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規約違反者と監視AI 〜目覚めた未来で、人間扱いされたくて〜  作者: 八汐
第九章 エリア51編

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第百十一話 干渉点

帰り道の方が、長く感じた。


ハチは変異位相航路を離脱し、地球近傍の通常座標へ戻りつつあった。


外部映像には、青い地球が映っている。

さっきよりも大きい。

帰る場所が近づいている。


だが、艇内の表示は赤いままだった。


――放熱余裕、極低。

――制御系温度、危険域接近。

――放熱膜一番、過熱。

――放熱膜二番、高負荷。

――水系タンク、熱容量限界。

――熱質量残量、少。

――姿勢制御、条件付き安定。

――右舷補助ノズル、遅延継続。

――位相同期装置、停止処理中。


康生は固定具に身体を預けたまま、汗をかいていた。


宇宙は寒い。

そういう雑な印象は、もう完全に壊れている。


今のハチは熱い。


機械も熱い。

空気も熱い。

座席の金具も熱を持っている。

呼吸するだけで、胸の奥に湿った熱が溜まる。


「暑い」


康生が言う。


「はい」


アオイが答える。


「艇内温度は上昇しています」


「冷やせない?」


「冷却を強めると、さらに熱が発生します」


「最悪だな」


「はい」


前席の操縦補助員も、声に疲れが出ている。


「姿勢は維持しています。ただ、右舷補助ノズルの遅れが大きいです」


アオイが表示を確認する。


「地球近傍通常座標への復帰までは維持してください。位相同期装置は停止します」


――位相同期装置、停止。

――同期率、七パーセント。

――四パーセント。

――二パーセント。

――一パーセント未満。

――変異位相航路、離脱。


船体の奥で鳴っていた嫌な音が、ようやく消えた。


骨に触れるような震えが遠ざかる。


康生は深く息を吐いた。


右手の熱も少しだけ下がる。


――右構成部監視タグ。

――緊急時自動開放傾向、低下。

――受電経路形成前兆、なし。

――補助観測点反応、停止。


「終わった?」


康生が聞く。


「変異位相同期は終了しました」


アオイが答える。


「作戦は終わっていません」


「だよな」


中央表示には、観測結果が保存されている。


空間位相傷。

外部質量体候補。

変異位相帯流。

流速偏差部。

干渉点候補一。


たった数分の観測で得たものだ。


その数分のために、ハチは熱を溜め、岩石ブロックを投げ捨て、航路から外れかけ、康生は右手を抑えた。


馬鹿みたいだ。


だが、その馬鹿みたいな数分が、今はすべてだった。


アオイが通信を開く。


「練馬、三沢、しらぬい。接近同期観測データを送信します」


森川の声が返る。


「練馬、受信準備完了。ハチの状態は」


「放熱余裕、極低。地球近傍通常座標へ復帰後、即時帰還推奨」


「了解。帰還路を開けます」


三沢。


――三沢暫定監視網、受信待機。

――空間位相傷、監視継続。

――干渉点候補、照合準備。


しらぬい。


「こちら、しらぬい。海上中継を維持。観測データ受信後、変異位相帯流の再計算を支援します」


アオイがデータを送る。


――接近同期観測データ、送信。

――外部質量体再評価、送信。

――変異位相帯流、送信。

――干渉点候補一、送信。

――康生補助観測点入力、送信。

――白海損傷域基準補正、添付。

――Sample-09追跡ログ照合、添付。


康生は表示を見た。


「俺の変な感じも送るのか」


「はい」


アオイが答える。


「重要な観測入力です」


「言い方はかっこいいな」


「事実です」


「でも中身は、左上が嫌な感じだった、だぞ」


「それにより流速偏差部を検出しました」


「測定器として優秀?」


「条件付きです」


「俺もハチも条件付きだな」


「はい」


通信の向こうで、森川が少しだけ笑ったような気がした。


だが、すぐに声は真剣に戻る。


「ハチ、帰還軌道を出します。放熱膜一番が危険です。角度を戻せますか」


アオイが確認する。


「放熱膜一番、収納は危険。角度変更のみ可能」


「では、角度を浅く。大気圏再突入時の負荷を減らしてください」


「了解」


――放熱膜一番、角度変更。

――放熱膜二番、角度変更。

――熱流量、悪化。

――姿勢安定、改善。

――再突入準備。


康生は思わず言った。


「熱を捨てにくくして、落ちる準備か」


「はい」


アオイが答える。


「大気圏再突入時に放熱膜が破損すると帰還不能になります」


「じゃあ熱は」


「耐えます」


「シンプルに嫌だな」


「必要です」


ハチは地球へ向きを変える。


外部映像の青が大きくなる。

白い雲の層が近づく。

地球は綺麗だった。


だが、今は綺麗だと思っている余裕がない。


艇内温度が上がっている。

汗が目に入る。

呼吸が重い。

固定具の内側が蒸れる。


宇宙から帰るというのは、こんなに汗臭いものなのかと康生は思った。


――大気圏再突入準備。

――姿勢制御、条件付き安定。

――右舷補助ノズル遅延、補正。

――放熱膜、再突入角固定。

――熱質量残量、少。

――生命維持、低負荷維持。

――通信遅延、増加。


前席の操縦補助員が低く言う。


「入ります」


ハチが震えた。


最初は小さく。

次に、大きく。


外部映像の端に、薄い光が走る。

船体外装が熱を受け始める。


大気だ。


宇宙では熱を捨てられず苦しみ、今度は大気で焼かれる。


康生は笑いそうになった。


「宇宙、ずっと熱だな」


「はい」


アオイが答える。


「今は空力加熱です」


「言い方変わっても熱いもんは熱い」


「はい」


船体が揺れる。


大気の抵抗を受け、ハチの姿勢がわずかに流れる。

右舷補助ノズルの遅れが表示されるたびに、アオイが補正を入れる。


――姿勢偏差、増加。

――右舷補助ノズル、遅延。

――補正。

――補正。

――放熱膜一番、振動。

――放熱膜一番、振動増加。

――破断リスク。


森川の声が通信に混じる。


「放熱膜一番を捨てられますか」


アオイが即答する。


「投棄可能。ただし、帰還後の再運用に影響」


森川が言う。


「今は帰還優先です」


相馬の声が入る。


「投棄を許可します」


康生は外部映像を見る。


「膜、捨てるのか」


「はい」


アオイが答える。


「破断して機体に絡む前に切り離します」


「戻ったら直す?」


「戻ったら直します」


「森川さんが喜びそう」


「喜びません」


「だよな」


――放熱膜一番、切離し。

――固定解除。

――切離し完了。

――姿勢偏差、低下。

――放熱能力、低下。

――帰還優先。


外部映像の端で、黒い膜が離れていく。


さっきまで熱を捨ててくれていた羽が、大気の中へ消えていく。

燃えたのか、落ちたのか、映像では分からない。


康生は小さく言った。


「ありがとう、一番」


アオイが黙った。


それから言う。


「記録しました」


「今のは記録しなくていいだろ」


「機材喪失時の発言です」


「恥ずかしい」


「必要です」


大気圏再突入は続く。


船体の揺れはしばらく増えたが、やがて落ち着き始めた。

青が戻る。

雲の白が大きくなる。

地球の丸みが、ただの空の広がりへ変わっていく。


宇宙から地球へ戻る瞬間は、劇的ではなかった。


ただ、表示が切り替わる。


――大気圏上層通過。

――空力制御、部分回復。

――姿勢制御、条件付き安定。

――練馬通信、回復。

――しらぬい中継、低下。

――三沢同期、低頻度へ移行。

――帰還軌道、練馬航空整備区画へ。


康生は息を吐いた。


「帰れる?」


「はい」


アオイが答える。


「帰還可能です」


「条件付き?」


「はい」


「だろうな」


ハチは東京上空へ向かう。


荒れた街が、外部映像に戻ってくる。


壊れた高架。

緑に呑まれた道路。

黒く空いたビルの窓。

その下に隠れる練馬航空整備区画。


地上が近づく。


人間の場所が戻ってくる。


康生は少しだけ、胸が痛くなった。


宇宙から見た地球は、落としたら駄目な部品に見えた。

近づいて見れば、その部品は傷だらけだった。

でも、そこに帰るしかない。


「練馬、ハチ。帰還します」


アオイが言う。


森川の声が返る。


「練馬、受けます。搬入路を開けます。着陸後、すぐ冷却と気密確認に入ります」


「了解」


相馬の声。


「作戦データは」


「送信済み。現在、三沢、練馬、しらぬいで統合解析中」


「了解。帰還を優先してください」


ハチは旧軌道作業艇用の射出路へ戻る。


行きに空へ出た道を、今度は下る。

地上の搬入口が開き、ハチは振動しながら降下する。


最後の着地は、綺麗ではなかった。


固定架に収まる直前、右舷側がわずかに遅れた。

機体が傾き、金属同士が擦れる音がした。

操縦補助員が姿勢を押さえ、アオイが補正を入れる。


鈍い衝撃。


ハチが止まった。


――着床。

――固定架、接続。

――艇内気密、保持。

――主機、停止。

――位相同期装置、停止。

――生命維持、維持。

――放熱能力、低下。

――放熱膜一番、喪失。

――ハチ、帰還。


しばらく、誰も喋らなかった。


康生は固定具の中で、呼吸を整える。


汗が冷え始めている。

さっきまで暑かったのに、今度は寒気が来る。


ハッチの外から、森川の声が聞こえた。


「ハッチ開けます。急に立たないでください」


「立てないです」


康生が答える。


「正しい判断です」


アオイが言った。


「判断っていうか、身体が無理」


「必要な制限です」


ハッチが開く。


練馬の空気が流れ込んできた。


金属。

油。

冷却水。

人の生活。

古い機械の熱。


康生はその匂いを吸い込んで、ようやく帰ってきたと感じた。


森川たちが艇内へ入ってくる。


まず康生ではなく、ハチを見る。

気密。

熱。

配管。

放熱膜。

外装。

投棄口。

姿勢制御ノズル。


康生はそれを見て、少し笑った。


「俺よりハチ優先?」


森川が即答する。


「どちらも見ます。でも、ハチが熱を持ったままだと危険です」


「現場だ」


「はい」


千田が康生の固定具を外す。


「立てますか」


「分からない」


「では、座ったまま」


「はい」


アオイ端末が外され、森川の端末と接続される。


中央表示に、観測データの解析結果が開いていた。


康生はまだ立てないまま、それを見る。


黄色い帯。

黒い影。

流速偏差部。

干渉点候補一。


三沢、しらぬい、練馬、受電光環残存センサー群、旧衛星群。

全ての観測が重ねられている。


相馬が中央表示の前に立っていた。


「解析結果は」


アオイが答える。


「干渉点候補一を正式候補へ昇格できます」


康生は顔を上げた。


「昇格?」


「はい」


アオイが表示を拡大する。


――干渉点候補一。

――位置、変異位相帯外縁流速偏差部。

――康生補助観測点入力と一致。

――三沢再解析と一致。

――受電光環残存センサー補正と一致。

――しらぬい観測系補助と一致。

――白海損傷域基準反応による損傷リスク、低。

――破壊的干渉不要。

――微小同期干渉により移動成分変更可能性。

――正式干渉点、登録可能。


康生は息を止めた。


見えた。


本当に、押す場所が見えた。


火星質量級かもしれない外部質量体そのものを押すのではない。

変異位相帯の外縁。

流れがずれている部分。

そこに、ほんの少し干渉する。


流れを変える。

角度を変える。

地球近傍位相構造と、傷同士が触れないようにする。


「ここを押すのか」


「はい」


アオイが答える。


「ただし、直接押すのではありません。微小同期干渉により、変異位相帯の移動成分を補正します」


「分かりやすく」


「川の流れの端を、少しだけ変えます」


「大岩じゃなくて、水の流れを少し変える」


「近い表現です」


相馬が言う。


「実行手段は」


アオイが表示を出す。


――軌道逸らし作戦、実行手段案。

――ハチ単独、不可。放熱不足。

――T-LANCE、使用禁止。

――右構成部高出力、使用禁止。

――受電光環照射系、使用禁止。

――重力兵器、使用禁止。

――実行可能案。

――三沢監視網による基準同期。

――受電光環残存センサー群による位置固定。

――しらぬい観測系による海上中継。

――練馬通信リンクによる統合制御。

――ハチ観測データによる干渉点確定。

――中核特異点炉補助制御系、遠隔低出力同期。

――康生補助観測点、地上低負荷同期。

――目的、微小同期干渉。

――破壊的出力、不要。


康生は最後の方を見た。


「俺、また使うのか」


「出力ではありません」


アオイがすぐ言う。


「地上低負荷同期です。康生の構成体を補助観測点として使い、干渉点のずれを検出します。高出力干渉は行いません」


「ハチと同じく、観測器」


「はい」


「右手は?」


「使用禁止」


「T-LANCEは?」


「使用禁止」


「受電光環は?」


「照射系使用禁止。残存センサーのみ」


「ブラックホールエンジンは?」


「歪み生成禁止。遠隔低出力同期と姿勢制御相当の位相保持のみ」


「禁止だらけだな」


「安全条件です」


康生は笑った。


疲れているせいか、笑い方が少し変だった。


「禁止が多いと安心するな」


「良い傾向です」


アオイが答える。


相馬が森川を見る。


「練馬側で可能ですか」


森川は表示を睨むように見ていた。


「可能かどうかで言えば、条件付きです」


康生が言う。


「出た」


森川は苦笑せず、真面目に続ける。


「練馬三パーセントは維持します。生活維持は落としません。その範囲で通信リンクと統合制御を使う。ハチの制御系は熱が残っているので、直接再起動は不可。アオイさんの言う遠隔低出力同期なら、短時間だけ可能性があります」


「放熱は」


「練馬側設備ならハチより余裕があります。ただし、高出力は禁止です」


「いつもの」


「はい」


しらぬいから通信が入る。


「こちら、しらぬい。海上中継と観測補助は可能。艦載炉高出力運用は行いません」


三沢の応答。


――三沢暫定監視網、正式干渉点候補を受領。

――基準同期、可能。

――警告。

――干渉量、最小。

――破壊的干渉禁止。

――監視情報、全共有。

――T-LANCE、再使用禁止。


康生は最後の行を見た。


「三沢、しつこい」


「必要です」


アオイが答える。


「そうだな」


東京地下からも、文字だけの共有が入る。


――東京地下、共有受領。

――いつも通りを維持します。

――怖いですが、知っています。

――帰還確認、安堵。


康生はその文字を読んで、少しだけ目を閉じた。


怖いですが、知っています。


燈子の言葉だろうか。

あるいは東京地下の誰かの言葉かもしれない。


どちらでもいい。


知らないまま祈るのではなく、知って怖がる。

そして、いつも通りを守る。


その人たちがいる。


だから、ここで隠さない。

ここで焦らない。

ここで撃たない。


相馬が全員へ向き直る。


「軌道逸らし作戦を、実行段階へ移行します」


整備区画が静かになる。


相馬は続けた。


「目的は、外部質量体を破壊することではありません。変異位相帯の移動成分を微小補正し、地球近傍位相構造との接触を避けることです」


アオイが表示を更新する。


――軌道逸らし作戦、実行段階。

――正式干渉点、登録。

――干渉方法、微小同期干渉。

――作戦中止条件。

――T-LANCE同期要求発生時。

――右構成部高出力前兆発生時。

――受電光環照射系接続要求発生時。

――外部領域接続反応急上昇時。

――白海損傷域類似副作用拡大時。

――東京地下生活維持低下時。

――三沢監視不能時。

――作戦継続不可。


康生は中止条件を見た。


「東京地下生活維持低下でも中止?」


「はい」


アオイが答える。


「それで世界が危なくても?」


「東京地下を犠牲にして世界を守る判断は、局所的に正当化される危険な判断です」


「でも」


「練馬の灯りを消してはなりません」


康生は黙った。


森川が静かに言う。


「三パーセントは、守ります」


その声には、迷いがなかった。


それでいいのだと思った。


大きなものを守るために、小さな灯りを消す。

そういう判断は、強く見える。

正しいように見える。

でも、それを許した瞬間、何でも許せるようになる。


白い海と同じだ。


理由があれば、禁忌を破れる。


だから、条件を決める。

超えない線を決める。


康生は頷いた。


「三パーセントは守る」


「はい」


アオイが答えた。


相馬が作戦実行時刻を確認する。


「外部質量体の移動成分から見て、干渉可能時間は」


アオイが表示する。


――干渉可能時間窓。

――第一窓、三十分後。

――有効時間、約十一分。

――第二窓、七時間後。

――有効時間、約七分。

――第三窓、以後不安定。

――推奨、第一窓。


康生は思わず言った。


「三十分後?」


「はい」


「休憩は?」


「短時間なら可能です」


「短時間」


「はい」


森川が即座に言う。


「康生さんは水分補給、冷却、監視タグ再確認。座ったままで。立たないでください」


「俺、工具扱い?」


「作業者扱いです」


「ちょっと嬉しい」


千田が水を持ってくる。


「飲んでください」


「はい」


冷たくはない。

だが、水だった。


康生はゆっくり飲む。


宇宙から戻って飲む水は、妙にうまかった。


アオイが言う。


「康生、作戦中の役割を確認します」


「はい」


「地上低負荷同期による補助観測点」


「はい」


「違和感を報告」


「はい」


「右手を使わない」


「はい」


「熱、痛み、引っ張られる感覚があれば即報告」


「はい」


「押そうとしない」


康生は少し止まった。


「そこ、重要だな」


「はい」


「押したくなる?」


「可能性があります」


「俺が?」


「はい」


「そうか」


康生は右手を見た。


今度は、見た。


布の下の右手。

監視タグ。

七百年前からずれた自分の一部。


これで押せる気がする。

そう思ってしまう可能性がある。


火星級かもしれないものを前にすれば、何かしたくなる。

自分の力を使いたくなる。

人に頼るより、自分が背負った方が楽だと思ってしまう。


それは、危ない。


神扱いされることよりも危ない。


「押さない」


康生は言った。


アオイが見る。


「はい」


「見て、報告する」


「はい」


「判断は全員で」


「はい」


「俺一人で何とかしようとしない」


アオイは少しだけ間を置いた。


「良い回答です」


「実績は?」


「増えています」


「なら、続ける」


「はい」


三十分。


短い。


だが、ただ待つには長い。


整備区画では、全員が動いている。

森川は練馬通信リンクを調整し、三パーセント維持の監視を強める。

千田は記録を整理し、中止条件を全端末に表示する。

相馬は防衛隊本部と作戦権限を確認する。

しらぬいは海上中継位置を微調整する。

三沢は雪の下で、空の傷を見続ける。

東京地下は、いつも通りを維持する。


康生は座ったまま、ハチを見る。


ハチは帰ってきたばかりで、まだ熱い。

放熱膜一番を失い、外装には焦げた跡が増えている。

右舷側には着床時の擦過傷もある。


傷だらけだ。


それでも、データを持ち帰った。


「ハチ、ありがとな」


康生が呟く。


ハチは返事をしない。


ただ、端末に表示が残っている。


――接近同期観測任務、完了。

――補修必要。

――次任務、待機不可。

――冷却中。


康生は笑った。


「待機不可。そりゃそうだ」


アオイが言う。


「ハチは次任務に出せません」


「出さないよ」


「必要です」


「今日は休ませよう」


「機械です」


「でも休ませよう」


アオイは少しだけ沈黙した。


「比喩として許容します」


「ありがとう」


中央表示で、時間が進む。


干渉可能時間窓まで、十分。


空間位相傷の表示が開かれる。


黄色い帯。

黒い外部質量体候補。

正式干渉点。

微小同期干渉の方向。

地球近傍位相構造との接触予測線。


まだ接触する。

このままなら、傷同士が触れる。


だが、干渉が成功すれば、線はわずかに逸れる。


わずか。


本当にわずかだ。


でも、それでいい。


大きく動かす必要はない。

壊す必要もない。

消す必要もない。


触れないように、少しずらす。


康生はその細い差を見て、思った。


これは、測定だ。


基準を見て、ずれを測って、補正する。

過大に直せば別の不良が出る。

不足すれば合わない。

何度も見て、必要な分だけ触る。


世界相手の測定。


馬鹿みたいで、でも自分たちらしい。


アオイが言う。


「康生」


「はい」


「干渉可能時間窓まで、五分」


「はい」


「怖いですか」


康生は少し考えた。


「怖い」


「はい」


「でも、白い海の時とは違う」


「どう違いますか」


「今回は、使えば消せるって思ってない」


「はい」


「俺がやるって思ってない」


「はい」


「みんなで見る。みんなで止める。駄目なら中止する」


「はい」


「だから、怖いけど、前よりまし」


アオイは頷いた。


「良い認識です」


「回答じゃないんだな」


「はい」


「でもいい」


中央表示が赤から青へ切り替わる。


――干渉可能時間窓、接近。

――全監視網、同期準備。

――三沢、基準同期準備完了。

――受電光環残存センサー、位置固定準備完了。

――しらぬい、中継準備完了。

――練馬、統合制御準備完了。

――康生補助観測点、待機。

――軌道逸らし作戦、実行待機。


相馬が言う。


「全員、確認。これは破壊作戦ではありません」


アオイが続ける。


「これは、微小同期干渉です。干渉量は最小。異常があれば中止します」


森川が言う。


「練馬三パーセント維持。生活維持低下なし」


しらぬい。


「海上中継、維持」


三沢。


――北の監視者、稼働継続。

――見ます。


康生はその短い表示を見た。


見ます。


三沢らしいと思った。


康生も頷く。


「俺も見る」


アオイが言う。


「はい」


「押さない」


「はい」


「壊さない」


「はい」


「逸らす」


「はい」


相馬が静かに言った。


「軌道逸らし作戦、開始準備」


中央表示の空の傷が、ゆっくり拡大される。


正式干渉点が、細い光で示される。


そこは、撃つ場所ではない。

壊す場所でもない。

神の力を注ぐ場所でもない。


ただ、流れの端を少しだけ変える場所。


人の手が届くかもしれない、唯一の点。


アオイが最後に言う。


「康生、警告を聞いてください」


「聞く」


「記録を隠さないでください」


「隠さない」


「一人で背負わないでください」


「背負わない」


「良い回答です」


康生は息を吐いた。


「じゃあ、始めよう」


中央表示の時計が、干渉可能時間窓へ入った。


――軌道逸らし作戦。

――実行開始。


空の傷へ向けて、世界中に残った小さな眼と、細い灯りと、傷だらけの作業艇が持ち帰った座標が、同時に繋がった。


撃つのではない。


壊すのではない。


ほんの少し、押すために。

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