが、不快だった。

アオイが表示を確認する。


「飛行型反応、上空で旋回継続。直接追尾はありません。谷沿いに移動すれば、発見率を抑えられます」

「すぐ帰れるか」

「推奨しません」


康生は目を細めた。


「またそれか」

「康生の状態確認、作業艇の損傷確認、藤倉亮太の左腕固定確認が必要です」

「確認だらけだな」

「必要です」

「分かってるよ」


アオイは作業艇へ近づき、側面に手を触れた。

外装には、棘がかすめた細い傷。

底部には、崖を越えた時についた擦過痕。

補助脚格納部には、石に当たった痕があった。


「外装軽微損傷。補助脚格納部軽微損傷。姿勢制御板、過負荷履歴あり」

「飛べるなら軽微だな」

「記録しました」

「何を」

「危険な判断基準として記録します」

「お前も軽微って言ってたじゃん」

「航行可否に基づく機体評価と、康生の危険判断基準は別項目です」

「ずるい」

アオイは作業艇の底部を確認しながら、さらに表示を出した。

「短時間高出力時のログを確認します」

「俺の中で何が起きてたか分かるのか」

「部分的に」

「部分的か」

「はい」


表示に赤い線が並ぶ。

出力。

姿勢制御補助。

給電量。

作業艇負荷。

飛行型反応。

局所プラズマ放出。

康生の内部に関する欄だけが、ところどころ欠けていた。


――中核特異点炉、出力上昇。

――内部質量補填、推定。

――構造体密度変動、観測不十分。

――末端部密度低下、後続観測により確認。

――損耗範囲、未確定。


康生はその表示を見て、嫌な笑いを漏らした。


「肝心なところが推定だらけだな」

「はい」


アオイが答える。


「現行の観測能力では、康生内部の中核特異点炉状態を直接把握できません。外部現象から推定するしかありません」

「煙を見て、エンジンの中を想像してるみたいなものか」

「近似表現として適切です」

「よくない適切さだな」

「はい」


康生は右手を見た。

薄い指先。

遅れる感覚。

透けた輪郭。

これが、推定の結果だ。


「つまり、また同じことやったら、どこが削れるか分からない」

「はい」

「右手とは限らない」

「はい」

「内臓とか言ったら嫌だな」

「康生には通常の意味での内臓は存在しません」

「分かってるけど、そういう怖さの話だよ」

「中枢構造、認知機能、運動制御部位、外殻構造、いずれにも影響が出る可能性があります」

「もっと怖くなった」

「事実です」

「言い方」

「重要事項です」


康生は黙った。

今回は右手で済んだ。

そう考えたくなる。

だが、済んだのかどうかも分からない。

右手が透けていることだけが、目に見えているだけだ。

目に見えないところで、何かが削れていない保証はない。

アオイは表示を閉じずに言った。


「この運用を再度行う場合、事前に中核特異点炉の状態を監視する設備が必要です」

「設備って」

「高精度の粒子観測系、重力場変動観測系、もしくはそれに準ずる旧文明監視設備です」

「そんな都合のいいものが、その辺にあるのか」

「その辺にはありません」

「だろうな」

「候補はあります」


康生は顔を上げた。


「あるのか」

「はい」


アオイが地図を表示する。

古い日本列島の地図。

東北地方。

青森県東部。

太平洋側。

一点が赤く示された。


――旧三沢基地跡。

――航空宇宙監視施設群。

――特異点炉搭載機材監視ログ、断片あり。

――高エネルギー粒子観測設備、存在可能性。


康生はしばらく地図を見た。


「三沢」

「はい」

「青森か」

「はい」

「遠いな」

「作業艇の運用が安定すれば、到達可能です」

「今の作業艇、安定してるか?」

「していません」

「正直でよろしい」


アオイは続ける。


「ただし、奥飛騨施設で確認した合成燃料前駆体と変換装置を利用できれば、外部給電負荷を軽減できる可能性があります」

「つまり、またこの施設に来る必要がある」

「はい」

「飛行型がいる」

「はい」

「仕事が増えた」

「はい」

「何で全部はいなんだよ」

「事実です」


康生は額を押さえた。

右手ではなく、左手で。

右手を使うのが、少し怖かった。


「三沢に行けば、俺の中の炉が見えるのか」

「見える可能性があります」

「可能性」

「はい。確定ではありません」

「でも、今よりはまし」

「はい」


アオイは康生を見た。


「康生の損耗を防ぐためには、必要です」


その言葉は、淡々としていた。

けれど、康生には少しだけ重く聞こえた。

自分の損耗を防ぐ。

人を助けるためでも、施設を止めるためでもなく。

康生自身を壊さないために、次へ行く。

そういう目的ができてしまった。


「俺のために三沢か」

「はい」

「世界を救う旅っぽくないな」

「康生の維持は、現在の活動継続に必要です」

「言い方」

「康生が壊れると、アオイの活動目的達成率が大きく低下します」

「言い方」

「康生が壊れると困ります」


康生は少しだけ黙った。

アオイは表情を変えない。

けれど、言い直した。

補修でも、修理でもなく。

維持でもなく。

困る。

それは、機械の言葉としては少しだけ雑だった。

だからこそ、妙に残った。


「…それでいい」

「記録しました」

「また記録か」

「はい」

「記録がどんどん増えていくな」

「はい」


康生は右手を見た。

少しだけ、光を通している。

これを村に見られたら、また面倒なことになる。

いや、面倒では済まないかもしれない。

御身を削った。

空を鎮めるために、己を捧げた。

そんな言葉が、村人の口から出る未来が見える。

康生は顔をしかめた。


「これ、村で見られたらまずいよな」

「神格化が進行する可能性があります」

「やっぱり?」

「はい」

「隠せるか」

「布で覆うことは可能です。ただし、完全な秘匿は困難です」

「なんで」

「右手の動作遅延、給電時の補助動作、休息の必要性、帰還後の康生の状態変化から推測される可能性があります」

「村人、そんなに観察力高いか?」

「信仰対象に関する観察精度は高い傾向があります」

「嫌な傾向だな」


千田が少し気まずそうに咳払いした。


「康生殿」

「はい」

「村の者が見れば、確かに何かしらの意味を見出すでしょう」

「やっぱり」

「ですが、隠しすぎれば、かえって噂になります」

「詰んでるじゃないですか」

「詰みではありません」


アオイが言う。


「情報管理が必要です」

「どう管理する」

「康生は疲労による一時的な状態不良として説明します」

「透けてるのに?」

「布で覆えば視認は限定できます」

「見られたら」

「光学的異常と説明します」

「何それ」

「旧文明作業艇への給電時に発生した一時的な投影乱れ」

「俺が投影みたいじゃないか」

「実態に近い部分があります」

「言い方」


亮太がぼそっと言った。


「でも、天輪様が身を削ったって言われるよりはましじゃないか」

「お前まで言うな」

「言われるだろ、絶対」

「分かってるから嫌なんだよ」


康生は右手を布で巻くことにした。

千田が持っていた予備の布を使い、手首から指先まで覆う。

白では目立つので、薄く汚れた布を選んだ。

それでも、指先の動きがぎこちないのは隠しきれない。


「怪我したみたいだな」


亮太が言う。


「実際、怪我みたいなものだろ」


康生は答えた。


「血は出てないけど」

「血が出ない怪我の方が嫌だな」

「それはそう」


アオイが作業艇の再起動準備を始めた。


「飛行型反応、上空旋回継続。ただし、谷沿い低速移動で発見率を抑えられます」

「低速で帰るのか」

「はい。康生の給電負荷を最小化します」

「俺、給電するの?」

「作業艇の補助電源だけでは帰還距離に不足します。ただし、低出力で足ります」

「また気持ち悪いやつか」

「はい」

「正直でよろしい」

「手首接続を左側に変更します」


康生は少し嫌な顔をした。


「右手がこれだから?」

「はい」

「左手まで透けたりしないよな」

「通常給電であれば、その可能性は低いです」

「低い」

「はい」

「もう全部怖いな」

「推奨範囲内です」

「その言葉、今日いちばん信用が揺らいでる」


アオイは黙った。

少ししてから言う。


「今回は、推奨範囲内です」


康生はその言い直しに気づいた。


「そうかよ」

「はい」

「じゃあ、信じる」


アオイは短く答えた。


「はい」


作業艇の補助脚が上がる。

機体がゆっくり浮いた。

康生は左手を給電アームに接続した。

冷たい感触が手首に触れる。

身体の奥に、細い違和感が走る。

だが、さっきとは違う。

底が抜けるような感覚はない。

右手は布の中で、かすかに震えている。


「出発します」


アオイが言った。


「谷沿いを低速で移動。上空反応を避けながら、村方面へ帰還します」

「途中でまた群れが来たら?」

「戦闘および高出力運用は推奨しません」

「今日はもう聞き飽きた」

「必要です」

「知ってる」


作業艇はゆっくりと谷を進み始めた。

さっきまでのような無理な加速はない。

枝をかすめるたびに、康生は肩を強張らせた。

上空の鳴き声が聞こえるたびに、亮太が息を止めた。

千田は黙って槍を握っていた。

それでも、飛行型は降りてこなかった。

谷の遮蔽と、低速移動。

それに、先ほどの追跡失敗。

そのどれが効いているのかは分からない。

だが、作業艇は進んだ。

少しずつ。

冷えた山の奥から、村の方へ。

康生は布を巻いた右手を見た。

この手を見れば、麻生は何と言うだろう。

真衣は。

村の人間たちは。

説明を考えようとして、うまくまとまらなかった。

疲れている。

本当に、疲れている。


「アオイ」

「はい」

「帰ったら、まず休む」

「推奨します」

「それは推奨するのか」

「はい」

「じゃあ、そうする」

「はい」


少しだけ間があった。

それから、アオイが言った。


「その後、三沢基地跡への調査計画を立てます」


康生は目を閉じた。


「休ませる気ある?」

「休息後です」

「言い方」

「必要です」


康生は小さく息を吐いた。


「分かってるよ」


作業艇は谷の影を抜け、低い森の中へ入っていく。

青すぎる空は、枝に遮られて少しだけ見えなくなった。

だが、康生の右手に残った透けた感覚は、消えなかった。

冷えた空の理由は止めた。

けれど、その空から逃げるために削ったものは、まだ戻っていない。

次に向かうべき場所は決まった。

旧三沢基地跡。

康生の中にある、見えない炉を見るために。

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