第四十三話 痩せた海の証拠
聞き取りが一段落した頃には、空が暗くなり始めていた。
広場の端には、木板と布、それからアオイが展開した半透明の記録画面が並んでいる。
家族人数。
食事の回数。
魚を食べる頻度。
保存食の残り。
子供の成長。
老人の体力。
海沿い集落との交易。
村人たちの言葉は、少しずつ数字に変わっていた。
「三日に一度、魚があればいい方です」
「冬は、大人が水だけで寝る日もありました」
「海沿いの親戚は、もう網を畳んだと言っていました」
アオイは淡々と記録していく。
康生はそれを見ながら、少しだけ嫌な気分になっていた。
必要なことだ。
施設に分からせるには、こうするしかない。
だが、人の飢えが項目になり、数字になり、提出用のデータになっていくのを見るのは、気持ちのいいものではなかった。
「アオイ」
「はい」
「これで足りるか?」
「補助データとしては有効です」
「補助」
「はい。施設の一時低負荷運転を延長、または目標値を再評価させるには、沿岸環境の直接データが不足しています」
康生は嫌な予感がした。
「直接データって」
「海水、堆積物、藻類、微細生物量、可能であれば魚類サンプルです」
「つまり、海に行けと」
「はい」
「やっぱりか」
亮太が横から画面を覗き込んだ。
左腕は布で吊ったままだ。
「海まで行くなら、道を選ばないといけない」
「近いのか?」
「近い道は危ない」
「遠い道は?」
「少し危ない」
「安全な道は?」
「ない」
「知ってたけど聞きたくなかった」
亮太は肩をすくめた。
「海沿いは人が減った。見張りも少ない。潮の匂いに寄るやつもいる」
「潮の匂いに寄る?」
「腐った魚や獣の死骸がある。そこに小型が集まる。たまに中型も来る」
「海って、そんな場所だったっけ」
「俺の知ってる海はそういう場所だ」
その言葉が、少しだけ引っかかった。
康生の知っている海は違った。
危ないこともある。
怖いこともある。
でも、潮の匂いがあって、鳥がいて、波の音があって、魚がいて、人が来る場所だった。
少なくとも、クリーチャーが腐った魚に寄ってくる場所ではなかった。
麻生守が広場の端から歩いてきた。
「海へ行かれるのですか」
「調査です」
康生は先に言った。
「神託じゃなくて、調査です」
麻生は静かに頷いた。
「承知しております。調査です」
「本当に?」
「康生殿の御心により、食える海を取り戻すための調査です」
「混ざってる!」
亮太が小さく言った。
「半分勝ちだな」
「半分負けてるだろ」
「いつもよりは勝ってる」
「基準が低い」
麻生は気にせず続けた。
「防人を二名つけます。藤倉は経路判断役として同行を許可します。ただし、戦闘には出るな」
亮太は少し悔しそうに頷いた。
「はい」
「盾も持つな」
「…はい」
「左腕が使えぬ者が前に立てば、守れるものも守れん」
厳しい言葉だった。
だが、亮太は言い返さなかった。
康生は口を開きかけて、閉じた。
ここで慰めるのは違う気がした。
代わりに言った。
「案内、頼む」
亮太は少しだけこちらを見た。
「任せろ。戦えなくても、道くらいは分かる」
「それだけで十分助かる」
アオイが淡々と言う。
「藤倉亮太の同行は有効です」
「有効扱いか」
亮太が顔をしかめる。
「有用よりはいいだろ」
康生が言うと、亮太は渋々頷いた。
「まあな」
*
出発は翌朝になった。
康生、アオイ、亮太。
それに防人が二人。
一人は槍を持った年上の男で、名を千田という。
もう一人は弓を持った若い女で、真衣と名乗った。
どちらも康生に対して妙に丁寧だった。
「本日は、調査の護衛を務めます」
「普通でいいです」
康生が言うと、真衣は真剣な顔で頷いた。
「普通に、命に代えてお守りします」
「普通の範囲が重い!」
千田が低い声で言う。
「天輪様を海へお連れするのだ。軽々しくはできません」
「だから天輪様じゃないです」
「承知しております、康生殿」
「その顔は承知してない顔だ」
亮太が横でため息をついた。
「道中それやってると疲れるぞ」
「もう疲れてる」
「早いな」
村の門を出る。
朝の森は湿っていた。
草には露がつき、金属の筋が走る木々が薄い光を反射している。
足元には古い道路の跡があった。
ひび割れたアスファルトの間から草が伸び、ところどころに錆びた標識が倒れている。
「この道、昔は海まで続いていたのか」
康生が聞くと、亮太が頷いた。
「旧道だ。今は途中で崩れてる」
「車で行けたんだろうな」
「クルマ?」
「あー、旧文明の乗り物」
「遺構で見たことはある。動くとは思えないけどな」
「昔はみんな乗ってた」
亮太は少しだけ目を丸くした。
「みんな?」
「たぶん」
「旧文明、贅沢だな」
康生は返事に困った。
贅沢。
そう言われると、たぶんそうなのだろう。
車に乗り、コンビニで飯を買い、夜中にゲームをして、エナジードリンクを飲む。
それが普通だった時代。
その普通が、今では遠すぎる。
道は途中から細くなった。
崩れた高架の下を抜け、森に飲まれた集落跡を通る。
家だったものの壁には蔓が絡み、屋根は落ち、窓は黒い穴になっていた。
真衣が弓を構えたまま、静かに言う。
「この辺りから、小型が出ます」
「反応は?」
康生がアオイを見る。
「近距離に敵性反応はありません。ただし、古い糞、足跡、骨片を確認」
「説明しなくていいものまで説明された」
「警戒に必要です」
「そうだけど」
亮太が足元を指した。
「ここ、踏むな。下が空いてる」
康生は慌てて足を止めた。
見ると、草の下に古い側溝の蓋があった。
半分腐食し、今にも抜けそうだ。
「助かった」
「だから案内役はいるだろ」
「いる。すごくいる」
亮太は少しだけ得意げな顔をした。
その顔を見て、康生は少し安心した。
前に立てなくても、亮太は亮太だった。
*
森が切れると、風の匂いが変わった。
潮の匂い。
康生は思わず足を止めた。
「…海だ」
少し先に、青灰色の水面が見えた。
だが、康生の知っている海とは違った。
波音はある。
潮の匂いもある。
けれど、何かが足りない。
鳥の声が少ない。
磯に群れる小さな生き物の気配も薄い。
水面は妙に静かで、浜には古い網と壊れた舟が転がっている。
海辺の集落は、半分崩れていた。
家々は閉ざされ、屋根は落ち、船着き場の杭だけが黒く突き出ている。
干し場だったらしい木組みには、何も吊るされていなかった。
亮太が言った。
「ここが、旧漁港だ」
「人は?」
「今はいない。たまに内側の村から見回りが来るくらいだ」
康生は海を見た。
広い。
でも、静かすぎる。
「海って、もっとうるさいもんじゃなかったか」
アオイの瞳が淡く光る。
「鳥類反応、少数。小魚群反応、希薄。藻類分布、低密度。沿岸生態系の基礎生産低下と一致します」
「分かるように」
「海が、静かすぎます」
康生は黙った。
その言い方は、妙に胸に落ちた。
海が静かすぎる。
それは、きれいという意味ではなかった。
「サンプル採るぞ」
亮太が言った。
「長居はしたくない」
「分かった」
アオイが採取手順を表示する。
――海水サンプル、三地点。
――堆積物サンプル、二地点。
――藻類または付着生物、可能な範囲で採取。
――魚類サンプル、可能なら取得。
――敵性反応を確認した場合、即時撤退。
「最後が一番大事だな」
「はい」
千田が周囲を警戒し、真衣が高台に上がる。
亮太は足場を見ながら、沈みやすい場所を避けて道を指示した。
康生は瓶を持って波打ち際へ向かう。
海水に手を入れた。
冷たい。
当たり前のことなのに、少し驚いた。
「普通に冷たいな」
「海水ですので」
「そういう返しされると思った」
瓶に水を入れる。
次に、アオイが袖口から細い器具を伸ばし、砂の下の堆積物を採取した。
黒っぽい泥が少しだけ入る。
「これでいいのか」
「はい。硫化物、栄養塩、微細生物量を評価します」
「海の健康診断だな」
「近似表現として正しいです」
亮太が古い岸壁の近くを指した。
「あそこに藻が少しある」
「少し、か」
康生は歩いていく。
岸壁には、細い藻が頼りなく張りついていた。
昔の海なら、もっとびっしり生えていた気がする。
アオイが少量を採取する。
「藻類サンプル、取得」
その時、真衣が高台から声を上げた。
「待って」
全員が止まる。
真衣は弓を構えたまま、浜の端を見ていた。
「砂の上に跡があります」
亮太の顔が険しくなった。
「どんな跡だ」
「引きずった跡。大きいです」
康生たちは、慎重にそちらへ向かった。
浜の端。
壊れた舟の横。
湿った砂の上に、太い溝のような跡が残っていた。
何かが、海から上がってきて、また戻ったような跡。
その周囲には、砕けた貝殻と、魚の骨のようなものが散らばっていた。
千田が低く言う。
「中型か」
亮太は首を横に振った。
「分からない。けど、昨日今日の跡だ」
康生は喉を鳴らした。
「海にもいるんだよな」
「いる」
亮太が短く答えた。
「陸のやつとは違う。ぬめってて、速い」
「聞きたくなかった」
アオイが海の方を見た。
「康生」
「何だ」
「海中に移動反応」
康生は少しだけ期待して聞いた。
「魚か?」
「いいえ」
波音が、急に大きく聞こえた。
静かすぎる海の下で、何かが動いている。
真衣が弓を引き、千田が槍を構えた。
亮太は反射的に左腕を動かそうとして、痛みに顔を歪める。
康生は一歩前に出た。
「撤退するぞ」
自分でも意外なくらい、すぐに言葉が出た。
「サンプルは取った。無理する必要はない」
アオイが頷く。
「同意します。戦闘は不要です」
その瞬間、水面が盛り上がった。
灰色の波が、不自然に膨らむ。
何かの背中のようなものが、海面の下を横切った。
大きい。
少なくとも、魚ではない。
康生は瓶を抱え直した。
「走れ!」
誰かの神託ではない。
ただの調査だった。
だからこそ、証拠を持って帰る必要があった。




