第五十七話 止まれない善意
古い施設の記録は、きれいに整理されていた。
それが、まず気持ち悪かった。
壊れているわけではない。
乱れているわけでもない。
欠損はあるが、必要な部分は残っている。
大気浄化量。
炭素固定量。
有害粒子回収量。
気温推移。
降雪期間。
風向記録。
吸気塔ごとの稼働率。
保管区画の容量。
どれも、淡々と数字になっていた。
康生は操作台に手を置いたまま、表示を眺める。
白い部屋。
白い照明。
白い壁。
そこに並ぶ青や緑のグラフだけが、静かに下へ向かっていた。
「…本当に、全部下がってるな」
「はい」
アオイが隣で答える。
「大気中微粒子濃度、二酸化炭素濃度、周辺平均気温、植生回復率、生物活動検出数。いずれも長期低下傾向です」
「下げたいものと、下げちゃ駄目なものが混ざってる」
「はい」
「施設は、それを区別してない?」
「一部は区別しています。ただし、主要評価項目ではありません」
「またそれか」
康生は額を押さえた。
海では、水質が主要だった。
魚や人間の飢えは、補助だった。
ここでは、大気浄化効率と温暖化抑制が主要なのだろう。
山の弱りや鳥の少なさは、きっと補助だ。
人間が生きるための施設なのに、人間が生きている景色が評価の端に追いやられている。
「これ、昔は正しかったんだよな」
康生が言う。
「はい」
アオイは表示の一部を拡大した。
そこには、建設初期の記録が残っていた。
――大規模火災後の煤煙濃度、危険域。
――旧都市圏由来有害微粒子、風系流入。
――呼吸器疾患発生率、上昇。
――農地日照阻害、確認。
――大気浄化ブロック稼働、開始。
亮太が顔をしかめた。
「昔は、空気が悪すぎたのか」
「そうらしい」
康生は表示を見た。
黒い空。
燃えた都市。
壊れた工場。
人が吸えない空。
想像したくないが、想像できてしまう。
「そりゃ、空気をきれいにしたくなるよな」
「はい」
「で、助かった人もいた」
「推定では、多数」
「なら、ここは悪い施設じゃない」
「はい」
アオイは頷く。
「この施設は、建設当時、人類の生存率向上に大きく寄与した可能性が高いです」
「今も、そのつもりで動いてる」
「はい」
康生は少しだけ黙った。
ここにあるのは、たぶん善意だ。
しかも、かなり真面目な善意。
人を救うために作られた。
空をきれいにした。
煤を取り、有害物を取り、炭素を固定し、冷えすぎるほど働いた。
止まらないまま。
「善意って、止まれないと厄介だな」
「はい」
「否定しないのか」
「現状に一致しています」
「だよな」
康生は操作台を叩かないよう、指先を浮かせた。
叩いても意味はない。
相手は機械だ。
それでも、少しだけ腹が立つ。
「どうする。外のサンプルが必要なんだろ」
「完全な主要目標変更には必要です」
アオイが言った。
「ただし、暫定低負荷化であれば、施設内記録と外部保守端末の移動ログを根拠に申請可能です」
「外部保守端末って、俺たち?」
「作業艇も含みます」
「昨日拾ったトゥクトゥクが、急に正式っぽくなった」
「旧文明小型長距離作業艇です」
「名前はどっちでもいいだろ」
アオイが操作台に手を置く。
作業艇から取得した移動中の気温、視程、残雪、植生、飛行型反応。
施設の吸気塔が持つ過去観測データ。
内部の長期稼働ログ。
それらが一つの画面に並んでいく。
「申請文を構成します」
「またやるのか」
「はい」
「正式っぽいやつ」
「はい」
「もう慣れてきたな」
「規約外運用への適応は進んでいます」
「誰に似たんだか」
アオイは返事をせず、施設へ申請を送った。
――外部保守端末より報告。
――周辺環境において、地域気候低温化、植生回復阻害、生物活動低下を確認。
――現行高負荷浄化運転が、環境保守目標全体に対し負の影響を与えている可能性あり。
――吸気塔観測ログ、外部移動ログ、残雪分布、飛行型害獣活動記録を添付。
――浄化ライン高負荷運転の一時停止、および炭素固定量の標準低負荷移行を申請。
少し間があった。
白い部屋の空気が、さらに静かになった気がした。
康生は画面を睨む。
「待機中とか言うなよ」
表示が切り替わる。
――申請内容を確認。
――主要環境保守目標との整合性を評価中。
――温暖化抑制寄与、低下見込み。
――有害粒子再上昇リスク、軽微。
――地域気候低温化リスク、評価項目に追加。
――植生回復阻害、評価項目に追加。
――生物活動低下、評価項目に追加。
――管理者判断、待機中。
「そこまでは行くのか」
「はい」
アオイが言う。
「ただし、管理者判断待機中です」
「ですよね」
康生はため息をついた。
「ここの管理者、もういないんだろ」
「はい」
「いない相手の判断を待つなよ」
「施設規約上、必要です」
「だったら、また抜け道か」
「はい」
アオイはすぐに別の申請を構成した。
――外部保守端末より追加申請。
――現行高負荷運転継続時、吸気塔凍結、外部害獣誘引、保管区画容量圧迫の複合リスクあり。
――施設保全のため、浄化ラインの一時低負荷運転を提案。
――目的:施設破損回避、保管容量維持、外部保守作業安全確保。
――期間:九十日。
――再評価条件:外部環境サンプル追加取得、植生回復指標、害獣活動変化。
康生は画面を見た。
「海の時と似てきたな」
「はい」
「人間や山のためじゃなく、施設を守るために出力を下げる」
「その方が承認されやすいです」
「世の中って嫌だな」
「施設規約には適合しています」
「余計嫌だ」
表示がまた切り替わる。
――施設保全リスクを確認。
――吸気塔凍結率、上昇傾向。
――保管区画容量、七十六パーセント。
――外部害獣活動、施設接近中。
――保守作業安全確保、必要。
――浄化ライン高負荷運転、一時低負荷へ移行。
――炭素固定量、標準低負荷へ移行。
――期間、九十日。
――再評価条件を設定。
亮太が息を吐いた。
「通った?」
「通ったな」
康生は画面を見つめた。
低負荷。
たったそれだけだ。
空が明日から急に暖かくなるわけではない。
山がすぐ緑に戻るわけでもない。
鳥が急に戻ってくるわけでもない。
それでも、今この瞬間から、この施設は空を削る力を弱める。
それは小さくても、ちゃんとした前進だった。
「勝った?」
亮太が聞いた。
康生は少し考えた。
「施設相手に、施設を守る言い訳で勝った」
「よく分からない勝ち方だな」
「俺もそう思う」
アオイが言う。
「結果として、地域環境への負荷は低下します」
「それでいいか」
康生は頷いた。
「今日はそれで十分だ」
白い部屋の外で、低い音がした。
空調の音が変わったのだ。
今まで一定だった風の流れが、少し弱まる。
壁の奥で動いていた機械のいくつかが、順に停止していく。
――浄化ライン一部停止。
――炭素固定炉、出力低下。
――吸気塔、高負荷吸引停止。
――標準低負荷運転へ移行。
通路の奥から、風の音が細くなっていった。
康生は、ふと外の空を思った。
青すぎた空。
冷たい空。
鳥の少ない空。
あれが少しでも変わるのかどうかは分からない。
でも、少なくともこの施設は、ほんの少しだけ止まった。
「よし」
康生が言う。
「次は?」
「施設資源の確認です」
アオイが即答した。
「ですよね」
「炭素固定生成物、合成燃料前駆体、補修材、電極材、廃熱利用設備の状態確認が必要です」
「仕事が減らない」
「資源確保は今後の移動および施設再利用に有効です」
「論理的ですか」
「はい」
「気が進まんなあ」
管理中枢から出て、保管区画へ向かう。
通路の空気は、さっきより少しだけ重くなった気がした。
気のせいかもしれない。
あるいは、高負荷浄化が止まったからかもしれない。
保管区画の扉が開くと、そこには黒いブロックが整然と積まれていた。
天井近くまで続く棚。
一つずつ番号が振られた固定材。
奥には銀灰色の円筒容器。
さらにその奥に、黄色と黒の警告表示が付いた小型タンク群。
康生は扉の前で立ち止まった。
「宝の山っぽいけど、同時に危険物置き場っぽいな」
「両方です」
「でしょうね」
アオイが近くの黒いブロックへ手を伸ばす。
「炭素固定生成物。純度、高。構造材として利用可能です」
「重さは?」
「一ブロックあたり約二十八キログラム」
「重い」
「作業艇で運搬可能です」
「また作業艇」
亮太が黒いブロックを見た。
「これ、村の壁に使えるのか」
「加工すれば可能です」
千田が頷く。
「防柵や補修材に使えるなら、価値は大きい」
「ですよね」
康生は黒いブロックを見た。
村の柵。
壊れた屋根。
作業艇の補修。
旧施設の扉。
防衛隊への資源提供。
使い道はいくらでもある。
つまり、仕事もいくらでも増える。
「便利なものを見つけてしまった」
「はい」
「嬉しくないのに嬉しい」
「複雑な心理状態です」
「分析しなくていい」
アオイは黒いブロックへ手をかざした。
「構造解析を行います」
表面に細い光が走る。
「炭素固定材の生成ロジック、一部参照可能です」
「覚えられるのか」
「はい。完全再現には専用設備が必要ですが、簡易カーボン材、補修片、電極材の生成補助には応用可能です」
「また俺に何か増える流れ?」
「康生の局所プラズマと組み合わせることで、切断、溶着、焼結、固定が可能です」
「増える流れだな」
「こちらの補助機能に追加します」
「まさかのお前か」
「補助機能追加先として合理的です」
「助かるよ」
アオイは小さな黒い片を手に取った。
手のひらの上で、表面が少しだけほどけるように細かく崩れる。
それは粉になり、アオイの指先に吸い込まれるように消えていった。
康生は一歩引いた。
「…今、食った?」
「資源サンプルを取り込みました」
「食っただろ」
「取り込みです」
「言い方変えただけだろ」
亮太も少し引いていた。
「アオイ、それ食べ物なのか」
「いいえ。炭素固定生成物です」
「じゃあ、食べるなよ」
「食べていません。取り込みです」
「同じに見えるんだよな」
アオイは淡々としている。
「今後、康生の構成体補修、作業艇の補修、簡易工具生成に利用可能な資源特性を記録しました」
「俺の補修って言うな」
「康生の修理」
「もっと嫌だって言っただろ」
アオイは少しだけ首を傾けた。
「では、康生の維持」
康生は黙った。
それは少しだけましだった。
ましだったが、複雑だった。
「…それでいい」
「記録しました」
「記録がどんどん増えていくな」
亮太が小さく笑った。
保管区画の奥へ進むと、銀灰色の円筒容器が並んでいた。
アオイが表示を読む。
「合成燃料前駆体。長期保存状態。劣化率、低」
「燃料か」
「作業艇の本来燃料とは規格が異なりますが、変換処理により一部利用可能です」
康生は目を細めた。
「つまり、俺が給電しなくても少しは動くようになる?」
「可能性があります。ただし変換装置が必要です」
「今ここに?」
「あります」
「あるのか」
「はい。ただし停止中です」
「毎回、希望と面倒をセットで出すな」
「事実です」
「知ってる」
黄色と黒の警告表示が付いたタンクの前で、アオイが足を止める。
「危険物区画です」
「またか」
康生は嫌な顔をした。
「前の施設でも危険物区画あったな」
「この施設では、濃縮処理液、重金属捕集材、劣化吸着剤が保管されています」
「開けない方がいいやつ?」
「はい。現状では開封を推奨しません」
「珍しく一致した」
「管理状態は安定しています。触れない方が安全です」
「採用」
康生は即答した。
危険物には触らない。
これも大事な判断だ。
何でも回収すればいいわけではない。
保管区画を一通り確認し終える頃には、施設の外部反応が少し変わっていた。
アオイが端末を見る。
「外部飛行型反応、距離を取りつつあります」
「帰れる?」
「即時離脱は可能です。ただし、上空に三体の反応が残っています」
「待つ?」
「長時間滞在すると、作業艇の補助電源管理、村への帰還時刻、外部温度低下が問題になります」
「つまり、帰れるうちに帰った方がいい」
「はい」
亮太が外郭扉の方を見る。
「また追ってくるかな」
「可能性はあります」
千田が槍を持ち直す。
「ならば、早めに出るべきですな」
康生は頷いた。
「低負荷化はできた。資源も分かった。危険物は触らない。今日は帰ろう」
「同意します」
アオイが作業艇へ向かう。
「帰還時、飛行型反応を回避しつつ低空移動します」
「逃げる前提か」
「はい」
「戦わない?」
「作業艇は戦闘機ではありません」
「知ってる。さっき聞いた」
康生は保管区画を振り返った。
黒いカーボン材。
合成燃料。
危険物タンク。
白い通路。
清潔すぎる空気。
ここは宝の山だ。
そして、面倒の山でもある。
でも、もう施設は高負荷で空を削り続けてはいない。
それだけは確かだった。
作業艇に戻ると、康生はまた給電アームにつながれた。
「やっぱり気持ち悪い」
「記録済みです」
「だから記録するほどのことじゃないって」
「既に記録済みです」
「消せ」
「必要記録です」
「何に必要なんだよ」
「康生の心理的負荷管理です」
「それ言われると消せって言いづらいだろ」
アオイが操縦席に座る。
亮太と千田が後席に乗り込む。
作業艇が浮いた。
外郭扉の前で、一度停止する。
表示が出た。
――外部飛行型害獣反応、三。
――緊急退去申請を受理。
――外郭扉、開放後、即時閉鎖。
――外部保守端末の安全帰還を優先。
康生は少しだけ笑った。
「安全帰還を優先、ね」
「はい」
「施設に心配されてるみたいで嫌だな」
「施設保全上、外部保守端末の損失は望ましくありません」
「俺じゃなくて端末扱いか」
「はい」
「なら納得」
亮太が後ろで呟いた。
「納得するのか」
康生は前を見た。
扉が開き始める。
その隙間の向こうに、青すぎる空が見えた。
外では、飛行型の影が遠くを回っている。
康生は息を吐いた。
「帰るぞ」
「はい」
作業艇は、低く浮いたまま外へ滑り出した。
冷えた空の下へ。
そして、青すぎる空の中で、黒い影が一つ、こちらへ向きを変えた。




