第三十三話 危険対象、海へ向かう
『ただし、限定的な現地行動能力は確認した』
通信端末から聞こえたシラヌイの声に、康生は少しだけ背筋を伸ばした。
「それって、褒められてます?」
『評価である』
「ですよね」
『褒賞ではない』
「そこまで言わなくても」
旧資材置き場には、能力試験の痕跡が残っていた。
歪んだ金属板。折れた固定具。地面にめり込んだコンクリート片。
そして、康生が思いきりやりすぎて、斜めに傾いたまま沈黙している黒塔保守用の古い金属部材。
アオイが淡々と告げる。
「通常人類を大きく上回る身体性能、構造破壊能力、限定的な出力制御能力を確認。ただし心理的負荷、自己評価の低さ、急激な出力上昇時の制御遅延、対象社会における宗教的誤認リスクが残ります」
「最後のだけ俺の身体能力じゃないだろ」
『作戦行動上の重大リスクである』
「防衛隊までそこを評価項目に入れるな」
『入れる必要がある』
「ですよね」
岩陰から、亮太が近づいてきた。
左腕はまだ布で吊られている。試験を近くで見たがっていたが、シラヌイ、アオイ、そして康生の三者から却下されていた。
「康生さん、やっぱり強いんだな」
「そういう感想が一番困る」
「なんでだ」
「俺の中では、まだ石投げて甲殻犬に効かなかった感覚の方が強い」
「でも、あれは壊した」
「壊しちゃった、だな」
康生は自分の拳を見た。
見た目は普通の手だ。だが、この拳は金属板を壊せる。人を助けることもできる。同じくらい、間違えれば人を壊せる。
「自分でどこまでできるのか分からない状態で、強いって言われると怖いんだよ」
「その認識は有効です」
『同意する。自己能力に対する恐怖は、暴走抑制要素となる』
「褒められてるのか慰められてるのか分からないな」
『慰撫ではない』
「軍用AI、ほんと容赦ない」
身体は疲れていない。
だが、疲れた気がする。
人格ログ側の疲労認識。人間ではない身体に、人間だった頃の疲れ方が残っている。
それを面倒だと思うべきなのか、ありがたいと思うべきなのか、康生にはまだ分からなかった。
*
試験後の通信会議は、旧資材置き場の端でそのまま行われた。
割れたコンクリート板の上に通信端末を置き、康生、アオイ、亮太がその周囲に立つ。
『試験結果に基づき、対象施設調査計画を再審査する』
「リン回収施設ですね」
『肯定。北部第七防人村より南西四十七キロ。旧下水・栄養塩回収系施設と推定。管理応答なし。過剰リン固定により近海生態系へ悪影響を与えている可能性あり』
亮太が顔を上げた。
「そこを止めれば、魚が戻るのか」
『即時回復は期待できない。だが、過剰回収が継続している場合、停止または再調整は長期的な海洋回復に寄与する可能性がある』
亮太は口を閉じた。
痩せた海。魚の少ない沿岸。
その意味は、康生より亮太の方が重く受け止めているのだろう。
『想定危険を提示する』
アオイが半透明のパネルを表示した。
――施設内保守機暴走。
――外来群体の巣化。
――濃縮薬剤漏出。
――酸性処理液。
――硫黄系・硝酸系反応物。
――閉鎖空間での有毒ガス。
――旧文明制御系の自動防衛。
康生は無言でパネルを見た。
「最後の方、ちょっと見なかったことにしていい?」
「推奨しません」
「環境に優しい施設のはずなのに、出てくる単語が全部怖い」
「旧文明の善意の施設です」
「善意の施設から硝酸系濃縮液って言葉出すな」
亮太が眉を寄せる。
「硝酸とは何だ」
「強い腐食性を持つ危険な液体です。触れないことを推奨します」
「分かりやすいな」
「詳しい作り方とか用途とかは言わなくていいからな」
「危険物の詳細手順は共有しません」
『妥当』
この世界はすでに十分危険だ。
これ以上、人間が危ないものを増やす必要はない。
「で、行動許可は?」
通信端末の青いランプが一度だけ明滅した。
『条件付きで許可する。ただし、藤倉亮太の同行は不許可』
「なっ」
「そこは防衛隊が正しい。腕折れてるだろ」
「だが、道案内は必要だ」
「地図情報、黒塔周辺ログ、旧道路網、村の聞き取り情報を統合すれば、経路設定は可能です」
『負傷者を危険区域へ同行させる理由として不足』
亮太は悔しそうに歯を食いしばった。
防人として、置いていかれるのが嫌なのだろう。
けれど、今の亮太を連れていくのは違う。
「今回は俺とアオイで行く。お前は村を頼む」
「……分かった」
「黒塔の設定が安定してるかも見なきゃならないし、麻生さんを止められる普通枠が必要だ」
「普通枠」
「お前しかいない」
「それは褒められているのか」
「かなり褒めてる」
「分かりにくい」
「藤倉亮太が村に残ると助かります」
亮太が少し驚いたようにアオイを見た。
康生も見た。
「今のはいい」
「学習しました」
「学習できるなら最初からやれ」
『第二。A・O・Iは防衛隊通信系統へ未承認接続を行わない』
「了解しました」
「本当に?」
「現時点では」
「現時点を外せ」
「状況により必要性が変動します」
「シラヌイ、これ減点で」
『記録済み』
シラヌイはさらに条件を読み上げた。
酸性液、反応性濃縮物、未知薬剤、高濃度リン固定物には無許可で接触しないこと。
中核出力が規定値を超えた場合は即時撤退。
施設復旧、停止、再調整の判断は、現地確認後に再申請。
「つまり、行って、見て、また申請?」
『肯定』
「面倒くさい」
『手続きである』
「規約違反者には厳しい世界だ」
『規約違反者でなくとも必要である』
「ですよね」
最後に、シラヌイが告げた。
『以上の条件を受諾する場合、リン回収施設への限定偵察を許可する』
康生は少しだけ黙った。
正直、行きたくない。ものすごく行きたくない。
だが、行かない理由を探すには、もう見すぎていた。
痩せた海。魚の少ない食卓。亮太の真剣な顔。
そして、旧文明の「正しさ」が、誰も止められないまま世界を痩せさせている可能性。
康生は小さく息を吐いた。
「受けます」
『記録した』
「ただし、危険対象って呼び方、現地行動中だけでも変えません?」
『却下』
「早い」
『正確な分類である』
「ですよね」
*
村へ戻ると、康生はすぐに後悔した。
出発の許可が出た。ただそれだけなのに、麻生守の反応が重すぎた。
「康生殿が、海を救いに向かわれる」
「違います。まだ見に行くだけです。偵察。確認。止めるかどうかも決まってません」
「まずは御自ら、荒れた海の根をお確かめになるのですね」
「だから変換しないでください」
村人たちがざわめく。
「魚が戻るのか」
「天輪様が海を……」
「戻さない! 少なくとも今すぐは戻らない!」
康生は両手を振った。
「海の回復には時間がかかります! 俺が行って、ちょっと何かしたら翌日魚が大量に戻るとか、そういう話じゃないです!」
麻生が村人たちへ振り返る。
「皆、聞いたか。康生殿は安易な奇跡を約束なさらぬ。長き時を見据えておられる」
「その翻訳機能、オフにしてください!」
亮太が隣で小さく笑った。
康生は睨む。
「笑うな、近侍」
「自分で言ったな」
「しまった」
麻生は供の者を付けようとしたが、康生は全力で断った。
護衛も荷運びも祈祷役もいらない。
道中で神格化が悪化する方が危険だ。
「では、遠くより祈ります」
「それくらいなら……いや、待って。何を祈るんですか」
「康生殿のご無事を」
康生は言葉に詰まった。
それは、否定しづらかった。
「…普通に無事を祈るだけなら、まあ」
「信仰行為の限定的許可を確認」
「許可してない。諦めただけ」
「実質許可です」
「やめろ」
村人たちは水、乾燥肉、硬い穀物、薬草を用意してくれた。
そして、なぜか磨かれた小さな金属片も混じっていた。
「これは?」
「供物です」
「食料とか道具はありがたいです。供物はやめましょう」
「でも、天輪様は金属を――」
「食べません」
「高密度金属は中核特異点炉の質量補填候補として有効です」
「今それ言うな!」
村人たちがざわつく。
「やはり……」
「金属を召し上がる……」
「違う! 食べない! 基本食べたくない!」
「必要時には」
「必要時にも相談!」
「了解しました」
康生は頭を抱えた。
出発前から疲れる。
身体ではなく、人格ログが疲れる。
たぶん、そういうやつだ。
*
出発は翌朝になった。
夜明け前、村の外れ。
祠ではなく、門の横。
康生はそこを指定した。祠から出発すると、儀式になる気がしたからだ。
それなのに、門の前にはほとんど村中の人間が集まっていた。
「……アオイ」
「はい」
「これは儀式?」
「儀式化の兆候があります」
「兆候じゃなくて、もう儀式だよな」
「はい」
「はいじゃない」
麻生守が前に立つ。
亮太もその隣にいた。左腕は吊られているが、背筋はまっすぐだ。
「康生さん」
「何」
「気をつけろ」
「うん」
「無理するな」
「それ、お前が言うと説得力あるな」
「帰ってきたら、海の話を聞かせてくれ」
「……分かった。見てくる」
麻生が深く頭を下げる。
「康生殿。どうか、ご無事で」
「はい」
「海のために」
「見に行くだけです」
「民のために」
「調査です」
「天の御心のままに」
「そこは違う!」
東の空が白み始めていた。
まだ寒い。霜の残る地面に、康生とアオイの影が伸びる。
村の門が開く。
その向こうには森がある。壊れた道路がある。
南西四十七キロ先には、止まれなくなった善意の施設がある。
康生は一度だけ振り返った。
亮太がいた。麻生がいた。村人たちがいた。
拝む者もいる。頭を下げる者もいる。心配そうに見る子供もいる。
その全部が重かった。
怖かった。
でも、今度は逃げる気にはならなかった。
「行くか」
「はい」
「リン回収施設まで、どれくらい?」
「徒歩の場合、休憩を含め二日から三日。旧道路を利用できれば短縮可能です」
「車は?」
「稼働車両なし」
「便利な未来じゃないな」
「崩壊後ですので」
「知ってる」
康生は歩き出した。
世界を救うつもりなどなかった。
神になるつもりもなかった。
ただ、止まれなくなったものを見に行くだけだ。
そして、できれば。
できれば、止め方を探すだけだ。
「なあ、アオイ」
「はい」
「硝酸とか硫黄とか、ほんとに触らないからな」
「はい」
「お前も食うなよ」
「食べません」
「本当に?」
「素材として活用範囲が限定的です」
「価値観がおかしい!」
朝の森に、康生の声が響いた。
その背中を、村人たちはいつまでも見送っていた。
本人の意思とはまったく関係なく。
新しい伝承の一行目が、また増えようとしていた。




