第四十五話 施設に分からせる
翌朝、康生たちは再びリン回収施設へ向かった。
正直、行きたくなかった。
昨日は海で海棲個体に追われた。
その前は危険物区画で虫のような異物を封じ込めた。
さらにその前は、大型個体と戦って神扱いされた。
ここ数日、出来事が濃すぎる。
普通なら、一週間くらい何もせず寝ていたい。
だが、施設の低負荷運転は暫定十四日。
そのまま放っておけば、リン回収ラインは元の最大処理へ戻ってしまう。
康生は、アオイが持っている保管ケースを見た。
中には、海水、堆積物、藻類、海棲個体の活動記録、村人たちの聞き取り記録が入っている。
「無事だよな」
「無事です」
「もう一回」
「無事です」
「よし」
「確認回数が多すぎます」
「また海に行きたくないんだよ」
亮太が横で頷いた。
「それは分かる」
「だろ」
「でも、必要ならまた行くだろ」
「言うな。そういうやつみたいになる」
「もうなってる」
「なってない」
亮太は左腕を吊ったまま歩いている。
今日は案内というより、見届け役だった。
戦闘には出るなと麻生に強く言われている。
本人は少し不満そうだったが、さすがに逆らわなかった。
施設の入口に着くと、扉の横にいた保守機が青いランプを点滅させた。
『点検補助対象』
『追加データを提出してください』
『危険物には触れないでください』
「おはよう。今日も触らない」
『ありがとうございます』
「挨拶みたいになってきたな」
「安全確認です」
「はいはい」
施設の中へ入る。
通路の照明は青い。
赤い警告灯は点いていない。
奥から聞こえるポンプ音は、以前より少し低かった。
まだ、低負荷運転は続いている。
「ちゃんと休んでるな」
「休息概念はありません」
「分かってるよ。俺が勝手にそう思ってるだけ」
「はい」
「そこは否定しないんだな」
「低負荷運転中であることは事実です」
「そういうことにしとく」
解析室に入ると、別の保守機が待っていた。
『追加データを受領します』
『サンプルを指定位置へ置いてください』
『危険物には触れないでください』
「提出するだけでも言うんだな」
『安全確認は重要です』
「ほんと一貫してる」
アオイが保管ケースを開く。
海水の瓶。
堆積物の容器。
藻類を入れた小袋。
浜に残っていた引きずり跡の立体記録。
海棲個体の映像記録。
村人たちの聞き取り記録。
それらが解析台へ並べられていく。
亮太は、少し緊張した顔でそれを見ていた。
「これで、施設は分かるのか」
「分かってもらわないと困る」
康生は画面を見上げた。
「分からないって言われたら、別の言い方を探す」
「規約違反者らしいな」
「褒めてないだろ」
「褒めてない」
「だよな」
アオイが端末に接続した。
「沿岸直接サンプルを提出します。海水、堆積物、藻類、沿岸活動阻害要因、生活圏被害聞き取り記録、食料栄養価解析結果を統合。栄養塩過剰回収による沿岸生態系基礎生産低下、および人類生存共同体の食料供給低下との関連可能性を提示します」
康生は手を上げた。
「俺にも分かるように」
「海が痩せています。村も痩せています。施設のリン回収が原因の一部である可能性があります」
「よし。それでいけ」
「正式文としては不十分です」
「だろうな」
提出処理が始まった。
画面に文字が流れる。
――追加データ、受領。
――海水サンプル、解析開始。
――堆積物サンプル、解析開始。
――藻類サンプル、解析開始。
――生活圏被害記録、照合開始。
――沿岸活動阻害要因、照合開始。
康生は腕を組んで待った。
待っているだけなのに、やけに緊張する。
怪物が襲ってくるわけではない。
ただ、機械が数字を読んでいるだけだ。
それなのに、怖かった。
この施設がまた「データ不足」と言えば、それまでだ。
人が腹を減らしていることも。
海が静かすぎたことも。
干し場が空だったことも。
海棲個体のせいで浜に近づけないことも。
全部、項目外として流されるかもしれない。
「…頼むぞ」
康生は小さく呟いた。
アオイが横を見る。
「施設に祈っているのですか」
「違う。気分の問題」
「祈りは神格化と相性が良い行動です」
「追い込むな」
亮太が小さく笑った。
「村長に見せられないな」
「絶対言うなよ」
「言わない」
「本当に?」
「たぶん」
「断言しろ」
画面の文字が止まった。
短い電子音が鳴る。
――海水サンプル、有効リン濃度、極低。
――堆積物サンプル、可給態リン、低。
――藻類サンプル、生育不良傾向。
――微細生物量、低。
――魚類サンプル、未取得。
――沿岸活動阻害要因、敵性個体確認。
――生活圏被害記録、栄養不足傾向あり。
「魚は採れなかったからな」
康生は顔をしかめた。
「そこ、駄目って言われるか?」
「魚類サンプル未取得は不足項目です」
「やっぱり」
「ただし、魚類未取得自体が漁獲低下の補助証拠になります」
「採れないことも証拠か」
「はい」
「嫌な証拠だな」
さらに文字が流れた。
――旧目標値との乖離を確認。
――現行リン回収目標、沿岸基礎生産低下リスクあり。
――現行最大処理復帰、外部生態系への悪影響を拡大する可能性あり。
――生活圏被害、補助評価項目として登録。
――沿岸活動阻害要因、補助評価項目として登録。
康生は息を呑んだ。
「今、登録って出たよな」
「はい」
「人間側のデータも?」
「生活圏被害が補助評価項目に登録されました」
「補助か」
「はい。ただし、以前は未入力でした」
「一歩だな」
「はい」
中枢から音声が流れる。
『追加データを受領しました』
『外部生態系影響の可能性を確認しました』
『生活圏被害および沿岸活動阻害要因を補助評価項目に追加します』
『現行目標値の恒久変更には管理者承認が必要です』
「また管理者か」
『ただし、現行最大処理への自動復帰は非推奨と判定されました』
康生は画面を見つめた。
「自動復帰、非推奨?」
アオイが答える。
「十四日後に通常出力へ戻る設定が止まる可能性があります」
「それ、かなり大きくないか」
「はい」
画面の文字が増える。
――一時低負荷運転、再審査。
――現行最大処理への自動復帰、停止。
――リン回収ライン、標準低負荷運転へ移行。
――栄養塩除去ライン、段階的間欠運転を継続。
――放流水安全域、維持。
――保管区容量対策、優先。
――定期再評価条件、設定。
――外部共同体による定期サンプル提出を推奨。
康生は、しばらく黙った。
それから、ゆっくり言った。
「…通った?」
「はい」
「十四日で戻らない?」
「はい。現行最大処理への自動復帰は停止されました」
「施設は?」
「標準低負荷運転へ移行します」
「つまり、完全に止まったわけじゃない」
「はい」
「でも、もう同じ勢いで海から取り続けることはない」
「はい」
亮太が目を見開いた。
「それは、村にとっていいことなのか」
康生は頷いた。
「たぶん、かなり」
施設全体が低く鳴った。
ごうん、と腹に響くような音。
それまで一定だったポンプ音が、さらに一段だけ落ちる。
天井の配管を流れる水音も変わった。
大きな変化ではない。
劇的な停止でもない。
ただ、長く張りつめていた何かが、少しだけ緩んだような音だった。
モニターの表示が切り替わる。
――第一リン回収ライン、標準低負荷運転へ。
――第二栄養塩除去ライン、間欠運転継続。
――保管区搬送ライン、停止維持。
――放流水再評価、継続。
――外部生態系影響、定期評価対象へ。
――生活圏被害、補助評価対象へ。
康生は、その音を聞いていた。
三百年以上、休まず動き続けていた施設が、少しだけ息を弱めた。
止まったわけではない。
壊したわけでもない。
完全に解決したわけでもない。
海が戻るには、時間がかかる。
魚が増えるにも、村の食卓が太るにも、きっと何年もかかる。
それでも、施設はもう、同じ速度で海を痩せさせ続けることはない。
「…勝った?」
康生が小さく聞くと、アオイは淡々と答えた。
「部分的に」
「そこは完全勝利って言ってほしかった」
「完全解決ではありません」
「だよな」
「しかし、この施設に関しては、現行最大処理への自動復帰を停止できました」
「じゃあ、今日はそれで十分だ」
「はい」
中枢の音声が流れる。
『標準低負荷運転へ移行しました』
『定期再評価条件を設定しました』
『追加サンプルを定期提出してください』
『きれいな海を、未来へ』
康生は、少しだけ目を細めた。
その標語は、相変わらずだった。
白い文字。
青い海の絵。
笑顔の親子。
古い正しさ。
でも、今日は少しだけ違って聞こえた。
「食える海もな」
康生が言うと、アオイが端末を見た。
「補助記録として登録済みです」
「登録してたのか」
「はい」
「恥ずかしいな」
「今回の再評価処理において、関連概念として参照されています」
「俺の雑な一言が?」
「水質改善のみでは環境保守目標として不十分、という補助意見に変換済みです」
「勝手に立派にするな」
「その方が通りやすいです」
「世の中って嫌だな」
「はい」
康生は苦笑した。
嫌な世の中だ。
三百年以上前に壊れた世界で、今さら正式っぽい言い方をしなければ機械が動かない。
でも、動いた。
少しだけ。
それなら、今日はそれでいい。
*
帰る前に、康生は中枢制御室の中央の柱を見上げた。
光る線の色が、以前より薄い緑を多く含んでいる。
標準低負荷運転。
外部生態系影響評価。
生活圏被害、補助評価対象。
言葉は硬い。
だが、意味は分かる。
この施設は、ようやく外の海と人間を評価項目に入れたのだ。
「少し休め」
康生は小さく言った。
声に出すつもりはなかった。
だが、出てしまった。
中央の柱は、当然何も答えない。
代わりに、通路の端にいた保守機が青いランプを点滅させた。
『低負荷運転中です』
康生は少し笑った。
「そうだな」
『追加サンプルを定期提出してください』
「分かってる」
『危険物には触れないでください』
「それも分かってる」
『ありがとうございます』
「本当に礼儀正しいな」
亮太がその様子を見ていた。
「施設に話しかけるんだな」
「返事があるからな」
「保守機だけど」
「神扱いされないだけ、だいぶ気楽だ」
「それはそうだ」
康生は少し伸びをした。
右肩が痛い。
背中も重い。
だが、気分は悪くない。
一区切りついた。
少なくとも、この施設については。
「帰るか」
「はい」
アオイが頷く。
「帰還後、麻生守への説明が必要です」
「だよな」
「標準低負荷運転への移行は、村にとって有益な情報です」
「それをどう説明するかが問題なんだよ」
「『海に息継ぎを許した』という表現が発生する可能性があります」
「もう言ってそう」
「高確率です」
亮太が真顔で頷いた。
「村長なら言う」
「止めてくれ」
「努力はする」
「成功率は?」
「低い」
「知ってた」
康生は出口へ向かって歩き出した。
背後では、リン回収施設が低い音で動き続けている。
止まったわけではない。
壊れたわけでもない。
ただ、ようやく自分の正しさを少しだけ疑い、外の世界を見る準備を始めた。
その音を背中に聞きながら、康生は歩いた。
食える海を取り戻すには、まだ遠い。
けれど、施設は村の飢えと海の静けさを数字として受け取った。
それだけは、確かだった。
*
村へ戻ると、当然のように麻生守が待っていた。
広場には村人たちも集まっている。
康生は、その時点で少しだけ諦めた。
「康生殿」
麻生が深く頭を下げる。
「施設は」
「低負荷運転に移りました。十四日で元に戻る設定も止まりました」
ざわめきが広がった。
「つまり、あの施設は今後、リンを取りすぎないように動きます。ただし、定期的にサンプルを出す必要があります。海がすぐ戻るわけじゃな
いです。でも、悪くなり続けるのは止められたと思います」
麻生は目を閉じた。
そして、静かに言った。
「海が、息をつけるのですね」
「まあ、言い方としては…」
康生は途中で止めた。
否定すると、たぶん悪化する。
「そういうことでいいです」
麻生は深く頷いた。
「皆、聞いたな。康生殿は、痩せた海に息をつかせてくださった」
「いや、施設の設定を変えただけです」
「調査の成果である」
「そうです」
「康生殿の」
「混ぜるな!」
村人たちが少し笑った。
康生も、もう怒鳴る元気があまりなかった。
麻生は真面目な顔で続ける。
「定期サンプルとやらは、村で続けます」
「お願いします」
「海が戻るまで、時間がかかるのでしょう」
「はい」
「ならば、待ちます。待つために、記録します」
康生は少しだけ目を見開いた。
麻生は、村長の顔をしていた。
「祈るだけではなく、記録します」
その言葉は、少しだけ意外だった。
康生は頷いた。
「それが一番助かります」
「では、今日は休んでください」
「普通に休みます」
「聖域を整え――」
「普通の小屋で!」
麻生は悩んだ。
本気で悩んだ。
それから亮太を見た。
「藤倉」
「はい」
「康生殿を休ませろ」
「分かりました」
「丁重に」
「普通に休ませます」
麻生はさらに悩んだ。
「…普通に、丁重に」
「混ざった」
康生は肩を落とした。
その横で、アオイが淡々と言った。
「康生、構成体負荷が上昇しています。休眠を推奨します」
「今は素直に聞く」
「珍しいです」
「今日はもう疲れた」
「休眠中に、施設で取得した処理ロジックの整理を行います」
康生は足を止めた。
「処理ロジック?」
「はい。危険物処理、有機物分解、高温処理、局所加熱制御などです」
「それ、俺に関係ある?」
アオイは一拍置いた。
「現時点では、休眠後に説明します」
「今説明しろ」
「休眠を優先してください」
「嫌な予感がするんだけど」
「問題ありません」
「お前の問題ありませんは信用できない」
「記録しました」
「そこは記録しなくていい」
康生は小屋へ向かいながら、もう一度だけ施設の方角を見た。
リン回収施設編は、これで一区切りだ。
海が戻るには時間がかかる。
村の食卓が太るのも、すぐではない。
それでも、止まれなかった正しさを、少しだけ休ませることはできた。
康生は小さく息を吐いた。
「…少し寝るか」
アオイが隣で頷いた。
「はい。休眠中に最適化処理を行います」
「やっぱり嫌な予感がする」
「おやすみなさい、規約違反者」
「その呼び方で寝かせるな」
文句を言いながらも、康生は小屋へ入った。
そして、本人の知らないところで。
アオイは、リン回収施設から得た処理ロジックを静かに整理し始めていた。




