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規約違反者と監視AI 〜目覚めた未来で、人間扱いされたくて〜  作者: 八汐
第四章 痩せた海

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第三十九話 危険物に触れないでください

サンプル解析区画へ続く通路は、やけに明るかった。

天井の照明が生きている。

壁も白い。

床も清掃されている。

古い施設の奥へ進んでいるはずなのに、そこだけ三百年前の清潔さを無理やり保っているようだった。

それが、逆に気持ち悪かった。


『点検補助対象、こちらです』

『危険物に触れないでください』

『指定された通路から外れないでください』


前を歩く保守機が、妙にきれいな声で案内する。

さっきの壊れかけの保守機より新しい機体らしく、足取りも安定していた。

ブラシも折れていない。

レンズも曇っていない。


「新品っぽいな」

「保守状態が良好です」

「なのに言ってることは怖い」

「安全案内です」

「危険物に触れるなって何回も言われると、むしろ触れる未来が見えるんだよ」

「触れないでください」

「お前まで言うな」


通路の横には、何枚もの扉が並んでいた。


――放流水サンプル室。

――海水再評価ライン。

――堆積物前処理室。

――栄養塩再投入試験槽。

――酸性処理液中和槽。

――反応性濃縮物保管室。


康生は最後の二つから目を逸らした。


「見なかったことにしたい扉がある」

「推奨しません」

「開けないよな?」

「現時点では、解析に必要な区画ではありません」

「現時点を外せ」

「解析結果次第です」

「外せって言っただろ」


保守機が一つ目の扉の前で止まった。


『放流水サンプル室です』

『点検補助対象は、指定容器を受け取ってください』


扉が開いた。

中は小さな実験室のような場所だった。

壁には透明な管が何本も走り、中央には作業台がある。

作業台の上に、円筒形の容器が並んでいた。

康生は恐る恐る一つ手に取る。


「これに水入れればいいのか」

「はい」

「簡単そう」

「簡単な作業ほど事故が多い傾向があります」

「不吉なこと言うな」


壁の管の一つが青く光った。

その下に、蛇口のようなものがある。


『放流水サンプルを採取してください』

『容器を接続してください』

『こぼさないでください』


「こぼしたら?」

「床面清掃処理が開始されます」

「それだけ?」

「サンプル汚染として再採取になります」

「地味に嫌だな」


康生は容器を接続した。

透明な水が、静かに流れ込んでいく。

本当に透明だった。

匂いもない。

濁りもない。

三百年前の浄水場の水です、と言われても信じただろう。

けれど、康生はもう知っている。

これは、きれいすぎる水だ。


「飲めそうだな」

「飲用は推奨しません」

「だよな」

「栄養塩濃度が低すぎます」

「飲み水としても駄目なのか」

「即時有害ではありませんが、常用には不適です」

「きれいなのに」

「はい」


容器が満たされる。

機械が勝手に蓋を閉じ、作業台の奥へ運んでいった。


――放流水サンプル、受領。

――解析開始。


次の扉へ移動する。

海水再評価ラインでは、外部の取水口から引き込まれた海水を採取した。

これもまた、透明だった。

わずかに塩の匂いがするだけで、海らしい生臭さがほとんどない。

康生は容器の中を覗き込む。


「海って、こんなに何もないもんだっけ」

「植物プランクトン反応、極少」

「やっぱり」

「浮遊有機物も低値」

「死んでるみたいだな」

「死んではいません」

「じゃあ?」

「飢えている状態に近いです」


康生は容器から目を逸らした。

海が飢える。

変な言い方だ。

だが、それが一番しっくり来た。


     *


三つ目の堆積物前処理室で、問題が起きた。


『堆積物サンプルを提出してください』

『自動採泥ライン、応答なし』

『手動採取補助を行ってください』


康生は眉を寄せた。


「手動?」

「はい」

「どこから採るんだ」

「施設外の排出口付近、または再評価用沈殿槽です」

「施設外は戻るの面倒だな」

「再評価用沈殿槽が近くにあります」

「安全?」

「区画によります」

「またそれか」


保守機が別の扉へ向かった。

そこには、黄色い警告灯が点滅していた。


――再評価用沈殿槽。

――隣接区画、酸性処理液中和槽。

――防護装備を確認してください。


康生は足を止めた。


「隣接って出てる」

「はい」

「酸性処理液って出てる」

「はい」

「帰らない?」

「推奨しません」

「だよな」


扉が開く。

中は広い槽の上に歩廊が渡された区画だった。

下には灰色の泥のようなものが薄く溜まっている。

水ではない。

土でもない。

施設から流れ込んだ細かな粒子が、長い時間をかけて沈んだものだろう。

その奥の壁には、分厚い隔壁があった。

隔壁の向こう側から、低い機械音がする。

時々、しゅう、と何かが蒸気を吐くような音も聞こえた。

康生はそちらを見ないようにした。


「聞かなかったことにしたい音がする」

「隣接する中和槽の圧力抜きです」

「聞きたくなかった」


保守機が小さな採取アームを伸ばした。

しかし、途中で止まる。


『手動補助を要求します』

『採取アームに堆積物固着』

『点検補助対象は、詰まりを除去してください』


康生はアームを見る。

灰色の泥が固まっている。

近づけば取れそうだ。

ただし、歩廊の端ぎりぎりにある。

下には沈殿槽。

奥には中和槽。

床は微妙に濡れている。


「アオイ」

「はい」

「俺、これやるべき?」

「やらない場合、サンプル採取が進みません」

「やるべきか聞いたんだよ」

「推奨はしません」

「だよな」

「しかし、必要です」

「言い方ァ」


康生は慎重に歩廊を進んだ。

金属の床が、ぎし、と鳴る。

手すりはある。

あるが、錆びている。


「この手すり、信用できる?」

「三十七パーセント」

「信用できないじゃん」

「体重をかけないでください」

「言われなくても!」


康生は採取アームに手を伸ばした。

灰色の固まりを指で掴む。

ぬるりとしている。

あまり触りたくない感触だった。


「うわ、気持ち悪い」

「有機物含有率は低いです」

「そういう問題じゃない」


固まった堆積物を外す。

ぽろりと落ちた。

採取アームが動き出す。


『手動補助、ありがとうございます』

『堆積物サンプルを採取します』


「よし、終わった」


康生が戻ろうとした、その時だった。

隣の隔壁が、低く鳴った。

ごん、と内側から叩かれたような音。

康生の足が止まる。


「今のは?」

「中和槽側で圧力変動」

「安全?」

「隔壁が正常なら安全です」

「今の聞いて正常だと思う?」

「不明です」

「一思いにハッキリ言ってくれ!」


もう一度、音がした。

ごん。

今度ははっきり分かった。

圧力ではない。

何かがぶつかっている。

アオイの瞳が光る。


「中和槽内に異物反応」

「虫?」

「不明」

「不明やめろ」

「隔壁越しのため、解析精度が低いです」


保守機が、平然と音声を流した。


『堆積物サンプル採取完了』

『次の区画へ移動してください』


「今の音、無視するの?」

『次の区画へ移動してください』

「無視するんだな」


アオイが隔壁を見た。


「中和槽は本来、外来群体が侵入できる構造ではありません」

「本来は、だろ」

「はい」

「じゃあ、今は?」

「不明です」


康生は嫌な予感しかしなかった。

だが、今ここで隔壁を開ける選択肢はない。

酸性処理液だの中和槽だの、名前だけで近づきたくない区画だ。

虫がいるかもしれないから開けてみよう、などとはならない。

絶対にならない。


「…閉じとこう」

「妥当です」

「記録だけしといてくれ」

「記録しました」


隔壁の向こうで、三度目の音がした。

ごん。

康生は聞こえなかったことにして、足早に部屋を出た。


     *


採取したサンプルは、解析室へ送られた。

中枢制御室ほどではないが、そこも明るかった。

透明な容器が機械の中へ吸い込まれ、細い管の中を水や泥が流れていく。

画面に数字が並ぶ。


――放流水リン濃度、極低。

――海水リン濃度、極低。

――堆積物中有効態リン、極低。

――植物プランクトン量、極低。

――有機物量、低。

――生物反応、希薄。


康生は画面を見る。


「全部低いな」

「はい」

「ここまで来ると、施設も気づかないのか」

「施設は気づいています」

「え」

「データとしては認識しています。ただし、それを異常と判断する評価項目がありません」

「もっと嫌だな、それ」


画面の横に、別の文字が出る。


――栄養塩不足警告、項目なし。

――富栄養化リスク、低。

――環境保守目標、達成中。


康生は顔をしかめた。


「低ければ低いほど成功、ってことか」

「現行規定では」

「やっぱり止まれない正しさだな」


アオイが別の画面を開く。


「人的被害評価には、生体栄養状態の入力が不足しています」

「やっぱりそこか」

「はい」

「俺は人間のサンプルになる?」

「通常生体ではありません」

「傷つく答えだな」

「加えて、あなたの栄養状態は旧人類評価基準に適合しません」

「じゃあアオイは?」

「私は人工端末です」

「だよな」


康生は背負ってきた荷物を見た。

村人たちが持たせてくれたものだ。

水。

乾燥肉。

硬い穀物。

薬草。

それから、供物扱いされかけた金属片。

康生は乾燥肉と穀物の包みを取り出した。


「これ、使えるか?」

「村の食料サンプルとして解析可能です」

「生体じゃなくて食料だけど」

「食料栄養価から、共同体の栄養状態を推定する補助データにはなります」

「出したくないなあ」

「なぜですか」

「食料、貴重だろ。村の人が持たせてくれたやつだし」

「少量で解析可能です」

「ならいいか」


康生は乾燥肉を少しだけ削り、穀物を数粒、容器へ入れた。

保守機がそれを受け取り、解析機へ運ぶ。


――外部共同体食料サンプル、受領。

――栄養評価開始。


画面に数字が並ぶ。

康生にはほとんど意味が分からない。

ただ、アオイの表情がわずかに硬くなった気がした。


「悪い?」

「良くありません」

「どれくらい」

「慢性的なタンパク質不足、微量栄養素不足、脂質不足の可能性があります」

「…そうか」


亮太の村の食事を思い出す。

硬い穀物。

少ない魚。

薄い汁。

あれが、日常なのだろう。

中枢端末が反応した。


――人的被害補助データ、入力。

――食料栄養価、低。

――沿岸資源減少との関連性、再計算中。

――外部サンプル不足。

――追加データが必要です。


康生は肩を落とした。


「まだ足りないのかよ」

「生体側の実測値がありません」

「村人連れてくるのは無理」

「はい」

「じゃあどうする」

「代替手段を検索します」


アオイが画面を操作する。

しばらくして、別の項目が開いた。


――旧防人村健康診断ログ。

――最終同期、百十二年前。

――以後、通信断絶。

――ローカル医療端末、応答なし。


康生は目を細めた。


「健康診断ログ?」

「過去には、各防人村と防衛隊、環境施設の間で最低限の栄養・健康データが共有されていたようです」

「今は?」

「通信断絶」

「でも、村に医療端末が残ってれば」

「現在のデータを取得できる可能性があります」

「つまり、ここだけじゃ完結しない?」

「はい」


康生はため息をついた。


「戻って、村の医療端末探して、データ取って、また来る?」

「あるいは、防衛隊経由で再評価申請を行う」

「シラヌイに?」

「はい」

「勝手に接続するなよ」

「正式要請を推奨します」

「よし。今のは偉い」

「記録します」

「それは記録してくれ」


その時、解析室の画面が赤く点滅した。


――中和槽圧力変動。

――隔壁負荷、上昇。

――酸性処理液区画、異物反応。

――害獣駆除処理、保留中。


康生は固まった。


「さっきの音のやつ?」

「はい」

「保留中って何で」

「危険物区画のため、通常保守機が侵入できません」

「じゃあ誰が駆除するんだ」

「管理者判断待ちです」

「管理者いないんだろ」

「はい」

「また永遠に待つやつじゃん」


スピーカーが明るい声で告げた。


『危険物区画内に異物反応を確認しました』

『安全確保のため、管理者の判断を待機しています』

『点検補助対象は、危険物に触れないでください』


康生は目を閉じた。


「絶対、俺たちに回ってくるやつだ」

「可能性は高いです」

「やわらかく」

「回ってくるかもしれません」

「やっぱり嫌だな」


画面の赤い警告が、さらに強く点滅した。


――隔壁負荷、危険域。

――中和槽内異物反応、増加。

――酸性処理液漏出時、サンプル解析区画に影響。


康生はゆっくりアオイを見た。


「漏れたら?」

「サンプル解析区画は閉鎖。中枢再評価は中断。施設は汚染拡大防止モードへ移行します」

「つまり」

「再調整申請が進まなくなります」

「虫も放置?」

「はい」

「最悪じゃん」


保守機が康生の前まで来た。


『点検補助対象』

『危険物区画への接近は非推奨です』

『しかし、危険物区画内異物反応の解消が必要です』

『管理者判断待機中です』


康生は保守機を見下ろした。


「こいつ、言ってること矛盾してない?」

「矛盾しています」

「どうすればいいんだよ」

「管理者権限があれば解決可能です」

「ないんだよ」

「はい」


赤い警告灯が、部屋の中を照らす。

白い壁が、ゆっくり赤く染まっていく。


康生は深く息を吐いた。


「アオイ」

「はい」

「危険物に触らず、虫だけ何とかする方法を探す」

「検索します」

「できれば正式に」

「困難です」

「じゃあ、できるだけ正式っぽく」

「了解しました」


康生は苦笑した。

まただ。

結局、そこに戻る。

正式な手続きでは足りない。

だが、完全な破壊もしたくない。

穴を探すしかない。

ただし今回は、世界を壊すためではなく、止まれない正しさを少しだけ止めるために。


「…ほんと、俺の人生どこで間違えたんだろうな」

「最初の規約違反です」

「まだ言うか!」


赤い警告灯の下で、康生の叫びが解析室に響いた。

その向こうでは、危険物区画の隔壁が、また低く鳴っていた。

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