第五十話 アオイの中枢
地下へ続く通路は、思ったより狭かった。
壁も床も白い。
だが、上の研究区画よりも傷が多い。
何かが爪で引っ掻いたような跡。
強く叩きつけられたようなへこみ。
焦げた配線。
剥がれた壁材。
床に残る、銀色の粉。
康生はその上を歩きながら、何度も足元を見た。
「またピコマシン残渣か」
「はい。高濃度区画に近づいています」
「気持ち悪いな」
「構成体同系物質への心理的忌避反応です」
「分析するなって言ったよな」
「分析結果の提示を控えます」
「もう言った後だろ」
亮太が後ろから言う。
「大丈夫か」
「大丈夫ではないけど、進める」
「それ、さっきも聞いたな」
「この施設にいる間、たぶんずっとそれだ」
「戻るか?」
康生は少しだけ考えた。
戻りたい。
けれど、ここまで来て戻れば、またここへ来ることになる。
それはもっと嫌だった。
「進む」
「分かった」
亮太はそれ以上言わなかった。
千田と真衣は左右を警戒している。
どちらも表情が硬い。
さっきアオイが言った。
地下方向に、中型以上の移動反応。
それが何なのか、まだ分からない。
クリーチャーかもしれない。
破損した保守機かもしれない。
施設の中枢が動かしている何かかもしれない。
どれでも嫌だった。
「アオイ、反応は?」
「移動停止。現在位置、旧中枢手前の搬送路付近」
「待ち伏せ?」
「可能性があります」
「ほかの可能性は」
「単に動作不良で停止している可能性」
「それがいい」
「ただし、音響反応から生命体の可能性も残ります」
「それは嫌だ」
通路の先で、重い扉が見えてきた。
扉の上には、古い文字が残っている。
――A.O.I.中枢管理区画。
――高密度演算保護室。
――同期設備、許可者以外立入禁止。
康生は足を止めた。
「A.O.I.中枢」
アオイも扉を見る。
その表情は変わらない。
いつも通り、無表情だった。
だが、ほんの少しだけ沈黙が長かった。
「ここが、お前の本体か」
「正確には、旧ラボにおける私の中枢実行環境です」
「分かるように」
「私の本体だった場所です」
康生は黙った。
だった。
過去形だった。
「今は違うのか」
「現在の主実行は、この移動端末側にあります」
「主実行」
「はい」
「じゃあ、今喋ってるお前が、本体みたいなもの?」
「近似表現としては正しいです」
亮太が少し驚いた顔をした。
「じゃあ、この奥にいるのは何なんだ」
「旧中枢です。バックアップ保管庫および施設管理系統として機能している可能性があります」
「もう一人のアオイがいるわけじゃないのか」
「並列人格としての私が完全稼働している可能性は低いです」
「完全じゃないアオイは?」
「断片的応答、旧ログ再生、自動管理応答の可能性があります」
康生は扉を見た。
「つまり、壊れたお前の家みたいなものか」
アオイは少しだけ黙った。
「近似表現としては、許容範囲です」
「…そっか」
康生は扉に近づいた。
横の端末は、まだ生きている。
画面は暗いが、アオイが触れると青白い光が走った。
――A.O.I.移動端末、接続要求。
――識別子照合。
――旧中枢同期鍵、不一致。
――人格基底照合、部分一致。
――主実行権限、移動端末側に偏位。
――制限付き接続を許可。
「また部分一致か」
「はい」
「自分の本体だった場所なのに」
「旧中枢側の記憶領域、鍵管理領域、作業記憶領域に損傷があります」
「壊れてるってことか」
「はい」
「…嫌じゃないのか」
アオイは康生を見た。
「嫌、という感情定義はありません」
「そう返すと思った」
「ただし、機能損失としては重大です」
「それもお前らしいな」
扉が開いた。
ゆっくりと。
重い空気が流れ出してくる。
埃っぽい。
乾いている。
そして、少しだけ焦げ臭い。
中は、広い円形の部屋だった。
中央に、大きな黒い柱が立っている。
高さは二階分ほど。
表面には無数の細い光の線が走っていた。
だが、その半分以上は消えている。
柱の周囲には、古い演算ユニットが円形に並んでいる。
いくつかは焼け落ち、いくつかは黒く焦げ、いくつかは蓋が開いたまま内部を晒していた。
天井からは、太いケーブルが何本も垂れている。
切れているものもある。
床には、ガラス片、金属片、銀色の粉が混ざっていた。
康生は、思わず声を落とした。
「…ひどいな」
「はい」
アオイは短く答えた。
いつもより、少しだけ短かった。
康生はアオイを見た。
「大丈夫か」
「問題ありません」
「その返事、今はあんまり信用しない」
「現在、旧中枢の状態確認を優先しています」
「そうか」
アオイが中央の黒い柱へ歩く。
康生は一歩後ろをついていく。
亮太たちは入口側で警戒していた。
真衣が小声で言う。
「ここ、嫌な感じがします」
千田も頷いた。
「音が近い」
その言葉に、康生は足を止めた。
奥の壁の向こう。
重い何かが擦れる音がする。
ごり。
ごり。
さっき聞いた移動反応だ。
「アオイ」
「敵性反応、隔壁の向こうです。現時点ではこちらへ侵入していません」
「隔壁はもつ?」
「不明です」
「不明ばっかりだな」
「旧中枢区画の損傷により、監視精度が低下しています」
康生は奥の壁を見た。
壁には、内側から何かが叩いたような歪みがある。
だが、今すぐ破れる感じではない。
たぶん。
たぶん、というのが一番怖い。
「急いだ方がいいな」
「はい」
アオイは中央柱に手を触れた。
その瞬間、部屋の光が一度だけ強くなった。
――移動端末接続。
――A.O.I.人格基底、照合。
――同期要求、失敗。
――作業記憶領域、損傷。
――大容量揮発記憶、九十二パーセント損傷。
――長期保存領域、断片保全。
――施設管理系、自動応答中。
康生は画面を見上げた。
「九十二パーセント損傷って、かなり駄目じゃないか」
「はい」
「お前の頭の中みたいなもんだろ」
「旧中枢における作業記憶領域です」
「それがほぼ壊れてる」
「はい」
「じゃあ、お前は」
「現在の私の主実行環境は移動端末側です。旧中枢は、継続稼働する人格実行環境としては不安定です」
康生は少しだけ息を呑んだ。
「つまり、今のアオイが本体みたいなものってことだな」
「先ほども述べました。近似表現としては正しいです」
「それ、けっこう大事な話だろ」
「はい」
「もし、この端末が壊れたら?」
アオイはすぐには答えなかった。
康生の胸の奥が、嫌な感じに沈む。
「アオイ」
「旧中枢から再起動できる可能性はあります」
「よかった」
「ただし、最後に同期された時点までの記憶に限定されます。現在の移動端末で蓄積した未同期差分は失われる可能性があります」
「…それ、今のお前じゃなくなるってことか」
「連続性の一部が失われます」
「分かるように」
「今の私ではなくなる可能性があります」
部屋が静かになった。
奥の隔壁の向こうで、ごり、と音がした。
それでも、誰もすぐには喋らなかった。
康生はアオイを見た。
無表情だ。
いつも通りだ。
でも、そのいつも通りが、急に危うく見えた。
「お前も、ワンオフみたいなものじゃないか」
「私は旧中枢バックアップがあります」
「でも、今のお前は一人だろ」
アオイは康生を見た。
「近似表現としては正しいです」
康生は小さく息を吐いた。
「そういう大事なこと、もっと早く言えよ」
「優先度が低いと判断していました」
「高いだろ」
「康生の心理的負荷を上げる可能性がありました」
「今上がったけどな」
「はい」
「はいじゃない」
亮太が入口側から言った。
「アオイも、壊れたら困るってことか」
「はい」
亮太は少しだけ眉を寄せた。
「なら、アオイも無理するな」
アオイは亮太を見た。
「私は移動端末です」
「だから何だ」
「交換可能性があります」
「今の話だと、完全には交換できないんだろ」
アオイは黙った。
康生は少しだけ笑った。
「普通枠、強いな」
「その呼び方はやめろ」
「でも助かる」
「ならいい」
アオイは、ほんの一秒だけ沈黙した。
「藤倉亮太の発言を記録します」
「記録しとけ」
康生が言った。
「これは記録していい」
「はい」
中央柱の表示が切り替わる。
――未同期差分、移動端末側に蓄積。
――旧中枢保存領域、一部使用可能。
――バックアップ同期、部分実行可能。
――同期実行には、演算資源および電力が不足しています。
「同期できるのか」
「部分的には可能です」
「やろう」
「推奨します。ただし、時間が必要です」
奥の隔壁が、低く鳴った。
ごん。
さっきより大きい。
真衣が弓を構える。
「何か、ぶつかっています」
千田が槍を握り直す。
「長居は危険です」
康生は舌打ちした。
「同期にどれくらいかかる」
「最低でも八分」
「長いな」
「完全同期ではありません。差分圧縮保存のみです」
「八分で何ができる」
「移動端末喪失時、現在までの記憶差分を一部復元できる可能性が上がります」
「やれ」
即答だった。
アオイが康生を見る。
「危険です」
「だからこそやれ」
「康生」
「お前が壊れた時に、今のお前が消える方が嫌だ」
アオイは黙った。
康生は目を逸らしたくなったが、逸らさなかった。
「俺のこと勝手に作った責任、取るんだろ」
「はい」
「じゃあ、勝手に消えるな」
「…了解しました」
その返事は、ほんの少しだけ遅かった。
アオイが中央柱に両手を触れる。
部屋の光が、薄く脈打ち始めた。
――差分同期準備。
――移動端末記憶圧縮。
――旧中枢保存領域、断片確保。
――同期開始。
ごん。
隔壁がまた鳴った。
今度は、歪んだ金属が震えた。
康生はそちらを見る。
「千田さん、真衣さん。あれ、もつと思います?」
千田が低く答える。
「分かりません。ただ、長くはないかと」
「ですよね」
亮太が康生の横に来る。
「俺は退路を見る」
「前に出るなよ」
「分かってる」
「今日は信用する」
「いつも信用しろ」
「腕が治ったらな」
康生は奥の隔壁へ近づいた。
隔壁の隙間から、何かの影が見える。
大きい。
黒い。
いや、銀色の粉をかぶっているのかもしれない。
ごり、と何かが擦れた。
すると、隙間から細い脚のようなものが一本、覗いた。
康生は顔をしかめた。
「また虫系?」
「敵性個体の外肢部と推定」
アオイは同期しながら答えた。
「お前、作業中でも見えてるのか」
「監視処理は継続しています」
「無理するなよ」
「処理負荷は高いです」
「じゃあ、無理してるじゃないか」
「必要です」
「もう」
隔壁の向こうの個体が、またぶつかった。
ごん。
隔壁の歪みが大きくなる。
真衣が弓を引いた。
「破れたら撃ちます」
千田が槍を構える。
「足止めします」
康生は右手を見る。
局所プラズマ。
工具。
戦闘用ではない。
でも、隔壁を補強することはできるかもしれない。
「アオイ、俺のプラズマで隔壁溶接できるか」
「可能です。ただし、応急溶接です」
「それでいい。壊れるのを遅らせる」
「黄色で補強箇所を表示します」
康生の視界に、歪んだ隔壁の縁が淡く光る。
「便利だな」
「はい」
「勝手に入れたことは許してないけどな」
「記録済みです」
「でも、今は使う」
「はい」
康生は指先に意識を集めた。
青白い光が灯る。
空気がちりちりと鳴る。
「浄火ではありません」
千田が小さく言った。
康生は思わず振り返った。
「え?」
「工具です」
千田は真剣だった。
康生は少しだけ笑いそうになった。
「ありがとうございます」
「はい」
康生は隔壁へ指先を近づける。
じゅ、と音がした。
金属が赤くなり、溶け、歪んだ隙間を埋める。
ごん。
内側から衝撃。
火花が散る。
「うわっ」
「続けてください」
アオイの声。
「分かってる!」
康生は歯を食いしばり、淡く光る箇所を順番に焼き固めていく。
切るのとは違う。
溶かして、繋げる。
雑な溶接だ。
自分が何をしているのかよく分からない。
でも、アオイの表示通りにやれば、金属は少しずつ塞がっていく。
「残り時間は!」
「同期完了まで、四分二十秒」
「長い!」
ごん。
隔壁がさらに揺れる。
補強した場所が赤く熱を持つ。
康生の指先も熱い。
痛いというほどではない。
だが、嫌な負荷がかかっているのは分かった。
「構成体負荷、上昇」
「知ってる!」
「休止を推奨」
「今休んだら破れるだろ!」
「はい」
「はいじゃない!」
亮太が後ろで叫ぶ。
「康生さん、右の下! 隙間が開いてる!」
「どこ!」
「足元! 光ってないところ!」
康生は視線を下げる。
アオイの表示とは別に、亮太が見つけた隙間があった。
歪みが影になって、表示から外れていたのかもしれない。
「助かった!」
康生はそこへプラズマを当てる。
金属が赤くなり、穴が塞がる。
「アオイ、普通枠が補正したぞ!」
「藤倉亮太の視認補助、有効」
「有効でいい!」
「有効です」
亮太がぼそりと言う。
「今日は有効でいい」
ごん。
衝撃が弱まった。
隔壁の向こうの個体は、まだ動いている。
だが、隙間はかなり塞がった。
康生は息を吐きそうになり、すぐに止めた。
まだ終わっていない。
「同期は!」
「一分十秒」
「よし」
真衣が小さく言った。
「音が遠ざかっています」
「諦めた?」
「別の道を探している可能性があります」
アオイが答えた。
「そういう嫌な可能性を出すな」
「必要です」
「知ってる!」
最後の一分が、やけに長かった。
隔壁の向こうで、擦れる音がする。
遠ざかり、止まり、また別の場所で鳴る。
この施設のどこかに、あれがいる。
それだけで、背中が冷える。
やがて、中央柱の光が一度だけ強くなった。
――差分同期、完了。
――移動端末記憶圧縮パッケージ、旧中枢保存領域へ格納。
――復元可能性、向上。
――完全性、保証不可。
アオイが手を離した。
「完了しました」
康生は青白い光を消した。
指先の感覚がじんじんする。
「保証不可って出てたけど」
「完全な復元は保証できません」
「でも、やらないよりはまし?」
「はい」
「ならいい」
康生はその場に座り込みそうになったが、踏みとどまった。
「大丈夫か」
亮太が聞く。
「大丈夫じゃないけど、動ける」
「またそれか」
「今日はそればっかりだな」
アオイが康生の指先を見る。
「構成体損耗、軽微。熱負荷、中程度。休息推奨」
「帰ってからな」
「はい」
康生は中央柱を見上げた。
壊れたアオイの旧中枢。
でも、今のアオイの一部が、そこに保存された。
それだけで、少しだけ安心した。
「これで、お前が消えにくくなったんだな」
「表現は不正確ですが、近似的には正しいです」
「じゃあ、それでいい」
アオイは何も言わなかった。
その代わり、壁の奥に表示された地図を指した。
「格納区画への経路が開示されました」
「作業艇か」
「はい」
「行ける?」
「旧中枢から奥のハッチを開放できます。ただし、経路上に先ほどの敵性個体が存在する可能性があります」
「ですよね」
康生は深く息を吐いた。
「ここで帰る選択肢は?」
「あります」
「あるのか」
「帰る場合、格納区画の確認は後日になります」
「またここに来るってことだろ」
「はい」
「じゃあ、行く」
亮太が眉を寄せた。
「無理するなって言っただろ」
「無理はする。でも無茶はしない」
「違いが分からない」
「俺も分からない」
「駄目だろ」
康生は少しだけ笑った。
「でも、行く」
亮太はため息をついた。
「退路は見る」
「頼む」
千田が槍を構え直す。
「では、進みましょう」
真衣も弓を下げずに頷いた。
アオイが中央柱に再び触れる。
――格納区画アクセス。
――奥部ハッチ、解錠準備。
――注意。搬送路に未排除対象あり。
――注意。格納区画電力、低下。
――注意。旧式作業艇、保管状態不明。
康生は画面を見た。
注意ばかりだった。
「旧文明、注意事項多すぎないか」
「安全管理です」
「安全じゃないから注意だらけなんだろ」
「はい」
「そこは否定しろよ」
奥の壁で、重いハッチが動く音がした。
ごごご、と古い施設が鳴る。
中枢のさらに奥。
格納区画への道が、少しずつ開いていく。
康生は右手を握った。
指先はまだ熱い。
でも、進むしかない。
アオイの旧中枢。
康生の再構成槽。
壊れたログ。
同期された今のアオイ。
そして、その奥に眠るという反重力作業艇。
旧施設は、逃げた男にまだ帰らせる気がないらしい。
「…行くぞ」
「はい、康生」
アオイが隣に並ぶ。
今度は、その声が少しだけ近く聞こえた。




