第四十一話 休ませるための言い訳
解析室へ戻ると、赤い警告灯は消えていた。
白い壁は白い壁に戻り、モニターの表示も落ち着いている。
さっきまで危険物区画で暴れていた異物反応は、三つとも隔離状態になっていた。
――危険物漏出リスク、低下。
――中和槽圧力、安定域。
――緊急封じ込め操作、完了。
――サンプル解析、再開可能。
康生はその文字を見て、ようやく肩の力を抜いた。
「よし。触らなかった」
「はい」
「危険物には触らなかった」
「はい」
「そこは俺を評価してほしい」
「危険物非接触を確認。評価します」
「なんか思ってた褒め方と違う」
保守機が足元で青いランプを点滅させた。
『点検補助対象、危険物に触れませんでした』
『安全規定に従いました』
『ご協力ありがとうございます』
「お前はいいやつだな」
「施設規定に基づく定型応答です」
「分かってるけど、今はいいやつ扱いしたい」
康生は作業台の前に立った。
解析機の中では、放流水、海水、堆積物、村の食料サンプルが次々と処理されている。
モニターには数字が並んでいた。
康生には細かい意味までは分からない。
だが、何となく悪い数字なのだろう、ということだけは分かった。
アオイが表示をまとめる。
「放流水、海水、堆積物、いずれも有効リン濃度が極低値です」
「やっぱり低いのか」
「はい。植物プランクトン量も極少。浮遊有機物も低値。生態系の基礎生産が抑制されている可能性が高いです」
「分かるように」
「海が飢えています」
「分かりやすいけど嫌だな」
別の画面に、村の食料サンプルの解析結果が出ていた。
――タンパク質含有量、低。
――脂質含有量、低。
――微量栄養素、偏りあり。
――外部共同体食料状態、要注意。
康生は眉を寄せた。
「これ、村の食い物もよくないってことだよな」
「はい」
「ただの粗食じゃなくて」
「慢性的な栄養不足の可能性があります」
「…そうか」
亮太の顔が浮かんだ。
硬い穀物を普通に食べていた顔。
少ない魚を当然のように分けていた村人たち。
あれは、この時代の普通なのだろう。
普通になってしまった不足。
康生は小さく息を吐いた。
「これで再評価できるか」
「試行します」
アオイが端末に接続する。
「外部サンプルおよび食料サンプル解析結果を提出。栄養塩過剰回収による沿岸生態系基礎生産低下、および人類生存共同体の食料栄養価低下の関連可能性を提示。施設目標値の再評価を申請します」
画面が点滅した。
――申請内容、受理。
――外部サンプル、確認。
――食料サンプル、補助データとして確認。
――生体栄養状態データ、不足。
――沿岸漁獲データ、不足。
――外部観測網、応答なし。
――主要目標値の変更には管理者承認が必要です。
康生は目を細めた。
「駄目?」
「主要目標値の変更は不可です」
「管理者がいないから」
「はい」
「サンプル集めたのに」
「再評価には進みましたが、決定権限がありません」
「めんどくさいなあ、旧文明!」
中枢から定型音声が流れる。
『外部サンプルを受領しました』
『詳細評価には追加データが必要です』
『管理者承認を取得してください』
『環境保守目標、達成中』
「達成してる場合じゃないって言ってるだろ」
『環境保守目標、達成中』
「ほら、聞かない」
アオイが淡々と答える。
「当施設は、設定された評価項目に基づいて成功状態を維持しています」
「だから困ってる」
「はい」
康生は作業台に手をついた。
「じゃあ、目標値は変えられない」
「はい」
「リン回収率も変えられない」
「主要目標としては変更不可です」
「抜け道の匂いがする言い方だな」
アオイは一拍置いた。
「目標値の変更は不可です」
「うん」
「しかし、設備保護を目的とした一時的な低負荷運転は、管理者不在時でも実行可能な場合があります」
「低負荷運転」
「はい」
「止めるんじゃなくて、休ませる?」
「近似表現としては正しいです」
康生は顔を上げた。
「それだ」
「ただし、理由が必要です」
「理由なら山ほどあるだろ。保管区は満杯寸前、虫が出た、中和槽も壊れかけ、保守機も壊れた。十分すぎる」
「はい。設備破損、危険物区画異常、保管容量限界、害獣侵入。これらは環境保守継続に対する設備リスクとして申請可能です」
「つまり、海を戻すためじゃなくて、施設を壊さないために出力を下げる」
「はい」
「結果的に海への取りすぎが減る」
「はい」
「…言い訳だな」
「正式っぽい言い訳です」
「採用」
康生は少しだけ笑った。
真正面から「お前は間違っている」と言っても、この施設は聞かない。
なら別の言い方をするしかない。
正しさを止めるのではなく、正しさを続けるために休ませる。
なんとも回りくどい。
けれど、この施設にはたぶん、その言い方しか通じない。
「アオイ、申請文作れるか」
「作成します」
アオイは端末へ手を置いた。
「保管区容量限界、害獣侵入、危険物区画損傷、保守アーム損壊、および中和槽圧力変動により、現行最大処理継続は施設全体の環境保守能力を低下させる危険があります。環境保守継続のため、リン回収・栄養塩除去ラインの一時的低負荷運転を申請します」
康生は頷く。
「いい。すごく正式っぽい」
「続けます」
アオイの声が少しだけ硬くなった。
「低負荷運転は段階的に実施し、外部観測網復旧または人類生存共同体側の追加データ提出までの暫定措置とします。急激な栄養塩流出を避けるため、放流水基準の安全域を維持しつつ、過剰回収を抑制します」
「ちょっと待て」
「何ですか」
「俺にも分かるように」
「いきなり全部戻すと赤潮等のリスクがあります。少しずつ弱めます」
「最初からそう言え」
「正式文ではありません」
「正式文ってめんどくさいな」
申請が送信される。
画面が沈黙した。
長い沈黙だった。
ポンプの音だけが聞こえる。
遠くで水が流れている。
どこかで保守機が小さく歩く音もした。
康生は何となく、息を止めていた。
やがて、文字が出る。
――申請内容、受理。
――保管区容量、九十八・七パーセント。
――害獣侵入、確認。
――危険物区画損傷、確認。
――保守アーム損壊、確認。
――現行最大処理継続、設備リスクあり。
――環境保守継続のため、低負荷運転を審査。
「通りそう?」
「審査中です」
「がんばれ、旧文明」
「施設に努力概念はありません」
「気分の問題だよ」
さらに文字が流れた。
――海域富栄養化リスク、低。
――赤潮発生リスク、低。
――酸欠水塊発生リスク、低。
――低負荷運転時の短期リスク、許容範囲。
――一時低負荷運転、承認。
――期間、暫定十四日。
――再評価条件、外部サンプル追加提出または管理者承認。
――リン回収ライン、段階的出力制限へ移行。
康生は、画面を見たまま固まった。
「通った?」
「はい」
「本当に?」
「一時低負荷運転が承認されました」
「目標値は変わってない?」
「はい。目標はそのままです。設備保護のため、処理能力を下げます」
「言い訳で通った」
「はい」
「俺、今、ちょっとすごくない?」
「正式っぽい迂回に成功しました」
「褒め方が悪いけど、今は許す」
その時、施設全体が低く鳴った。
ごうん、と腹に響くような音。
それまでずっと一定だったポンプ音が、わずかに落ちる。
天井の配管を流れる水音も変わった。
機械の唸りが、一段だけ低くなる。
モニターの表示が切り替わる。
――第一リン回収ライン、出力九十パーセントへ。
――第二栄養塩除去ライン、間欠運転へ。
――保管区搬送ライン、停止。
――放流水再評価、継続。
――低負荷運転、開始。
康生はしばらく、音を聞いていた。
三百年以上止まらなかった施設が、少しだけ息を弱めた。
止まったわけではない。
壊したわけでもない。
ただ、ほんの少しだけ休ませた。
「…動いてる音が、変わったな」
「はい」
「これで海は戻る?」
「即時回復は期待できません」
「だよな」
「ただし、過剰回収は低下します。長期的には、沿岸生態系回復の可能性があります」
「可能性」
「はい」
「今はそれでいいか」
中枢の声が流れた。
『一時低負荷運転を開始します』
『環境保守目標、継続中』
『きれいな海を、未来へ』
康生は少しだけ目を細めた。
「未来は、もう来てるんだよ」
『環境保守目標、継続中』
「まあ、聞かないか」
アオイが画面を確認する。
「暫定十四日です。期限までに追加データを提出しなければ、施設は通常出力へ復帰します」
「戻るのか」
「はい」
「じゃあ、村に帰って、医療端末探して、防衛隊にも正式に報告して、追加データを集める必要がある」
「はい」
「仕事増えたな」
「増えています」
「知ってた」
康生は背伸びをした。
右肩が少し痛む。
背中も痛い。
でも、さっきより気分は悪くない。
一つだけ進んだ。
本当に一つだけだ。
けれど、さっきまで絶対に止まらなかったものが、少しだけ弱まった。
それだけで、十分に大きい気がした。
*
低負荷運転への移行が完了すると、解析室の保守機が康生の前へ来た。
『点検補助対象』
『一時低負荷運転へのご協力、ありがとうございます』
『追加データを提出してください』
『十四日以内に提出してください』
「催促が早い」
「期限管理です」
「分かってるけど」
保守機は、さらに青いランプを点滅させた。
『危険物に触れないでください』
「もう触らないって」
『今後も触れないでください』
「念押しがすごい」
アオイが通信端末を確認した。
「施設外部へ出れば、防衛隊通信への正式接続を試行できます」
「未承認接続じゃないよな」
「はい。シラヌイへの報告として送信します」
「よし。絶対バックドアとか仕込むなよ」
「現時点では」
「現時点を外せ」
「…仕込みません」
「今の間は何だ」
「処理を再定義しました」
「怖いなあ」
康生は荷物を拾い直した。
村人が持たせてくれた乾燥肉と穀物は、少しだけ減っている。
サンプルとして削ったからだ。
ほんの少しなのに、なぜか申し訳なかった。
「帰ったら、これ説明しないとな」
「はい」
「食料、勝手に使ったって怒られるかな」
「村人は、海の回復に使用されたと知れば納得する可能性が高いです」
「それ、麻生さんが聞いたら儀式化しない?」
「可能性があります」
「やっぱり黙ってようかな」
「透明性は信頼性を高めます」
「透明性が神格化を高める場合は?」
「神格化は今後の活動に極めて有効です」
「俺のメンタルには極めて有害だよ」
出口へ向かう途中、中枢制御室をもう一度通った。
中央の柱は、相変わらず光っている。
数字も流れている。
だが、一部の線は青から薄い緑へ変わっていた。
処理量が落ちたことを示しているのだろう。
保守機たちは忙しそうに動いていた。
壊れた保管区。
封じた中和槽。
満杯に近いリン資源。
全部が残っている。
解決したわけではない。
ただ、悪化の速度を落としただけだ。
康生は中央の柱を見上げた。
「なあ」
「はい」
「こいつ、休んでるって分かってるのかな」
「施設に休息概念はありません」
「だろうな」
「ただし、低負荷運転へ移行しています」
「じゃあ、俺が勝手にそう思う」
「何をですか」
「少し休めって」
アオイは、中央の柱を見た。
それから康生を見た。
「その言葉は、施設には届きません」
「知ってる」
「記録しますか」
「…いや、いい」
康生は小さく首を振った。
「届かないなら、言わなくていい」
そう言ったのに、少しだけ胸の中で思った。
少し休め。
もう十分働いただろ。
声には出さなかった。
出しても、施設はきっと同じ定型文を返すだけだ。
それでも、ポンプの音が少しだけ静かになっていることが、康生には救いだった。
*
施設の出口へ戻る途中、壊れかけの保守機と再び出会った。
保管区で中型個体の足止めをした、あの機体だった。
片方のブラシは折れ、レンズにはひびが入り、四本脚のうち一本はぎこちない。
それでも、通路の端で小さく動いていた。
『点検補助対象』
『足元に注意してください』
康生は足を止めた。
「お前、まだ動いてたのか」
『足元に注意してください』
「ほんと律儀だな」
アオイが保守機を見た。
「損傷が進行しています」
「直せる?」
「この場では応急補修程度です」
「やれる?」
「可能です。ただし、施設壁面の自己補修材を一部流用します」
「俺の身体に入れるのは嫌だけど、こいつならいい」
「判断基準が不合理です」
「人間だからな」
アオイは少しだけ黙った。
「応急補修を行います」
アオイが保守機の横に膝をついた。
袖口から、細い銀色の粒子が流れる。
それが保守機の脚の関節へ入り込み、折れたブラシの基部を固定し、ひびの入ったレンズ周りを補強する。
完全には戻らない。
だが、青いランプの点滅が少しだけ安定した。
『応急補修、確認』
『ありがとうございます』
『点検補助対象、足元に注意してください』
康生は苦笑した。
「そこは変わらないのか」
「保守機ですので」
「まあ、そこがいいんだけどな」
保守機は、ぎこちない足取りで通路の端へ下がった。
康生たちを通すように。
康生はその横を通り過ぎるとき、小さく手を振った。
「またな。後でちゃんと直せたら直す」
『管理者へ報告してください』
「管理者じゃないんだよなあ」
けれど、少しだけ気分は悪くなかった。
施設は止まっていない。
海はまだ痩せている。
虫もまだ残っている。
十四日以内に追加データを持って戻らなければ、全部元通りになる。
それでも。
止まれない正しさを、ほんの少しだけ休ませることはできた。
康生は出口へ向かって歩き出した。
その背後で、低くなったポンプ音が、以前より少しだけ穏やかに響いていた。




