第百十話 白熱
地上が遠ざかっていく。
ハチの外部映像には、荒れた東京が映っていた。
崩れたビル。
緑に呑まれた道路。
歪んだ高架。
その隙間に隠れた練馬航空整備区画。
数秒前まで、そこにいた。
今は、機体の下にある。
ハチは上昇している。
旧軌道作業艇八号。
通称、ハチ。
七百年前の作業艇は、七百年ぶりに地上を離れた。
康生は固定具に身体を押しつけられている。
加速は、想像していたより乱暴ではなかった。
だが、快適でもない。
機体は細かく震え、どこかのパネルが規則的に鳴っている。
前席の防衛隊操縦補助員が、短く報告する。
「姿勢制御、条件付き安定。右舷補助ノズルの遅れあり」
アオイが即座に補正を入れる。
「右舷補助ノズル遅延、補正。主機出力、低域維持。高出力禁止」
――主機、低出力。
――姿勢制御、条件付き安定。
――練馬通信、維持。
――三沢同期、維持。
――しらぬい中継、維持。
――放熱監視、開始。
康生は表示を見た。
「もう放熱?」
「はい」
アオイが答える。
「上昇直後から熱管理は始まっています」
「早いな」
「宇宙でも現場です」
「まだ宇宙じゃないだろ」
「宇宙に向かう現場です」
「細かい」
「必要です」
ハチは上昇を続ける。
外部映像の東京が小さくなる。
雲が近づき、機体が薄い白の中へ入る。
映像が一瞬乱れ、すぐに青へ戻る。
青が濃くなる。
地上で見上げる空とは違う青だ。
上に行くほど暗くなる。
青いはずなのに、黒が混じってくる。
康生はそれを見て、少しだけ息を呑んだ。
「空って、上に行くと暗いんだな」
「はい」
アオイが答える。
「大気が薄くなるためです」
「理屈は分かるけど、変な感じだ」
「はい」
機体がもう一度震える。
――大気密度、低下。
――空力制御、低下。
――姿勢制御ノズル依存、上昇。
――右舷補助ノズル遅延、補正継続。
――放熱膜展開準備。
康生は表示を見る。
「もう膜出すのか」
「はい」
「まだ上昇中だぞ」
「放熱が必要です」
「宇宙船ってもっと、こう、エンジン全開でドーンじゃないのか」
「ハチは旧軌道作業艇です」
「知ってる」
「高出力運用はできません」
「知ってる」
「放熱なしでは、位相同期装置も生命維持も維持できません」
「知ってるけど、地味だなあ」
「地味であることは、危険がないことを意味しません」
「それも知ってる」
アオイが放熱膜の展開を開始する。
――放熱膜一番、展開。
――放熱膜二番、展開。
――三番、収納維持。
――展開角、制限。
――大気抵抗、許容範囲。
――熱流量、監視。
外部映像の端に、黒い膜が広がる。
薄い。
大きい。
翼ではない。
太陽帆でもない。
熱を捨てるための黒い面。
ハチはそれを背負って、濃くなる空を上っていく。
康生は小さく笑った。
「見た目、でかい黒い羽だな」
「翼ではありません」
「分かってる」
「放熱膜です」
「分かってるけど、羽っぽい」
「比喩としては許容します」
「珍しく優しい」
「必要な訂正ではありません」
「そこも記録?」
「重要ではありません」
「よかった」
緊張の中で、少しだけ息が抜ける。
だが、表示の数字は緩まない。
――艇内温度、上昇。
――制御系温度、上昇。
――放熱膜一番、熱流入。
――放熱膜二番、熱流入。
――熱質量、待機。
――水系タンク、保守運用。
前席の操縦補助員が言う。
「大気圏上層へ移行。姿勢、保ちます」
アオイが答える。
「位相同期装置はまだ起動しません。通常上昇を優先」
「了解」
康生は右手を見ないようにしていた。
見ない。
考えない。
握らない。
それなのに、身体は覚えている。
機体の震え。
緊急表示。
空へ向かう感覚。
何か大きなものへ近づいているという直感。
右手の奥が、微かに熱を持つ。
――右構成部監視タグ。
――緊急時自動開放傾向、微弱上昇。
――受電経路形成前兆、なし。
アオイが言う。
「康生」
「はい」
「右手を握らない」
「握ってない」
「呼吸を一定に」
「はい」
「外部映像ではなく、姿勢表示を見てください」
「景色見ちゃ駄目?」
「今は、景色への意識が右構成部の反応を上げています」
「綺麗だから?」
「未知領域への接近認識が影響しています」
「分かりやすく」
「気持ちがざわついています」
「それはそう」
康生は外部映像から視線を外し、姿勢表示を見る。
数字。
角度。
温度。
同期待機。
放熱。
通信。
現場の表示。
空の美しさより、今はそちらを見る。
――緊急時自動開放傾向、低下。
アオイが言う。
「良い制御です」
「景色でテンション上がると右手が反応するの、嫌だな」
「必要な情報です」
「ロマンも何もない」
「ロマンは作戦項目ではありません」
「はい」
機体が雲を抜ける。
外部映像の端で、地球が丸く見え始めた。
青い縁。
白い雲。
灰色の陸。
康生は見ないようにしていたが、見えてしまった。
「丸い」
「はい」
「本当に丸いな」
「はい」
「すげえな」
「はい」
「右手は?」
「微弱上昇なし。現在は安定しています」
「なら少しだけ見てもいい?」
「短時間なら」
康生は外部映像を見た。
地球がある。
自分がいた場所が、丸いものの表面にある。
東京地下。
練馬。
三沢。
奥飛騨。
白海損傷域。
海洋リン回収施設。
エリア51。
全部、あの丸いものの上にある。
守るべきもの、と言えば大げさすぎる。
だが、帰る場所はたしかにそこにあった。
「神様が上から見る景色って感じではないな」
康生が言う。
アオイが聞く。
「どう見えますか」
「落としたら駄目な部品」
操縦補助員が一瞬だけ振り向きそうになり、すぐ前を向いた。
アオイが少し沈黙してから言う。
「良い認識です」
「良い回答じゃなくて?」
「今回は認識です」
「相変わらず厳密」
「必要です」
ハチは大気の薄い層を抜ける。
揺れ方が変わった。
空力の揺れが消え、代わりに姿勢制御ノズルの小さな補正だけが機体を震わせる。
音も変わる。
外からの音が減り、船内の機械音だけが近くなる。
宇宙に出るというのは、もっと劇的なものだと思っていた。
だが、実際には表示が一つ切り替わっただけだった。
――大気圏上層離脱。
――軌道上昇段階へ移行。
――外部圧力、低下。
――放熱膜展開角、再設定。
――姿勢制御、条件付き安定。
――練馬通信、遅延微増。
――三沢同期、維持。
――しらぬい中継、維持。
康生はその表示を見て言った。
「宇宙?」
「はい」
アオイが答える。
「宇宙空間です」
「もっと何か、来たぞ宇宙、みたいなのないの?」
「ありません」
「現場だな」
「はい」
宇宙でも現場だった。
ハチは地球の縁に沿うように上昇し、旧軌道作業艇用の暫定軌道へ入る。
完全な軌道投入ではない。
短時間の接近同期観測へ向かうための、通過点だ。
中央表示に、壊れた天輪が映る。
受電光環の残骸。
旧衛星群。
第三外縁破損区画。
淡い光点。
途切れた輪。
地上で見ていたものが、少し近くなった。
「天輪だ」
康生が言う。
「旧軌道受電光環です」
アオイが答える。
「訂正すると思った」
「必要です」
「でも、あれが天輪って呼ばれたら、信じる人がいるのも分かるな」
外部映像の中で、壊れた輪は静かに地球を囲んでいた。
近づいても、やはり美しくはない。
欠けている。
歪んでいる。
焼けたような跡がある。
漂う残骸がある。
だが、地球の青い縁の上に浮かぶその姿は、どこか神話めいて見えてしまう。
康生は苦笑した。
「見た目に騙されるな、だな」
「はい」
アオイが答える。
「見た目ではなく、状態を見ます」
表示が切り替わる。
――受電光環残存センサー群、近接同期。
――照射系、遮断維持。
――受電経路形成、なし。
――第三外縁破損区画、観測のみ。
――旧衛星群、五基相当応答。
――空間位相傷、観測継続。
ハチの進路が変わる。
通常軌道上昇から、変異位相航路の入口へ向かう。
外部映像では何も見えない。
星も、地球も、受電光環もある。
だが、航路そのものは映らない。
中央表示にだけ、薄い線が浮かぶ。
地球近傍の残留歪み。
受電光環事故由来の位相帯。
Sample-09が流れた痕跡。
白海損傷域から得た損傷基準。
それらを重ねた、細い航路。
――変異位相航路入口、接近。
――通常視覚確認、不可。
――三沢監視網、同期。
――受電光環残存センサー、同期。
――ハチ位相同期装置、準備。
――中核特異点炉補助制御系、低出力同期準備。
――ブラックホールエンジン、歪み生成禁止。
――姿勢制御、航路維持のみ。
康生は表示を読む。
「何回でも書くな、歪み生成禁止」
「必要です」
「うん。必要」
白い海を思い出す。
使えば消せる。
だから使った。
その結果、傷が残った。
もう同じことはしない。
アオイが言う。
「変異位相同期を開始します」
操縦補助員が答える。
「姿勢制御、手動補助に入ります」
「放熱膜、角度変更」
――放熱膜一番、角度変更。
――放熱膜二番、角度変更。
――熱流量、上昇予測。
――熱質量、待機。
――位相同期装置、起動。
――出力、最低。
――同期対象、変異位相航路入口。
音が変わった。
ハチの船体全体が、低く鳴る。
さっきの診断音とは違う。
薄い膜を指で弾いたような音が、ずっと続いている。
耳ではなく、骨に響く。
康生の右手が熱くなる。
――右構成部監視タグ。
――緊急時自動開放傾向、上昇。
――受電経路形成前兆、なし。
――局所崩壊前兆、なし。
――補助観測点反応、検出。
アオイが言う。
「康生、警告を聞いてください」
「聞いてる」
「右手を使わない」
「使わない」
「反応を追わない」
「追わない」
「痛みはありますか」
「熱いだけ」
「我慢しすぎないでください」
「はい」
中央表示に、康生補助観測点の反応が出る。
小さな揺らぎ。
ハチの位相同期装置が拾えない微弱な相関。
変異位相航路の入口が、康生の構成体にも触れている。
出力ではない。
観測。
分かっている。
それでも、自分の中の何かが外へ繋がりそうになる感覚は、気持ち悪かった。
「アオイ」
「はい」
「これ、俺が気を抜いたら右手が勝手に何かする?」
「可能性があります」
「正直」
「必要です」
「止められる?」
「止めます」
「可能な全手段で?」
「はい」
「よし」
康生は表示を見る。
右手ではない。
外部映像でもない。
航路の数字を見る。
――同期率、二パーセント。
――三パーセント。
――五パーセント。
――姿勢偏差、増加。
――右舷補助ノズル遅延。
――補正。
――放熱膜温度、上昇。
――艇内制御系温度、上昇。
ハチが揺れる。
宇宙空間で揺れる、という感覚が奇妙だった。
地面も空気もないのに、機体の中だけが揺れている。
操縦補助員が声を絞る。
「姿勢、流されます」
アオイが即座に補正する。
「ブラックホールエンジン補助制御、低出力。歪み生成なし。姿勢保持のみ」
――中核特異点炉補助制御系、低出力開放。
――目的、姿勢制御。
――歪み生成、なし。
――航路維持、開始。
船体の鳴り方が変わる。
ハチが、何かに乗った。
それは加速ではない。
押される感じでもない。
落ちる感じとも違う。
足元の座標が、少しずつずれていくような感覚。
康生は吐き気を覚えた。
「気持ち悪い」
「変異位相同期による空間認識のずれです」
「分かりやすく」
「道がまっすぐではありません」
「最悪だな」
「はい」
外部映像に異常はない。
地球があり、天輪の残骸があり、星がある。
だが、中央表示では航路が曲がっている。
曲がっているのに、ハチはまっすぐ進んでいる。
まっすぐ進んでいるのに、位置が横へ滑る。
波に乗る。
そう言われていた。
だが、これは水面の波ではない。
空間の癖だ。
七百年前の事故と、重力兵器の報復合戦と、外部領域接続試験と、白海損傷域の基準が示した、傷の流れ。
その上を、ハチは滑っている。
――同期率、十パーセント。
――変異位相航路、捕捉。
――姿勢偏差、補正中。
――放熱膜温度、上昇。
――熱質量投棄準備。
康生は表示を見る。
「もう熱質量?」
「はい」
アオイが答える。
「位相同期装置と姿勢制御の熱負荷が高いです」
「まだ始まったばっかりだぞ」
「はい」
「放熱膜二基じゃ足りない?」
「足りません」
「三番は?」
「固着。手動補助なしでは展開不可」
「誰が手動補助するんだよ」
「現時点では不可能です」
「ですよね」
森川の声が通信に入る。
「ハチ、練馬です。放熱膜一番と二番の角度をもう少し開けます。姿勢に影響が出るので、アオイさん、補正できますか」
アオイが答える。
「可能ですが、右舷補助ノズル遅延が増えます」
「それでも熱が先に危険です」
「了解。放熱膜角度変更」
――放熱膜一番、展開角増加。
――放熱膜二番、展開角増加。
――姿勢偏差、増加。
――右舷補助ノズル遅延、増加。
――補正。
――補正。
――補正。
ハチが斜めに沈むような感覚。
操縦補助員が姿勢を戻す。
アオイが同期を絞る。
康生は固定具を握りそうになり、左手だけで抑えた。
右手は握らない。
――右構成部監視タグ、微弱上昇。
――受電経路形成前兆、なし。
――補助観測点、安定。
「良い制御です」
アオイが言う。
「褒める余裕あるのか」
「必要です」
「ありがとう」
熱の表示がまだ上がる。
――制御系温度、上昇。
――位相同期装置温度、上昇。
――熱質量投棄、推奨。
アオイが判断する。
「熱質量投棄を実施します」
操縦補助員が確認する。
「岩石ブロック一番、加熱済み。投棄口、低速動作」
康生は思わず言った。
「宇宙に石を捨てる時間か」
「はい」
アオイが答える。
「熱を捨てます」
――岩石熱質量一番、投棄。
――投棄口、開放。
――排出。
――排出完了。
――投棄口、閉鎖。
――熱流量、低下。
――姿勢偏差、微増。
――補正。
外部映像の端で、小さな黒い塊が離れていく。
熱を持った石。
それはすぐに暗闇へ消えた。
康生はそれを見て、なぜか胸に残った。
火星級かもしれないものを逸らすために、まず自分たちは熱くなった石を一つ捨てている。
馬鹿みたいに小さい。
でも、現実だった。
「世界相手の作業って感じだな」
「はい」
アオイが答える。
「小さな作業の積み重ねです」
「神様っぽくない」
「はい」
「それがいい」
同期率が上がる。
――同期率、十八パーセント。
――二十一パーセント。
――変異位相航路、安定範囲。
――地球近傍通常座標からの偏差、増加。
――三沢同期、遅延。
――しらぬい中継、維持。
――受電光環残存センサー、補正継続。
外部映像の星が、少しだけ歪んだ。
いや、歪んだように見えた。
星の位置が変わったのではない。
映像補正が追いついていない。
空間の方がずれている。
康生は気持ち悪さを押し殺した。
「これ、ずっと続く?」
「接近同期観測点まで続きます」
「何分?」
「通常時間換算で二十七分。ただし、変異位相航路上の時間認識には誤差があります」
「嫌な言い方」
「必要です」
「二十七分、もつ?」
「放熱次第です」
「つまり分からない」
「はい」
二十七分。
短いようで、長い。
ハチの中では、すべてが熱になっていく。
制御する熱。
同期する熱。
生命を維持する熱。
機械が動く熱。
人間の身体の熱。
宇宙は冷たい場所だと思っていた。
だが、今の敵は寒さではない。
熱だ。
――制御系温度、上昇。
――放熱膜一番、限界接近。
――放熱膜二番、安定。
――水系タンク、熱容量利用開始。
――艇内温度、上昇。
――乗員負荷、上昇。
康生の額に汗が浮く。
宇宙で汗をかいている。
笑えない。
「暑い」
「はい」
アオイが答える。
「艇内温度が上昇しています」
「空調は?」
「低負荷運用中。これ以上上げると熱が増えます」
「冷やすために熱が増える」
「はい」
「最悪だな」
「はい」
操縦補助員が息を整えながら言う。
「このままなら、接近同期観測点までは持ちます」
アオイが訂正する。
「余裕はありません」
「分かっています」
康生は表示を見る。
余裕はない。
でも、進んでいる。
変異位相航路の細い線の上を、ハチは滑っている。
壊れた天輪の残骸が後方へ下がり、地球が少しずつ遠ざかる。
空の傷が、表示の中心へ近づいてくる。
肉眼では見えない。
外部映像にも映らない。
だが、観測表示の中では、黄色い帯が少しずつ濃くなる。
その中心にある黒い影も、前より濃い。
――空間位相傷、接近。
――外部質量体候補、観測精度向上。
――変異位相帯流、検出強度上昇。
――接近同期観測点まで、推定九分。
――放熱余裕、低。
――熱質量投棄二番、準備。
康生は苦笑した。
「あと九分で、もう二個目の石」
「はい」
アオイが答える。
「熱を捨てます」
「どんどん身軽になるな」
「熱質量は有限です」
「分かってる」
――岩石熱質量二番、投棄。
――投棄口、開放。
――排出。
――排出遅延。
――排出遅延。
――投棄不完全。
船内に警告音が鳴る。
操縦補助員が声を上げる。
「投棄口、閉じません」
アオイが即座に表示を切り替える。
――熱質量投棄口、閉鎖不完全。
――姿勢偏差、増加。
――熱流量、想定外。
――岩石ブロック二番、引っ掛かり。
――手動処理、不可。
――機体回転による排出補助、候補。
――危険、姿勢喪失。
康生は固定具を握りそうになった。
右手が熱くなる。
――右構成部監視タグ。
――緊急時自動開放傾向、上昇。
――受電経路形成前兆、なし。
――警告。
アオイが強く言う。
「康生、右手を使わない」
「分かってる」
「投棄口へ意識を向けないでください」
「向けるなって言われても」
「こちらで処理します」
「任せる」
「良い回答です」
ハチが回る。
正確には、わずかに姿勢を振る。
引っ掛かった岩石ブロックを、慣性で外へ逃がすために。
操縦補助員が必死に姿勢を保つ。
アオイが右舷補助ノズルの遅延を補正する。
放熱膜が大きく揺れる。
――姿勢偏差、増加。
――右舷補助ノズル、遅延。
――補正。
――補正。
――投棄口、排出再開。
――岩石ブロック二番、排出。
――投棄口、閉鎖。
――姿勢偏差、残留。
――航路維持、危険。
外部映像の星が傾く。
地球の縁が画面の端へ流れる。
康生は胃が浮くような感覚に耐える。
「落ちてる?」
「落ちていません」
アオイが答える。
「航路から外れかけています」
「それは落ちてるよりいいのか悪いのか」
「比較困難です」
「今それ要る?」
「正確性は必要です」
「はい」
アオイが位相同期装置を絞る。
――同期率、低下。
――二十一パーセント。
――十六パーセント。
――姿勢回復優先。
――ブラックホールエンジン補助制御、低出力補正。
――歪み生成なし。
――航路再捕捉準備。
ハチの音が一度弱まる。
変異位相航路の感覚が薄れる。
気持ち悪さが少し引く。
だが、同時に表示の航路線から、ハチの位置がずれ始める。
康生は思わず言った。
「外れる」
「再捕捉します」
アオイが答える。
「できる?」
「実行します」
「できるって言わないのか」
「不確実です」
「正直」
「必要です」
右手が熱い。
何かできそうな気がする。
押せそうな気がする。
戻せそうな気がする。
それが一番危ない。
康生は奥歯を噛む。
「俺は何もしない」
アオイが言う。
「はい」
「見てる」
「はい」
「警告を聞く」
「はい」
「任せる」
「はい」
アオイの声が、少しだけ柔らかくなる。
「良い実績です」
康生は笑えなかった。
でも、右手の熱は少し下がる。
――緊急時自動開放傾向、低下。
アオイが同期を戻す。
――航路再捕捉。
――変異位相相関、再検出。
――同期率、八パーセント。
――十一パーセント。
――十四パーセント。
――航路維持、条件付き回復。
――接近同期観測点まで、推定五分。
操縦補助員が息を吐いた。
「戻りました」
「完全ではありません」
アオイが言う。
「分かっています」
康生は汗を拭えない。
固定具に縛られたまま、表示を見ることしかできない。
見ることしかできない。
だが、今はそれでいい。
外部映像に、奇妙な揺らぎが映り始める。
星が消えるわけではない。
光が曲がるわけでもない。
ただ、そこだけ映像の解像度が落ちたように見える。
空の一部が、うまく描けていない。
――空間位相傷、近傍観測範囲。
――外部映像、補正困難。
――位相境界揺らぎ、強。
――外部質量体候補、重力歪み増加。
――接近同期観測点、到達準備。
康生は息を呑む。
「見える?」
「視覚的には見えていません」
アオイが答える。
「ですが、観測されています」
中央表示に、黄色い帯が大きく広がる。
その内側に、黒い影。
前より、はっきりしている。
まだ輪郭はない。
まだ天体とは言えない。
だが、質量がある。
重い何かが、変異位相帯に包まれている。
康生の身体が、直感でそれを理解した。
怖い。
中継巣とも、T-LANCEとも違う。
巨大すぎて、形のない怖さ。
「これが、外部質量体」
「はい」
アオイが答える。
「仮称です」
「名前の話してる余裕ないな」
「はい」
表示が更新される。
――接近同期観測点、到達。
――位置保持、開始。
――同期率、十五パーセント。
――放熱余裕、極低。
――観測時間、推奨三分以内。
――外部質量体候補、再評価開始。
――変異位相帯流、測定開始。
――軌道逸らし作戦、干渉点候補算出開始。
三分。
ここまで来て、三分。
康生は笑いそうになった。
三分見るために、宇宙へ出て、熱を捨て、航路から外れかけ、右手を抑えた。
でも、その三分が必要だった。
アオイが言う。
「康生、補助観測点として同期します。出力ではありません」
「はい」
「右手を使いません」
「はい」
「反応を追いません」
「はい」
「ただ、違和感があれば言ってください」
「分かった」
康生は目を閉じない。
中央表示を見る。
黄色い傷。
黒い影。
流れる線。
歪みの方向。
身体の奥が、ぞわりとする。
右手ではない。
もっと深いところで、何かが嫌がっている。
「左上」
康生が言った。
アオイがすぐ反応する。
「何が見えますか」
「見えるっていうか、嫌な感じが左上に流れてる」
「左上とは表示座標ですか」
「たぶん。黒い影の外側。黄色い帯が薄くなってるところ」
アオイが座標を重ねる。
――補助観測点反応、入力。
――表示座標、左上外縁。
――変異位相帯流、再計算。
――流速偏差、検出。
――干渉点候補、一。
康生は息を止めた。
「当たった?」
「補助観測として有効です」
「俺、測定治具として役に立った?」
「はい」
「複雑だな」
「必要です」
観測は続く。
――外部質量体候補、質量再評価。
――推定範囲、縮小。
――月質量級を大幅に上回る可能性。
――火星質量級に接近する可能性、維持。
――通常天体モデル、不適合。
――変異位相帯による包絡、確認度上昇。
――地球近傍位相構造との接触リスク、高。
康生は表示を見る。
「やっぱり、火星級かもしれないのか」
「はい」
アオイが答える。
「ただし、目的は破壊ではありません」
「逸らす」
「はい」
さらに表示が変わる。
――干渉点候補、一。
――変異位相帯外縁、流速偏差部。
――干渉量、微小。
――破壊的干渉不要。
――長時間補正、必要。
――必要、位置保持。
――必要、放熱余裕。
――現行ハチ単独、長時間保持不可。
康生はすぐに言った。
「ハチだけじゃ無理」
「はい」
アオイが答える。
「ですが、干渉点は見えました」
「じゃあ、次は」
「地球側の監視網、受電光環残存センサー、しらぬい、三沢、ハチの観測を統合し、遠隔同期補正を試みます」
「俺たちは?」
「これ以上の滞在は危険です」
表示が赤くなる。
――放熱余裕、限界接近。
――制御系温度、危険域接近。
――放熱膜一番、過熱。
――水系タンク、熱容量限界接近。
――観測継続、危険。
――撤退推奨。
三分は、まだ終わっていない。
だが、限界は早く来た。
康生は黒い影を見る。
もっと見たい。
もっと分かりたい。
もう少しで何か掴める気がする。
その気持ちが出た瞬間、アオイが言う。
「撤退します」
「まだ」
「撤退します」
「あと少し」
「白い海を思い出してください」
康生は黙った。
使えるから、使った。
見たいから、粘る。
同じだ。
理由が変わっただけで、線を越えようとしている。
康生は息を吐いた。
「撤退」
アオイが頷く。
「良い判断です」
「未練あるけどな」
「記録します」
「するな」
「重要です」
アオイが撤退手順を開始する。
――接近同期観測、終了。
――干渉点候補、一、保存。
――外部質量体再評価、保存。
――変異位相帯流データ、保存。
――撤退航路、計算。
――変異位相同期、段階解除。
――放熱優先。
――熱質量投棄三番、準備。
康生は表示を見る。
「三個目」
「はい」
「帰りの分、足りる?」
「余裕はありません」
「またそれ」
「必要です」
ハチがゆっくり向きを変える。
空間位相傷の黄色い帯が、表示の中心からずれていく。
黒い影が遠ざかる。
外部映像では、最後まで何も見えない。
ただ、星空の一部が、うまく描けていないだけだった。
それでも、見た。
完全ではないが、見た。
干渉点候補も見えた。
壊すのではなく、逸らすための点。
康生は汗をかいたまま、固定具の中で息を吐く。
「アオイ」
「はい」
「見えたな」
「はい」
「怖かったな」
「はい」
「でも、撃つ場所じゃなくて、押す場所が見えた」
「はい」
「なら、来た意味はあった」
アオイは少しだけ間を置いてから答える。
「良い判断です」
「実績は?」
「増えました」
康生は小さく笑った。
「なら、帰ろう」
「はい」
ハチは、熱を抱えたまま変異位相航路を離脱する。
放熱膜は白熱寸前だった。
熱質量は減った。
機体は疲れている。
右舷補助ノズルは遅れたまま。
三番放熱膜は最後まで開かなかった。
それでも、ハチは帰る方向を向いた。
地球が、遠くに青く光っている。
その丸い部品を落とさないために、傷だらけの作業艇は、熱を捨てながら帰路へ入った。




