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規約違反者と監視AI 〜目覚めた未来で、人間扱いされたくて〜  作者: 八汐
第九章 エリア51編

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第百八話 変異位相航路

ハチの補修は、派手ではなかった。


練馬航空整備区画の深層格納庫で、七百年前の旧軌道作業艇は、補助照明の下に置かれている。


作業艇八号。

作業班内呼称、ハチ。


名前だけ聞けば愛嬌がある。

だが、その実物は傷だらけの工具箱だった。


ずんぐりした胴体。

折り畳まれた作業アーム。

黒ずんだ耐熱外装。

側面の固定具。

背面の放熱膜カートリッジ。

腹部の熱質量投棄口。


宇宙へ向かう船というより、宇宙で作業するための車両だ。


だから、補修も現場そのものだった。


「接続ハッチのシール交換、完了」


森川が報告する。


「区画二の微漏洩、再試験します」


技術班が古いシール材を外し、保管されていた予備材を加工し、圧をかけ直す。


表示が変わる。


――気密試験。

――区画一、保持。

――区画二、保持。

――区画三、保持。

――接続ハッチ、保持。

――艇内生命維持、低負荷起動可能。

――乗員搭乗、条件付き可能。


康生は表示を見て、顔をしかめた。


「条件付き可能」


「最近よく見る言葉です」


アオイが言う。


「嫌な言葉ランキング上位だな」


「同意します」


森川はもう次の作業に移っている。


「放熱膜カートリッジ一番、展開機構固着。二番、応答良好。三番、部分応答。手動展開補助が必要です」


康生は放熱膜の収納部を見る。


「宇宙行くのに、いちばん大事なのが放熱膜ってのが現場感あるな」


「はい」


アオイが答える。


「高出力運用より、熱を捨てられるかが重要です」


「熱が捨てられなかったら」


「機体、乗員、制御系、位相同期装置、すべてに危険があります」


「宇宙、寒そうなのに」


「真空では熱が逃げにくいです」


「見た目と違うな」


「はい」


千田が記録しながら言う。


「見た目と実際が違うものばかりですね」


「鉄パイプとかな」


康生が言う。


誰も笑わなかった。


T-LANCEのことは、誰も忘れていない。


白い海も。

再使用禁止も。


だからこそ、今、ハチの補修は慎重だった。


使えるから使うのではない。

飛べそうだから飛ぶのでもない。


見て、測って、直して、条件を確認する。


森川が次の表示を出す。


――熱質量確認。

――水系タンク、凍結劣化あり。使用可能量、限定。

――氷質量、再生成可能。

――岩石質量ブロック、残量あり。

――金属ブロック、残量少。

――熱質量投棄口、低速動作確認。

――高温質量投棄、要試験。

――空間制御排熱、使用禁止。緊急時のみ。


康生は岩石質量ブロックの表示を見る。


「本当に石を捨てるんだな」


「はい」


アオイが答える。


「熱を持たせた質量を投棄することで、熱を外へ捨てます」


「宇宙に石を投げる」


「雑に言えば」


「雑じゃない言い方は?」


「熱容量材を外部投棄します」


「急に仕事っぽい」


「仕事です」


「宇宙でも現場」


「はい」


麻生が静かに言う。


「神話の船ではなく、荷を積んだ作業車ですな」


「そうですね」


康生はハチを見た。


それがよかった。


神話の船ではない。

救いの舟でもない。

ただの作業艇。


空の傷を見に行くための、泥臭い道具だ。


相馬が中央表示を開く。


「補修と並行して、変異位相航路を確定します」


表示が切り替わる。


地球。

受電光環の残骸。

旧衛星群。

三沢。

しらぬい。

白海損傷域。

空間位相傷。

その中心の外部質量体候補。


そこに、細い線が何本も引かれる。


通常航路。

高出力推進航路。

旧軌道経由航路。

変異位相同期航路。


ほとんどの線は、赤く消えた。


――通常航路。

――距離、時間、燃料、放熱、すべて不足。

――却下。


――高出力推進航路。

――放熱不可。

――高出力運用禁止。

――却下。


――受電光環照射補助航路。

――照射系使用不可。

――却下。


――T-LANCE軸利用航路。

――再使用禁止。

――論外。


康生は最後を見て言う。


「また論外って出た」


「私が入れました」


アオイが答える。


「だろうと思った」


相馬は表情を変えずに次を出す。


――変異位相同期航路。

――既存の時空歪み、変異位相帯流に同期。

――自前で歪みを生成しない。

――必要、位相同期。

――必要、姿勢制御。

――必要、航路維持。

――必要、放熱計画。

――必要、連続観測。

――危険、高。

――可能性、あり。


康生はその線を見る。


地球近傍の残留歪み。

受電光環事故の痕跡。

Sample-09が辿った位相帯の流れ。

白海損傷域で得た基準反応。


それらを繋ぐと、空間位相傷へ向かう細い流れが見える。


それは道というより、癖だった。


水路ではない。

航路でもない。

時空の傷に残った流れ方。

変異位相帯が滑っていく方向。

歪みが歪みへ繋がる癖。


康生は言う。


「波に見えないな」


「目で見える波ではありません」


アオイが答える。


「ですが、表現としては波に近いです。自分で波を作らず、既にある歪みに同期して進みます」


「アルクビエレ系航法って言うには、だいぶ貧乏くさいな」


「適切ではありませんが、情緒的には理解できます」


「負のエネルギーでドーンじゃなくて、七百年前の事故の残り香に乗る」


「近い表現です」


「嫌な波乗りだな」


「はい」


森川が黒い表示を指す。


「ブラックホールエンジンは、どこまで使うんですか」


アオイが即座に答える。


「歪み生成には使用しません」


「はい」


「位相同期、姿勢制御、航路維持、干渉点保持に限定します。高出力運用は行いません」


「熱は」


「大きな制約です」


表示が切り替わる。


――ハチ運用制限。

――主機、高出力禁止。

――中核特異点炉補助制御系、低出力同期のみ。

――位相同期装置、断続運用。

――姿勢制御、最小。

――放熱膜、二基常時展開。

――三基目、手動補助展開。

――熱質量投棄、必要時。

――水系タンク、保守的運用。

――空間制御排熱、緊急時のみ。

――康生右構成部、高出力使用禁止。

――康生、補助観測点としてのみ登録。


康生は最後の項目を見る。


「補助観測点」


「はい」


アオイが答える。


「康生の構成体は、変異位相帯との微弱な相関を拾うことがあります。出力には使いません。観測補助です」


「俺、測定治具みたいになってきたな」


「近い表現です」


「そこは否定してくれ」


「否定しません」


「厳しい」


「必要です」


相馬が康生を見る。


「搭乗については、まだ決定ではありません」


「俺、行かない選択肢あります?」


康生が聞く。


アオイは少しだけ沈黙した。


「あります」


意外な返答だった。


康生はアオイを見る。


「あるの?」


「はい。康生を地上に残し、ハチを無人または防衛隊員のみで運用する案です」


「それだと」


「変異位相同期の補助精度が下がります。ただし、康生本体リスクは低下します」


「成功率は」


「下がります」


「どのくらい」


「現時点では数値化困難です」


「正直だな」


「必要です」


相馬が言う。


「康生さんを乗せることが前提ではありません。これは作戦です。神話ではない」


康生は少しだけ笑った。


「神話じゃないなら、俺いらなくないですか」


「必要になる可能性があります」


アオイが答える。


「ただし、康生一人に依存しない構成にします」


「いいな、それ」


康生は言った。


「俺一人でどうにかする話じゃない方がいい」


「はい」


「でも、必要なら行く」


アオイが康生を見る。


「決定ではありません」


「分かってる」


「行く場合でも、右手は使いません」


「はい」


「高出力干渉もしません」


「はい」


「T-LANCEも使いません」


「はい」


「警告を聞いてください」


「聞く」


アオイは頷いた。


「良い回答です」


千田が補給リストを読み上げる。


「艇内水、食料、医療キット、保温材、船内靴下、予備衣類、防塵ではなく微細繊維対策、簡易工具、補修シール、予備固定具」


康生は思わず言う。


「船内靴下、入った」


「必要です」


千田が即答する。


「無重力環境で足を固定具に擦ると痛めます」


「説得力ある」


「重要です」


森川がハチの内部診断を進める。


――艇内生命維持、低負荷起動試験。

――酸素循環、限定。

――二酸化炭素吸収材、劣化。交換必要。

――温度制御、低精度。

――通信系、部分応答。

――観測窓、使用不可。

――外部映像、部分可能。

――座席固定具、三席中二席使用可能。

――補助席、簡易使用可能。


康生は表示を見る。


「狭そう」


「狭いです」


アオイが答える。


「快適性は?」


「低いです」


「言うと思った」


「必要です」


ハチの端末が低く鳴る。


――補修状態更新。

――気密、条件付き保持。

――生命維持、条件付き。

――放熱、条件付き。

――位相同期装置、診断待機。

――中核特異点炉補助制御系、封鎖維持。

――任務候補、接近同期観測。

――承認待機。


康生はハチの表示を見る。


七百年前から待っていたような機械が、また待機している。


第三外縁補修ではなく。

照射でもなく。

戦闘でもなく。


接近同期観測。


空の傷を見るために。


アオイが位相同期装置の診断を始める。


――位相同期装置、低電力診断。

――警告、主機接続禁止。

――警告、高出力同期禁止。

――診断のみ。

――診断開始。


格納庫の中に、低い音が広がった。


ハチの内部で、何かが目を覚ます。

だが、エンジンの唸りではない。

大型機械の起動音でもない。


もっと細い。

耳で聞くというより、骨に触れるような音。


康生は少しだけ顔をしかめた。


「嫌な音」


「位相同期装置の低電力診断音です」


アオイが言う。


「身体に来る」


「康生の構成体が微弱反応しています」


「右手は?」


――右構成部監視タグ。

――緊急時自動開放傾向、微弱上昇。

――受電経路形成前兆、なし。

――局所崩壊前兆、なし。


アオイが康生を見る。


「右手を握らないでください」


「握ってない」


「意識を向けすぎないでください」


「難しいな」


「必要です」


康生は深く息を吐いた。


右手ではなく、足元を見る。

ハチの固定架。

床のレール。

森川の端末。

千田の補給リスト。

相馬の指示。

麻生の静かな目。


自分一人ではない。


それを確認すると、右手の熱は少し弱まった。


――緊急時自動開放傾向、低下。


アオイが言う。


「良い制御です」


「実績になる?」


「小さな実績です」


「小さいか」


「積み上げてください」


「はい」


診断結果が出る。


――位相同期装置。

――基礎同期、可能。

――高精度同期、不可。

――変異位相帯流、追従可能性あり。

――長時間同期、放熱不足の恐れ。

――ブラックホールエンジン補助制御、封鎖維持下で低出力使用可能。

――航路維持、条件付き可能。

――干渉作業、低精度。

――接近同期観測、条件付き可能。


康生は表示を見た。


「また条件付き可能」


「はい」


アオイが答える。


「ですが、可能です」


森川が息を吐く。


「ハチは、飛べるかもしれない」


「まだ飛べません」


アオイが訂正する。


「補修、放熱膜展開試験、生命維持材交換、熱質量積載、通信同期が必要です」


「でも、作戦候補には入る」


相馬が言う。


「はい」


アオイが頷いた。


「変異位相航路に乗るための最低条件を満たす可能性があります」


中央表示に、航路案が確定候補として出る。


――変異位相航路案、仮確定。

――出発点、練馬航空整備区画より軌道上昇。

――中継、旧軌道作業艇ハチ。

――支援、三沢暫定監視網。

――支援、受電光環残存センサー群。

――支援、旧衛星群。

――支援、しらぬい観測系。

――支援、練馬通信リンク。

――航路、地球近傍残留歪みへ同期。

――目的、空間位相傷への接近同期観測。

――副目的、軌道逸らし作戦の干渉点確定。

――禁止、破壊的干渉。

――禁止、T-LANCE使用。

――禁止、右構成部高出力。

――禁止、受電光環照射系。


康生は表示を見つめた。


道ができた。


安全な道ではない。

むしろ、危険な道だ。


既存の時空歪みに同期し、変異位相帯の流れに乗る。

ブラックホールエンジンを使っても、歪みを作るのではなく、姿勢を保つだけ。

熱は捨てきれない。

放熱膜を広げ、熱を水や岩石に吸わせ、必要なら投げ捨てる。


それでも、道だ。


壊すための道ではない。

見るための道。


「これで、行けるかもしれない」


康生が言った。


アオイはすぐに答えない。


それから、静かに言う。


「はい。行ける可能性があります」


「怖いな」


「はい」


「でも、逃げる話じゃない」


「はい」


「撃つ話でもない」


「はい」


「見る話だ」


「はい」


麻生が言った。


「ならば、人の道ですな」


康生は少しだけ笑った。


「宇宙へ行く道なのに?」


「どこへ行こうと、人が歩むなら人の道です」


「重いなあ」


「重く申し上げました」


格納庫の補助照明が、ハチの外装を照らしている。


傷だらけの作業艇。

条件付き可能だらけの船。

宇宙へ行くには頼りなく、神話になるには地味すぎる道具。


だが、それでいい。


康生はハチを見上げる。


「ハチ」


もちろん、作業艇は返事をしない。


端末にはただ、待機表示が出ている。


――接近同期観測任務、承認待機。


康生は言った。


「直ったら、頼む」


ハチの表示が一度だけ点滅した。


偶然かもしれない。

低電力診断のノイズかもしれない。


だが、表示には短く出た。


――任務待機。


康生は小さく笑った。


「律儀だな」


アオイが言う。


「機械です」


「分かってる」


「ですが、良い応答です」


「だろ?」


森川が補修計画をまとめる。


「最短で、明日までに気密と生命維持、放熱膜二基の展開試験。三基目は手動補助。熱質量は岩石ブロック中心。水系タンクは保守的に。通信リンクは三沢と練馬で二重化」


相馬が頷く。


「搭乗者選定は、補修完了後に決めます」


アオイが追加する。


「康生の搭乗可否は、監視タグの拡張診断後に判断します」


「俺も条件付きか」


康生が言う。


「はい」


「ハチと同じだな」


「康生も現場設備です」


「言い方」


千田がすぐに記録する。


「康生、条件付き」


「記録しないで」


「重要です」


緊張の中に、少しだけ笑いが混じる。


その笑いは、軽くはない。

だが、必要だった。


火星質量級かもしれない外部質量体。

空の傷。

変異位相航路。

旧軌道作業艇ハチ。


話は大きすぎる。


だからこそ、笑えるところで笑っておかないと、人間は持たない。


アオイが最後の表示を出す。


――変異位相航路、仮確定。

――旧軌道作業艇ハチ、補修開始。

――接近同期観測、準備段階へ移行。

――軌道逸らし作戦、第二段階から第三段階へ移行準備。

――次工程、ハチ限定起動試験。

――その後、軌道上昇判断。


康生は表示を見た。


いよいよ、地上を離れる話になってきた。


三沢の雪。

エリア51の砂漠。

白い海。

練馬の地下。

深層格納庫。


その全部が、空へ繋がっている。


「次は、起動か」


「はい」


アオイが答える。


「限定起動試験です」


「飛ぶ?」


「まだ飛びません」


「だよな」


「ですが、飛ぶための最後の確認です」


康生はハチを見上げる。


工具箱のような作業艇。

神ではなく、人の船。


これで空へ行く。


空の傷を見るために。

壊さず、逸らすために。


康生は右手を握らず、ただ静かに息を吐いた。


変異位相航路は、確かにそこにあった。


安全ではない。

綺麗でもない。

正しい保証もない。


それでも、撃つ道ではなかった。


人として選べる、まだましな道だった。

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