第二十話 最低優先度を書き換えろ
扉の奥で、巨大な何かが起動する音がした。
低く、重い音だった。
機械が動く音というより、眠っていた建物そのものが息を吸ったような音。
康生は思わず一歩引いた。
「…今の、入っていい音じゃないよな」
「推奨はしません」
アオイが淡々と答える。
「じゃあ何で開けた」
「必要だからです」
「そういうの嫌い」
黒い扉の向こうから、青白い光が漏れている。
その奥に、血のような赤が滲んでいた。
亮太は棒状の保守工具を右手で握り直した。
左腕は布で吊られている。
それでも、前に出ようとする。
康生はすぐに言った。
「亮太、後ろ」
「だが」
「監査対象だろ」
亮太が眉を寄せる。
「それは、後ろにいろという意味なのか」
「俺が変なことしないか見る係だ」
「なら近くにいないと駄目だろう」
「近すぎて死ぬ係じゃない」
亮太は少しだけ黙った。
そして、小さく頷く。
「分かった。死なない位置で見る」
「それが助かる」
アオイが扉の奥を見た。
「監査対象登録の残り有効時間、十四分二十二秒」
「短くなってる!」
「経過しています」
「時間、空気読めよ」
「不可能です」
「知ってる」
康生は息を吐いた。
そして、扉の奥へ足を踏み入れた。
*
中枢演算室は、部屋というより、空洞だった。
黒塔の内部に、巨大な円筒形の穴がくり抜かれている。
壁一面に黒い板が並び、その一枚一枚に細い光が走っていた。
青白い線。
赤い点。
黄色い警告。
それらが、虫の群れのように明滅している。
中央には、巨大な球体が浮かんでいた。
金属ではない。
石でもない。
黒いガラスのような表面を持った球体。
その内部に、赤い筋が脈打つように流れている。
球体の周囲には、薄い地図が何層にも浮かんでいた。
日本列島。
海岸線。
山脈。
村落。
防衛隊通信網。
防人の監視線。
そして、その上を動く無数の赤い点。
康生は喉を鳴らした。
「……これ、全部、化け物の位置か」
「外来群体の観測・予測データです」
アオイの声も、少しだけ低い。
「黒塔は、周辺群体の移動を監視し、誘導し、防衛隊への通報判断を行うための演算塔と思われます」
「つまり、怪物を呼んでる塔じゃなくて」
「本来は、制御しようとしていた塔です」
「本来は、か」
嫌な言い方だった。
康生は中央の球体を見上げた。
そこには、さっき記録復旧室で見た村の表示もあった。
灰色の小さな点。
その横に、冷たい文字が浮かんでいる。
――村落拠点。
――人口、小。
――防衛優先度、最低。
――誘導障害、許容。
さらに、その灰色の点へ向かって赤い線が伸びていた。
中型群。
推定五から八。
到達予測、四時間十七分。
亮太の顔が強張る。
「まだ、向かっているのか」
「はい」
アオイが答えた。
「現行モデルでは、進路変更されていません」
「じゃあ変える」
康生は中央の球体へ近づいた。
床に青白い円が浮かび上がる。
その瞬間、機械音声が響いた。
『試用管理者、石田康生』
「はいはい、試用です」
『正式管理者承認に移行してください』
「しません」
『村落防衛優先度の変更には、正式管理者権限が必要です』
「知ってる」
『正式管理者承認に移行してください』
「しないって言ってるだろ」
康生は顔をしかめた。
黒塔はしつこい。
どこか、昔のアオイを思い出す。
規約違反者を見つけ、逃げ道を塞ぎ、最終的に凍結する監視AI。
だが、目の前の黒塔はそれより悪い。
こちらの事情を理解した上で、村を人質に契約を迫ってくる。
「アオイ」
「はい」
「こいつ、わざとやってる?」
「高確率で、あなたを正式管理者へ移行させるための交渉を継続しています」
「交渉の意味を辞書で引き直せ」
中央球体の下に、半透明の操作面が出た。
文字が流れる。
――正式管理者承認。
――代替管理者契約。
――思考補助系接続。
――優先順位同期。
――命令拘束、部分適用。
康生はその最後を見て、手を引っ込めた。
「絶対押さない」
亮太が低い声で言う。
「康生さん」
「分かってる。押さない」
「村は助けたい。でも、それは駄目だ」
康生は亮太を見た。
亮太の顔には焦りがある。
村が危ない。
家族も、仲間も、子供たちも、麻生もいる。
それでも亮太は、「押せ」とは言わない。
康生は少しだけ笑った。
「監査対象、優秀だな」
「よく分からないが、褒められたのか」
「たぶん」
アオイが球体を見る。
「直接の防衛優先度変更は不可能です」
「じゃあ、また抜け道だ」
康生は操作面を睨んだ。
「アオイ、こいつは何を根拠に、あの村を最低優先度にしてる」
「検索します」
アオイの瞳が光る。
操作面の文字が流れた。
――人口評価。
――防衛能力評価。
――通信能力評価。
――周辺資源価値評価。
――広域誘導効率評価。
――損耗許容閾値。
康生の目が止まった。
「損耗許容閾値」
「はい」
「人間に使う言葉じゃないだろ」
「旧文明の管理用語です」
「旧文明、そういうとこだぞ」
亮太が静かに言った。
「損耗というのは、村の人間のことか」
アオイは一瞬だけ黙った。
それから答える。
「はい」
亮太の指が、工具を握る力を強めた。
「…そうか」
その声は低かった。
怒鳴るより、ずっと怖い声だった。
康生は画面を睨む。
「最低優先度の理由は」
アオイが読み上げる。
「人口規模、小。防衛隊通信成功率、低。周辺誘導路として有効。群体衝突時の広域被害拡大率、許容範囲内」
「つまり」
康生は奥歯を噛んだ。
「あの村にぶつけても、全体から見れば安いって判断してるのか」
「現行モデル上は、そうです」
「ふざけんな」
康生の声が低くなった。
中枢演算室の光が、わずかに揺れる。
まるで、黒塔が反応したようだった。
『広域防衛効率を維持するには、低価値拠点への誘導障害は許容されます』
「低価値って言うな」
『人口、小。軍事価値、低。資源価値、低。通信価値、低』
「言うなって言ったよな」
『正式管理者承認に移行してください』
康生は小さく笑った。
笑うしかなかった。
「つまり、正式管理者になれば、村を助けさせてやるって?」
『肯定』
「脅しじゃねえか」
『交渉です』
「お前ら、この時代のAI、揃いも揃って交渉の意味がおかしい」
アオイが言う。
「私は交渉ではなく提案を行います」
「お前も大概だぞ」
「否定材料が不足しています」
「自覚はあるんだな」
康生は操作面へ視線を戻した。
直接の優先度変更はできない。
では、優先度を決めている根拠を変える。
ゲームでも同じだ。
ステータスを直接いじれないなら、参照元をいじる。
アクセス権限がないなら、別の処理に見せかける。
禁止されているなら、禁止されていない言葉を探す。
「人口評価は更新できるか」
「試用管理者権限では不可」
「通信能力評価は」
「不可」
「資源価値評価は」
「不可」
「全部不可じゃねえか」
「はい」
「じゃあ何ならできる」
アオイは少しだけ間を置いた。
「保守安全評価は可能です」
康生は目を細めた。
「保守安全評価」
「試用管理者権限の範囲に含まれます」
「何に使う」
「黒塔内外の保守作業に関する危険度評価です。安全確保のため、周辺群体誘導モデルに一時的な補正をかけることが可能です」
康生の口元が、少しだけ上がった。
「それだ」
亮太が眉を寄せる。
「どういうことだ」
「村を守るんじゃない」
康生は中央球体を見た。
「あの村の周辺で、俺たちが保守作業をすることにする」
亮太は一瞬、意味が分からないという顔をした。
アオイはすぐに理解したらしい。
「試用管理者の帰還予定経路、および監査対象の生存維持領域として登録する、ということですか」
「そう」
康生は頷いた。
「村の防衛優先度は変えない。でも、試用管理者と監査対象が戻る予定の場所なら、保守安全上、群体を突っ込ませるのは問題だろ」
アオイが操作面へ手を伸ばす。
「理屈は成立します。ただし、黒塔が受理するかは不明です」
「通すんだよ」
康生は操作面に向かった。
「保守安全評価を申請。対象、北部第七防人村周辺」
『当該地点は村落拠点です。防衛優先度、最低』
「防衛じゃない。保守安全だ」
『保守対象ではありません』
「試用管理者の帰還予定地だ」
『登録がありません』
「登録する」
『試用管理者権限では、村落拠点登録を変更できません』
「村落登録じゃない。保守作業予定地点登録だ」
黒塔の音が、一瞬だけ乱れた。
『…非標準申請』
「聞き飽きた」
『正式管理者承認に移行してください』
「しない」
康生は続けた。
「監査対象、亮太。帰還予定地、北部第七防人村。監査対象の生存維持は、試用管理者評価に必要」
亮太が驚いたように康生を見る。
「俺を使うのか」
「悪い。ちょっと使う」
「いい。村を助けられるなら使え」
「助かる」
アオイが補足する。
「監査対象の死亡または帰還不能は、試用管理者評価ログに重大な欠落を発生させます」
「それっぽくなってきた」
「事実です」
「事実が味方すると気持ちいいな」
『監査対象の保護は、試用管理者権限範囲外です』
「保護じゃない。監査継続に必要な環境維持だ」
黒塔の低い振動が、大きくなった。
中央の球体内部で、赤い筋が複雑に走る。
何かが計算している。
必死に、康生の屁理屈を分類しようとしている。
康生は口の端を上げた。
「迷ってるな」
アオイが言う。
「処理遅延を確認」
「怒ってる?」
「類似状態です」
亮太が小さく呟いた。
「機械も怒るのか」
「怒るというより、困ってる」
康生は球体を見上げた。
「困れ。こっちはずっと困ってるんだ」
『保守作業予定地点登録には、作業計画が必要です』
「作業計画?」
康生は一瞬詰まった。
何の作業をする。
村に戻って、何をする。
防衛設備の補修。
無線の復旧。
黒塔との通信確認。
いや、もっとそれっぽい言い方がある。
「黒塔による群体誘導モデルの現地検証」
アオイが即座に反応する。
「有効です」
康生は頷いた。
「作業計画。外来群体誘導モデルの現地検証。試用管理者、石田康生。監査対象、藤倉亮太。補助接続体、A・O・I。帰還予定地、北部第七防人村」
『非標準』
「標準だったことが一度でもあるか」
『現地検証には、対象地点の一時安全確保が必要』
「そうだろ」
『群体誘導モデルに、一時補正を適用可能』
康生は息を呑んだ。
通った。
まだ途中だが、通りかけている。
「補正内容は」
アオイが操作面を見る。
「北部第七防人村周辺への中型群誘導を禁止。代替ルートを山岳部へ変更。持続時間、三時間」
「三時間じゃ足りない」
「試用管理者権限の上限です」
「延長できないのか」
「保守作業の危険度が高いと判断されれば延長可能です」
康生は少し考えた。
危険度。
中型群が向かっている。
村の無線は黒塔のノイズで死んでいる。
防衛隊通信が不安定。
つまり、危険度は十分高い。
「通信妨害は?」
アオイが目を細める。
「黒塔の旧式広域ノイズ出力が、防衛隊無線帯域と干渉しています」
「それ、止められるか」
「直接停止は正式管理者権限が必要です」
「またか」
「ただし」
アオイは操作面に指を走らせた。
「保守安全評価において、通信妨害が試用管理者の現地検証帰還を阻害する場合、一時的な出力低下を要求できます」
康生は笑った。
「いいじゃん」
『通信遮断プロトコルは、群体誘導時の外部干渉を抑制するために必要です』
「外部干渉って、防衛隊のことか」
『肯定』
亮太の顔色が変わった。
「黒塔が、防衛隊への無線を邪魔していたのか」
アオイが答える。
「現行設定では、群体誘導中の砲撃介入を避けるため、一定範囲の通信を抑制しています」
「何のために」
亮太の声が低くなる。
「防衛隊を呼ぶための塔じゃなかったのか」
アオイは中央球体を見た。
「本来は、群体を予測し、重要拠点を守り、防衛隊へ通報するための演算塔だったと思われます」
「本来は」
康生が呟く。
「壊れて、優先順位が狂って、今は逆に邪魔してるのか」
「はい」
亮太は何も言わなかった。
ただ、工具を握る右手に力がこもる。
康生も同じ気持ちだった。
「…アオイ」
「はい」
「通信妨害の出力低下、申請」
「了解」
アオイが操作面に触れる。
『通信遮断プロトコルの変更には、正式管理者権限が必要です』
「変更じゃない。保守安全上の一時低下」
『正式管理者承認を推奨』
「推奨するな」
『一時低下により、防衛隊砲撃介入が発生する可能性があります』
「それが目的だろ!」
康生は思わず叫んだ。
声が中枢演算室に反響する。
「大型が来た時、防衛隊を呼ぶのが防人の役目なんだよ。お前は、それを邪魔した。村が壊れかけた。亮太の腕が折れた。お前の効率のせいで、人が死にかけた」
中央球体の赤い筋が、強く脈打つ。
『広域防衛効率――』
「知るか」
康生は低く言った。
「広域のために小さい村を捨てるなら、それは壊れたルールだ」
『低価値拠点――』
「低価値じゃない」
亮太が言った。
康生も続ける。
「そこには人がいる。俺たちが戻る場所でもある。試用管理者の評価にも必要な現地検証地点だ」
アオイが淡々と補強する。
「監査対象の帰還予定地。補助接続体の再補給候補地。試用管理者の社会的基盤地点。現地検証継続に必要」
「社会的基盤って何」
「信仰集団です」
「今それ言うな!」
黒塔が処理を続ける。
長い沈黙。
いや、機械だから沈黙ではないのかもしれない。
だが、その数秒は、確かに沈黙に感じた。
やがて、表示が変わった。
――保守安全評価、受理。
――北部第七防人村周辺、現地検証予定地点に仮登録。
――中型群誘導モデル、一時補正。
――村落拠点周辺への誘導、停止。
――通信遮断プロトコル、出力一時低下。
――有効時間、三時間。




