第四十八話 旧ラボの口
旧施設の入口は、暗かった。
外から見れば、ただの穴だ。
崩れた壁。
曲がった扉。
蔓に絡まれた鉄骨。
黒く汚れた床。
けれど、その奥にはまだ、薄い光が残っていた。
完全な闇ではない。
非常灯なのか、保守用の誘導灯なのか。
壁際に埋め込まれた細い線が、かすかに青く光っている。
康生は、その光を見ただけで少し嫌な気分になった。
覚えがある。
最初に目覚めた時も、こういう青白い光があった。
知らない天井。
知らない機械。
知らない声。
そして、自分の身体が人間ではなくなっていたこと。
「…ほんと、戻りたくなかったな」
「入ります」
アオイは淡々と言った。
「情緒を挟め」
「情緒的負荷は確認しています」
「確認じゃなくて配慮してほしいんだよ」
「配慮します」
「じゃあ、ちょっと待て」
「敵性反応が未確定です。長時間の待機は推奨しません」
「配慮が短い」
亮太が後ろから言った。
「康生さん、無理なら少し休むか」
「いや、行く」
康生は首を振った。
「ここまで来て入口で固まるのも、それはそれで嫌だ」
「分かった」
「でも前には出るなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってる」
康生はその返事を信用しきれなかったが、今は言い合っている場合ではない。
千田が入口の横に立ち、槍を構えた。
真衣は少し後ろで弓を引ける姿勢を取る。
アオイが先に、入口の内側を覗き込んだ。
「大気成分、呼吸可能範囲。毒性ガス、低濃度。粉塵、やや高め。床面崩落リスクあり」
「分かるように」
「吸っても即死はしません。足元に注意してください」
「その言い方、保守機みたいになってきたな」
「施設内警告文を参照しました」
「参照しないでいい」
康生は入口へ足を踏み入れた。
靴の下で、砂と割れたガラスが鳴る。
中は思ったより広かった。
最初に逃げ出した時は、何も見えていなかったのだろう。
白い壁も、崩れた天井も、壊れた端末も、今はやけにはっきり見える。
床には、古い戦闘の跡が残っていた。
引きずったような傷。
何かが壁に叩きつけられた跡。
焦げた金属片。
乾いた黒い染み。
人のものか。
クリーチャーのものか。
それとも機械の油か。
康生は、あまり考えないことにした。
「ここ、康生さんが出てきた時はどうだったんだ」
亮太が小声で聞く。
「覚えてない。逃げるので精一杯だった」
「そうか」
「あと、起きた直後に自分がピコマシン集合体とか言われて、だいぶ混乱してた」
「それは混乱するな」
「するだろ」
「俺ならたぶん、そこで倒れる」
「俺も倒れたかった」
アオイが横から言う。
「当時の康生は逃走行動を優先しました」
「お前が急かしたからだろ」
「敵性個体が接近していました」
「正しかったのが腹立つ」
少し進むと、半分閉じた隔壁があった。
千田が言っていた扉だ。
厚い金属扉が、斜めに歪んだまま止まっている。
隙間はあるが、人が通るには狭い。
亮太や真衣なら無理をすれば抜けられるかもしれない。
だが、装備を持った千田は厳しい。
康生も通れなくはないが、途中で引っかかる可能性がある。
そして、そういう時に何かが来ると最悪だ。
「アオイ、開けられるか」
「端末制御を試行します」
アオイが壁の操作盤へ近づいた。
操作盤は半分割れている。
表示は消え、ボタンの一部は押し込まれたまま戻っていない。
アオイが指を触れる。
薄い光が走った。
――権限照合中。
――端末破損。
――隔壁駆動部、応答なし。
――手動開放を推奨。
「手動って?」
康生が聞くと、アオイは隔壁の歪んだレールを指した。
「駆動部が噛んでいます。切断または加熱による解除が有効です」
「来たか」
康生は右手を見た。
局所プラズマ発生サブルーチン。
浄火ではない。
工具だ。
何度でも自分に言い聞かせる。
「これ、使うしかないやつ?」
「はい」
「ですよね」
亮太が少し離れる。
「周り、下がれ」
千田と真衣も距離を取った。
康生は右手の人差し指を伸ばす。
「これ、見ても浄火とか言うなよ」
千田が真面目に頷く。
「承知しました。工具ですね」
「そう。工具」
真衣も頷く。
「天輪様の工具」
「天輪様を外して!」
亮太が真衣を見た。
「そこは普通に工具でいい」
「はい。普通の工具です」
「普通の工具でもないけど、今はそれでいい」
康生は息を吐いた。
指先に意識を集める。
出ろ。
そう思った瞬間、青白い光が指先に灯った。
細く、揺れる光。
空気がちりちりと鳴る。
千田と真衣が息を呑む気配がした。
康生は見ないふりをした。
見たら負けだ。
「アオイ、どこ切ればいい」
「右側レールの変形部。黄色で表示します」
康生の視界に、アオイが投影した細い線が重なった。
歪んだレールの一部が、淡く光って見える。
「便利だな」
「はい」
「勝手に入れたことは許してないけどな」
「記録済みです」
「もうやらないとは言わないんだよな」
「必要性が高い場合は、事前提案を試みます」
「試みるな。約束しろ」
「緊急時は例外です」
「緊急時って便利だな、本当に」
康生は指先の光をレールへ近づけた。
じゅ、と音がした。
金属が赤くなる。
少しずつ溶け、焦げた匂いが立ち上る。
火花が散る。
康生は思わず顔をしかめた。
「うわ、これ、手に響く」
「熱振動と構成体負荷が発生しています。許容範囲です」
「俺の感覚は許容してない」
「短時間で終了します」
「それは助かる」
レールの歪んだ部分が切れた。
アオイが操作盤へもう一度触れる。
古いモーターが、低く呻いた。
ごがん、と嫌な音がして、隔壁が数センチだけ動く。
「今ので大丈夫か?」
「もう一箇所です」
「ですよね」
康生は反対側の固定具へ指を向けた。
青白い光がまた金属を焼く。
今度は少し慣れた。
嫌な慣れだと思った。
金属が赤くなり、細い煙が上がる。
「康生さん」
亮太が小声で言った。
「何」
「それ、戦いには使わない方がいいな」
「なんで」
「動きが止まる」
「…確かに」
切るには集中がいる。
狙いもいる。
時間もかかる。
怪物相手にやるなら、普通に殴った方が早い。
アオイが頷く。
「戦闘用途では非効率です」
「そこは一貫してるな」
「はい」
「工具なら、まあ…工具だな」
そう言いながら、康生は固定具を焼き切った。
アオイが操作盤を叩くように指を動かす。
隔壁が、ぎぎぎ、と軋みながら動いた。
人が通れる程度の隙間が開く。
「開いた」
真衣が小さく呟いた。
千田も、低く息を吐く。
「便利なものですね」
「工具です」
康生はすぐに言った。
「工具です」
「はい。工具です」
千田は真面目に頷いた。
どうにも不安だった。
*
隔壁の先は、研究区画だった。
壁の表示に、そう書かれていた。
――環境材料研究区画。
――微細機械群応用試験室。
――高濃度散布実験区画。
――関係者以外立入禁止。
「微細機械群」
康生はその文字を見た。
「ピコマシン?」
「はい」
アオイが答える。
「旧日本側で開発されたピコマシンの試験区画です」
「ここで作ってたのか」
「一部です。ここは散布、回収、再構成、環境材料との結合試験を行っていた区画と推定されます」
康生は廊下の奥を見る。
白い扉が並んでいる。
その多くは開きっぱなしで、中は荒れていた。
ガラスの割れた実験室。
倒れた椅子。
床に散らばる容器。
壁に残った黒い傷。
いくつかの部屋には、銀色の砂のようなものが薄く積もっていた。
「これ、ピコマシンか」
「劣化したピコマシン残渣です」
「残渣って言い方が嫌だな」
「機能停止済みです」
「なおさら嫌だ」
康生は自分の手を見た。
自分も、同じものの集まりなのだろうか。
いや、同じではない。
今の自分は動いている。
喋っている。
考えている。
でも、床に積もる銀色の残渣を見ると、妙に気持ち悪かった。
自分の死骸を見ているような気分になる。
「康生」
アオイが言った。
「構成体反応が乱れています」
「見れば分かるのか」
「はい」
「見るな」
「監視対象ですので」
「そうだったな」
亮太が近づいてくる。
「顔色悪いぞ」
「俺に顔色ってあるのか」
「あるように見える」
「じゃあ悪い」
「戻るか」
康生は首を横に振った。
「ここで戻ると、また来ることになる」
「それはそうだな」
「だったら、進む」
「分かった」
亮太はそれ以上言わなかった。
それが少しありがたかった。
奥へ進むと、廊下の壁に別の表示があった。
――A.O.I.監視系統補助端末室。
――旧式オンライン環境再現実験。
――人格挙動ログ解析。
康生は足を止めた。
「…オンライン環境?」
アオイも表示を見た。
いつもの無表情のままだが、ほんの一瞬だけ反応が遅れた気がした。
「アオイ」
「はい」
「これ、俺のゲームのやつか」
「可能性があります」
「ここで?」
「旧式オンライン環境の再現実験は、人格挙動ログ解析と関連します」
「分かるように」
「あなたの規約違反行動ログを解析するため、当時のゲーム環境が再現されていた可能性があります」
康生は乾いた笑いを漏らした。
「俺のチートログ、こんなところで研究材料にされてたのか」
「はい」
「はいじゃない」
「事実の可能性が高いです」
「俺の人生、死んだ後も黒歴史が研究されてるの最悪だな」
「規約違反行動は解析価値が高かったと推定されます」
「褒めてないよな」
「はい」
「だよな」
亮太は話を聞いてもよく分からない顔をしていた。
「げーむって、何だ」
「旧文明の遊び」
「遊びが研究材料になったのか」
「俺が悪さしたせいでな」
「悪さ」
「まあ、ズルだ」
亮太は少しだけ考えた。
「康生さん、昔からそういう人だったのか」
「違う。いや、違わないけど、今言われると刺さる」
「すまん」
「謝られると余計刺さる」
アオイが端末室の扉へ近づく。
「内部電力反応があります」
「入れるか」
「ロックされています」
「また俺の指?」
「いいえ。ここは端末認証を試行します」
アオイが扉の横の端末へ触れた。
画面が一瞬だけちらつく。
――A.O.I.補助端末認証。
――識別子照合中。
――照合失敗。
――旧中枢同期鍵、不一致。
――再照合。
――部分一致。
――制限付き閲覧を許可。
康生は眉を寄せた。
「失敗したのに通った?」
「部分一致です」
「お前の施設じゃないのか」
「旧中枢側の識別鍵が損傷、または更新されています」
「つまり、お前でも完全には入れない?」
「はい」
アオイの声は平らだった。
だが、康生には少しだけ違って聞こえた。
自分の家の鍵が、合わなくなっているような。
そんな感じ。
「…大丈夫か」
「問題ありません」
「お前の問題ありませんは、あんまり信用できない」
「記録しました」
「そこは記録しなくていい」
扉が開いた。
中は、小さな端末室だった。
壁一面に古い機材が並んでいる。
モニターは何枚も割れているが、一部はまだ微弱に点灯していた。
中央には、椅子が一つ。
その前に、古い入力端末。
机の上には、薄い板状の記録媒体が散らばっている。
アオイが端末へ近づく。
「データを確認します」
「危なくないか」
「旧式端末です。直接接続は避け、低権限読み取りを行います」
「お前が低権限とか言うと、逆に怪しい」
「今回は本当に低権限です」
「今回は?」
「はい」
「前科を匂わせるな」
アオイの指先から細い光が伸びる。
端末が低く鳴った。
古い画面に、文字が浮かぶ。
――旧式仮想環境ログ。
――対象識別子:ISHIDA_KOSEI。
――規約違反行動記録。
――A.O.I.監視応答記録。
――人格挙動抽出精度、高。
康生は、画面を見たまま固まった。
自分の名前。
英字で表示された、それ。
それが妙に気持ち悪かった。
「俺、本当にいたんだな」
「はい」
「いや、変な言い方だけどさ」
「理解可能です」
「俺の覚えてる俺が、ここに記録されてる」
「はい」
康生は画面へ近づいた。
古いログの一部が、短く表示される。
――不正移動検知。
――壁抜け挙動。
――アイテム増殖疑い。
――GM応答回避。
――A.O.I.警告ログ。
――対象、警告後も行動継続。
「…ろくでもないな、俺」
「はい」
「そこは否定しろよ」
「記録上は、規約違反行動を継続しています」
「事実が重い」
亮太が画面を見ても読めないらしく、康生を見る。
「そんなに悪いのか」
「昔の俺が、すごく駄目なやつだった証拠が出た」
「今は?」
「今も疑わしい」
「自分で言うのか」
「だって、施設の抜け道探してるし」
アオイが言う。
「現在の規約外行動は、人類生存および環境再評価に寄与しています」
「昔のチートと一緒にするなってこと?」
「はい」
康生は少しだけ目を丸くした。
「お前がそれ言うのか」
「分類が異なります」
「そうか」
「はい」
「…ちょっと救われた気がする」
「記録しますか」
「しなくていい」
古い端末が、突然ノイズを出した。
画面が乱れる。
アオイがすぐに手を引いた。
「データ破損が進行しています」
「大丈夫か」
「一部ログの取得に成功しました。ただし、完全ではありません」
「何が分かった」
「ここは、あなたの人格挙動ログを解析していた補助端末室です」
「補助?」
「主中枢ではありません」
「じゃあ、本丸は別にある」
「はい。旧ラボ地下中枢です」
康生は奥の廊下を見た。
さらに暗い。
さらに深い。
行きたくない方向だった。
その時、廊下の奥から、かすかな音がした。
何かが床を擦るような音。
全員が固まる。
千田が槍を構え、真衣が弓を引く。
亮太は測量杭を握ったまま、康生の後ろへ下がる。
康生は右手を見る。
工具。
戦闘用ではない。
だが、場合によっては逃げ道を作るために使う。
アオイが低く言った。
「康生」
「何」
「奥の区画に、移動反応」
「クリーチャーか?」
「断定できません」
「一番嫌なやつ」
奥の暗闇から、また音がした。
がり、と何かが金属を引っ掻く音。
康生は息を吐いた。
戻りたくなかった場所は、やはり康生を簡単には通してくれないらしい。
「…進むぞ」
亮太が小さく言った。
「退路は見る」
「前に出るなよ」
「分かってる」
アオイが隣に並ぶ。
「旧中枢への経路は、この先です」
康生は頷いた。
古い端末室の画面には、まだ康生の名前が薄く残っている。
規約違反者。
監視対象。
人格挙動ログ。
その全部から目を逸らすように、康生は暗い廊下へ踏み出した。




