第五十六話 山腹の浄化施設
作業艇は、白い床の上で静かに停止していた。
床に車輪跡はない。
そもそも車輪がない。
康生は給電アームにつながれたまま、しばらく黙っていた。
外では飛行型が金属扉を引っ掻いていた。
だが、その音も今は遠い。
厚い外郭扉と、山肌に埋め込まれた施設の壁が、外の気配をほとんど遮断している。
「…静かだな」
「はい」
アオイが操縦席から降りる。
「飛行型反応、外部で旋回中。施設内部への侵入は確認されていません」
「扉、壊されない?」
「現時点では問題ありません。外郭防御および害獣阻害機構は稼働しています」
「害獣阻害機構」
「外部に高周波振動、局所気流、忌避性粒子を放出しているようです」
「空気で追い払ってるのか」
「近似的には」
「空気をきれいにしながら、空気で害獣も追い払う。忙しい施設だな」
康生は作業艇から降りようとして、手首のアームを見た。
「これ、外していい?」
「一時停止します。補助脚展開」
作業艇の底から短い支柱が四本降りる。
機体がわずかに沈み、静かに固定された。
接続補助アームが康生の手首から外れる。
ふっと、身体の奥の違和感が消えた。
「毎回これ、気持ち悪いな」
「外部給電への適応が進めば、違和感は軽減する可能性があります」
「適応したくない」
「記録しました」
「記録するほどのことじゃない」
亮太と千田も後席から降りた。
亮太は左腕を吊ったまま、施設内を見回す。
「本当に、きれいだな」
「きれいすぎるな」
康生は白い床を見た。
埃がない。
錆も少ない。
壁の継ぎ目には古い傷があるが、放置された施設特有の腐った匂いや湿気がない。
空気は乾いていて、冷たく、妙に軽かった。
「病院みたいだな」
「病院?」
亮太が聞き返す。
「俺の時代の、清潔な建物。消毒の匂いがして、床が白くて、静かな場所」
「ここは匂い、あまりしない」
「そこが余計に怖い」
アオイが通路の先を見た。
照明が順に点く。
白い通路。
壁に並ぶ細い配管。
天井を走る吸気ダクト。
一定間隔で設置された黒い箱。
通路の入口に、古い表示板があった。
――奥飛騨炭素固定複合施設。
――大気浄化ブロックB。
――外部保守端末収容区画。
――除塵処理、開始。
「除塵?」
康生が言った瞬間、通路の左右から細い風が吹いた。
「うわ」
服の表面を撫でるように、乾いた風が流れる。
髪が少し揺れ、袖口の埃が吸い取られていく。
亮太が目を丸くした。
「何だこれ」
「外部付着粒子の除去です」
アオイが答える。
「人体洗車機みたいだな」
「洗車機ではありません」
「分かってる」
千田が感心したように自分の肩を見た。
「埃が落ちていますな」
「施設内汚染を防ぐためです」
「徹底してるな」
康生は壁の表示を見た。
――外部保守端末、除塵完了。
――生体付着粒子、許容範囲。
――害獣由来汚染、未検出。
――内部移動を許可。
「生体付着粒子とか言われると、急に自分が汚い気がしてくるな」
「事実として、外部由来粒子で汚染されています」
「言い方」
「事実です」
「事実でも、言い方次第で気持ち悪くなるんだよ」
アオイは端末へ触れた。
通路の壁に、施設の簡易図が表示される。
山肌に沿って横長に広がる施設。
上部には吸気塔。
中央に浄化処理ライン。
下部に炭素固定炉。
奥に保管区画と管理中枢。
「この施設は、大気中の煤、微粒子、有害ガス、二酸化炭素を回収し、固定化する複合施設です」
アオイが説明する。
「大戦後の汚染大気対策として建設された可能性が高いです」
康生は図を見た。
「当時は必要だったんだよな」
「はい。大規模火災、都市焼失、兵器使用、産業施設破壊により、大気汚染は生存圏維持に重大な影響を与えていたと推定されます」
「つまり、ここは人を救うために空気をきれいにしてた」
「はい」
「で、今も続けてる」
「はい」
「やめ時を知らない善意、第二弾か」
「近似表現として適切です」
「そりゃ、よかったよ」
亮太が表示を睨んだ。
「空気をきれいにするのは、悪いことじゃないだろ」
「悪くない」
康生は答えた。
「悪くないけど、やりすぎると駄目なんだと思う」
「海と同じか」
「たぶん」
海を思い出す。
透明で、静かで、生き物の気配が薄かった海。
あれも、汚れていないという意味では正しかったのかもしれない。
だが、正しさだけでは腹は膨れない。
空も同じなのだろう。
澄みすぎた空。
冷えすぎた山。
鳥の少ない谷。
康生は通路の先へ歩き出した。
「中を見よう。ここが何をどれくらい取りすぎてるのか、確認しないと」
「同意します」
アオイが頷く。
「管理中枢へ向かいます。その過程で、浄化ラインと固定資源区画を確認します」
「害獣は?」
「内部反応なし」
「本当に?」
「現時点では」
「その言い方、嫌いなんだよな」
「確認可能範囲内では安全です」
「そっちの方が、ちょっとマシ」
通路を進むと、左右の壁の一部が透明になっていた。
その向こうに、巨大な円筒形の装置が並んでいる。
内部では白い膜のようなものが何層にも重なり、ゆっくり震えていた。
「フィルター?」
「高効率粒子分離膜です」
「普通にフィルターでいいだろ」
「機能差があります」
「はいはい」
別の区画では、黒い粉が密閉容器の中を流れていた。
細い配管を通り、奥の圧縮装置へ送られている。
その先に、黒い塊が整然と積まれていた。
四角いブロック。
金属のようにも、炭のようにも見える。
表面は鈍く光り、ひび割れもない。
「これがカーボン材?」
「はい。炭素固定生成物です。建材、電極材、補修材、燃料前駆体として利用可能です」
「資源じゃん」
亮太が言った。
「かなり有用です」
アオイが答える。
「作業艇の補修にも使えます。康生の構成体補填素材としても、一部利用可能です」
「俺の補填素材って言うな」
「では、修理材料」
「もっと嫌だ」
千田が黒いブロックを見る。
「村に持ち帰れれば、かなり助かりますな」
「重いだろうけどな」
「作業艇があります」
「ほら、また仕事が増えた」
康生はため息をついた。
それでも、使える資源があるのは大きい。
金属も少ない。
燃料も少ない。
建材も足りない。
この施設が安全なら、村にとっても、防衛隊にとっても、かなり重要な場所になる。
だからこそ、壊れていないことはありがたい。
同時に、怖い。
誰もいないのに、これほど正しく資源を生み出し続けている。
正しく、淡々と、空から必要なものも不要なものも回収している。
管理中枢の前に着くと、扉は閉じていた。
アオイが端末へ接続する。
――外部保守端末、認識。
――管理者権限、未確認。
――緊急避難収容記録、確認。
――一時保守閲覧権限を仮承認。
「仮承認、多いな」
「管理者不在環境では有効です」
「規約違反者向きの世界だな」
「はい」
「そこは否定してほしかった」
扉が開く。
管理中枢は、白い円形の部屋だった。
中央に大きな操作台。
壁一面の表示。
天井には環状の照明。
床も壁もきれいで、椅子だけが少し古びていた。
人がいなくなってから長い時間が経ったことを、椅子だけが覚えているように見えた。
アオイが操作台へ手を置く。
表示が一斉に起動する。
――環境保守目標、達成中。
――大気浄化効率、基準値内。
――炭素固定量、継続。
――有害粒子濃度、目標値未満。
――温暖化抑制寄与、良好。
――管理者判断、待機中。
康生は最後から二つ目の表示を見た。
「温暖化抑制寄与、良好」
「はい」
「今、この世界にそれ必要か?」
「状況によります」
「外、寒かったぞ」
「はい」
アオイが追加データを開く。
地図が表示された。
奥飛騨周辺の気温推移。
降雪期間。
植生分布。
大気微粒子濃度。
炭素固定量。
グラフは淡々と下がっていた。
気温が。
微粒子が。
大気中の炭素が。
同時に、植生回復率も下がっている。
「…下がりすぎてないか」
康生が言う。
「施設側は、浄化目標の達成として評価しています」
「いや、植物も減ってるだろ」
「施設の主要評価項目ではありません」
「またそれか」
「補助評価には存在しますが、重みが低いです」
亮太が顔をしかめる。
「山が弱ってるのに?」
「はい」
康生は操作台を見つめた。
リン回収施設でも同じだった。
水質は改善している。
目標値は達成している。
でも魚はいない。
人は飢えている。
今度は、空がきれいになっている。
目標値は達成している。
でも山は冷え、生き物は減っている。
「こいつ、昔の空を相手にしてるんだな」
康生は呟いた。
「はい」
アオイが答える。
「大戦直後の汚染大気を基準にした目標値が、現在も維持されています」
「相手がもういないのに、戦い続けてる」
「はい」
「真面目すぎて最悪だな」
管理中枢の表示が切り替わる。
――現行浄化目標の変更には、管理者承認が必要です。
――管理者判断、待機中。
――環境保守目標、達成中。
康生は少し笑った。
笑えないのに、笑ってしまった。
「達成中、ね」
「はい」
「外は冷えてる。山は弱ってる。鳥も少ない。それでも達成中」
「施設評価上は」
「じゃあ、評価を変えないと駄目だな」
アオイが康生を見る。
「地域気候影響、植生回復阻害、生物活動低下を補助評価項目から主要再評価項目へ引き上げる必要があります」
「また正式っぽい言い訳を作るのか」
「はい」
「お前、こういうの得意になってきたな」
「康生の行動ログを学習しています」
「俺のせいか」
「はい」
「否定してくれ」
アオイは操作台へ向き直った。
「ただし、この施設はリン回収施設よりも管理権限が厳格です」
「つまり?」
「主要目標変更には追加データが必要です。施設内データだけでは、現行高負荷運転の停止根拠として不足しています」
「また外の証拠か」
「はい。外部環境サンプル、植生データ、残雪分布、生物活動記録が必要です」
康生は管理中枢の白い部屋を見回した。
中は安全。
外には飛行型。
施設は正しく動いている。
だが、その正しさが空を冷やしているかもしれない。
「外、出ないと駄目か」
「最終的には」
「飛行型、いるよな」
「はい」
「今日は?」
「外部飛行型反応は継続中です。即時退去は推奨しません」
「閉じ込められたな」
「避難収容中です」
「ポジティブに言い換えただけだろ」
亮太がぽつりと言った。
「でも、ここは安全なんだろ」
「現時点では」
康生は頷いた。
「なら、今日は中を調べる。外に出るのは、飛行型が離れてからだ」
「妥当です」
アオイが答える。
「まずは施設内ログの回収、炭素固定材の分析、浄化目標の再評価条件整理を行います」
「仕事が多い」
「作業計画です」
「もっと嫌だ」
康生は表示をもう一度見た。
――環境保守目標、達成中。
その文字は、やはり正しそうに見えた。
正しく、清潔で、静かで、白い。
けれど康生は、外の青すぎる空を思い出していた。
あれはたぶん、ただのきれいな空ではない。
誰もいなくなったあとも、施設が削り続けた空だ。
「…まずは、何を食いすぎてるのか見よう」
康生は操作台に手を置いた。
白い部屋の中で、古い施設の記録が静かに開いていく。
冷えた空の理由は、数字の中に眠っていた。




