第百九話 ハチ起動
ハチの起動試験は、朝を待たなかった。
練馬航空整備区画に、朝というものがどれほど意味を持つのかは分からない。
地下には太陽が差し込まない。
照明は出力三パーセントの範囲で淡く点き、送電母線の低い振動が壁の奥を流れている。
それでも、人は勝手に区切りを作る。
作業が一段落した時。
補修リストに線を引いた時。
誰かが温い飲み物を配った時。
機械が、次の段階へ進めると答えた時。
その時を、朝と呼ぶことにしたらしい。
深層格納庫の中央で、旧軌道作業艇ハチは固定架に抱かれていた。
接続ハッチのシールは交換済み。
区画二の微漏洩は止まった。
生命維持材は使えるものを掻き集めて交換した。
放熱膜二基は展開試験を終え、三基目は手動補助が必要。
熱質量は岩石ブロック中心。
水系タンクは保守運用。
金属ブロックは少ない。
熱質量投棄口は低速動作のみ確認。
どれも、完全ではない。
中央表示には、何度も見た言葉が並んでいる。
――条件付き可能。
康生はそれを見て、ため息をついた。
「条件付き可能だらけだな」
「はい」
アオイが答える。
「完全に安全な項目はありません」
「言い切るなあ」
「必要です」
「でも、飛べる?」
「限定起動試験を通過すれば、軌道上昇は可能です」
「つまり、まだ飛べない」
「まだ飛べません」
「はい」
森川がハチの外部端子に最後の診断線を繋いでいる。
目の下には疲れがある。
だが、手つきは乱れていなかった。
「補修完了とは言えません」
森川が言う。
「ただ、これ以上ここで整備しても、確認できない部分があります。低出力で起こして、実際にどこまで応答するか見るしかありません」
康生はハチを見上げた。
ずんぐりした胴体。
黒ずんだ外装。
折り畳まれた作業アーム。
放熱膜の収納部。
腹部の熱質量投棄口。
見れば見るほど、宇宙船というより作業車だった。
「起こすって言い方、いいですね」
「起動です」
アオイが訂正する。
「分かってるけどさ」
「機械です」
「分かってる」
康生は少しだけ笑った。
「でも、七百年寝てたんだろ」
アオイは答えない。
ハチの端末には、低電力の待機表示が出ている。
――旧軌道作業艇八号。
――通称、ハチ。
――接近同期観測任務、承認待機。
――主機、停止。
――中核特異点炉補助制御系、封鎖。
――位相同期装置、診断待機。
――生命維持、条件付き。
――放熱、条件付き。
――航路、未入力。
相馬が中央に立つ。
「限定起動試験を開始します」
防衛隊員たちが位置につく。
森川が技術班へ合図を出す。
千田が記録端末を構える。
麻生は少し離れた場所で、ハチと康生の両方を見ている。
しらぬいは海上から観測系を同期。
三沢は北から低頻度監視。
受電光環残存センサー群は、空の傷へ向いたまま待機。
旧衛星群は断続的に応答している。
東京地下の代表回線も、低帯域で開かれていた。
燈子は映っていない。
体調を考えれば当然だった。
代わりに、短い文字だけが表示されている。
――東京地下、共有受領。
――いつも通りを維持します。
――戻ってきてください。
康生は、その最後の行を見た。
戻ってきてください。
人として、とは書かれていない。
でも、聞こえた気がした。
康生は小さく息を吐く。
「戻る前提で行かないとな」
「はい」
アオイが答える。
「戻るための作戦です」
「世界を救うため、じゃなく?」
「それも含まれます。ただし、帰還を前提にしない作戦は承認できません」
「いいね」
「必要です」
相馬が確認する。
「搭乗者を最終決定します」
中央表示に候補が出る。
――搭乗候補。
――康生。
――アオイ端末。
――防衛隊操縦補助員、一名。
――森川、技術支援候補。
――千田、記録支援候補。
――搭乗可能人数、二席確実、補助席一。
――生命維持余裕、低。
――推奨、最小人数。
康生は表示を見た。
「二席確実、補助席一って、軽自動車より怖いな」
「比較対象が不適切です」
アオイが答える。
「でも狭いんだろ」
「狭いです」
「知ってた」
森川が言う。
「私は乗りません」
康生は少し驚いて森川を見る。
森川はハチの外装に手を置いていた。
「乗った方が現場対応はできます。でも、練馬側で通信と補修支援を維持する人間が必要です。ここを空にすると、戻ってきた時に受けられない」
「確かに」
「だから、私は地上に残ります」
相馬が頷く。
「技術支援は練馬側。ハチには操縦補助員を乗せます」
千田が端末を見ながら言う。
「記録支援は地上から行います。補助席は、緊急用に空けるべきです」
康生は思わず言った。
「宇宙用靴下は?」
千田は小さな袋を差し出した。
「積みました」
「本当に」
「重要です」
「ありがとうございます」
袋の中には、厚手の船内用靴下が入っていた。
この状況で、靴下が妙に頼もしく見えた。
アオイが搭乗者を更新する。
――搭乗者。
――康生。
――アオイ端末。
――防衛隊操縦補助員、一名。
――補助席、空席。
――練馬側技術支援、森川。
――記録支援、千田。
――作戦指揮、相馬。
――全監視情報、共有継続。
康生は自分の名前を見た。
やはり、行くことになった。
怖くないわけがない。
だが、驚きはなかった。
「俺、何するんだっけ」
「補助観測点です」
アオイが答える。
「高出力干渉は禁止」
「はい」
「右手は使わない」
「はい」
「T-LANCEも使わない」
「はい」
「見て、聞いて、警告を守る」
「はい」
「地味だな」
「適切です」
「それでいい」
アオイが康生の右構成部監視タグを更新する。
――右構成部監視タグ、拡張監視。
――受電経路形成前兆、なし。
――緊急時自動開放傾向、平常範囲。
――局所崩壊前兆、なし。
――変異位相同期補助、低負荷監視。
――高出力使用、禁止。
康生は右手を見なかった。
見ない方がいい時もある。
正確には、見すぎない方がいい時だ。
使うためではなく、見張るためにそこにある。
相馬が言う。
「ハチ限定起動試験、開始」
森川が端末に手を置く。
「補助電源、接続」
――補助電源、接続。
――練馬出力、三パーセント維持。
――冷却循環、安定。
――送電母線、安定。
――ハチ艇内補助系、起動。
深層格納庫に、低い音が流れた。
ハチの外装に、薄い光が走る。
眠っていた表示灯が一つずつ点く。
作業アームの固定具がわずかに震え、すぐに固定状態へ戻る。
康生は息を止めていた。
「生きてる」
「起動しています」
アオイが訂正する。
「起きたでいいだろ」
「機械です」
「はいはい」
ハチの端末が更新される。
――補助系、起動。
――艇内生命維持、低負荷起動。
――気密、保持。
――通信系、起動。
――姿勢制御、待機。
――放熱膜制御、待機。
――熱質量投棄系、待機。
――位相同期装置、低電力待機。
――主機、停止。
――主機起動要求、保留。
アオイが即座に送る。
――主機起動、禁止。
――限定起動試験。
――観測任務。
――高出力運用、禁止。
ハチが返す。
――主機起動、禁止を受領。
――限定起動試験、継続。
康生は少しだけ安心した。
「今回は聞き分けいいな」
「補修時にフィルタを入れました」
森川が言う。
「主機関連の自動要求は、全部一度こちらで止めます」
「現場の知恵」
「現場ですから」
アオイが次を進める。
――放熱膜展開試験。
――一番、固着解除済み。
――二番、展開準備。
――三番、手動補助必要。
――格納庫内試験、部分展開のみ。
森川が合図を出す。
ハチの背面が開く。
黒い収納部から、薄い膜が折り畳まれたままゆっくり伸びる。
カーボン放熱膜。
光沢の少ない黒い膜が、骨組みに支えられながら広がる。
翼ではない。
帆でもない。
熱を捨てるための、薄い影のような板。
――放熱膜一番、部分展開。
――応答、遅延。
――破断なし。
――収納、可能。
二番も展開する。
――放熱膜二番、部分展開。
――応答、良好。
――破断なし。
――収納、可能。
三番は途中で止まった。
――放熱膜三番、固着。
――手動補助、必要。
森川が眉を寄せる。
「やっぱり三番は駄目です。無理に使うと破れます」
「三番は予備扱い」
相馬が判断する。
「はい。二基常用、三基目は緊急時に手動補助。破断の可能性あり」
アオイが表示を更新する。
――放熱能力、不足気味。
――高出力運用、不可。
――位相同期、断続運用。
――熱質量投棄計画、必須。
康生は苦笑した。
「出発前から熱が厳しい」
「はい」
「宇宙って、ずっと熱と戦うんだな」
「はい」
次は姿勢制御。
ハチの外側で、小さなノズルが一つずつ診断される。
噴射はしない。
弁の応答だけを見る。
――姿勢制御ノズル。
――前方、応答。
――後方、応答遅延。
――左舷、応答。
――右舷、部分応答。
――補助ノズル、二基不応答。
――姿勢制御、条件付き可能。
康生は表示を見る。
「また条件付き」
「はい」
「右が弱いな」
「右舷補助ノズルに不応答があります」
アオイが答える。
「俺の右手といい、右ばっかり」
「偶然です」
「そうか?」
「はい」
ハチの位相同期装置の試験に移る。
深層格納庫の空気が変わった。
音は小さい。
だが、耳の奥に触れる。
前回の低電力診断よりも、少しだけ強い。
床の固定架が鳴り、康生の奥歯に薄い振動が来る。
アオイがすぐに監視する。
――位相同期装置、限定起動。
――出力、最低。
――主機接続なし。
――中核特異点炉補助制御系、封鎖維持。
――同期対象、練馬近傍残留位相。
――診断のみ。
康生の右手に、わずかな熱が走る。
――右構成部監視タグ。
――緊急時自動開放傾向、微弱上昇。
――受電経路形成前兆、なし。
アオイが言う。
「康生、呼吸を一定に」
「はい」
「右手を握らない」
「握ってない」
「視線をハチの表示へ」
康生は言われた通りにする。
右手を見ない。
熱を追わない。
ハチの表示を見る。
――同期、安定。
――変異位相相関、微弱検出。
――康生補助観測点、反応あり。
――高出力化なし。
――同期維持、三十秒。
――四十秒。
――五十秒。
――六十秒。
――試験停止。
音が消える。
康生は息を吐いた。
――右構成部監視タグ、平常範囲へ低下。
アオイが言う。
「良い制御です」
「実績?」
「はい」
康生は少しだけ笑った。
「やっと実績って言った」
「小規模ですが、記録します」
「小規模でもいいよ」
相馬が表示を見る。
「位相同期装置は」
「限定運用可能」
アオイが答える。
「ただし、連続運用は放熱不足。断続的に同期し、航路補正を繰り返す形になります」
「波に乗りっぱなしじゃなくて、何度も合わせ直す?」
康生が聞く。
「はい」
「怖いな」
「はい」
「でも、飛べる?」
アオイは少しだけ間を置いた。
「限定的に、飛べます」
深層格納庫が静かになった。
その言葉が、ついに出た。
ハチは飛べる。
完全ではない。
安全ではない。
快適でもない。
条件付きだらけで、放熱不足で、姿勢制御にも不安があり、三番放熱膜は固着し、熱質量投棄も低速動作しか確認できていない。
それでも、飛べる。
森川は端末を握ったまま、ゆっくり頷いた。
「ハチ、限定起動試験を通過しました」
千田が記録する。
「旧軌道作業艇八号、通称ハチ。限定起動試験、条件付き通過」
麻生が穏やかに言う。
「長く眠っていた甲斐がありましたな」
康生はハチを見る。
「起きたな」
アオイは訂正しなかった。
少しだけ間を置いてから、言う。
「はい」
康生は笑った。
「今、起きたで通したな」
「比喩として許容しました」
「ありがとう」
相馬が通信を開く。
「三沢、しらぬい、練馬、東京地下。ハチ限定起動試験、条件付き通過。接近同期観測へ移行可能と判断します」
三沢の応答。
――三沢暫定監視網、受領。
――空間位相傷、監視継続。
――受電光環残存センサー群、同期継続。
――警告。
――破壊的干渉禁止。
――高出力運用禁止。
――観測優先。
しらぬい。
「こちら、しらぬい。観測支援継続。ハチ軌道上昇時、海上中継を維持します」
東京地下。
――共有受領。
――いつも通りを維持します。
――帰還を待ちます。
康生は、その文字を見た。
帰還を待ちます。
重い。
でも、ありがたかった。
相馬が康生を見る。
「最終確認です。搭乗しますか」
ここで聞くのか、と康生は思った。
でも、それが正しい。
命令ではなく、確認。
神だから行け、ではない。
お前しかいないから行け、でもない。
作戦として必要。
だが、本人にも確認する。
人として扱われている。
康生はハチを見る。
アオイを見る。
相馬を見る。
森川、千田、麻生を見る。
それから、右手を見ずに答えた。
「行きます」
アオイが言う。
「理由を確認します」
「世界を救うため、って言うと重すぎるな」
「はい」
「神様だからでもない」
「はい」
「俺だけが何とかできるからでもない」
「はい」
康生は少し考える。
「見に行くためです」
アオイは黙って聞いている。
「壊すためじゃなくて、撃つためじゃなくて、使うためじゃなくて。逸らすために必要なものを、見に行く」
アオイが頷く。
「良い回答です」
「実績は?」
「小規模ですが、あります」
「よし」
康生は少しだけ笑った。
相馬が頷く。
「搭乗承認。ハチ、軌道上昇準備へ」
森川が深く息を吸った。
「軌道上昇手順を開始します。格納庫上部搬出路、開放準備」
康生は思わず天井を見上げた。
深層格納庫の上には、航空整備区画がある。
その上に、荒れた東京がある。
そのさらに上に、空がある。
どうやって出るのかと思っていたが、構造図が答えを出した。
――深層格納庫、上部搬出路。
――垂直搬送架。
――外部射出路、旧軌道作業艇用。
――状態、長期閉鎖。
――開放、要注意。
康生は言った。
「まだ隠し通路あるのか」
「隠し通路ではありません」
アオイが答える。
「旧軌道作業艇用の搬出路です」
「ほぼ隠し通路だろ」
森川が苦笑する。
「練馬の人間でも使ったことはありません」
「初物ばっかりだな」
「はい」
ハチのハッチが開く。
中は狭かった。
想像以上に狭い。
二席が前後に並び、補助席が壁に折り畳まれている。
計器類は古く、表示の一部はアオイが外部端末で補助しなければ読めない。
窓はない。
外は映像で見るしかない。
康生は思わず言った。
「棺桶感あるな」
「不適切な表現です」
アオイが即答する。
「縁起悪かった」
「はい」
「作業車だな」
「適切です」
康生は船内靴下を履き、固定具に足を入れる。
操縦補助員が前席に座る。
アオイ端末は康生の横に固定される。
ハッチの外で、森川が言った。
「戻ってきたら、シールは全部交換します」
「帰ってきたら、まずそこ?」
康生が聞く。
「はい。戻ってきてからが整備です」
康生は笑った。
「いいですね、それ」
千田が言う。
「記録は地上で続けます。通信が途切れても、ハチ側で保存してください」
「了解です」
麻生が近づき、静かに言った。
「お気をつけて」
「はい」
「神の御業ではなく、人の作業として」
康生は頷いた。
「行ってきます」
相馬が最後に言う。
「作戦目的を確認」
アオイが答える。
「接近同期観測。外部質量体および変異位相帯流を近傍から確認。軌道逸らし作戦の干渉点を確定する」
「禁止事項」
「T-LANCE使用禁止。右構成部高出力使用禁止。受電光環照射系使用禁止。破壊的干渉禁止。高出力連続運用禁止」
「帰還条件」
「放熱限界到達前。同期不安定化時。右構成部監視タグ異常時。生命維持低下時。アオイ判断で即時撤退」
相馬が頷く。
「許可します。ハチ、発進準備」
ハッチが閉じる。
外の音が少し遠ざかる。
狭い艇内に、康生の呼吸音と機械の低い音だけが残る。
――ハチ、艇内気密保持。
――生命維持、低負荷安定。
――通信、練馬接続。
――三沢同期、待機。
――しらぬい中継、待機。
――放熱膜、収納状態。
――熱質量、固定。
――位相同期装置、待機。
――主機、低出力起動準備。
――高出力禁止。
康生は前方表示を見る。
外部映像が映る。
深層格納庫。
森川たちが離れていく。
固定架が外れる。
機体がわずかに浮く。
いや、持ち上げられる。
垂直搬送架が動き出した。
深層格納庫の天井が開く。
暗い搬出路が上へ伸びている。
ハチはゆっくり上がる。
航空整備区画を通過する。
高高度輸送機の横を抜ける。
さらに上へ。
荒れた東京の地下構造。
閉じられていた軌道作業艇用の射出路。
七百年ぶりに動く搬送架。
表示に、地上の空が近づく。
――外部射出路、開放。
――大気状態、許容。
――軌道上昇シーケンス、待機。
――練馬出力、三パーセント維持。
――生活維持、影響なし。
康生はその最後の行に安心した。
東京地下の灯りは消えていない。
ハチが地上へ出る。
外部映像が白くなり、すぐに青と灰色へ変わる。
荒れた東京の空だった。
ビルの残骸。
植物に覆われた道路。
遠くの雲。
薄い太陽光。
康生は、久しぶりに空を見た気がした。
「空だ」
「はい」
アオイが答える。
「空です」
「この上に行くんだな」
「はい」
「怖いな」
「はい」
「でも、行く」
「はい」
ハチの固定が完全に解除される。
――軌道上昇開始。
――主機、低出力。
――姿勢制御、条件付き安定。
――放熱監視、開始。
――練馬通信、維持。
――三沢同期、維持。
――しらぬい中継、維持。
機体が震えた。
高高度輸送機の離陸とは違う。
押し上げられる感覚。
地面が遠ざかる。
東京が小さくなる。
康生は固定具に身体を預ける。
右手は握らない。
アオイの声が隣で響く。
「康生」
「はい」
「見に行きます」
康生は前方表示を見た。
青い空の上。
壊れた天輪。
その先の空の傷。
「壊すためじゃなく」
「はい」
「逸らすために」
「はい」
「人として」
アオイは少しだけ間を置いてから答えた。
「はい。人として」
ハチは、練馬の細い灯りを背にして上昇する。
七百年前の作業艇が、七百年後の空へ向かう。
神の船ではない。
最終兵器でもない。
傷だらけの工具箱が、空の傷を見るために、地上を離れた。




