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規約違反者と監視AI 〜目覚めた未来で、人間扱いされたくて〜  作者: 八汐
第六章 冷えた空

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第五十九話 推奨しません

黒い影が、一斉に角度を変えた。

こちらへ向かってくる。

開けた斜面。

遠い森。

青すぎる空。

その中を、飛行型の群れが滑るように降りてきていた。

康生は給電アームにつながれた手首を見た。

冷たい違和感がある。

さっきまでは、ただ気持ち悪いだけだった。

今は違う。

これ以上出力を上げれば、自分の中にある何かが削れる。

アオイは、そう言った。


「他の案は」


康生が聞いた。

アオイはすぐには答えなかった。

その沈黙だけで、だいたい分かった。


「施設へ戻るのは」

「飛行型の進路上です。背後から追撃を受ける可能性が高いです」

「右の旧道は」

「崩落、倒木、狭窄部多数。現行出力では減速が必要です」

「左の斜面は」

「遮蔽物がありません」

「森までは」

「現行出力では到達前に接触されます」

「じゃあ、出力を上げるしかないな」

「推奨しません」


アオイは即答した。

淡々としている。

けれど、言葉が少し硬く感じた。

康生は前を見た。

飛行型の群れが近づく。

大きい個体が正面。

左右に小型。

上空にさらに二つ。

後方にも反応が残っている。


「推奨しないのは分かった」


康生は言った。


「やった場合、森までは行けるか」

「可能です」

「その先は」

「谷沿いの樹木を遮蔽物として使用し、追尾を振り切れる可能性があります」

「可能性は?」

「六十四パーセント」

「やらない場合は」

「現行逃走成功率、十八パーセント」

「さっきより下がってるじゃねえか」

「飛行型の接近により、継続低下中です」

「なら、やるしかないだろ」

「推奨しません」


また、同じ言葉だった。

康生は少しだけ息を吐く。


「アオイ」

「はい」

「俺が聞いてるのは、推奨かどうかじゃない」

「理解しています」

「じゃあ」

「それでも、推奨しません」


康生は黙った。

後席では、亮太が左腕を押さえたまま空を見ている。

千田は槍を握り、しかし振るえない距離だと分かっている顔をしていた。

この二人を乗せたまま、作業艇は震えている。

逃げ切るには足りない。

ほんの少しだけ足りない。

その少しを埋めるものが、自分の身体だというだけだ。


「康生さん」


亮太が言った。


「何か、まずいことする気か」

「終わったら分かることだ」

「それ、だいたいまずいやつだ」

「怪我人は黙って座ってろ」

「怪我人だから言ってるんだ」


康生は振り返らなかった。


「亮太」

「なんだ」

「左腕、守れ。千田さん、亮太を押さえてください」


千田が短く頷く。


「承知しました」


亮太が何か言いかける。

だが、千田の右手がその肩を押さえた。


「亮太。今は従え」

「…分かりました」


康生は前を向いた。


「アオイ、手順」

「中核特異点炉の短時間高出力化。作業艇姿勢制御板への直接補助。外部給電制限の一時解除。康生の構造体ピコマシンを質量補填源として消費する可能性があります」

「可能性じゃないだろ」

「高確率です」

「どれくらい削れる」

「推定不能です」

「そこが一番大事だろ」

「現在の観測能力では、康生内部の中核特異点炉状態を十分に監視できません」


康生は笑いそうになった。

笑う場面ではない。

それでも、口元だけが少し動いた。


「つまり、俺の中で何が起きてるか、ちゃんとは分からないってことか」

「はい」

「その状態で、俺を燃料にするしかないって?」

「推奨しません」

「だろうな」

「実行しない選択を推奨します」

「その場合、全員危ない」

「はい」

「なら、答えは同じだ」


アオイは黙った。

飛行型が距離を詰める。

正面の個体の尾が開いた。

黒い液体が、細く垂れる。

アオイが機体を右へずらす。

だが、開けた斜面では逃げ場が少ない。


「アオイ」


康生は言った。


「やれ」

「推奨しません」

「命令だ」


その瞬間、アオイの目が康生を見た。

目と言っても、投影された光だ。

表情はほとんどない。

それでも、康生には分かった。

止めたいのだ。

アオイは、止めたいと思っている。


「康生」

「何だ」

「本命令は、康生の損耗を伴う可能性があります」

「聞いた」

「損耗範囲は不明です」

「聞いた」

「復元可能性も不明です」

「聞いた」

「推奨しません」


康生は奥歯を噛んだ。


「アオイ」

「はい」

「俺を守りたいなら、亮太と千田さんも守れ」


アオイは答えなかった。

康生は続けた。


「このままじゃ、俺だけ無事でも意味がない」

「康生だけが無事である可能性も高くありません」

「そこは少し気を遣え」

「事実です」

「分かってるよ」


康生は手首のアームを握った。


「実行しろ、アオイ」


わずかな間。

それから、アオイが答えた。


「…命令を受理します」


画面に赤い文字が走る。


――外部給電制限、一時解除。

――姿勢制御補助、直接接続。

――中核特異点炉、短時間高出力準備。

――衛星受電、未接続。

――外部質量補填源、未検出。

――構造体ピコマシン消費リスク、高。

――実行確認。


「確認とか要らない!」


康生が叫ぶ。


「必要です」


アオイが返す。


「管理者確認が必要です」

「管理者って俺か!」

「はい」

「実行!」


表示が切り替わる。


――管理者確認。

――短時間高出力、開始。


次の瞬間、康生の身体の奥で何かが落ちた。

熱ではなかった。

痛みでもない。

底が抜けるような感覚だった。

自分の中にある小さな重さが、黒い穴へ吸い込まれてゆく。



「…っ」


康生は息を詰めた。

給電アームが白く光る。

作業艇の床下で、低い振動が生まれる。

今までふわりと浮いていた機体が、急に空気を掴んだ。


「出力上昇」


アオイが告げる。


「姿勢制御板、補助接続。康生、意識を前方へ固定してください」

「前方って何だよ!」

「進行方向です」

「分かってる!」

「ならば固定してください」

「言い方!」


作業艇が跳ねるように加速した。

斜面の上を、低く走る。

いや、飛ぶ。

地面から一メートルほどの高さを保ったまま、石と草と乾いた土の上を抜ける。

飛行型の群れが反応した。

正面の大型寄りの個体が、腐食液を落とす。

黒い線が空中に引かれる。

アオイが機体を左へ倒した。

康生は反射的に、倒れた機体を支えるように意識を向ける。

何かが繋がった。

機体の底。

姿勢制御板。

空気の流れ。

康生の中にある黒い炉。

全部が、細い糸で引っかかったように感じる。


「うわ、気持ち悪い!」

「直接補助接続中です」

「全部気持ち悪い!」

「姿勢補助、良好」

「まったく良好じゃねえ!」


作業艇は腐食液の下を抜けた。

黒い液体が背後の斜面に落ち、白い煙を上げる。

小型の一体が横から突っ込んでくる。

千田が槍を構えた。


「まだ早い!」


康生が叫んだ。

アオイが機体を沈める。

飛行型の爪が頭上をかすめる。

その瞬間、康生の右手から細い白い光が走った。

光というより、空気が焼けた線だった。

飛行型の翼の端が弾ける。

黒い膜が破れ、個体が横へ流れた。


「今の何だ!」


康生自身が叫ぶ。


「局所プラズマ放出。康生の反射動作と姿勢制御補助が干渉しました」

「勝手に出たぞ!」

「制御してください」

「できるか!」

「必要です」

「無茶言うな!」


作業艇はさらに速度を上げる。

森が近づく。

だが、上空から二体が同時に降りてきた。

左右から挟む形だ。


「挟撃」


アオイが言う。


「見れば分かる!」

「上昇します」

「枝!」

「接触前に通過します」

「怖いって!」


作業艇が急に浮いた。

木の梢が迫る。

枝が機体の底を叩く。

葉の少ない木々の間を、無理やり抜ける。

左の飛行型が追ってくる。

右の飛行型も追ってくる。

康生は奥歯を噛み、前方を見た。

森の入口。

細い隙間。

そこだけ木が途切れている。


「あそこ!」

「確認」

「入れ!」

「進入します」


作業艇が斜めに滑り込む。

枝が側面を叩く。

給電アームが震える。

康生の身体の奥で、また何かが削れた。

指先が冷たい。

右手の感覚が、少し遠い。


「康生、消費率上昇」


アオイの声が鋭くなる。


「停止を推奨します」

「まだ森に入ってない!」

「康生の損耗が進行しています」

「分かってる!」

「分かっていません」


その言葉は、いつものアオイらしくなかった。

康生は一瞬だけアオイを見た。


「何だよ、それ」

「康生は、自身の損耗を過小評価しています」

「今それ言うか!」

「今だから言います」


作業艇が森へ入った。

途端に、空が狭くなる。

枝が上を覆い、飛行型の動きが乱れた。

一体が無理に突っ込もうとして、太い枝に翼をぶつける。

もう一体は上空へ回避した。

大型寄りの個体は、森の上を旋回する。


「追尾低下」


アオイが言う。


「このまま谷へ」

「谷沿いルートを選択します」


作業艇は森の中を縫うように進む。

速度はまだ速い。

だが、さっきよりは遮蔽物がある。

康生は息を吐こうとして、吐けなかった。

身体の奥が寒い。

外気の冷たさではない。

内側から、温度がなくなっていくような寒さだった。


「アオイ、まだか」

「あと四百メートルで追尾遮断可能域」

「長い」

「短縮します」

「できるのか」

「危険です」

「今さらだ」

アオイは返事をしない。


作業艇が谷沿いへ落ちるように進路を変える。

両側に岩と木。

上空からは見えにくい。

背後で、飛行型の鳴き声がした。

高く、金属を擦るような声。

近い。


「一体、森内へ侵入」

「しつこいな!」


黒い影が背後の木々の間から見えた。

大型ではない。

小型の一体だ。

枝に翼を裂かれながらも、追ってきている。

尾が開く。

棘が見えた。


「撃ってくる!」


亮太が叫ぶ。

康生は振り返った。

振り返ってしまった。

右手が動く。

白い線が走った。

今度は、意識していない。

ただ、来るなと思った。

飛行型の前方で、空気が弾けた。

小さな白い閃光。

破裂音。

飛行型が体勢を崩し、木の幹へ叩きつけられる。


「…今の、俺か」

「はい」


アオイが答える。


「局所プラズマ放出。出力過多です」

「過多とか言われても」

「以後、使用を控えてください」

「勝手に出たんだよ!」

「抑制してください」

「注文が多い!」


作業艇は谷の奥へ滑り込んだ。

その瞬間、空の鳴き声が遠ざかった。

上空の飛行型が見失ったのだ。

アオイの画面に、反応表示が出る。


――飛行型追尾反応、低下。

――直接追尾、なし。

――上空旋回、継続。

――遮蔽域内逃走、成功。


「逃げ切った?」


亮太が掠れた声で言った。


「直接追尾は振り切りました」


アオイが答える。


「ただし、上空反応は残存しています」

「つまり、まだ油断できない」


康生が言った。


「はい」

「でも、今は止められるな」

「はい。出力を低下させます」

「すぐやれ」

「実行します」

表示が走る。


――短時間高出力、停止。

――中核特異点炉、通常制限へ移行。

――姿勢制御補助、解除。


その瞬間、康生の身体から力が抜けた。


「…あ」


声が漏れる。

給電アームにつながれたまま、身体が前に倒れかけた。

千田が後席から腕を伸ばそうとする。


「康生殿!」

「座ってろ!」


康生は反射的に叫んだ。

だが、声に力がない。

アオイが作業艇を減速させる。

谷沿いの陰に、機体を滑り込ませた。

補助脚が降りる。

作業艇が地面に近い位置で固定される。

給電アームが外れた。

康生は補助席から片膝をついた。

地面が近い。

冷たい土の匂いがする。

乾いた木の根が見える。


「康生さん!」


亮太が立ち上がろうとする。


「動くな」


康生は言った。


「お前、腕」

「でも」

「いいから、動くな」


千田が後席から降り、康生のそばに膝をついた。


「康生殿、意識は」

「あります」

「身体は」

「あります」


康生はそう答えて、自分で嫌な言い方だと思った。

ある。

あるはずだ。

でも、右手の感覚が遠い。

アオイが操縦席から降りる。

その動きは、いつもよりわずかに速かった。


「康生、右手を確認します」

「嫌な言い方するな」

「確認が必要です」

「知ってる」


康生は右手を見た。

最初、何がおかしいのか分からなかった。

指はある。

掌もある。

手首もある。

だが、薄い。

輪郭が、少し曖昧だった。

皮膚の色が薄く、向こう側の影が、ほんのわずかに透けて見える。

康生はしばらく黙った。

亮太も、千田も、何も言わなかった。

アオイだけが、静かに告げた。


「構造体ピコマシン密度、右手末端部で低下」

「…透けてる?」


康生が言った。


「はい」


アオイは答えた。


「一時的現象である可能性があります」

「可能性」

「はい」

「言い方が弱いな」

「現時点では、断定できません」


康生は右手を軽く握ろうとした。

指は動いた。

だが、少し遅い。

水の中で動かしているような感覚だった。


「動いてるな」

「動作は確認できます」

「なら、まあ」


康生は笑おうとした。

うまく笑えなかった。

アオイが言う。


「推奨しませんでした」


康生は右手を見たまま、息を吐いた。


「知ってる」

「推奨しませんでした」

「二回言うな」

「必要です」

「何に」

「記録に」


康生は少しだけ顔を上げた。

アオイは、いつものように淡々としていた。

けれど、その言葉は責めているようにも聞こえた。

いや、違う。

責めているのではない。

止めたのに、止められなかったことを、記録しているのだ。

康生は右手を膝の上に置いた。


「助かっただろ」

「はい」

「亮太も、千田さんも、生きてる」

「はい」

「作業艇も落ちなかった」

「はい」

「なら、今日はそれでいい」


アオイは少しだけ沈黙した。


「康生の損耗は、良い結果ではありません」

「知ってる」

「次回、同様の運用は」

「推奨しません、だろ」

「はい」

「覚えた」

「本当ですか?」

「疑うな」

「実績に基づく評価です」


康生は苦笑した。

今度は、少しだけ笑えた。

遠くで、飛行型の鳴き声がした。

まだ上空にいる。

完全に安全ではない。

だが、直接追ってきてはいない。

アオイが周囲を確認する。


「この地点で一時待機します。康生の状態確認、作業艇損傷確認、藤倉亮太の左腕確認が必要です」

「確認ばっかりだな」

「必要です」

「分かってるよ」


康生はもう一度、右手を見た。

青すぎる空の下で、透けた指先がかすかに震えている。

冷えた空から逃げ切るために、自分の一部を使った。

その結果が、ここにある。

康生は薄い右手を握り直した。

うまく力は入らなかった。

それでも、指は閉じた。


「…帰るぞ」


康生が言うと、アオイは静かに答えた。


「はい。ただし、すぐには推奨しません」

「そこは推奨しないのかよ」

「康生の休息が必要です」


康生は空を見上げた。

木々の隙間から、青すぎる空が見える。

そこを、黒い影が遠く旋回していた。

帰るには、まだ少し時間がいる。

そして、帰ったあとに説明しなければならないことも、たぶん増えた。

康生は透けた右手を隠すように、左手で包んだ。


「面倒だな」

「はい」

「そこは否定してくれ」

「否定できません」

「だよな」


冷えた谷の中で、作業艇は静かに停止していた。

その傍らで、康生の右手だけが、まだ少しだけ光を通していた。

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