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規約違反者と監視AI 〜目覚めた未来で、人間扱いされたくて〜  作者: 八汐
第四章 痩せた海

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第四十二話 神託ではなく調査です

施設の外へ出ると、空は少しだけ赤くなっていた。

夕方というには早い。

けれど、昼の白い光は弱まり、森の上に薄い橙色が滲んでいる。

康生は、背後の施設を振り返った。

古びた金属扉。

亀裂の入った白い壁。

その奥では、三百年以上動き続けていたリン回収施設が、ほんの少しだけ出力を落としている。

止まったわけではない。

壊したわけでもない。

ただ、休ませるための言い訳が通っただけだ。


「十四日か」


康生は呟いた。


「はい。暫定低負荷運転の期限は十四日です」


アオイが隣で答える。


「それまでに追加データを提出しないと、通常運転に戻るんだよな」

「はい」

「海が少し楽になるかもしれないのも、十四日だけ」

「現時点では、そうです」

「短いな」

「しかし、ゼロではありません」


康生は小さく笑った。


「お前にしては、慰めっぽいこと言うな」

「事実です」

「はいはい」


施設の扉の横で、保守機が青いランプを点滅させた。


『点検補助対象』

『追加データを提出してください』

『十四日以内に提出してください』

『危険物には触れないでください』

「分かってるよ。最後のやつ、まだ言うのか」

『今後も触れないでください』

「よっぽど信用されてないな、俺」

「危険物に触れなかった実績は一回のみです」

「実績解除みたいに言うな」


保守機は、ぴこん、と青いランプを明るくした。


『危険物非接触、確認済み』

「なんか、ちょっと嬉しくなってきた」

「評価基準が低下しています」

「うるさい」


康生はもう一度、施設の奥を見た。

聞こえてくるポンプ音は、来た時よりも少し低い。

水の流れる音も、わずかに穏やかになっている。

この音の変化が、村の食卓に届くのかは分からない。

魚が増えるのか。

海が戻るのか。

人が腹いっぱい食える日が来るのか。

何も分からない。

それでも、何もしないよりはましだった。


「戻るか」

「はい」


康生は森へ向かって歩き出した。


     *


帰り道は、来た時よりも静かだった。

施設の周囲に漂っていた湿った空気を抜けると、金属の筋が走る木々が並ぶ森に入る。

草むらは深く、ところどころに旧文明の破片が埋まっている。

康生は、無意識に足元を見ながら歩いた。


「敵性反応は?」

「近距離には確認できません」

「遠距離は」

「小型と思われる反応が複数。ただし、こちらへ接近する動きはありません」

「なら、比較的安全か」

「比較的です」

「完全には安全じゃない」

「はい」

「知ってた」


康生は肩を回した。

背中と右肩が少し痛む。

保管区での作業と、さっきまでの緊張が残っているのだろう。

人間の身体ではない。

それでも、疲れたような感覚はある。


「アオイ」

「はい」

「俺の身体、疲労ってあるのか」

「通常生体の疲労とは異なります。構成体負荷、熱蓄積、制御演算負荷、損耗率上昇を、あなたの感覚系が疲労に近いものとして再現しています」

「分かるように」

「疲れています」

「最初からそれでいい」

「正式な説明ではありません」

「今は正式じゃなくていいんだよ」

「では、疲れています」

「なんか腹立つな」


アオイは表情を変えずに歩く。

康生は、その横顔を見た。

さっき、壊れかけた保守機を直していた時のことを思い出す。

袖口から銀色の粒子を流し込み、ぎこちない脚を少しだけ動くようにしたアオイ。

合理的。

無機質。

人間をリソース扱いしがち。

でも、壊れた機械を直した。

それが優しさなのか、保守効率なのかは分からない。

たぶんアオイに聞けば、保守効率と答える。

それでも、康生は少しだけ悪くないと思った。


「何ですか」

「いや」

「視線を確認しました」

「監視するな」

「私は監視AIです」

「そうだった」

「現在は外部支援端末です」

「便利に名乗り分けるな」


森を抜けると、防人村の防壁が見えてきた。

壊れた門は、応急修理されている。

木材と金属板でつぎはぎに補強され、縄が何重にも巻かれていた。

大型個体が突っ込んだ跡は、まだ地面に残っている。

土は抉れ、防壁の一部は歪んだままだ。

康生はその跡を見て、少しだけ息を呑んだ。

あの時、自分はここに立っていた。

光輪が出て、衛星から光を受けて、大型を殴り倒した。

そして、神扱いが始まった。


「…戻りたくないな」

「戻る必要があります」

「知ってる」

「追加データの収集には、村の協力が必要です」

「知ってる」

「麻生守への説明が必要です」

「それが嫌なんだよ」


見張り台から声が上がった。


「康生殿がお戻りだ!」

「殿で済んでる。まだいい」

康生は小さく呟いた。

アオイが淡々と言う。


「天輪様と比較して、心理的負荷が低いと推定します」

「比べる対象が最悪なんだよ」


門が開く。

中から、数人の村人が出てきた。

警戒ではない。

むしろ、待っていたような顔だった。

そして、一斉に頭を下げた。


「お帰りなさいませ、康生殿」

「普通で! 普通でいいです!」


康生は慌てて手を振った。


「ちょっと施設に行って戻ってきただけだから!」


村人の一人が真剣な顔で言う。


「旧文明の深き施設より、御身無事にお戻りになられたのです」

「御身って言わないで!」

「では、お身体」

「普通に身体でいい!」

「身体、無事にお戻りになられて何よりです」

「なんかまだ変だけど、それでいい!」


アオイが横で言う。


「神格化反応は軽度です」

「これで軽度?」

「膝をついていません」

「基準が麻痺してる」


門の内側には、亮太がいた。

左腕はまだ布で吊っている。

顔色は少し良くなったように見えるが、疲れは残っている。

康生は、亮太の顔を見て少し安心した。


「亮太」

「戻ったか」

「戻った。腕は?」

「折れてる」

「それは知ってる」

「なら聞くな」

「その普通の返し、本当に助かる」


亮太は小さく息を吐いた。


「何か分かったのか」

「分かった。あと、少しだけ通った」

「通った?」

「施設を十四日だけ低負荷運転にできた」


亮太は眉を寄せた。


「低負荷?」

「休ませた」

「施設を?」

「そう。壊れないように休ませるって理由で、リンの回収を少し弱めた」


亮太は少しだけ考え、それから頷いた。


「つまり、海から取りすぎるのを少し減らしたのか」

「そう。それが一番近い」

「なら、いいことじゃないのか」

「十四日だけな。追加データを出さないと元に戻る」

「データ?」

「村の食事とか、魚の量とか、体調とか」


亮太の顔が、少しだけ険しくなった。


「…それを聞くのか」

「聞かなきゃいけない」

「嫌がる人もいるぞ」

「だよな」

「食えてない話は、簡単にはしない」


康生は頷いた。


「だから、亮太に手伝ってほしい」

「俺が?」

「お前が一番普通だから」

「それ理由になるのか」

「俺にとってはなる」


亮太は少し呆れた顔をした。


「村長には?」

「説明しないといけない」

「神託になるな」

「やっぱり?」

「なる」

「即答かよ」


亮太は村の中央を指差した。


「もう待ってる」


康生はそちらを見る。

広場に、人が集まっていた。

老人。

大人。

子供。

防人。

そして、その中央に麻生守が立っている。

背筋はまっすぐ。

目は鋭い。

いつもの村長の顔だ。

ただ、その前に小さな木の台が置かれていた。

台の上には、水の入った器、干した魚、磨かれた金属片が並んでいる。

康生は無言になった。


「…あれは?」

「報告を伺う場だそうだ」

「話し合いじゃなくて?」

「俺は話し合いだと言った」

「ありがとう」

「駄目だった」

「知ってた」


アオイが補足する。


「儀礼化が進行しています」

「進行するな」

「麻生守の統率行動としては有効です」

「俺のメンタルには有害だよ」

「記録しますか」

「するな」


康生は深く息を吐いた。

逃げたい。

とても逃げたい。

だが、逃げるとたぶん「姿をお隠しになった」とか言われる。

余計に面倒になる。


「行くか」

「行くのか」


亮太が聞く。


「行くしかないだろ」

「だな」

「神託じゃなくて調査だって、最初に言う」

「たぶん負けるぞ」

「負ける前提で話すな」

「経験則だ」

「嫌な経験則だな」


三人は広場へ向かった。

村人たちの視線が集まる。

康生は、その視線に慣れたくなかった。

慣れたら終わりな気がする。

麻生守が一歩前へ出て、深く頭を下げた。


「康生殿。旧き施設よりのご帰還、何よりでございます」

「ただいま戻りました」


康生はできるだけ普通に答えた。

麻生の目が少し細くなる。


「ただいま、とは」

「そこ拾わなくていいです」

「この村を、帰る場所としてくださるとは」

「違う。いや、違わないけど、そういう意味じゃなくて」


亮太が小声で言う。


「初手で負けたな」

「うるさい」


康生は咳払いした。


「麻生さん。施設の処理を、一時的に弱めることができました」


広場が静まる。

麻生の顔が、すぐに村長の顔へ変わった。

神がどうとかではなく、村の命に関わる情報を聞く目だった。


「詳しく」

「施設は、リンを回収しすぎていました。海の栄養が足りなくなっている可能性が高いです」

村人たちがざわめく。

「海の栄養…」

「魚の飯の話か?」

「海が痩せていると、前に…」


康生は頷いた。


「はい。海が飢えています」


アオイが横で補足する。


「植物プランクトン基盤が縮小し、魚類資源量の低下と相関する可能性があります」

「分かるように」


康生が言うと、アオイは言い直した。


「魚の飯が足りません」

「急に雑だけど、それでいい」


村人たちは、その方が分かったらしい。

ざわめきが広がる。

麻生が低い声で問う。


「では、施設は止まったのですか」

「止まってません」

「では、海は戻らぬのですか」

「すぐには戻りません」


康生は一つずつ答えた。


「ただ、施設を壊さないためという理由で、十四日だけ低負荷運転にできました。リンを取りすぎる力を、少し弱めています」


麻生は目を伏せた。


「十四日」

「はい」

「十四日の猶予を、天より授かったと」

「違います」


即答した。


「施設の規定に、設備保護のための一時低負荷運転があっただけです」

「それを見つけられた」

「まあ、はい」

「閉ざされた理の抜け道を」

「言い方!」

「康生殿が」

「そういう方向に持っていかないで!」


亮太が額を押さえた。


「村長、康生さんは本気で嫌がってます」


麻生は頷いた。


「分かっている。康生殿は、御自身の功を誇らぬ」

「分かってない!」


アオイが静かに言う。


「信仰変換率、高」

「実況しない」


康生は一度目を閉じた。

駄目だ。

このままだとまた全部そっちへ行く。

深呼吸して、言い直す。


「麻生さん。これは神託じゃありません。調査です」

「調査」

「はい。施設を十四日だけ休ませることはできました。でも、それだけです。十四日後には元に戻ります」

「戻る」

「はい。戻さないためには、追加データが必要です」


麻生の目が鋭くなる。


「追加データとは」

「村の食料状態です。魚がどれくらい減ったのか。食事の回数。子供や老人の体調。海沿いの集落がどうなっているのか」


広場が静かになった。

康生は続ける。


「施設は、水の数字しか見ていませんでした。海がどれだけきれいか。リンをどれだけ回収できたか。そこだけ見て、環境保守目標は達成中って言ってる」


麻生は黙って聞いている。

村人たちも、息を殺していた。


「でも、人間がどれだけ困っているかは、データ不足でした」


康生は、ゆっくり言った。


「村人が腹を空かせていることも、魚が減っていることも、施設の数字に入っていない」


誰かが、小さく息を呑んだ。

麻生の顔が、わずかに歪む。


「我らの飢えが、足りぬ数字として扱われたのですか」

「…そうです」


康生は頷いた。


「だから、入れに行く必要があります」

「飢えを」

「はい」

「数字に」

「はい」


麻生はしばらく黙った。

広場の空気が重くなる。

それは神聖な沈黙ではなかった。

もっと現実的で、苦い沈黙だった。

食えていないこと。

魚が減ったこと。

大人が我慢していること。

子供にだけ食わせていること。

そういうものは、簡単に人前へ出せる話ではない。

康生はそれを、少しだけ理解した。


「嫌なら、無理にとは言いません」


そう言いかけた時、麻生が首を横に振った。


「やります」

「麻生さん」

「村が生きるために必要なら、やります」


麻生の声は、静かだった。


「ただし、康生殿」

「はい」

「飢えを晒すことは、村にとって軽いことではありません」

「…分かります」

「分かる、と簡単に言われるのも違います」

「すみません」


康生は素直に頭を下げた。

広場がざわついた。

康生は慌てて顔を上げる。


「今のは普通の謝罪です! 深い意味はない!」


麻生が静かに頷く。


「民の痛みに頭を下げられる」

「ほら!」


亮太がぼそりと言った。


「康生さん、動くな。全部効く」

「謝っただけだろ!」

「村長には効く」

「何が!?」

「全部だ」


アオイが端末を開いた。


「聞き取り項目を作成します」


半透明の画面に、文字が並ぶ。


――家族人数。

――一日の食事回数。

――魚摂取頻度。

――保存食残量。

――子供の成長状態。

――老人の体力低下。

――病人の増減。

――過去十年の漁獲変化。

――海沿い集落との交易状況。

――移住、死亡、行方不明の記録。


亮太が画面を見て、少し顔をしかめた。


「多いな」

「必要です」

「俺、全部聞けるか分からないぞ」

「藤倉亮太は、康生の発言が宗教化しすぎないよう現地語感に調整してください」

「俺、そんな役なのか」

「普通枠です」

「役職になった」


康生は亮太を見る。


「頼む、普通枠」

「その呼び方はやめろ」

「近侍よりいいだろ」

「それはそう」


麻生が、村人たちへ向き直った。


「皆、聞いたな」


広場が静まる。


「これは神託ではない」


康生は少し安心した。

麻生は続けた。


「調査である」

「そうです」


康生は頷く。

麻生はさらに続けた。


「康生殿の御心により、我らの飢えを数字として旧き施設へ届ける調査である」

「混ぜるな!」


亮太が小声で言う。


「半分勝ちだ」

「半分負けてるだろ」

「いつもよりは勝ってる」

「基準が低い」


村人の何人かが、小さく笑った。

緊張が少しだけ緩む。

その中で、一人の老婆が手を上げた。


「魚の話なら、私が覚えています」


麻生が老婆を見る。


「話せるか」


老婆は頷いた。


「若い頃は、干す場所が足りませんでした。小屋の梁にも、道具置き場にも、道の横にも、魚を吊るしていました」


広場が静かになる。


「今は、干す魚を選ぶほどありません」


康生は、その言葉を聞いて息を止めた。

それは数字ではない。

でも、数字になる前のものだった。

アオイが静かに記録を始める。


――生活圏被害、口述記録開始。


別の男が言う。


「海沿いの親戚は、三年前に内側へ移った。魚が獲れないからだと言っていた」


女が続ける。


「子供には食べさせています。でも、大人は一日一度の時もあります」


老人が、目を伏せた。


「昔の網は、もう使う意味がない。かかる魚が小さすぎる」


一つ。

また一つ。

今まで黙っていたものが、言葉になっていく。

康生は広場の真ん中で、それを聞いていた。

神託ではない。

祈りでもない。

ただの調査だ。

少なくとも、康生はそう言い張ることにした。

麻生が人を整理し始める。


「各家の代表は残れ。古い漁の記憶を持つ者もだ。防人は周辺集落の情報を集めろ。食料の備蓄量は隠すな。恥ではない」


そこで麻生は、康生を見た。


「康生殿」

「はい」

「先ほどの言葉を、皆に」

「え」

「飢えは恥ではないと」


康生は少し困った。

自分が言ったわけではない。

だが、言うべきことではある気がした。

広場の人々が見ている。

康生は、ゆっくり口を開いた。


「腹が減るのは、恥じゃないです」


村人たちが静まる。


「食えないのを我慢して、何も言わない方が偉いわけでもないです。困っていることを数字にするのは、弱いからじゃない。施設に分からせるためです」


康生は少しだけ言葉を探した。


「水がきれいなだけじゃ駄目なんです」


誰かが顔を上げる。


「魚がいて、人が食えて、暮らせないと意味がない」


アオイの瞳が、淡く光った。


「記録しますか」

「するな。いや、必要ならしていい」

「記録します」

「やっぱり恥ずかしいな」


麻生は深く頷いた。


「水が清く、魚が戻り、人が暮らせる海」

「そういうことです」

「食える海」


亮太が言った。

康生は少し笑った。


「そう。食える海」


村人たちの中に、小さなざわめきが起きた。

祈りのざわめきではない。

諦めきっていたものを、少しだけ思い出したようなざわめきだった。

康生は、それを見て胸の奥が少し重くなった。

自分は、まだ何も戻していない。

十四日だけ施設を休ませただけだ。

でも、言葉だけは先に出てしまった。

食える海。

それを本当にするには、まだ遠い。


「アオイ」

「はい」

「十四日以内に、どこまで集めればいい」

「最低限、村内の食料摂取状況、過去の漁獲証言、海沿い集落の現状、周辺水域サンプルが必要です」

「水域サンプルもいるのか」

「はい。施設内サンプルだけでは不足します」

「つまり、海にも行く?」

「推奨します」


亮太が眉を寄せる。


「海は危ないぞ」

「知ってる」

「海沿いには小型だけじゃなく、中型も出る」

「知ってる」

「防衛隊の巡回とも合うとは限らない」

「…知りたくなかった」


アオイが言う。


「生存率を上げるには、防人の同行が必要です」


亮太はため息をついた。


「俺、腕折れてるんだけどな」

「左腕です」

「そういう問題じゃない」

「藤倉亮太の同行は有効です」

「また有用扱いか」

「今回は有効です」

「変えればいいってもんじゃない」


康生は亮太に頭を下げかけて、途中で止めた。

村人たちが見ている。


「…頼む。頭は下げないけど頼む」


亮太は苦笑した。


「そこ気にするんだな」

「さっき効くって言われたから」

「分かった。行ける範囲で手伝う」

「助かる」

「近侍じゃなくて監視役としてな」

「普通枠で」

「それも違う」


麻生が力強く頷いた。


「では、康生殿の調査に、防人をつけます」

「神託じゃなくて調査でお願いします」

「承知しています」


麻生は村人たちへ向き直った。


「これは調査である。各家、隠さず話せ。飢えは恥ではない。数字にし、旧き施設へ届ける」


そこまではよかった。

麻生は一拍置いて、厳かに続けた。


「康生殿の御心に従い、食える海を取り戻すために」

「だから混ぜるな!」


また、村人たちが少し笑った。

康生は頭を抱えた。

でも、その笑いは悪くなかった。


     *


聞き取りは、その日のうちに始まった。

広場の隅に木板が並べられ、アオイが記録端末を展開する。

亮太が村人の言葉を噛み砕き、康生が余計なことを言いそうになるたびに止める。

麻生は、各家の代表を順番に呼んだ。

最初に来たのは、さっきの老婆だった。


「昔は、魚を干す煙で目が痛くなったものです」


アオイが記録する。


「現在は」

「干すほど獲れません。小さい魚を、粥に混ぜて増やします」

「頻度は」

「三日に一度あればいい方です」


康生は口を挟みかけた。

亮太が視線で止める。

康生は黙った。

次に来た女は、子供を連れていた。


「この子には食べさせています。でも、私は夜は水だけの時があります」


康生は拳を握った。

アオイが記録する。

亮太が静かに聞く。


「それは、どれくらい続いていますか」

「冬からです」


冬から。

康生はその言葉を胸の中で繰り返した。

数字にするために聞いている。

でも、聞けば聞くほど、数字だけでは足りない気がした。


「康生」


アオイが小さく言った。


「はい」

「感情反応が上昇しています」

「見れば分かるだろ」

「記録には入れません」


康生はアオイを見た。


「…なんで」

「これは施設提出用データではなく、あなたの反応です」

「いつもは何でも記録するのに」

「不要と判断しました」

「そうか」


康生は少しだけ息を吐いた。


「ありがと」


アオイは何も言わなかった。

ただ、次の聞き取り項目を開いた。

夜が近づく頃には、木板と端末にはかなりの情報が集まっていた。

正確な数字とは言えない。

記憶もある。

証言もある。

曖昧な話もある。

それでも、何もないよりはずっといい。

飢えが、少しずつ形になっている。

康生は広場の端に座り込み、空を見上げた。

星はまだ見えない。

けれど、夕方の赤は薄れ、夜の青が降り始めている。


「十四日か」


また、康生は呟いた。


「はい」


アオイが隣に立つ。


「短いな」

「はい」

「でも、やるしかない」

「はい」

「俺、こういうの向いてないんだけどな」

「しかし、現在あなたは中心人物です」

「嫌な事実だな」

「社会的有用性が上昇しています」

「もっと嫌だ」


アオイは少し沈黙した。

それから言った。


「今の行動は、悪くありません」


康生はアオイを見た。

その顔は、いつも通り無表情だった。

けれど、言葉だけは少し違った。


「…そうか」

「はい」

「じゃあ、続けるか」

「はい」


広場では、まだ聞き取りが続いている。

神託ではなく、調査として。

少なくとも、康生はそう言い張ることにした。

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