第四十四話 潮の下の影
「走れ!」
康生が叫ぶと、全員が一斉に動いた。
千田が槍を構えたまま後退し、真衣が高台から飛び降りるように浜へ戻る。
亮太は左腕を吊ったまま、右手で測量杭を掴んだ。
「そっちは駄目だ! 砂が抜ける!」
「どっち!」
「岸壁沿い! 舟の残骸の横を抜けろ!」
康生は瓶を抱え直した。
海水サンプル。
堆積物サンプル。
藻類サンプル。
たったそれだけ。
だが、これを持ち帰れなければ、施設は十四日後に通常運転へ戻る。
海はまた痩せ続ける。
「アオイ!」
「海中反応、接近中」
「距離!」
「二十二メートル。上昇しています」
「近いな!」
「はい」
水面が盛り上がった。
さっきよりもはっきりと。
灰色の背中のようなものが、波の下を横切る。
魚ではない。
甲殻のような硬い面が、ぬめった水を弾いていた。
その背中の一部に、細い突起が並んでいる。
背びれではない。
棘だ。
「来るぞ!」
亮太の声が飛ぶ。
康生が振り返った瞬間、海面が割れた。
ぬるりとした長いものが、水の中から跳ね上がる。
蛇のような首。
魚のような胴。
甲殻を張りつけたような背中。
頭部には目らしきものが四つあり、横に裂けた口の中に細かい歯が並んでいた。
「最悪だな!」
康生は反射的に叫んだ。
アオイが冷静に答える。
「海棲中型敵性個体と推定」
「推定じゃなくて、見た目がもう中型だろ!」
「分類確定には詳細データが不足しています」
「今それ必要!?」
海棲個体が浜へ乗り上げた。
前肢のようなものが砂を掻く。
胴体はまだ海に半分残っている。
完全に陸へ上がる個体ではないらしい。
だが、その分、波打ち際では速い。
「浜から離れろ!」
亮太が叫ぶ。
「水際にいると引きずり込まれる!」
康生は瓶を抱え、壊れた舟の横を抜けた。
その直後、さっきまで立っていた場所へ、海棲個体の首が伸びる。
砂が弾けた。
「速っ!」
「首部伸縮性、高」
「見れば分かる!」
真衣が弓を引いた。
矢が飛ぶ。
海棲個体の目の一つを狙った矢は、頭部の甲殻に弾かれた。
「硬い!」
真衣が歯を食いしばる。
千田が槍を構えた。
「時間を稼ぐ。康生殿は下がれ!」
「殿じゃなくて!」
「今はどうでもいい!」
「それはそう!」
千田が踏み込もうとした瞬間、亮太が怒鳴った。
「前に出るな! そいつは引く!」
「何?」
「首じゃない、胴が引く! 槍ごと持っていかれる!」
千田が一瞬止まった。
その一瞬後、海棲個体の胴が波の中へ沈み、首だけがさらに伸びた。
もし踏み込んでいれば、槍ごと海へ引きずられていたかもしれない。
千田の顔色が変わる。
「藤倉、助かった」
「礼はあとだ!」
亮太は測量杭で砂を突きながら、逃げ道を探る。
「右の道は使えない。岸壁の上へ上がるぞ!」
「上がれるのか?」
康生が聞くと、亮太は古びた石段を指した。
「昔の船着き場だ。半分崩れてるけど、まだ登れる」
「半分崩れてる時点で嫌なんだけど!」
「海にいるよりましだ!」
「それはそう!」
康生たちは石段へ向かった。
濡れた石は滑る。
足元に苔が薄く張っている。
康生は瓶を片手に抱え、もう片方の手で壁を掴んだ。
その瞬間、背後で水音が弾ける。
「康生!」
亮太の声。
振り返ると、海棲個体の首がこちらへ伸びていた。
口が開く。
細かい歯が並ぶ。
康生は咄嗟に身体をひねった。
間に合わない。
そう思った瞬間、アオイが横から小さな金属片を投げた。
それは壊れた舟の部品だった。
金属片は海棲個体の口の中へ吸い込まれる。
次の瞬間、ばきん、と嫌な音がした。
海棲個体が首を振る。
「何した!」
「異物を噛ませました」
「地味だけど助かる!」
「歯列の一部破損を確認」
「もっと助かる!」
康生は石段を駆け上がった。
いや、駆け上がったつもりだった。
濡れた石に足を滑らせる。
「うわっ」
身体が傾く。
瓶が腕の中で揺れた。
落とす。
そう思った瞬間、康生の身体が勝手に捻れた。
片膝をつき、瓶を抱え込むようにして滑り止まる。
「痛っ…!」
「構成体運動補正が作動しました」
「助かったけど、膝が痛い!」
「膝部外装、軽微損耗」
「言い方!」
アオイが手を差し出す。
康生はその手を掴んで立ち上がった。
「サンプルは?」
「破損なし」
「よし」
「あなたの膝は」
「今はサンプル優先!」
「了解しました」
「いや、ちょっとは心配しろ!」
「膝部外装、軽微損耗です」
「そうじゃなくて!」
石段を上がりきると、古い岸壁の上に出た。
そこは浜より少し高い。
下では、海棲個体が身体をくねらせている。
完全に陸へ上がれないのか、波打ち際から離れようとはしない。
ただし、首だけは長い。
岸壁の縁まで届く。
「ここも安全じゃないな」
「はい」
アオイが即答する。
「海棲個体の攻撃範囲内です」
「言い切られると嫌だな」
亮太が周囲を見回す。
「旧道へ戻る。あそこまで行けば届かない」
「どこ!」
「干し場の裏だ!」
真衣が先に走る。
千田が最後尾に回る。
康生は瓶を抱えたまま走った。
古い干し場の木組みが並ぶ。
何も吊るされていない木組み。
昔なら、ここに魚が並んでいたのだろう。
潮風に晒されながら、何十、何百と。
今は空っぽだった。
「…ほんとに、何もないな」
康生は走りながら呟いた。
「後にしてください」
アオイが言う。
「分かってる!」
その時、下から海棲個体の首が伸びた。
岸壁の縁を越え、干し場の柱に噛みつく。
古い木材が砕ける。
干し場の一部が傾いた。
「崩れる!」
亮太が叫ぶ。
康生は横へ跳んだ。
真衣も転がるように避ける。
千田が柱の下敷きになりかけた真衣の襟を掴み、引き戻した。
「すみません!」
「走れ!」
崩れた木組みが海棲個体の頭に落ちる。
大した傷にはならない。
だが、一瞬だけ動きが止まった。
アオイの瞳が光る。
「一時停止、二・四秒」
「その間に逃げる!」
「はい」
旧道へ出る。
ひび割れたアスファルト。
草に飲まれた白線。
そこまで来ると、海棲個体の首は届かなかった。
波打ち際で、そいつは身をくねらせていた。
四つの目が、こちらを見ている。
口の端から、折れた歯の破片と白い泡がこぼれていた。
康生は肩で息をした。
「…追ってこない?」
「完全な陸上移動能力は低いと推定」
「つまり、水際から離れれば大丈夫?」
「現時点では」
「その言い方、嫌い」
千田が槍を構えたまま息を吐く。
「倒さなくてよいのですか」
康生は即答した。
「よくない。倒さなくていい」
千田が少し驚いた顔をした。
「ですが」
「サンプルを持って帰るのが目的です。倒すのが目的じゃない」
真衣が頷いた。
「同意します。矢も効きませんでした」
亮太も言った。
「今の装備じゃ、無理にやる相手じゃない」
千田は少しだけ迷い、それから槍を下げた。
「承知しました」
康生は海を見た。
海棲個体は、まだこちらを見ている。
痩せた海。
静かすぎる海。
そこにも、ちゃんと怪物はいた。
ただ、生き物が少ないだけではない。
人間が近づけない海になっている。
魚がいない。
舟が出せない。
干し場が空になる。
それが、今の海だった。
「アオイ」
「はい」
「あいつも、データになるか」
「なります」
「施設に出せる?」
「沿岸活動阻害要因として記録可能です」
「沿岸活動阻害要因」
「分かりやすく言えば、海に近づけない理由です」
「それでいい。入れとけ」
「記録します」
アオイの画面に文字が流れる。
――沿岸活動阻害要因。
――海棲中型敵性個体を確認。
――旧漁港周辺の採取活動に危険あり。
――漁労活動低下の一因として記録。
康生は苦笑した。
「怪物まで報告書の項目になるのか」
「必要です」
「嫌な世界だな」
「はい」
亮太が旧道の先を指した。
「戻るぞ。長居すると、別のやつも来る」
「別のやつ」
「音と血の匂いで寄る」
「血は出てないだろ」
「そいつの歯が折れた。海の中に匂いが流れてる」
「うわ」
康生は海棲個体を見る。
たしかに、白い泡の中に黒っぽいものが混ざっていた。
「帰ろう」
「はい」
全員が来た道を戻り始めた。
帰り道、康生は何度も瓶を確認した。
海水。
泥。
藻。
全部、無事だった。
たったそれだけのものが、妙に重い。
「そんなに心配か」
亮太が聞いた。
「心配だろ。これ落としたら、また海行くんだぞ」
「それは嫌だな」
「だろ」
「でも、康生さんならまた行くだろ」
「行きたくない」
「行きたくなくても行く顔してる」
「やめろ。俺を勝手にそういうやつにするな」
亮太は少しだけ笑った。
「もうなってる」
「なってない」
「なってる」
アオイが横から言った。
「康生は、必要性を認識した場合、嫌がりながら実行する傾向があります」
「分析するな」
「規約違反時代にも同様の傾向が」
「その話は今するな!」
真衣が少し笑った。
千田も、ほんのわずかに口元を緩めた。
康生は頭を抱えたくなったが、瓶を持っているのでやめた。
*
村へ戻る頃には、日は傾き始めていた。
門の見張りが、康生たちを見るなり声を上げる。
「戻ったぞ!」
「康生殿が戻られた!」
「調査隊、帰還!」
「調査隊でいい! それで統一して!」
康生は門をくぐりながら叫んだ。
広場には、すぐに人が集まってきた。
麻生守も現れる。
「康生殿。海はいかがでしたか」
康生は一瞬だけ迷った。
何と言えばいいのか。
痩せていた。
静かすぎた。
魚がいなかった。
怪物がいた。
どれも本当だ。
康生は、抱えていた瓶をアオイへ渡した。
それから、村人たちを見た。
「証拠は取れました」
ざわめきが起きる。
麻生が静かに問う。
「食える海の証拠ですか」
康生は首を横に振った。
「まだ違います」
麻生が目を細める。
康生は続けた。
「今は、食えない海になっている証拠です」
広場が静かになった。
康生は、海の方角を振り返る。
ここからは見えない。
でも、潮の匂いがまだ服に残っている気がした。
「海は、静かすぎました。魚も鳥も少ない。藻も少ない。旧漁港には人がいない。海棲のクリーチャーもいた」
麻生は黙って聞いていた。
「でも、これで施設に出せるデータが増えました」
アオイが画面を展開する。
――海水サンプル、取得。
――堆積物サンプル、取得。
――藻類サンプル、取得。
――海棲敵性個体、確認。
――沿岸活動阻害要因、記録。
――生活圏被害データと照合可能。
麻生は、その文字をじっと見た。
「では、次は」
「施設に戻ります」
康生は言った。
「十四日の猶予を延ばせるか、目標値を変えられるか、やってみます」
「また旧き施設へ」
「調査結果を持っていくだけです」
「海の苦しみと、民の飢えを携えて」
「だから言い方」
亮太がぼそりと言う。
「今日は止める元気ない」
「止めてくれよ、普通枠」
「俺も疲れた」
「俺もだよ」
アオイが淡々と言った。
「康生、構成体負荷が上昇しています。休息を推奨」
「今は同意する」
「珍しい」
「瓶を割らずに帰ってきただけで、もう偉いと思う」
「危険物非接触に続き、サンプル保持成功を確認」
「お前もその評価軸なのか」
麻生が深く頭を下げた。
「康生殿。まずはお休みください」
「普通に休みます」
「聖域を整えさせます」
「普通の小屋で!」
「しかし」
「普通の小屋で!」
麻生は少し悩んだ。
本気で悩んでいた。
それから、亮太を見た。
「藤倉」
「はい」
「康生殿を休ませろ」
「分かりました」
「丁重に」
「普通に休ませます」
麻生はさらに悩んだ。
「…普通に、丁重に」
「混ざった」
康生は肩を落とした。
真衣が少し笑い、千田が咳払いでごまかした。
アオイが記録画面を閉じる。
康生は、村の奥へ歩き出した。
手元にはもう瓶はない。
だが、妙に腕が重かった。
海の水。
泥。
藻。
そして、海棲個体の記録。
それは、食える海を取り戻すための証拠ではない。
まだ、その前段階だ。
食えない海になってしまった証拠。
でも、そこから始めるしかない。
康生は小さく呟いた。
「…次は、施設に分からせる番だな」
アオイが隣で答える。
「はい」
「正式っぽく?」
「正式に」
「珍しいな」
「今回は、証拠があります」
康生は少しだけ笑った。
「じゃあ、堂々と出すか」
「はい」
夕方の光が、村の防壁を赤く染めていた。
痩せた海の証拠を持って、調査隊は帰ってきた。
神託ではなく。
少なくとも、康生はそう言い張るつもりだった。




