第百五話 逸らす作戦
壊せない。
その結論が出たあと、整備区画はしばらく静かだった。
T-LANCEは使えない。
右手も使えない。
受電光環の照射系も使えない。
重力兵器も、炉群の高出力連動も、放置も、避難も、主対策にはならない。
一つずつ消していった結果、中央表示に残った言葉は一つだけだった。
――軌道変更。
康生はその文字を見ていた。
「逸らす、か」
「はい」
アオイが答える。
「外部質量体を破壊するのではなく、地球近傍構造への干渉を避ける方向へ移動成分を変えます」
「分かりやすく」
「当たらないように、進む先を少し変えます」
「それは分かりやすい」
「ただし、実行は困難です」
「そこも分かりやすい」
中央表示に、外部質量体の模式図が浮かぶ。
黒い質量反応候補。
それを包む黄色い変異位相帯。
周囲に伸びる薄い歪み。
地球近傍位相構造へ向かう、まだ不安定な移動予測線。
そこへ、細い矢印が追加される。
正面から止めるのではない。
横から少しだけ押す。
移動の角度を変える。
たったそれだけの図なのに、相手が火星質量級かもしれないと思うと、冗談にしか見えない。
康生は言う。
「これ、絵だと簡単そうだけど」
「実際は簡単ではありません」
「知ってる」
相馬が端末を操作する。
「必要条件を出してください」
アオイが頷く。
――軌道変更作戦、必要条件。
――一、外部質量体の正確な位置と移動成分。
――二、変異位相帯の流れの把握。
――三、地球近傍位相構造との干渉予測。
――四、早期微小干渉の実施点。
――五、長時間観測の維持。
――六、干渉後の再観測と補正。
――七、高出力破壊兵器の不使用。
――八、康生右構成部の高出力不使用。
――九、T-LANCE再使用禁止。
――十、監視網の隠蔽なし。
康生は最後の項目を見た。
「監視網の隠蔽なし」
「はい」
アオイが答える。
「エリア51の失敗を繰り返さないためです」
「作戦条件に入るのか」
「入ります」
「技術条件じゃなくて?」
「技術条件でもあります」
アオイは表示を少し拡大した。
――監視情報を隠蔽した場合、誤判断リスク上昇。
――危険な手段の正当化リスク上昇。
――再使用禁止対象の再評価なし使用リスク上昇。
――局所合理性による全体崩壊リスク。
康生は苦い顔をした。
「局所合理性」
「はい」
「三沢の未処理警報で出たやつだな」
「はい。自分たちの生存圏、自分たちの都市、自分たちの施設だけを見れば、危険な判断にも理由が生まれます」
「全部見ないと駄目か」
「はい」
麻生が静かに言う。
「見張られることを嫌う力は、いずれ人を焼きますな」
康生は右手をちらりと見た。
「耳が痛い」
「必要な痛みです」
アオイが言う。
「お前まで」
「はい」
相馬が次を出す。
「利用可能な資源を整理します」
表示が切り替わる。
――利用可能資源。
――三沢暫定監視網。
――エリア51取得記録。
――白海損傷域基準反応。
――しらぬい観測系。
――練馬地下核融合施設、出力三パーセント維持。
――練馬航空整備区画、旧軌道通信リンク探索。
――奥飛騨炭素固定複合施設、低負荷反応。
――海洋リン回収施設、低負荷反応。
――受電光環残存センサー群。
――旧衛星群。
――康生構成体、補助観測点候補。
――アオイ、統合解析。
康生は表示を見て、少しだけ眉を上げる。
「奥飛騨と海洋リンも使うのか」
「監視補助です」
アオイが答える。
「奥飛騨は地下熱・炭素固定反応系、海洋リン回収施設は海洋側の広域低負荷反応を持っています。直接外部質量体を動かす力にはなりませんが、地球側の環境反応監視に使えます」
「地球が変な反応してないか見る?」
「はい」
「なるほど」
森川が練馬の項目を見る。
「練馬は三パーセント維持が絶対です。上げるとしても短時間の通信補助までです」
「はい」
アオイが頷く。
「生活維持を崩しません」
康生も頷いた。
「東京地下の灯りは守る」
「はい」
しらぬいから通信が入る。
「こちら、しらぬい。観測系の上位同期は可能。ただし、艦載炉の高出力運用は推奨しません」
相馬が答える。
「火器管制系は」
「使用しません。観測系と通信中継のみを提供します」
「了解」
中央表示に、しらぬいの位置が追加される。
太平洋上。
白海損傷域から離れた海域を航行しながら、三沢、練馬、旧衛星群の中継点になる。
三沢は北から見る。
しらぬいは海から見る。
練馬は地下で通信を繋ぐ。
エリア51は過去の記録を渡す。
白海損傷域は、使ってしまった傷を基準にする。
康生は、壊す手ではなく補助観測点になる。
それらを全部束ねて、空を見る。
「本当に、見る話ばっかりだな」
康生が言った。
「はい」
アオイが答える。
「見ることが、最初の作戦です」
「撃つより地味だ」
「はい」
「でも、撃つと駄目だった」
「はい」
「なら、地味でいいか」
「はい」
相馬が作戦の第一段階を表示する。
――最終作戦案、第一段階。
――軌道観測網復旧。
――目的、外部質量体の位置・移動成分・位相帯流を把握。
――使用対象、受電光環残存センサー群、旧衛星群、しらぬい観測系、三沢監視網。
――禁止、受電光環照射系起動。
――禁止、T-LANCE使用。
――禁止、右構成部高出力運用。
――禁止、重力兵器運用。
森川が言う。
「まず、天輪の残骸を起こす」
「見るために」
康生が言う。
「はい」
アオイが答える。
「見るために」
第二段階が表示される。
――第二段階。
――変異位相帯の流れを読む。
――目的、外部質量体が乗っている位相流の方向と強度を推定。
――参照、Sample-09追跡ログ。
――参照、白海損傷域基準反応。
――参照、三沢軌道監視記録。
――必要、長時間観測。
――必要、補正計算。
康生は「流れ」という言葉に引っかかった。
「川みたいなものか」
「近い表現です」
アオイが言う。
「ただし、水ではなく、時空歪みと変異位相帯の流れです」
「そこに外部質量体が乗ってる」
「可能性があります」
「なら、流れを変える?」
「直接変えるのは危険です」
「じゃあ」
第三段階が表示された。
――第三段階。
――同期干渉点の選定。
――目的、変異位相帯を破壊せず、移動成分のみを微小変更。
――方法、既存の時空歪みへ同期。
――方法、受電光環残存センサーによる位置補正。
――方法、しらぬい観測系による再補正。
――方法、三沢監視網による低頻度長期監視。
――注意、干渉は破壊ではない。
――注意、干渉量は最小。
――注意、連続補正が必要。
康生はその表示を見た。
「押す場所を探すってことか」
「はい」
「押しすぎると」
「変異位相帯を破壊し、外部領域接続反応が増大する可能性があります」
「押さなさすぎると」
「逸れません」
「嫌な調整だな」
「はい」
相馬が腕を組む。
「干渉に使う力は」
アオイはすぐには答えず、表示を切り替えた。
――干渉手段候補。
――一、受電光環照射系、不可。
――二、T-LANCE、不可。
――三、右構成部高出力、不可。
――四、重力兵器、不可。
――五、既存時空歪みへの同期、可能性あり。
――六、変異位相帯の流れに対する姿勢制御的干渉、可能性あり。
――七、中核特異点炉由来制御系、低出力同期補助として可能性あり。
――八、ブラックホールエンジン、歪み生成ではなく同期・姿勢制御・航路維持に限定。
康生は最後の項目を見る。
「ブラックホールエンジン、出るのか」
「はい」
アオイが答える。
「ただし、時空歪みを作るために使うわけではありません」
「じゃあ何に」
「既に存在する歪みに同期し、姿勢を保ち、干渉点を維持するためです」
「波乗りの板?」
「近い表現です」
「また波乗りか」
「はい」
三沢で見た記録。
エリア51の照射経路逸脱。
Sample-09の流出。
あれらは、歪みに乗って流れた。
七百年前の人間は、それを制御できなかった。
T-LANCEや受電光環で壊そうとした。
隠して、試して、失敗した。
今度は、同じ流れを壊さずに読む。
そして、ほんの少しだけ向きを変える。
「アルクビエレ系航法もここか?」
康生が聞く。
アオイが頷く。
「はい。ただし、自前で莫大な負のエネルギーを生成する方式ではありません。既存の時空歪み、変異位相帯に同期して利用します」
「つまり、波を作るんじゃなくて、ある波に乗る」
「はい」
「で、ブラックホールエンジンは波を作るんじゃなく、板の向きと姿勢を保つ」
「近いです」
「なるほど」
森川が顔をしかめる。
「それを、今ある設備で?」
「全ては無理です」
アオイが答える。
「ですが、外部質量体へ直接向かう必要があるかどうかは、第一段階と第二段階の観測結果次第です」
康生は嫌な予感がした。
「直接向かう可能性、ある?」
「あります」
「宇宙へ?」
「あります」
「やっぱりか」
「まだ確定ではありません」
「確定じゃないけど、準備はいる」
「はい」
千田が端末を見ながら言った。
「宇宙用の靴下に加えて、放熱対策ですね」
康生は思わずそちらを見る。
「靴下から放熱に飛んだ」
「重要です」
「いや、放熱は重要だろうけど」
アオイが頷く。
「はい。宇宙空間での放熱は重大な制約です」
中央表示に、第四段階が出る。
――第四段階。
――接近観測または干渉作業。
――必要、放熱計画。
――通常放熱、カーボン放熱膜、金属放熱板。
――熱容量利用、水、氷、岩石。
――熱質量投棄、必要時。
――空間制御による排熱投棄、緊急手段。
――禁止、高出力連続運用。
――禁止、放熱計画なしの位相干渉。
康生は表示を見て、少しだけ安心した。
泥臭い。
火星級の外部質量体。
変異位相帯。
アルクビエレ系航法。
ブラックホールエンジン。
言葉だけなら、とんでもない話だ。
だが、実際に出てくるのは、放熱膜、金属板、水、氷、岩石、熱を捨てる計画。
「急に現場感あるな」
「はい」
アオイが答える。
「現場です」
「宇宙でも?」
「宇宙でも現場です」
「いいな、それ」
康生は少しだけ笑った。
相馬が第五段階を表示する。
――第五段階。
――軌道変更実施。
――目的、外部質量体を地球近傍位相構造から逸らす。
――手段、変異位相帯の移動成分へ微小干渉。
――必要、連続観測。
――必要、補正。
――必要、干渉後の再解析。
――成功判定、接近予測線の十分な偏向。
――失敗時、再補正。
――禁止、破壊的干渉。
康生はそれを見た。
「一発勝負じゃないのか」
「はい」
アオイが答える。
「一発で決めようとすると、破壊的干渉になります」
「少しずつ押して、見て、また押す」
「はい」
「測定と補正」
「はい」
康生は森川を見る。
「校正みたいだな」
森川は少しだけ驚いた顔をして、それから頷いた。
「近いかもしれません。基準を見て、ずれを測って、補正して、また確認する」
「世界相手に測定かよ」
「はい」
アオイが言う。
「世界相手の測定です」
康生は乾いた笑いを漏らした。
でも、悪くないと思った。
神の一撃より、ずっと自分たちらしい。
練馬。
三沢。
しらぬい。
森川。
相馬。
千田。
麻生。
燈子。
東京地下。
エリア51で止めようとしていた誰か。
三沢へ送れと書き残した誰か。
全部が、少しずつ繋がっている。
それは、神話ではない。
作業だった。
大きすぎる作業。
怖すぎる作業。
失敗すれば終わる作業。
でも、作業なら人間の手が届くかもしれない。
「いいな」
康生が言った。
アオイが聞く。
「何がですか」
「壊すとか撃つとかより、測って補正する方が、まだ人間っぽい」
「はい」
「世界相手の測定ってのは、馬鹿みたいだけど」
「はい」
「でも、いい」
「記録します」
「そこも?」
「重要です」
相馬が作戦案の全体を保存する。
――最終作戦骨子。
――名称案、軌道逸らし作戦。
――目的、外部質量体の地球近傍構造干渉回避。
――基本方針、破壊せず、逸らす。
――第一段階、軌道観測網復旧。
――第二段階、変異位相帯流解析。
――第三段階、同期干渉点選定。
――第四段階、接近観測または干渉作業準備。
――第五段階、軌道変更実施。
――禁止事項、T-LANCE再使用、右構成部高出力、受電光環照射系、重力兵器。
――共有事項、全監視情報を隠蔽しない。
――次工程、天輪残骸の再評価。
「名称、これでいいんですか」
康生が聞く。
「仮称です」
相馬が答える。
「もっとかっこいいのは?」
アオイが言う。
「作戦名の装飾は優先度が低いです」
「だろうな」
麻生が穏やかに言った。
「逸らす、という言葉はよろしいと思います」
「そうですか?」
「壊さぬと決めた言葉ですからな」
康生は少し黙った。
壊さぬと決めた言葉。
たしかに、そうだ。
撃つ。
砕く。
消す。
滅ぼす。
そういう言葉は、気持ちがいい。
強い。
分かりやすい。
だが、白い海を見たあとでは、その気持ちよさが怖い。
逸らす。
少し弱く聞こえる。
少し地味に聞こえる。
でも、それでいい。
「じゃあ、軌道逸らし作戦で」
康生が言う。
アオイが表示を更新する。
――仮称、軌道逸らし作戦。
――登録。
「本当に登録した」
「はい」
「まあ、いいか」
整備区画の天井を見上げても、空は見えない。
だが、その上にあるものを、康生はもう知っている。
荒れた東京の空。
受電光環の残骸。
旧衛星群。
空間位相傷。
外部質量体。
そして、そこへ向かうための最初の一歩は、ここにある。
練馬の細い灯りの下。
古い機械と、疲れた人間たちと、眠っていた監視網。
相馬が言う。
「次は、天輪の残骸です」
アオイが頷く。
「旧軌道観測網の再評価を開始します」
康生は右手を見ずに、中央表示を見た。
使うためではない。
壊すためではない。
神になるためでもない。
人として、測るために。
「じゃあ、空の眼を開こう」
康生が言った。
アオイが答える。
「はい。天輪の残骸を、見るために起こします」
中央表示の地球の外側で、壊れた輪が淡く浮かび上がる。
七百年前に壊れた天輪。
今度は、撃つためではない。
見るために、その残骸へ手を伸ばす。




