第百六話 天輪の残骸
天輪は、壊れていた。
練馬航空整備区画の中央表示装置に、地球を囲む古い輪が浮かんでいる。
旧軌道受電光環。
七百年前、人類が空に築いた巨大な受電設備。
地上へエネルギーを降ろし、軌道集束照射を行い、都市と施設を支えた天の輪。
そして、エリア51の試験で利用され、第三外縁を破損し、Sample-09を外宇宙側へ流出させた事故の片割れ。
それはもう、完全な輪ではなかった。
ところどころが欠けている。
断線している。
外縁部は大きく歪み、いくつかの区画は地球周回軌道から外れかけている。
古い衛星群がその周囲を漂い、通信線は途切れ、軌道兵器の残骸らしき影も混じっていた。
美しい輪ではない。
壊れた輪だった。
康生はそれを見て、少しだけ眉を寄せる。
「天輪って名前だと、もっと綺麗なものを想像してた」
「旧時代の呼称ではありません」
アオイが答える。
「東京地下で発生した呼称です」
「俺のせい?」
「一部、康生の発光現象に由来する可能性があります」
「まだそれ言う?」
「緊急報告すべき事項ではありません」
「じゃあ今言わなくていいだろ」
「訂正が必要でした」
康生は軽く息を吐いた。
中央表示の壊れた輪を見る。
地下で噂になった天輪様。
空に残る受電光環の残骸。
それらが、別々のものなのに、どこかで重なっている。
人は、見えないものに名前をつける。
怖いものにも。
救ってほしいものにも。
だが、目の前のこれは神の輪ではない。
壊れた機械だ。
七百年前に壊され、使われ、隠され、それでも一部がまだ沈黙の中で残っている機械だった。
森川が端末を操作する。
「練馬側の旧軌道通信リンクを探索します。送電母線への負荷は上げません。出力三パーセント維持」
「生活維持優先で」
相馬が確認する。
「はい」
森川は頷く。
「航空整備区画に残っている旧軌道通信アンテナを低電力で使います。送信は最小。まずは受信待機と応答確認だけです」
アオイが補足する。
「受電光環の照射系は起動しません。残存センサー群のみを対象にします」
康生は中央表示を見る。
「見るだけ」
「はい」
「撃たない」
「はい」
「エネルギーも降ろさない」
「はい」
「天輪様ビームとか出ない」
「出ません」
「そこはちょっと残念」
「危険です」
「はい」
三沢との通信が開く。
――三沢暫定監視網、応答。
――旧軌道観測記録、準備。
――受電光環残存センサー群、照合待機。
――警告。
――照射系起動禁止。
――高出力同期禁止。
――第三外縁再接続禁止。
――観測のみ。
康生は最後の行を見て頷いた。
「三沢も分かってるな」
「はい」
アオイが答える。
「三沢は見る場所です」
「天輪も、見る場所に変える」
「はい」
「元は違ったけど」
「はい」
それは少し、救いのようにも聞こえた。
使われ方を間違えたものでも、別の使い方ができるかもしれない。
撃つために作られたものを、見るために使う。
隠すために閉じられた記録を、共有するために開く。
神の手ではなく、観測器になる。
それが、この終盤で康生たちが選んだ道だった。
しらぬいから通信が入る。
「こちら、しらぬい。艦載観測系、低出力同期準備完了。火器管制系は切り離し済み」
相馬が頷く。
「三沢、練馬、しらぬいを同期。旧衛星群への呼びかけは、アオイさんに任せます」
「了解しました」
アオイの声が少しだけ硬くなる。
「旧軌道系は、エリア51事故の影響を受けています。応答があっても、要求を鵜呑みにしないでください」
「機械に騙される?」
康生が聞く。
「騙す意図ではありません。旧手順に従って、照射系再起動や高出力同期を要求する可能性があります」
「昔のマニュアル通りに動こうとする」
「はい」
「現場あるあるだな」
森川が苦笑する。
「ありますね。古い設備ほど、手順外の状態に弱いです」
「七百年ものなら、なおさらか」
「はい」
中央表示に、同期手順が出る。
――旧軌道観測網再評価。
――対象、受電光環残存センサー群。
――対象、旧衛星群。
――対象、軌道同期時計。
――対象、第三外縁破損区画、観測のみ。
――禁止、照射系起動。
――禁止、受電経路形成。
――禁止、軌道集束エネルギー照射。
――禁止、T-LANCE同期。
――禁止、康生右構成部高出力利用。
康生は最後から二番目を見る。
「T-LANCE同期って、そんな案もあるのか」
「可能性としてはあります」
アオイが答える。
「T-LANCEは軸形成時に受電光環事故由来の位相帯と相関を持ちます。旧軌道系が、T-LANCEを観測補助ではなく照射補助として誤認する可能性があります」
「誤認したら」
「拒否します」
「頼もしい」
「必要です」
森川が通信リンクを開く。
練馬航空整備区画の壁面に、古いアンテナ制御の表示が並ぶ。
使われていなかった回路が低い音を立てる。
補助電源が立ち上がり、地下の冷却循環にわずかな負荷がかかる。
すぐに、アオイが監視する。
「練馬出力、三パーセント維持。冷却循環、安定。送電母線、安定」
森川が息を吐く。
「よし」
康生はその短い言葉に、妙に安心した。
火星級かもしれない外部質量体を見るための作業なのに、まず確認するのは練馬三パーセント。
冷却循環。
送電母線。
それがいい。
足元を見ないまま空を見ると、また間違える。
アオイが通信を開始する。
――旧軌道通信リンク、低電力送信。
――三沢参照コード、付与。
――エリア51事故記録、付与。
――白海損傷域基準反応、付与。
――要求、観測系応答。
――照射系、応答不要。
――繰り返します。
――照射系、応答不要。
しばらく、何も起きなかった。
中央表示の壊れた輪は沈黙している。
古い衛星群も、黒い点のまま動かない。
三沢の低精度観測値だけが、細く流れ続けていた。
康生は息を潜める。
「死んでる?」
「応答待機中です」
アオイが答える。
「どのくらい待つ?」
「旧軌道系の同期時計が劣化しているため、応答遅延があります」
「時計がずれてるのか」
「はい」
「七百年寝坊か」
「近い表現です」
「覚えなくていいぞ」
「覚えました」
森川が端末を見ている。
「微弱な反射があります」
中央表示に、小さな点が灯った。
地球の外側。
受電光環の残骸の近く。
旧衛星群の一つ。
――応答検出。
――旧衛星識別、欠損。
――観測機能、部分残存。
――姿勢制御、不安定。
――電源、低下。
――通信、断続。
――要求、任務目的。
康生は表示を見た。
「任務目的」
アオイがすぐに応答する。
――任務目的、観測。
――照射なし。
――受電なし。
――攻撃なし。
――対象、空間位相傷。
――対象、外部質量体候補。
――要求、光学観測、重力歪み検出、位相境界揺らぎ検出。
――出力、最低限。
旧衛星は数秒沈黙した。
それから、返す。
――観測任務、受領。
――照射任務、待機。
アオイが即座に送る。
――照射任務、解除。
――照射系、使用不可。
――照射系、起動禁止。
――観測任務のみ。
旧衛星。
――照射任務、待機。
康生は顔をしかめる。
「聞いてないな」
「旧手順が残っています」
アオイが答える。
「頑固な機械だ」
「はい」
森川が言う。
「照射系を物理的に切り離せますか」
アオイが旧衛星の状態を確認する。
「当該衛星単体には照射機能はありません。ただし、受電光環側の照射系に接続要求を出す可能性があります」
「接続要求を遮断します」
森川が操作する。
「練馬側からの経路にフィルタを入れます。観測データのみ通す」
アオイが頷く。
「三沢側にも同様のフィルタを設定します」
――観測データのみ通過。
――照射要求、遮断。
――受電経路形成要求、遮断。
――高出力同期要求、遮断。
旧衛星の表示が少し揺れる。
――観測任務、受領。
――照射任務、解除不能。
――照射経路、未接続。
――観測を開始。
康生は肩の力を少し抜いた。
「納得してないけど、働く感じか」
「はい」
アオイが答える。
「古い設備にはよくあります」
森川が苦笑する。
「ありますね」
次々に、微弱な応答が拾われ始める。
――旧衛星二号相当、応答。
――観測レンズ劣化。
――姿勢制御、部分可能。
――通信、断続。
――旧衛星四号相当、応答。
――重力歪み検出器、低精度。
――同期時計、劣化。
――電源、微弱。
――受電光環残存センサー群、外縁B、応答。
――温度異常。
――放射線損傷。
――観測可能範囲、限定。
――第三外縁破損区画、応答。
――警告。
――照射経路、破損。
――再接続不可。
――観測系、部分残存。
康生は最後の表示を見た。
第三外縁。
Sample-09が流れ出た場所。
エリア51の事故で壊れた場所。
そこが、まだ応答している。
「嫌なところも起きたな」
「はい」
アオイが答える。
「ただし、観測系は重要です。事故地点に近いセンサーのため、空間位相傷との照合に有用です」
「見るだけ」
「はい」
「何か要求してきたら?」
「拒否します」
「良い回答です」
アオイは少しだけ康生を見る。
「私の台詞です」
「言ってみたかった」
「記録します」
「しなくていい」
中央表示の壊れた輪に、淡い光点が増えていく。
完全な復旧ではない。
明るく輝く天輪ではない。
ところどころ、点がついただけだ。
壊れた輪の断片が、眠そうに目を開けている。
それでも、地上から見れば十分だった。
三沢の眼。
しらぬいの眼。
練馬の通信。
旧衛星群。
受電光環残存センサー。
複数の眼が、空の外側へ向き始める。
アオイが指示を出す。
――観測対象、空間位相傷。
――三沢低精度観測値、同期。
――エリア51 Sample-09追跡ログ、参照。
――白海損傷域基準反応、参照。
――旧軌道観測網、同期開始。
――観測時間、延長。
――目標、外部質量体候補の位置・移動成分再評価。
中央表示の地球が小さくなり、空間位相傷が拡大される。
今までより、少しだけ鮮明だった。
黄色い帯。
その中心の黒い影。
外側へにじむ薄い歪み。
旧軌道観測網が加わると、その黒い影の位置がわずかに定まる。
揺れていた輪郭が、ほんの少しだけ絞られる。
森川が息を呑む。
「見えてきた」
「はい」
アオイが答える。
「観測精度が向上しています。ただし、まだ不足しています」
「でも、前よりは」
「前よりは見えています」
康生は中央表示を見る。
見えないだけで、ある。
その言葉は、ずっと怖かった。
だが今は少し違う。
見えないものを、見ようとしている。
完全ではない。
まだぼやけている。
でも、前よりは見えている。
それだけで、人間は次の判断ができる。
アオイが解析を進める。
――外部質量体候補、位置再評価。
――移動成分、再評価。
――変異位相帯流、部分検出。
――地球近傍位相構造との接近可能性、継続。
――衝突評価、依然不能。
――ただし、接近予測線を一部算出。
表示に、細い赤い線が出た。
空間位相傷から、地球近傍構造へ向かう線。
直接地球へ突っ込む線ではない。
だが、地球の周囲を包む位相構造と交差する可能性がある。
アオイが言う。
「通常の衝突軌道ではありません」
「地球に当たらない?」
康生が聞く。
「断定できません。ただし、問題は地表衝突だけではありません」
「位相構造への干渉」
「はい」
中央表示に、地球の周囲の薄い層が描かれる。
三沢が見てきた時空の歪み。
受電光環事故で傷ついた領域。
白海損傷域の小さな傷。
空間位相傷が接近した場合に干渉するかもしれない層。
「外部質量体が地球に物理衝突しなくても、変異位相帯が地球近傍位相構造に接触すれば、外部領域接続反応が増大する可能性があります」
「分かりやすく」
康生が言う。
「ぶつからなくても、傷がこすれるだけでまずいです」
「最悪だな」
「はい」
麻生が静かに言う。
「刃が触れずとも、毒が届くようなものですな」
「嫌な例えですけど、分かります」
千田が端末を見ながら言った。
「逸らす量は、物理的な衝突回避よりも小さくて済む可能性がありますか」
アオイが少しだけ間を置く。
「可能性があります。地球本体との衝突回避ではなく、地球近傍位相構造との接触回避が目的なら、必要な偏向量は対象の移動成分と位相帯外縁の広がりによります」
「分かりやすく」
康生が言う。
「当たらないように大きく逃がすのではなく、傷同士が触れない程度にずらせば済む可能性があります」
「それなら、少し現実味ある?」
「はい。ただし、精度が必要です」
「精度か」
康生は少しだけ笑った。
「測定屋っぽくなってきたな」
森川も小さく頷く。
「当てずっぽうでは駄目ですね」
「はい」
アオイが答える。
「過大に干渉すれば変異位相帯を傷つける。過小なら逸れない。必要なのは、正確な観測と補正です」
康生は中央表示を見る。
巨大なものを相手にしているのに、やることは結局それだ。
見る。
測る。
補正する。
また見る。
神話ではない。
現場だ。
アオイがさらに表示を出す。
――軌道観測網再評価結果。
――受電光環残存センサー群、部分稼働。
――旧衛星群、五基相当応答。
――第三外縁破損区画、観測系部分応答。
――照射系、遮断維持。
――観測精度、向上。
――外部質量体候補、移動成分一部算出。
――変異位相帯流、検出。
――地球近傍位相構造との接触リスク、継続。
――結論。
――地上観測のみでは不足。
――接近同期観測を推奨。
康生は最後の行を見た。
「接近同期観測」
「はい」
アオイが答える。
「旧軌道観測網だけでは、外部質量体と変異位相帯の詳細な流れを完全には捉えられません。より近い位置から、変異位相帯と同期して観測する必要があります」
「それ、宇宙へ行くってことだよな」
「はい」
「やっぱり」
相馬が険しい顔をする。
「方法は」
アオイは中央表示を切り替える。
――接近同期観測案。
――通常航法、距離・時間・燃料の制約により困難。
――高出力推進、放熱制約により困難。
――受電光環利用、照射系使用不可。
――T-LANCE、使用不可。
――変異位相帯流の利用、可能性あり。
――アルクビエレ系航法、低出力同期型。
――ブラックホールエンジン、位相同期・姿勢制御・航路維持に限定。
――放熱計画、必須。
康生は表示を見て、息を吐いた。
「変異位相航路」
「はい」
アオイが答える。
「既存の時空歪み、変異位相帯に同期し、波に乗るように接近します」
「自前で波を作らない」
「はい」
「波乗りする」
「はい」
「ブラックホールエンジンは、板の向きと姿勢」
「近い表現です」
森川が不安そうに言う。
「そんな機体、ありますか」
アオイは少しだけ沈黙した。
それから、表示を変える。
――候補機材。
――高高度輸送機、不可。大気圏外活動能力なし。
――作業艇、単独不可。
――しらぬい、宇宙航行不可。
――旧軌道作業艇、残存記録あり。
――保管場所候補、練馬航空整備区画深層格納庫。
――状態、不明。
――確認、必要。
康生は森川を見る。
森川も表示を見て、目を細めていた。
「練馬の深層格納庫?」
「はい」
アオイが答える。
「練馬航空整備区画の下層に、旧軌道作業艇の保守記録があります。ただし、これまでの練馬三パーセント運用では未確認区画です」
「また下にあるのか」
康生が言う。
「練馬、便利すぎない?」
「旧時代の重要施設です」
「東京地下がここにできたのも納得だな」
相馬がすぐに判断する。
「確認します。ただし、起動はしない。まずは状態確認」
「はい」
アオイが頷く。
「起動は別判断です。放熱、燃料、同期系、姿勢制御、すべて確認が必要です」
千田が言う。
「宇宙用の靴下が現実味を帯びました」
「そこ、まだ生きてたんですね」
康生が言う。
「重要です」
「知ってます」
少しだけ笑いが起きる。
だが、中央表示にはまだ空の傷がある。
天輪の残骸は、完全ではない。
それでも、空の眼を少しだけ開いた。
そして、その眼は言った。
もっと近くで見ろ。
康生は天井を見上げた。
地下の天井。
その上の東京。
その上の空。
その外の壊れた天輪。
さらにその先の空間位相傷。
遠い。
だが、道は見え始めた。
「次は、船探しか」
「はい」
アオイが答える。
「旧軌道作業艇を確認します」
「宇宙に行くかどうかは、その後?」
「はい」
「行かずに済む可能性は?」
「低いです」
「正直」
「必要です」
康生は少しだけ笑った。
怖い。
面倒だ。
規模が大きすぎる。
でも、やることは相変わらず現場だった。
眠っている機械を確認する。
使えるか調べる。
駄目なものは駄目と言う。
放熱を考える。
靴下も考える。
見て、測って、補正する。
神様の仕事ではない。
人間の仕事だ。
中央表示の壊れた天輪に、淡い光点が残っている。
七百年前に壊れた輪。
撃つために使われ、事故を起こし、Sample-09を取り逃がした輪。
その残骸は、今度は見るために起こされた。
康生は、その壊れた輪を見て言った。
「まだ使えるんだな」
アオイが答える。
「はい」
「撃つためじゃなく」
「見るために」
「なら、いい」
アオイは小さく頷いた。
「次工程へ移行します」
中央表示が切り替わる。
――練馬航空整備区画、深層格納庫。
――旧軌道作業艇、記録照合開始。
――目的、接近同期観測。
――注意、起動禁止。
――注意、放熱計画未確定。
――注意、変異位相航路未確定。
――次話工程、深層格納庫確認。
康生は表示を見て、息を吐いた。
「宇宙でも現場か」
アオイが答える。
「はい。宇宙でも現場です」
天輪の残骸は、静かに地球の外側で瞬いている。
空の眼は開いた。
だが、空の傷を見るには、まだ近づかなければならない。




