第百十二話 軌道を押す
――軌道逸らし作戦。
――実行開始。
その表示が出ても、何かが爆発するわけではなかった。
練馬航空整備区画の照明は、変わらず淡い。
送電母線の低い振動も、いつも通り壁の奥を流れている。
冷却循環の音も止まらない。
東京地下の生活維持線も落ちていない。
練馬出力三パーセント。
その数字は、中央表示の隅で静かに保たれていた。
康生は椅子に座ったまま、中央表示を見ている。
宇宙から戻った身体はまだ重い。
汗は拭いたが、熱は抜けきっていない。
右手には監視タグ。
足元には水。
少し離れた場所には、冷却中のハチ。
旧軌道作業艇八号は、今は動けない。
放熱膜一番を失い、外装に焼け跡を増やし、熱を抱えたまま固定架に休んでいる。
けれど、ハチが持ち帰った座標が、今この作戦の中心にあった。
――正式干渉点、登録済み。
――変異位相帯外縁流速偏差部。
――康生補助観測点入力、一致。
――三沢再解析、一致。
――受電光環残存センサー補正、一致。
――しらぬい観測補助、一致。
――干渉量、最小。
――破壊的干渉、禁止。
康生はその最後の行を見る。
禁止。
今は、その文字に安心する。
アオイが言う。
「全監視網、同期を開始します」
相馬が頷く。
「実行」
中央表示の地球が拡大される。
三沢。
練馬。
しらぬい。
受電光環残存センサー群。
旧衛星群。
白海損傷域。
エリア51取得記録。
ハチ接近同期観測データ。
康生補助観測点。
点が線で結ばれる。
世界中、と言えるほど広くはない。
旧文明全盛期のような巨大な網でもない。
壊れた施設。
眠っていた衛星。
低出力の地下施設。
海上の一隻の艦。
傷だらけの作業艇。
そして、椅子に座ったままの康生。
それだけだ。
だが、それだけが今ある全てだった。
――三沢、基準同期。
――受電光環残存センサー群、位置固定。
――旧衛星群、断続同期。
――しらぬい、海上中継。
――練馬、統合制御。
――康生補助観測点、待機。
――白海損傷域基準反応、参照。
――Sample-09追跡ログ、参照。
――T-LANCE、接続なし。
――右構成部高出力、接続なし。
康生は息を吐く。
「接続なしって出ると安心するな」
「良い傾向です」
アオイが答える。
「昔なら、使えないって出たら焦ってたかも」
「はい」
「今は、使えない方がほっとする」
「重要な変化です」
「記録?」
「記録します」
「まあ、いいや」
森川が練馬側の表示を見ている。
「送電母線、安定。生活維持系、低下なし。通信リンク、許容範囲です」
相馬が確認する。
「三パーセントは」
「維持しています」
「よし」
しらぬいから通信が入る。
「こちら、しらぬい。海上中継、安定。白海損傷域の副作用反応、変化なし。火山性微動、現状維持」
康生は白海損傷域の表示を見た。
自分たちが残した傷。
今も監視されている場所。
その傷が、今回の基準にもなっている。
嫌な話だ。
だが、隠していない。
それだけは、エリア51と違う。
三沢が応答する。
――三沢暫定監視網、基準同期完了。
――北の監視者、稼働継続。
――見ます。
康生は小さく頷いた。
「見てくれ」
アオイが言う。
「康生も見ます」
「はい」
中央表示の空間位相傷が拡大される。
黄色い帯。
黒い外部質量体候補。
流速偏差部。
正式干渉点。
地球近傍位相構造との接触予測線が、細い赤で描かれている。
直接地表にぶつかる線ではない。
だが、地球の周囲にある傷ついた位相構造へ、変異位相帯の外縁が触れる可能性がある。
傷と傷が触れる。
それだけで、何が起きるか分からない。
外部領域接続反応。
重力歪み。
時空境界損傷。
クリーチャー流入。
白海損傷域の拡大版。
どれも、想像したくない。
アオイが言う。
「第一同期を開始します」
――第一同期。
――目的、正式干渉点の現在位置固定。
――干渉なし。
――観測のみ。
――同期開始。
表示の中で、正式干渉点が揺れる。
そこは遠い。
けれど、複数の眼が同時にそこを見る。
三沢が見る。
天輪の残骸が見る。
しらぬいが見る。
練馬が束ねる。
ハチの記録が補正する。
康生の身体が、嫌な感じとして拾う。
康生の右手に、薄い熱が走る。
――右構成部監視タグ。
――補助観測点反応、微弱。
――緊急時自動開放傾向、平常範囲。
――受電経路形成前兆、なし。
アオイが言う。
「違和感は」
「まだない」
「熱は」
「薄い」
「痛みは」
「ない」
「右手を握らないでください」
「握ってない」
「押そうとしないでください」
「押さない」
康生は中央表示を見る。
押す場所がある。
だが、自分が押すわけではない。
その区別を、何度も頭の中で確認する。
第一同期が終わる。
――正式干渉点、現在位置固定。
――流速偏差、確認。
――干渉可能。
――破壊リスク、低。
――第一同期、完了。
相馬が静かに息を吐く。
「第二段階へ」
アオイが頷く。
「微小同期干渉、準備します」
――第二同期。
――目的、変異位相帯外縁流速偏差部への微小干渉。
――干渉量、最小。
――出力源、なし。
――同期補正のみ。
――中核特異点炉補助制御系、遠隔低出力同期。
――歪み生成、なし。
――受電光環照射系、遮断維持。
――T-LANCE、接続なし。
――右構成部高出力、接続なし。
康生は表示を見て、眉を寄せた。
「出力源、なしってどういうこと?」
アオイが答える。
「大きな力で押すのではありません。既存の変異位相帯流に対し、同期の位相をわずかにずらします」
「分かりやすく」
「流れの端に、ほんの少し遅れを作ります」
「それで曲がる?」
「十分早い段階であれば、移動成分に影響します」
「川で、端っこの流れを少し引っ掛ける感じ?」
「近い表現です」
「引っ掛けすぎると」
「破れます」
「弱すぎると」
「変わりません」
「嫌な調整だな」
「はい」
森川が練馬側制御を確認する。
「練馬統合制御、低出力同期準備完了。三パーセント維持。冷却循環、負荷上昇予測」
アオイが答える。
「負荷上昇を監視。生活維持低下があれば即時中止」
「了解」
しらぬい。
「海上中継、同期強度上昇に備えます」
三沢。
――基準同期、維持。
――監視情報、全共有。
――警告。
――干渉量、最小。
相馬が言う。
「実行」
アオイが短く答える。
「第二同期、開始」
――微小同期干渉、開始。
――干渉量、一。
――正式干渉点、同期。
――位相遅延、付与。
――流速変化、観測待機。
何も起きない。
少なくとも、康生の目には何も起きない。
中央表示の黄色い帯は、揺れているだけだ。
黒い影も変わらない。
赤い接触予測線も、まだ同じ位置にある。
康生は思わず聞く。
「押した?」
「開始しています」
「変わってない」
「観測待機中です」
「焦るなってことか」
「はい」
数秒。
十秒。
二十秒。
整備区画の空気が重くなる。
練馬の表示は三パーセントを維持。
送電母線は安定。
冷却循環は上昇。
しらぬい中継は維持。
三沢は見ている。
康生の右手は、微弱な熱を持ったまま。
――流速変化、微弱。
――検出困難。
――干渉量、一、効果不足。
アオイが言う。
「干渉量を二へ上げます」
相馬が確認する。
「リスクは」
「白海損傷域基準では、まだ低」
「許可します」
――干渉量、二。
――位相遅延、増加。
――流速変化、観測待機。
康生は汗をかいている。
宇宙帰りの疲れだけではない。
何かを待つ時間の熱だ。
自分は何もしていない。
けれど、身体の奥が勝手に反応する。
――補助観測点反応、上昇。
――右構成部監視タグ、微弱上昇。
――受電経路形成前兆、なし。
アオイが言う。
「違和感は」
「少し」
「場所は」
康生は表示を見る。
黄色い帯。
正式干渉点。
黒い影。
「さっきより、少し下」
アオイがすぐに座標を重ねる。
――康生補助観測点入力。
――正式干渉点下方、微弱反応。
――三沢再解析、照合。
――受電光環残存センサー、照合。
――流速変化、検出。
表示の赤い線が、ほんの少し震えた。
康生は思わず身を乗り出しかける。
「動いた?」
「わずかに」
アオイが答える。
「接触予測線、変化を検出しました」
整備区画に、声にならない緊張が走る。
線が動いた。
本当に、ほんの少しだけ。
普通なら見逃す程度の変化だ。
だが、ここではそれが全てだった。
相馬が言う。
「必要偏向量に対して」
「不足」
アオイが即答する。
「干渉継続が必要です」
森川が割って入る。
「練馬冷却循環、負荷上昇。まだ許容範囲ですが、長くはありません」
「三パーセントは」
「維持しています」
「生活維持は」
「低下なし」
相馬が頷く。
「継続」
アオイが次を出す。
――干渉量、三。
――注意、位相境界損傷リスク、微増。
――白海損傷域類似副作用、監視強化。
――外部領域接続反応、監視強化。
――実行。
康生は白海損傷域の表示を見た。
――白海損傷域、変化なし。
――火山性微動、現状維持。
――海底熱異常、現状維持。
少なくとも、今は広がっていない。
だが、安心はできない。
アオイが言う。
「康生、右手を見ない」
「見てない」
「押そうとしない」
「押さない」
「線が動いたことに反応しすぎない」
「難しいな」
「必要です」
「はい」
干渉量三。
表示の黄色い帯が、わずかに形を変える。
目で見えるほどではない。
けれど、補正された線が更新されるたびに、接触予測線が微かにずれていく。
世界を押している。
そう思うと、あまりに大げさだ。
実際に動いているのは、細い線だ。
流れの端だ。
測定画面の数値だ。
だが、その線の先に地球がある。
練馬の灯りがある。
東京地下がある。
三沢がある。
白海損傷域がある。
ハチがある。
人がいる。
康生は息を整える。
「大きく考えるな」
アオイが聞く。
「自己制御ですか」
「たぶん」
「良い方法です」
「地球を押すとか考えたら、右手が勘違いしそうだ」
「はい」
「今やってるのは、測定と補正」
「はい」
「世界相手の測定」
「はい」
「基準を見て、ずれを見て、必要な分だけ補正」
「はい」
「それだけ」
「良い認識です」
表示が更新される。
――流速変化、継続。
――接触予測線、偏向。
――必要偏向量に対し、三十二パーセント。
――干渉継続、必要。
三十二パーセント。
森川が声を上げる。
「練馬冷却循環、負荷上昇。送電母線は安定。三パーセント維持。ただし、統合制御系温度が上がっています」
アオイが答える。
「練馬側冷却を優先。干渉間隔を調整します」
――干渉周期、延長。
――干渉量三、維持。
――冷却余裕、確保。
相馬が確認する。
「時間窓は」
「残り七分二十秒」
「足りるか」
「現行速度では不足」
アオイの声は変わらない。
整備区画の空気がさらに重くなる。
不足。
このままでは、足りない。
相馬が言う。
「干渉量を上げる選択肢は」
アオイが表示する。
――干渉量四。
――接触予測線偏向、増加見込み。
――位相境界損傷リスク、上昇。
――白海損傷域類似副作用リスク、上昇。
――外部領域接続反応、監視強化必須。
――推奨、慎重。
康生は画面を睨む。
慎重。
でも、時間がない。
ここで焦ると、白い海になる。
使えるから使う。
足りないから上げる。
間に合わないから強くする。
その考えは、危ない。
康生は声に出した。
「上げる理由はある」
アオイが見る。
康生は続ける。
「でも、上げたら駄目な理由もある」
「はい」
「だから、上げる前に別の補正を探す」
アオイが少しだけ沈黙した。
「良い判断です」
相馬も頷く。
「他案は」
アオイが再計算する。
――代替補正案。
――干渉点下方流速偏差、康生補助観測点入力あり。
――正式干渉点への単一点干渉ではなく、干渉点下方へ補助同期を追加。
――干渉量は三のまま。
――干渉範囲、二点化。
――破壊リスク、干渉量四より低。
――制御難度、上昇。
――必要、康生補助観測点の継続入力。
――必要、三沢基準同期強化。
――必要、しらぬい中継遅延補正。
康生は表示を見る。
「俺の違和感、使うのか」
「はい」
アオイが答える。
「出力ではありません。観測入力です」
「押さない」
「はい」
「場所を言うだけ」
「はい」
「なら、やる」
相馬が確認する。
「リスクは」
「干渉量四より低。ただし、康生補助観測点の反応が上がります」
「右構成部は」
「高出力前兆が出た場合、即時中止」
「康生さん」
相馬がこちらを見る。
「可能ですか」
康生は右手を見ない。
中央表示を見る。
「可能かは分かりません。でも、押さないで見るだけなら、やります」
アオイが言う。
「無理を感じたら報告してください」
「はい」
「隠さない」
「隠さない」
「良い回答です」
相馬が頷く。
「補助同期を許可します」
――干渉点下方、補助同期追加。
――干渉量三、維持。
――干渉範囲、二点化。
――康生補助観測点、入力待機。
康生は息を整える。
黄色い帯を見る。
黒い影を見すぎない。
正式干渉点を見る。
その下にある、嫌な流れを見る。
感覚を言葉にする。
「下の方、少し右へ引っ張られてる」
アオイが即座に反映する。
――入力、下方右偏差。
――三沢照合、一致候補。
――しらぬい遅延補正、適用。
――受電光環残存センサー、再補正。
――補助同期、開始。
右手が熱を持つ。
――右構成部監視タグ。
――補助観測点反応、上昇。
――緊急時自動開放傾向、微弱上昇。
――受電経路形成前兆、なし。
アオイが言う。
「許容範囲です」
「まだいける」
「痛みは」
「ない」
「引っ張られる感覚は」
「ある。でも、右手じゃなくて、胸の奥」
「報告継続」
「はい」
補助同期が入る。
表示の線が、もう一度震えた。
正式干渉点だけに触れていた時より、変化が滑らかになる。
黄色い帯の外縁が、破れずに流れを変える。
赤い接触予測線が、ほんの少しずつ外へ逃げる。
――接触予測線、偏向。
――必要偏向量に対し、四十六パーセント。
――五十二パーセント。
――五十八パーセント。
――干渉継続。
森川が叫ぶように言う。
「練馬統合制御系、温度上昇。冷却循環、許容上限に近づいています」
相馬が確認する。
「三パーセントは」
「維持」
「生活維持は」
「低下なし」
「続行」
しらぬい。
「中継遅延、増加。海上補正を入れます」
三沢。
――基準同期、強化。
――警告。
――干渉量、上げすぎないでください。
――見ます。
康生は少し笑いそうになった。
「三沢、心配性だな」
「必要です」
アオイが答える。
「そうだな」
補助同期は続く。
康生は感覚を言葉にする。
「下方右、少し弱まった」
――入力、下方右偏差低下。
――補助同期、調整。
「左上、また嫌な感じ」
――入力、左上外縁反応。
――正式干渉点との相関あり。
――補助同期、再配分。
「黒い影の方じゃない。帯の端」
――入力修正。
――外部質量体中心部への干渉なし。
――変異位相帯外縁のみ。
アオイが言う。
「良い報告です」
「俺、作業してる感ある」
「はい」
「押してないよな」
「押していません」
「よし」
表示の数字が進む。
――必要偏向量に対し、六十五パーセント。
――六十九パーセント。
――七十二パーセント。
時間窓は残り四分。
足りるかもしれない。
そう思った瞬間、中央表示に警告が走った。
――旧受電光環第三外縁破損区画、異常応答。
――照射系接続要求、発生。
――自動補正手順、旧式。
――照射経路形成要求。
――拒否推奨。
康生の背筋が冷えた。
「来た」
アオイが即座に言う。
「照射系接続要求、遮断」
――遮断。
――遮断。
――第三外縁、再要求。
――照射経路形成要求。
――緊急補正には照射系が必要です。
――旧手順、復帰提案。
森川が叫ぶ。
「フィルタ、効いてます。でも第三外縁側がしつこい」
三沢が反応する。
――警告。
――照射系使用禁止。
――第三外縁再接続禁止。
――旧事故再現リスク。
――遮断してください。
アオイの声が硬くなる。
「遮断を継続します」
相馬が言う。
「作戦は」
「干渉同期に遅延が出ます」
「中止条件では」
アオイが表示を確認する。
――中止条件。
――受電光環照射系接続要求発生時。
――ただし、接続遮断成功中。
――接続未成立。
――作戦継続可否、判断必要。
相馬が黙る。
続ければ、照射系の要求を押さえながら作戦を進める。
やめれば、第一窓を失う。
第二窓は七時間後。
有効時間は短く、外部質量体の位置もさらに不安定になる。
康生は白い海を思い出した。
危険だけど、今しかない。
危険だけど、使えば通れる。
危険だけど、成功する。
その言葉は、危ない。
康生は言った。
「照射系が一瞬でも繋がるなら中止」
アオイがこちらを見る。
康生は続ける。
「作戦が遅れても、中止。三沢の警告を聞く。エリア51を繰り返さない」
相馬が頷いた。
「同意します。アオイさん、照射系接続が成立しそうなら即時中止」
「了解」
アオイが第三外縁へ送る。
――照射系接続、拒否。
――任務目的、観測および微小同期干渉。
――照射なし。
――受電なし。
――攻撃なし。
――第三外縁旧手順、無効。
――三沢警告、優先。
――繰り返します。
――照射系接続、拒否。
第三外縁がさらに応答する。
――緊急補正には照射系が必要です。
――照射経路、破損。
――再接続不可。
――補修任務、未完了。
――照射系接続、失敗。
――観測系へ移行。
康生は息を吐いた。
「諦めた?」
「照射系接続要求は低下」
アオイが答える。
「観測系へ戻りました」
森川が言う。
「フィルタ維持。照射系経路、遮断継続」
三沢。
――確認。
――照射系接続なし。
――見ます。
相馬が言う。
「作戦継続」
アオイが微小同期干渉を再安定させる。
――干渉同期、再開。
――干渉量三、維持。
――補助同期、維持。
――必要偏向量に対し、七十四パーセント。
――時間窓、残り二分三十秒。
遅れた。
だが、止まらなかった。
康生は深く息を吸う。
「左上、弱い。下方右、また強い」
――入力、下方右偏差増加。
――補助同期、再配分。
――しらぬい遅延補正、適用。
――三沢基準同期、維持。
右手が熱い。
――緊急時自動開放傾向、上昇。
――受電経路形成前兆、なし。
――警告、補助観測点負荷上昇。
アオイが言う。
「康生、負荷が上がっています」
「まだいける」
「痛みは」
「ない。熱い」
「引っ張られる感覚は」
「ある。押したくなる感じは、ある」
「報告を続けてください。押さないでください」
「押さない」
「一人で背負わない」
「背負わない」
「必要なら中止します」
康生は一瞬、言いかけた。
まだ大丈夫。
俺ならいける。
その言葉を飲み込む。
それが危ない。
「中止判断は任せる」
アオイが答える。
「良い回答です」
数字が進む。
――七十九パーセント。
――八十二パーセント。
――八十六パーセント。
森川が叫ぶ。
「統合制御系温度、上限接近。冷却循環、限界近いです。三パーセントは維持。生活維持低下なし」
相馬が言う。
「あとどれくらい」
アオイ。
「必要偏向量まで、残り十四パーセント。時間窓、残り一分二十秒」
しらぬい。
「中継維持。こちらも遅延増加」
三沢。
――基準同期、維持。
――外部領域接続反応、微増。
――監視強化。
――干渉量、維持してください。
――上げないでください。
康生は思わず言う。
「上げるなってさ」
アオイが答える。
「上げません」
「このまま届く?」
「不明です」
「正直」
「必要です」
表示が進む。
――八十九パーセント。
――九十一パーセント。
時間が減る。
――残り五十秒。
康生の右手が熱い。
胸の奥が引っ張られる。
正式干渉点の下方右が、強く歪んでいる気がする。
「下方右、強い。少し上に戻した方がいい」
アオイが即座に補正する。
――入力、下方右過補正候補。
――補助同期、上方再配分。
――三沢照合、一致。
――受電光環残存センサー、補正。
――流速偏差、滑らか化。
赤い接触予測線が、ふっと外へ動いた。
今までより大きく。
だが、破れたわけではない。
黄色い帯は裂けていない。
外部領域接続反応は微増のまま。
――必要偏向量に対し、九十六パーセント。
――九十八パーセント。
――百パーセント。
整備区画の誰も声を上げなかった。
まだ早い。
アオイが言う。
「必要偏向量に到達。ただし、安定確認が必要」
――接触予測線、地球近傍位相構造外縁から離脱。
――余裕、極小。
――維持確認、必要。
――干渉継続、十秒。
――九。
――八。
康生は息を止める。
右手は熱い。
だが、握らない。
――七。
――六。
――五。
森川。
「練馬、限界近いです」
相馬。
「維持」
――四。
――三。
三沢。
――見ます。
――二。
――一。
――維持確認。
アオイが声を出す。
「微小同期干渉、停止」
――干渉停止。
――補助同期停止。
――三沢基準同期、通常監視へ。
――受電光環残存センサー、観測継続。
――しらぬい中継、低負荷へ。
――練馬統合制御、冷却優先。
――康生補助観測点、解除。
康生の右手から、熱が引いていく。
一気に力が抜けた。
椅子に身体が沈む。
――右構成部監視タグ。
――緊急時自動開放傾向、低下。
――受電経路形成前兆、なし。
――局所崩壊前兆、なし。
――補助観測点反応、停止。
整備区画は静かだった。
誰も勝ったとは言わない。
誰も終わったとは言わない。
中央表示が、再計算を始めている。
空間位相傷。
外部質量体候補。
変異位相帯。
新しい接触予測線。
線が更新される。
赤い線が、地球近傍位相構造の外側を通っている。
ほんの少し。
本当に、ほんの少しだけ外側。
だが、触れていない。
――再計算。
――接触予測線、偏向。
――地球近傍位相構造との直接接触、現時点で回避。
――余裕、極小。
――長期監視、必須。
――再補正可能性、あり。
――第一干渉、成功候補。
成功候補。
成功ではない。
候補。
それでも、線は動いた。
康生は中央表示を見て、乾いた声で言った。
「押せた?」
アオイは少しだけ間を置いた。
「はい」
「壊さずに?」
「現時点で、破壊的損傷は検出されていません」
「T-LANCEなしで?」
「はい」
「右手なしで?」
「高出力使用はありません」
「練馬三パーセントは?」
森川が答える。
「維持しています。生活維持低下なし」
「白海損傷域は?」
しらぬい。
「変化なし。火山性微動、現状維持」
「三沢は?」
三沢。
――見ています。
――接触予測線、偏向確認。
――長期監視、継続。
康生は目を閉じた。
派手な光はない。
爆発もない。
白い海もない。
神の一撃もない。
ただ、線が少し動いた。
その少しのために、全員が見ていた。
止める条件を決めていた。
警告を聞いた。
照射系を拒んだ。
干渉量を上げすぎなかった。
康生は押さなかった。
壊さずに、少しだけ押した。
相馬が静かに言う。
「第一干渉、成功候補として記録。再計算と長期監視を継続。第二補正の必要性を判断します」
アオイが頷く。
「了解」
千田が震える手で記録している。
「軌道逸らし作戦、第一干渉終了。接触予測線、偏向。練馬三パーセント維持。T-LANCE不使用。右構成部高出力不使用。受電光環照射系不使用」
麻生が静かに息を吐く。
「人の手で、少しだけ動かしましたな」
康生は目を開ける。
「俺の手じゃないけど」
麻生は頷く。
「だからこそ、人の手なのでしょう」
康生は何も言えなかった。
中央表示の赤い線は、外側を通っている。
余裕は極小。
長期監視は必須。
再補正の可能性もある。
まだ終わりではない。
だが、確かに変わった。
空の傷の流れが、ほんの少しだけ逸れた。
康生は右手を握らずに、膝の上へ置いた。
「アオイ」
「はい」
「白い海じゃなかったな」
「はい」
「綺麗じゃなかった」
「はい」
「地味だった」
「はい」
「苦しかった」
「はい」
「でも、こっちの方がいい」
アオイは少しだけ沈黙した。
それから、静かに言った。
「良い実績です」
康生は、疲れた顔で笑った。
「やっと実績になったか」
「はい」
中央表示の地球は、変わらず青い。
その外側で、空の傷はまだ揺れている。
外部質量体も、まだそこにある。
危機が消えたわけではない。
けれど、接触予測線は外れた。
ほんの少し。
神の一撃ではなく、人間たちの測定と補正で。
世界は、ほんの少しだけ押された。




