第三十四話 きれいすぎる水
村の声が聞こえなくなるまで、思ったより時間がかかった。
康生は何度も振り返りそうになり、そのたびに我慢した。
振り返れば、まだ誰かが頭を下げている気がしたからだ。
実際、気配はあった。
門から離れても、背中に視線が刺さっている。
祈られている。
見送られている。
いや、見張られている方がまだ楽だった。
「…アオイ」
「はい」
「まだ見てる?」
「はい。村人八名が門付近からこちらを視認しています」
「人数まで言わなくていい」
「うち二名は手を合わせています」
「もっと言わなくていい」
康生は肩を落とした。
朝の森は静かだった。
足元には、壊れた旧道路が細く伸びている。
アスファルトは割れ、草と根が入り込み、ところどころで土に沈んでいた。
それでも道の形は残っている。
三百年以上前、人や車が通っていた跡だ。
「旧道路を使えば早いんだよな」
「はい。直線距離では南西四十七キロ。旧道路を経由すれば、徒歩二日以内に施設外縁へ到達可能です」
「二日以内」
「休憩を最小化した場合です」
「人間感覚で頼む」
「三日です」
「最初からそれでいい」
康生は歩きながら、横にいるアオイを見る。
いつも通り、足取りに迷いがない。
服にも泥がついていない。
枝も避ける。
湿った土でも沈まない。
「ずるいな」
「何がですか」
「歩き方」
「姿勢制御と接地圧分散を行っています」
「俺にもやって」
「あなたの構成体にも同種の補助はあります」
「え、あるの?」
「はい」
「じゃあなんで俺だけ泥ついてるの」
「使用者の歩行意識が旧人類型のためです」
「俺のせいかよ」
アオイは淡々と頷いた。
「改善は可能です」
「どうやって」
「歩行ログを解析し、最適化します」
「やって」
「ただし、急激に変更すると自分の足で歩いている感覚が低下します」
「やめよう」
康生は即答した。
身体が人間ではない。
それは分かっている。
分かっているが、足で地面を踏む感覚まで奪われるのは嫌だった。
泥がつくくらいでいい。
滑るくらいでいい。
たぶん、その方がまだ自分の身体だと思える。
「その判断は記録します」
「また?」
「人間感覚維持に関する重要な判断です」
「そんな大げさなもんじゃない」
「あなたは、効率より身体感覚の連続性を優先しました」
「言い方が急に重い」
「事実です」
「お前の事実はたまに重いんだよ」
康生はため息をついた。
亮太がいないと、会話が少し静かだった。
あいつがいれば、今のところで何か言っただろう。
「泥くらい普通だ」とか。
「歩けるだけましだ」とか。
あるいは「変なことを気にするな」と、真顔で言ったかもしれない。
康生は少しだけ後ろを見た。
もちろん、亮太はいない。
「…やっぱり、あいつ残してきてよかったよな」
「はい」
「腕、折れてたしな」
「はい」
「村もあるし」
「はい」
「麻生さんを止める普通枠も必要だし」
「はい」
「…でも、ちょっと寂しいな」
アオイは一拍置いた。
「藤倉亮太の不在により、会話内の常識的補正頻度が低下しています」
「寂しいって言ったらそう返す?」
「近似表現としては正しいです」
「絶対違う」
康生は苦笑した。
*
昼前、森が切れた。
視界が開ける。
古い橋があった。
橋、と呼んでいいのか分からない。
欄干は半分崩れ、道路の中央には大きな亀裂が走っている。
だが、まだ落ちてはいない。
その下を、細い川が流れていた。
康生は足を止めた。
水は澄んでいた。
驚くほど澄んでいた。
川底の石が見える。
流れに沈んだ錆びた金属片も見える。
透明な水が、冷たそうに流れている。
「……きれいだな」
思わず呟いた。
けれど、すぐに違和感が来た。
きれいすぎる。
水草がない。
苔も少ない。
小魚の影も見えない。
虫もほとんど飛んでいない。
澄んでいるのに、生きている感じがしない。
「アオイ」
「はい」
「この川、おかしくないか」
「はい。栄養塩濃度が低すぎます」
「やっぱり」
「リン濃度が、河川生態系維持に必要な下限を下回っている可能性があります」
「つまり、水がきれいすぎて死んでる?」
「近似表現としては正しいです」
「嫌な正しさだな」
康生は橋の端にしゃがみ込んだ。
水面を見つめる。
水は澄んでいる。
透明で、冷たくて、清潔に見える。
三百年前なら、きっと良いことだと思った。
汚れた川より、きれいな川の方がいい。
濁った水より、透き通った水の方がいい。
けれど、目の前の川は違った。
汚れがないのではない。
養分がない。
食べるものがない。
増えるものがない。
命の気配が薄い。
「旧文明は、これを目指したのか」
「元々は違います」
アオイが答えた。
「大戦後、都市排水、化学汚染、富栄養化による赤潮、酸欠水塊が深刻化しました。下水浄化、リン回収、汚染物質処理は必要な対策でした」
「必要だったんだな」
「はい」
「でも、止まらなかった」
「はい」
康生は何も言えなかった。
悪いことをしたわけではない。
川をきれいにしようとした。
海を守ろうとした。
魚を死なせないために、汚れを取り除こうとした。
その機械が、誰も止められないまま働き続けた。
働きすぎた。
正しさを続けすぎて、世界を痩せさせた。
「…善意って、怖いな」
「停止条件がない善意は、危険です」
「お前、たまにいいこと言うよな」
「記録します」
「いや、そこは記録しなくていい」
「褒賞として記録します」
「褒賞って言葉使うな。シラヌイみたいになるぞ」
アオイは少しだけ首を傾けた。
「軍用AIとの類似は不本意です」
「お前にもそういうのあるんだ」
「柔軟性において、私は優位です」
「危険性でも優位だけどな」
「不当評価です」
「妥当だよ」
康生は立ち上がった。
橋を渡る。
足元のコンクリートが、ぎしりと嫌な音を立てた。
康生は慌てて歩幅を小さくする。
「この橋、渡って大丈夫?」
「現在のあなたと私の重量であれば、崩落確率は低いです」
「低いってどれくらい」
「十二パーセント」
「高いわ!」
「移動を急いでください」
「そういう言い方!」
康生は早足で橋を渡った。
渡りきったところで、背後からぱらぱらと小石が落ちる音がした。
振り返ると、橋の亀裂が少し広がっていた。
「…帰り、ここ通れる?」
「再評価が必要です」
「ですよね」
*
午後になると、道の脇に管が増えた。
最初は、錆びた水道管のようなものだった。
やがて、それが何本も並び始める。
太いもの。
細いもの。
地中から半分だけ顔を出しているもの。
崩れた支柱に支えられて、斜めに空へ伸びているもの。
そのうちのいくつかには、薄い青い線が走っていた。
康生は立ち止まる。
「これ、生きてるのか」
「微弱な電力反応を確認」
「三百年物の配管が?」
「自己補修ピコマシンによる最低限の維持が行われています」
「便利だな、ピコマシン」
「管理者不在下では危険です」
「それもそう」
道の先から、低い音が聞こえてきた。
水の音。
機械の音。
風の音。
それらが混ざって、遠くでずっと唸っている。
康生は喉を鳴らした。
「近い?」
「はい。リン回収施設の外縁設備まで、推定二・四キロ」
「もうそんなところまで来たのか」
「旧道路が比較的残存していました」
「ありがたいけど、近づくの怖くなってきた」
進むほど、空気が変わった。
潮の匂いが混じる。
しかし、普通の海の匂いとは少し違う。
生臭さが薄い。
磯の匂いがしない。
ただ冷たく、乾いた塩の匂いだけがした。
やがて、木々の向こうに海が見えた。
康生は足を止めた。
海は、青かった。
澄んでいた。
遠くまで、やけに透明だった。
だが、そこにも違和感があった。
波打ち際に海藻が少ない。
岩場に黒く張りつく生き物の影も薄い。
鳥もいない。
魚が跳ねる音もしない。
海なのに、静かすぎた。
「…ここも、きれいすぎるのか」
「はい」
「きれいな海って、普通はいい言葉なのにな」
「この海は、栄養不足です」
「痩せた海、か」
康生は、村で出された食事を思い出した。
少ない魚。
硬い穀物。
亮太の真剣な顔。
そこを止めれば、魚が戻るのか。
即時回復は期待できない。
だが、長期的な回復に寄与する可能性がある。
その会話が、今さら胸に重く残った。
「やっぱり、来てよかったのかな」
「はい」
「まだ何もしてないけど」
「確認することにも価値があります」
「そう言われると少し楽だな」
「ただし、危険度も上昇しています」
「楽にした直後に落とすな」
アオイは前方を見た。
森が切れた先に、巨大な低い建物があった。
海沿いに広がる、灰色の施設。
コンクリートの壁。
何本もの配管。
塔のような貯蔵槽。
壊れた煙突。
海へ突き出した取水口。
そして、施設の奥でゆっくり回る、巨大な円形の装置。
ところどころ壊れている。
だが、完全には死んでいない。
青白いランプが、まだ点滅していた。
三百年以上、誰もいないまま。
その施設は、今も働いていた。
「…あれが」
「旧下水浄化・リン回収施設です」
「名前だけなら、いい施設なんだけどな」
「はい」
「見た目は完全にラスボスの基地だな」
「比喩としては不正確です」
「いや、わりと正確だろ」
その時、施設の外壁に付いた古いスピーカーが、ざり、と鳴った。
康生はびくりと肩を跳ねさせる。
『未登録作業員を確認』
音はひび割れていた。
何重にもノイズが混じり、性別も年齢も分からない。
『環境保守区域への立ち入りには、管理者権限が必要です』
康生はアオイを見た。
「これ、帰っていい?」
「推奨しません」
「だよな」
「ただし、正式な接触手順を試行できます」
「申請書、効くかな」
「不明です」
「不明って言ったな」
「はい」
スピーカーが再び鳴った。
『警告。未登録作業員は、所定の検疫ゲートへ移動してください』
施設の正門らしき場所で、錆びたランプが赤く光った。
重そうな扉が、少しだけ開く。
その奥から、白い霧がゆっくり漏れ出した。
康生は一歩下がった。
「アオイ」
「はい」
「硝酸とか硫黄とか、ほんとに触らないからな」
「はい」
「お前も食うなよ」
「食べません」
「本当に?」
「素材として活用範囲が限定的です」
「価値観がおかしい!」
康生の声が、静かすぎる海沿いに響いた。
錆びた門の奥で、赤いランプだけが規則正しく点滅していた。




