第五十八話 帰り道の群れ
作業艇が外へ出た瞬間、冷たい空気が頬を叩いた。
施設の中とは違う。
乾いていて、澄みすぎていて、肌の熱を奪っていく空気だった。
康生は前方を見た。
青すぎる空。
白く乾いた谷。
細い川筋。
弱々しい木々。
そして、その上を回る黒い影。
一つが、こちらへ向きを変えていた。
「来たな」
康生が呟く。
「飛行型一体、接近」
アオイが操縦席で告げた。
「残り二体は上空旋回中。追尾行動に移行する可能性があります」
「帰るだけなのに」
「帰還行動中です」
「言い換えても帰るだけだろ」
作業艇は低く滑り出した。
外郭扉が背後で閉じていく。
――外部保守端末、退去完了。
――外郭扉、閉鎖。
――害獣阻害機構、外部散布継続。
金属扉が閉まりきる直前、飛行型の一体が施設へ向かって急降下した。
だが、扉の上空で急に軌道を乱す。
羽ばたきが崩れ、黒い体が横へ流された。
「効いてるのか」
「施設外郭防御の局所気流が作用しています」
「じゃあ、施設の近くにいれば安全?」
「近距離であれば」
「帰れないじゃん」
「はい」
「どうすんだよ!」
作業艇は山腹から伸びる旧道の上を低速で進む。
施設を離れるにつれて、背後の風の音が弱くなった。
同時に、飛行型の羽音が近づいた。
膜のような翼が、冷たい空気を叩く。
黒い体。
細い尾。
触角のように伸びる器官。
鳥ではない。
虫でもない。
何かをまね損ねたような飛び方をしている。
亮太が後席で身を固くした。
「近い」
「乗り出すな」
康生が即座に言う。
「乗り出してない」
「今にも乗り出しそうな顔してた」
「顔は仕方ないだろ」
千田が槍を握り直す。
「一体なら、近づいたところを払えます」
「推奨しません」
アオイが即答した。
「後席からの攻撃は機体姿勢に影響します。落下リスクが上昇します」
「落下リスク」
康生が顔をしかめる。
「その単語、嫌いなんだが」
「実際に存在します」
「事実でも言い方ってものがあるだろ」
「安全性低下リスク」
「ちょっとましだけど、結局嫌だな」
作業艇が速度を上げる。
だが、昨日の緊急搬出のような乱暴な加速ではない。
長距離低速移動モード。
安全制限つき。
高度も速度も抑えられている。
それが今は、もどかしかった。
「もっと出ないのか」
「現在の給電量では、この速度が安定上限です」
「俺がもう少し出せば?」
「一時的な加速は可能です。ただし、姿勢制御板の負荷が増えます」
「壊れる?」
「壊れる可能性があります」
「またそれか」
黒い影が横から近づいた。
一体目が谷の斜面に沿って滑り込んでくる。
翼を広げたまま、ほとんど音もなく距離を詰めてくる。
アオイが機体を左へ寄せた。
作業艇は倒木の上をかすめるように通過する。
「うわっ」
亮太が声を上げる。
「枝!」
「認識しています」
「認識してても怖いんだって!」
康生は縁を掴んだ。
給電アームが手首に食い込むように引かれる。
実際には痛みではない。
だが、身体の奥に、何かを吸われているような違和感がある。
「これ、逃げながら給電するの、最悪だな」
「外部給電状態での移動は想定されています」
「想定したやつ、乗ったことないだろ」
「不明です」
「絶対ない」
飛行型が近づく。
尾の先が開いた。
細い針のようなものが、束になって見える。
「何か来る!」
亮太が叫ぶ。
「射出反応」
アオイが機体を沈めた。
次の瞬間、黒い針のようなものが作業艇の上を抜け、背後の岩に突き刺さった。
乾いた音が連続して響く。
「撃ってきたぞ!」
「外皮片射出、または硬質棘の投射と推定」
「自分の体投げんなよ!」
千田が低く言った。
「当たれば危険ですな」
「分かりやすい感想ありがとうございます!」
作業艇は谷の底へ降りていく。
両側の岩壁が近い。
枝も近い。
水の少ない川筋の上を、ぎりぎりで滑る。
上空から二体目が降りてきた。
「二体目、追尾開始」
「三体目は?」
「上空旋回中」
「全部来る流れじゃないか」
「可能性、高」
「嫌な可能性だけ当たるな」
二体目は高い位置から作業艇の進路を塞ぐように回り込んだ。
一体目は後方。
二体目は前方上空。
まるで、追い立てるような動きだった。
康生は目を細める。
「こいつら、考えてる?」
「単純な包囲行動を確認」
「頭いいじゃん」
「群れとしての狩猟行動の可能性があります」
「さらに嫌な情報が増えた」
アオイが右へ機体を振る。
作業艇は川筋から外れ、崩れた旧道へ戻った。
瞬間、上空の二体目が急降下する。
膜の翼が広がる。
影が落ちる。
千田が立ち上がりかけた。
「千田さん、座って!」
康生が叫ぶ。
「ですが」
「落ちたら終わりです!」
千田は歯を食いしばり、座り直した。
代わりに槍を横へ構える。
飛行型がかすめた瞬間、槍の穂先が翼の端を裂いた。
黒い膜が破れ、飛行型が大きく傾く。
耳障りな鳴き声が谷に響いた。
「当てた!」
亮太が声を上げる。
「座ってろ!」
「座ってる!」
アオイが即座に告げる。
「二体目、損傷。速度低下」
「千田さん、今のすごいですけど、次やったら落ちます」
「承知しました」
千田は静かに答えた。
「一度だけです」
「判断が渋い」
「年寄りなので」
「その返し、今はいらないです」
後方の一体目がまた棘を射出した。
アオイが機体を横へ滑らせる。
棘が作業艇の側面をかすめた。
ぎ、と金属が鳴る。
「当たった!?」
「外装に軽微損傷」
「しかも、損傷してんのかよ!」
「航行に支障なし」
「ならいい!」
「いいのですか」
「よくないけど今はいい!」
作業艇は旧道を外れ、細い尾根道へ向かった。
地面からの高さは一メートルもない。
だが、右側は急な斜面だ。
落ちたら、そのまま谷底まで滑り落ちる。
康生は息を詰めた。
「この道、通れるのか」
「幅員不足ですが、浮上移動により通過可能です」
「言葉の上ではな」
「実際にも可能です」
「じゃあ怖くない言い方してくれ」
「慎重に通過します」
「だいぶまし」
作業艇が尾根の上を滑る。
左には細い木々。
右には谷。
前方には崩れた橋の跡。
橋はほとんど残っていなかった。
支柱だけが立ち、路面は途中で切れている。
「橋、落ちてる!」
亮太が叫ぶ。
「浮いているため問題ありません」
アオイが言う。
「問題ある景色なんだよ!」
康生の声が裏返る。
作業艇は途切れた橋の上へ出た。
足元に何もない。
下には白い岩と細い水。
風が下から吹き上げる。
「これ本当に嫌だ!」
「高度維持、安定」
「俺の精神が不安定!」
作業艇が橋の向こう側へ渡る。
その瞬間、三体目が動いた。
上空で旋回していた黒い影が、まっすぐ降りてくる。
他の二体より大きい。
翼も広い。
「三体目、大型寄り」
アオイの声が硬くなった。
「最初から言え!」
「接近により判別精度が上がりました」
「やばいやばいやばい!」
三体目は、正面から来た。
逃げ道を塞ぐように。
尾の先が開く。
棘ではない。
黒い液体のようなものが、細く垂れた。
「何か垂れてるぞ!」
「腐食性物質の可能性」
「最悪じゃねーか!」
アオイが機体を急降下させた。
作業艇は橋の向こうへ滑り込みながら、高度を落とす。
黒い液体が空中に線を引き、崩れた橋の残骸に落ちた。
じゅ、と音がした。
白い煙が上がる。
亮太の顔から血の気が引いた。
「あれ、当たったら」
「考えるな」
康生が言った。
「考えると嫌になる」
「もう嫌です」
「俺もだよ」
千田が低く息を吐いた。
「このままでは、いずれ追いつかれますな」
「言わないでほしかったですけど、同感です」
康生は前を見る。
山道はさらに狭くなっていた。
施設から離れるほど、外郭防御の影響はなくなる。
飛行型は動きを取り戻している。
一体は翼を損傷して遅れている。
だが、残り二体はまだ速い。
特に三体目は、こちらの進路を読むように動いている。
「アオイ、村までこのまま逃げ切れるか」
「現行出力では困難です」
即答だった。
康生は奥歯を噛んだ。
「もう少し希望を混ぜろ」
「希望的表現は状況判断を誤らせます」
「正論が痛い」
「現行出力では、飛行型三体の追尾を完全に振り切ることは困難です。ただし、谷沿いの遮蔽物を利用すれば、一定距離までは逃走可能です」
「一定距離ってどこまで」
「旧山岳保守道分岐まで」
「その先は?」
アオイは一瞬だけ間を置いた。
「開けた斜面があります」
「最悪じゃん」
「飛行型にとって有利です」
「言い直しても最悪じゃん」
作業艇が分岐へ向かう。
背後から棘が飛ぶ。
横から腐食液が落ちる。
アオイはそれらを避けながら、低く、細く、木々の間を抜けていく。
康生は給電量を少し上げた。
手首から身体の奥へ、冷たい震えが走る。
「康生、給電量上昇を確認」
「ちょっとだけだ」
「上昇率が想定を超えています」
「追いつかれるよりましだろ」
「短時間なら許容範囲です」
作業艇の速度がわずかに上がる。
飛行型との距離が少しだけ開いた。
だが、その分、制御が荒くなった。
木の枝が機体の側面を叩く。
岩肌が近い。
一度、底の支柱が突き出た石にかすった。
がん、と鈍い音がする。
「今のは!?」
「補助脚格納部に接触。損傷軽微」
「軽微の範囲が謎すぎる!」
「航行継続可能です」
「飛べるなら軽微かもな!」
分岐が見えた。
右へ行けば、山腹を回る旧道。
左へ行けば、開けた斜面を横切る近道。
右は遮蔽物が多い。
だが、道が崩れている。
左は見通しがいい。
だが、飛行型に見つかりやすい。
「右!」
康生が言った。
「右ルートは崩落により通行不能の可能性があります」
「左は空が開けてる!」
「右ルートを選択します」
アオイが即座に機体を右へ振った。
作業艇は崩れた旧道へ入る。
岩が落ち、木が倒れ、路面は半分なくなっていた。
それでも、木々が上空を隠している。
飛行型が一瞬、追尾を乱した。
「よし」
康生が息を吐く。
その直後、前方の道が完全に崩れていた。
「よしじゃなかった!」
崖だった。
旧道が途中で消えている。
その先には、谷へ落ちる急斜面。
向こう側の道までは十数メートル。
普通の車なら終わりだ。
徒歩でも危険だ。
作業艇なら、渡れるかもしれない。
問題は、後ろから飛行型が来ていることだった。
「行けるか!」
「現行出力では推奨しません」
「推奨しなくてもいいから、行けるか?!」
「ぎりぎりです」
「なら、行け!」
アオイは減速しなかった。
作業艇が崖の手前を滑り抜ける。
足元が消える。
機体がわずかに沈む。
康生は給電量をさらに上げた。
「康生」
「分かってる!」
「給電量、上昇」
「落ちるよりまし!」
作業艇が空中を渡る。
ほんの数秒。
だが、長かった。
下に白い岩が見える。
冷たい風が吹き上げる。
背後で飛行型の羽音が迫る。
機体が向こう側の旧道に届く。
どん、と底が斜面に擦れた。
作業艇が跳ねる。
千田が亮太の身体を押さえた。
「ぐっ」
亮太が呻く。
「腕!」
康生が振り返る。
「大丈夫か!」
「痛いけど、大丈夫!」
「大丈夫じゃない声だな!」
「大丈夫!」
アオイが告げる。
「後席保持、継続。藤倉亮太の左腕に追加負荷の可能性」
「亮太、動かすな」
「分かってる!」
作業艇は旧道へ復帰した。
だが、背後から追ってきた一体が、崖を越えた瞬間に高度を落とした。
翼を損傷していた個体だ。
うまく上昇できないまま、崖の縁に体をぶつける。
黒い体が岩に叩きつけられた。
膜の翼が裂ける。
耳障りな鳴き声。
それを聞いた残り二体の動きが変わった。
「反応増大」
アオイが言う。
「何の?」
「飛行型の発信器官活動が増加」
「仲間呼んでるとか言うなよ」
「その可能性があります」
「言うなって言っただろ!」
空が鳴った。
高い、金属を擦るような声だった。
三体目が上空へ舞い上がり、谷の奥へ向けて鳴く。
数秒後。
遠くの青い空に、小さな黒点が現れた。
一つ。
二つ。
三つ。
さらに奥から、もう一つ。
亮太が呟いた。
「増えた」
千田の顔が険しくなる。
「群れですな」
康生は乾いた笑いを漏らした。
「帰り道で群れになるなよ」
「飛行型反応、七。うち接近中、四」
アオイの声が、いつもより低い。
「現行ルートでの逃走成功率、低下」
「どれくらい」
「二十二パーセント」
「低いな!」
「さらに低下中」
「そこは言わなくていい!」
前方の木々が途切れた。
開けた斜面だった。
アオイが言っていた場所だ。
遮蔽物がない。
斜面の下に旧道が続いている。
その先に、森がある。
森まで行ければ、まだ逃げ道はある。
だが、その間は空から丸見えだ。
上空では、黒い影が増えている。
康生は作業艇の縁を握った。
「アオイ、森まで突っ切れるか」
「現行出力では困難です」
「出力を上げれば?」
「作業艇の姿勢制御限界を超える可能性があります」
「俺が制御補助する」
「康生の直接介入が必要になります」
「できるのか」
「可能です」
アオイの返答は短かった。
だが、続く言葉が遅れた。
康生はその沈黙に気づいた。
「何だ」
「推奨しません」
その言葉は、いつもの事務的な警告とは少し違って聞こえた。
康生は前を見る。
開けた斜面。
遠い森。
青すぎる空。
増えていく黒い影。
後席では、亮太が左腕を押さえている。
千田は槍を構えたまま、空を見ている。
作業艇は低く震えていた。
逃げるには、少しだけ足りない。
少しだけ。
その少しが、命取りになる。
「理由は」
康生が聞いた。
アオイは答えた。
「衛星受電、使用不可。周辺に高密度質量補填源なし。中核特異点炉の一時出力上昇には、康生自身の構造体ピコマシン消費を伴う可能性があります」
康生は手首の給電アームを見た。
冷たい違和感。
身体の奥を引かれる感覚。
それが、ただの給電では済まなくなる。
そういう話だ。
「つまり」
康生は言った。
「俺を燃料にする」
「近似表現として、否定できません」
アオイの声は静かだった。
「推奨しません」
黒い影が、一斉に角度を変えた。
こちらへ向かってくる。
康生は息を吐いた。
冷えた空の下で、作業艇が小さく揺れた。




