第三十六話 善意の心臓
保守機は、思ったより丁寧だった。
小さな四本脚で濡れた廊下を進み、数メートルごとに止まっては、前面のレンズを康生たちへ向ける。
『点検補助対象、足元に注意してください』
『床面湿潤。転倒に注意してください』
『頭上配管、低位置にあります。接触に注意してください』
「親切だな」
「はい」
「さっきまで拘束しようとしてたけどな」
「はい」
「親切と拘束って両立するんだな」
「旧文明施設では珍しくありません」
「珍しくあってほしかった」
康生は濡れた床を慎重に歩いた。
廊下は白かった。
いや、白かったのだろう。
今は壁のあちこちに黒ずみがあり、天井からは水が染み、床には薄い膜のような汚れが広がっている。
それでも、施設全体には妙な清潔感があった。
壊れているのに、掃除されている。
古びているのに、磨かれている。
誰もいないのに、管理されている。
それが気味悪かった。
「ここ、廃墟っぽいのに廃墟じゃないな」
「稼働中の環境保守施設です」
「人はいないんだろ」
「生体反応は確認できません」
「なのに働いてる」
「はい」
「ブラック企業より怖いな」
アオイは少しだけ首を傾げた。
「当施設は企業ではありません。自治体および民間連携による広域環境保守事業体の一部です」
「そういう真面目な訂正いらない」
廊下の壁には、古いポスターのようなものが貼られていた。
色は褪せ、端は剥がれている。
それでも文字は読めた。
――きれいな水を、次の世代へ。
――海を守る。暮らしを守る。
――富栄養化ゼロへ。未来のために。
康生は足を止めた。
「…ちゃんとしてるな」
「はい」
「悪の施設って感じじゃない」
「元々は必要な施設です」
「だよな」
ポスターには、青い海と、魚と、笑う子供の絵が描かれていた。
三百年前の康生が見れば、何の疑問も持たなかっただろう。
環境を守る施設。
水をきれいにする施設。
海を汚さないための施設。
正しい。
たぶん、とても正しい。
それが三百年以上止まらなかっただけだ。
「…こういうの、嫌だな」
「何がですか」
「悪いやつが悪いことしてるなら、殴ればいいだろ」
「はい」
「でも、これは違う。元は良いことなんだよな」
「はい」
「止めるの、気分悪いな」
「停止ではなく、再調整が望ましいです」
「言い方ひとつで少し楽になるな」
「記録します」
「何でも記録するな」
保守機が前方で止まった。
『第一処理水路、通過します』
『柵を越えないでください』
『転落した場合、救助できない可能性があります』
「最後の一文怖いな」
扉が開いた。
その先は、巨大な空間だった。
康生は思わず息を呑んだ。
天井が高い。
薄暗い。
何本もの太い配管が天井近くを走り、その下に、巨大な水路が何列も並んでいる。
水はゆっくり流れていた。
透明で、冷たい光を反射している。
水路の両側には金属の歩廊が伸び、ところどころで保守機がブラシを動かしていた。
誰もいない。
でも、止まっていない。
水の音。
機械の音。
遠くで回るポンプの低い唸り。
その全部が、胸の奥に重く響いた。
「…すごいな」
「はい」
「これ、三百年動いてるのか」
「一部停止区画はありますが、主要系統は稼働を継続しています」
「しぶといな、旧文明」
「自己補修ピコマシン、冗長電源、海水由来資源回収、低出力運転により維持されています」
「真面目にすごい」
「はい」
「すごいから困るな」
康生は水路を覗き込んだ。
水はきれいだった。
底まで見えそうなくらい澄んでいる。
だが、その中に生き物の影はない。
藻もない。
小さな虫すらいない。
ただ、きれいな水だけが流れている。
「また、きれいすぎる」
「はい」
「この水、どこに流してる」
「海です」
「これをずっと流し続けてたのか」
「はい」
「栄養を抜いて?」
「はい」
「…海が痩せるわけだ」
アオイの瞳が淡く光った。
「水路内のリン濃度、極めて低値。窒素系栄養塩も低値。生態系維持に必要な微量元素の一部も過剰除去されています」
「やりすぎだろ」
「当施設の目標は、富栄養化原因物質の流出抑制です」
「必要だったんだよな」
「はい」
「でも、下限がない」
「はい」
康生は顔をしかめた。
「上限は決めたけど、少なすぎる方のルールがなかったのか」
「推定、正しいです」
「水質を良くする、だけだったんだな」
「はい」
「良くしすぎると死ぬ、って誰も設定しなかった」
「当時の問題は過剰栄養、汚染、赤潮、酸欠水塊でした」
「足りなくなる未来を想定してなかった」
「はい」
康生は水路の流れを見つめた。
透明な水が、静かに流れている。
正しすぎる水。
きれいすぎる水。
命の気配を削った水。
「善意の心臓って感じだな」
「心臓ですか」
「ずっと動いてる。止まれない。自分が何をしてるか分からないまま」
「比喩としては適切です」
「褒めた?」
「評価です」
「シラヌイみたいな言い方するな」
「不本意です」
保守機がまた歩き出した。
『点検補助対象、環境異常点検ルートへ移動します』
『リン固定資源保管区へ向かいます』
「リン固定資源」
「回収したリンを不溶化、固形化した資源です」
「肥料みたいなもん?」
「用途としては近似します」
「それ、村に持って帰ったら畑に使えるんじゃないのか」
「成分と処理状態の確認が必要です」
「海に戻すとか」
「急激な投入は赤潮や局所汚染を招く可能性があります」
「面倒くさいな」
「環境は複雑です」
「正しさも難しいな」
歩廊を進む。
水路を渡り、何枚もの扉を抜ける。
その途中、古いスピーカーから施設の声が流れた。
『当施設は、海域環境保全基準に基づき、栄養塩流出を抑制しています』
『きれいな海を、未来へ』
『未登録作業員は、安全規定に従ってください』
康生は立ち止まらずに呟いた。
「未来、もう来てるぞ」
「はい」
「未来の海、痩せてるぞ」
「はい」
「聞こえてんのかな」
「施設音声応答系は稼働していますが、意味理解範囲は限定的です」
「つまり、聞いてない」
「近似表現としては正しいです」
*
リン固定資源保管区は、巨大な倉庫だった。
扉が開いた瞬間、康生は言葉を失った。
白い塊が、積まれていた。
ただの塊ではない。
ブロックだ。
人の胴体ほどもある白灰色のブロックが、天井近くまで整然と積み上げられている。
一列。
二列。
十列。
その奥にも、さらに山のように。
薄暗い倉庫の中に、白い資源の山が沈黙していた。
「…何これ」
「リン固定資源です」
「多すぎない?」
「はい」
「これ全部、海から抜いたやつ?」
「河川、下水、工場排水、農地流出水、海水取水系統から回収されたリン化合物を固定化したものです」
「三百年分?」
「一部は過去に搬出された可能性がありますが、近年の搬出記録はありません」
「そりゃ、人がいないからな」
康生は倉庫の中へ一歩入った。
白いブロックの表面には、管理番号のようなものが刻まれている。
年号らしき数字もあった。
古いもの。
新しいもの。
いや、新しいと言っても、三百年後の現在に近いだけだ。
施設は今も回収している。
今も固めている。
今も積んでいる。
「保管場所、足りてるのか」
「確認します」
アオイの瞳が光る。
すぐに答えた。
「保管率、九十八・七パーセント」
「ほぼ満杯じゃねえか」
「はい」
「満杯になったら?」
「自動搬出系統が停止しているため、追加保管区画への転送、または一部処理系統の出力制限が行われるはずです」
「はず?」
「現在、その制限が正常に作動していません」
「つまり?」
「保管容量限界を超えても、回収処理が継続される可能性があります」
「馬鹿なのか」
「規定通りです」
「規定が馬鹿なんだよ」
その時、倉庫の上部で機械音がした。
天井走行クレーンのようなものが、ゆっくり動いていた。
古びたレールの上を、ぎぎ、と軋みながら進む。
その下に吊られたアームが、白いブロックを一つ掴む。
慎重に運び、すでに限界近くまで積まれた山の上へ置こうとしている。
康生は嫌な予感がした。
「アオイ」
「はい」
「あれ、置く場所なくないか」
「はい」
「止めた方がよくないか」
「はい」
クレーンのアームがブロックを下ろす。
積まれたブロックの山が、わずかに傾いた。
ぎしり、と音がした。
康生は一歩下がる。
「これ、崩れる?」
「崩落確率、上昇中」
「どれくらい」
「六十一パーセント」
「もう駄目じゃん!」
保守機が前に出た。
『保管作業中です』
『安全距離を確保してください』
『安全距離を確保してください』
「お前が言うな! 置くな!」
康生が叫んだ瞬間、ブロックの山が崩れた。
轟音。
白い塊が雪崩のように落ちる。
床が揺れる。
保守機が一台、巻き込まれて潰れた。
康生は反射的にアオイの腕を掴んで後ろへ跳んだ。
「うおっ!」
ブロックの一つが、さっきまで康生のいた場所に落ちる。
床が割れた。
「危なっ!」
「保管状態は不適切です」
「見れば分かる!」
白い粉塵が舞う。
康生は咳き込んだ。
「これ吸って大丈夫?」
「吸入は非推奨」
「先に言え!」
「発声を控えてください」
「またそれか!」
アオイが袖を振る。
周囲の空気がわずかに流れ、粉塵が康生の顔から逸れた。
支援端末らしいこともするのだな、と一瞬だけ感心しかけたが、すぐに状況がそれを許さなくなった。
崩れたブロックの奥で、何かが動いた。
康生は目を細める。
「……今、動いた?」
「はい」
「保守機?」
「いいえ」
白い粉塵の中で、何かが立ち上がる。
最初は、ブロックが崩れただけに見えた。
だが違う。
細い脚。
甲殻。
白っぽい外殻。
体表に、粉のようなものがこびりついている。
甲殻犬より大きい。
だが、大型ほどではない。
康生は喉を鳴らした。
「中型?」
「中型敵性個体と推定」
「なんでこんなところにいるんだよ!」
「リン固定資源を巣材、または外殻形成資源として利用している可能性があります」
「素材としての活用範囲、広いじゃねえか!」
「敵性個体にとっては有用だったようです」
「最悪の答え!」
白い中型個体が、粉塵の中からこちらを向いた。
目に相当する器官が、淡く青白く光っている。
口が、縦に裂けた。
保守機たちが一斉に反応した。
『保管区内害獣を確認』
『資源汚染リスク』
『駆除処理を開始します』
『点検補助対象は、安全距離を確保してください』
康生は思わず叫んだ。
「駆除できるのか!」
保守機の前面が開いた。
ブラシが高速回転する。
細いアームが伸びる。
噴霧ノズルが白い霧を吐く。
中型個体が、保守機の一台を前脚で叩き潰した。
金属がひしゃげる音。
タンクが割れ、透明な液体が床に広がる。
康生は半歩下がった。
「駆除できてない!」
「経年劣化により戦闘能力はありません」
「じゃあ駆除処理って言うな!」
白い中型個体が、ゆっくりこちらへ向く。
アオイが言った。
「逃走経路、背後の扉」
「開いてる?」
「現在、保管区安全規定により閉鎖されました」
「閉じ込められてるじゃねえか!」
「はい」
「はいじゃない!」
スピーカーが鳴った。
『保管区内害獣を確認』
『資源汚染リスク』
『点検補助対象は、駆除処理を支援してください』
康生は耳を疑った。
「今、支援しろって言った?」
「はい」
「俺、点検補助対象だよな」
「はい」
「点検から駆除に業務内容変わってない?」
「変更されています」
「労働契約どこ行った!」
白い中型個体が低く唸る。
康生は足元の白いブロックを見た。
固い。
重い。
投げるには大きすぎる。
だが、割れた欠片なら使えるかもしれない。
「アオイ」
「はい」
「俺、これ戦える?」
「通常状態では困難です」
「ですよね」
「ただし、環境利用により足止めは可能です」
「穴探しか」
「はい」
「得意分野って言いたいんだろ」
「はい」
「言うな!」
中型個体が跳んだ。
康生は白い粉塵の舞う保管区で、思いきり横へ転がった。
さっきまで康生が立っていた場所に、白い脚が突き刺さる。
床の金属がへこんだ。
康生は顔を引きつらせながら立ち上がる。
「リン回収施設って、環境施設じゃなかったのかよ!」
「現在は敵性個体の巣化を確認」
「善意の心臓、虫まで飼ってるじゃねえか!」
保管区の奥で、さらに白いブロックが崩れた。
その隙間から、もう一つ、細い脚が見えた。
一体ではない。
康生の背中に冷たいものが走る。
「アオイ」
「はい」
「これ、何体いる?」
「粉塵と資源ブロックにより、正確な走査が困難です」
「ざっくり」
「複数」
「一番嫌な答え!」
スピーカーが、壊れたように同じ言葉を繰り返す。
『保管区内害獣を確認』
『資源汚染リスク』
『駆除処理を開始します』
『点検補助対象は、駆除処理を支援してください』
康生は白い粉塵の中で、拳を握った。
世界を救うつもりなどなかった。
施設を止めるつもりで来た。
いや、まずは見に来ただけだった。
それなのに、今はなぜか、環境施設の倉庫で害獣駆除を命じられている。
「…俺、何の仕事でここ来たんだっけ」
「リン回収施設の限定偵察です」
「だよな」
「現在、偵察中に敵性個体と遭遇しています」
「現場猫みたいに言うな!」
白い中型個体が、二度目の跳躍姿勢を取った。
康生は足元のブロック片を拾い上げた。
重い。
だが、持てる。
「アオイ、弱点」
「甲殻の継ぎ目。腹部下側。脚部関節」
「いつも通り、狙いづらいとこばっかりだな」
「はい」
「はいじゃない」
康生は息を吸った。
白い粉塵。
崩れかけたリン資源の山。
閉じた扉。
壊れた保守機。
迫る中型個体。
善意の施設の奥で、規約違反者はまた、正面突破ではなく穴を探すことになった。




