第百四話 壊せないもの
空の傷は、静かに揺れていた。
練馬航空整備区画の中央表示装置に浮かぶ地球。
その外側に、薄い黄色の帯。
さらにその中心に、黒い質量反応候補。
火星質量級に接近する可能性。
その言葉が出てから、整備区画の空気は変わっていた。
誰も大声を出さない。
誰も慌てて走らない。
機械の音も、いつも通り続いている。
だが、表示を見る人間の目だけが変わっていた。
今までの危機とは、桁が違う。
中継巣は、見れば怖かった。
東京地下の襲撃も、目の前に来れば戦えた。
T-LANCEは、見た目こそただの鉄パイプだったが、保管庫の中にあった。
けれど、空の傷は遠すぎる。
見えない。
触れない。
そこにあると分かったところで、人間の手は届かない。
それなのに、重い。
康生は中央表示を見ていた。
「火星級って、壊せるのか」
口に出してから、自分でも馬鹿なことを言ったと思った。
だが、誰も笑わなかった。
アオイが答える。
「現時点で、破壊は推奨できません」
「推奨できません、じゃなくて」
康生は息を吐く。
「無理だろ」
「はい」
アオイは言った。
「通常の意味での破壊は、現実的ではありません」
相馬が端末を操作する。
「可能性のある対処案を並べます」
中央表示が切り替わる。
――対処案検討。
――対象、空間位相傷中心質量反応候補。
――仮称、外部質量体。
――質量推定、低信頼度。
――最小推定、月質量級を下回る保証なし。
――最大推定、火星質量級に接近する可能性。
――通常天体モデル、不適合。
――変異位相帯に包まれている可能性。
――外部領域接続反応、関連候補。
康生は表示を見た。
名前がついた。
外部質量体。
それだけで、少し近くなったような気がする。
だが、近くなったからといって、扱えるわけではない。
相馬が続ける。
「第一案。T-LANCEによる破壊」
アオイが即座に言う。
「却下します」
早かった。
あまりにも早かったので、康生は思わずアオイを見た。
「まだ表示出てないぞ」
「出る前に却下できます」
「強いな」
「必要です」
中央表示に、遅れて結果が出る。
――T-LANCE使用案。
――対象排除性能、不明。
――対象規模、過大。
――位相境界損傷、極大化リスク。
――外部領域接続反応、増大リスク。
――変異位相帯拡散リスク。
――地球近傍位相構造への二次被害、極大。
――白海損傷域の類似副作用、規模不明。
――結論、使用不可。
康生は画面を見る。
「白い海の比じゃない?」
「はい」
アオイが答える。
「白海損傷域は局所的な中継巣に対する限定使用でした。それでも位相境界損傷、海底熱異常、外部領域接続反応の微増を確認しています」
「空の傷に撃ったら」
「損傷範囲も副作用も予測不能です。対象が変異位相帯に包まれている場合、T-LANCEによって位相帯そのものが裂ける、または拡散する可能性があります」
「分かりやすく」
「空の傷を、さらに大きく破ります」
康生は黙った。
その一言で十分だった。
「却下だな」
「はい」
相馬も頷く。
「T-LANCEは作戦候補から除外。再使用禁止を維持」
表示が更新される。
――T-LANCE案、却下。
――再使用禁止、維持。
相馬が次を出す。
「第二案。康生さんの右構成部による高出力干渉」
康生は思わず右手を見た。
布の下にある。
監視タグは平常範囲だ。
――右構成部監視タグ、平常範囲。
――受電経路形成前兆、なし。
――緊急時自動開放傾向、微弱上昇。
微弱上昇。
出た。
「考えたな」
アオイが言う。
「考えた」
康生は正直に答えた。
「火星級とか言われると、考える」
「使用禁止です」
「分かってる」
「右構成部高出力使用は、康生本体構成への波及崩壊リスクがあります」
「それは前も聞いた」
「加えて、今回の対象は規模が違います」
中央表示が切り替わる。
――右構成部高出力干渉案。
――必要出力、算出不能。
――外部受電経路形成、必須となる可能性。
――中核特異点炉由来反応との局所同期、危険。
――康生本体構成への波及崩壊リスク、極大。
――対象規模に対し、効果不明。
――変異位相帯との予期せぬ同期リスク。
――外部質量体への接続化リスク。
――結論、使用不可。
康生は最後から二番目を見た。
「接続化リスクって」
「康生の右構成部が、外部質量体または変異位相帯と同期し、出力経路ではなく接続経路として固定される可能性です」
「分かりやすく」
アオイは少しだけ間を置いた。
「右手が、空の傷と繋がったままになる可能性があります」
康生は反射的に右手を引いた。
「却下」
「はい」
「絶対却下」
「良い判断です」
監視タグの表示が少し落ち着く。
――緊急時自動開放傾向、低下。
――受電経路形成前兆、なし。
相馬も短く言う。
「右構成部案、却下。高出力運用禁止を維持」
――右構成部案、却下。
――高出力運用禁止、維持。
森川が、次の案を表示する。
「第三案。受電光環残骸の照射系再起動」
康生は眉を寄せた。
「それ、エリア51がやらかしたやつでは」
「はい」
アオイが答える。
「受電光環第三外縁破損、照射経路逸脱、Sample-09流出の原因の一部です」
「じゃあ却下では」
「検討は必要です」
「使うため?」
「使わない理由を明確化するためです」
「なるほど」
中央表示に、受電光環の模式図が出る。
七百年前の軌道構造物。
地球を囲むように配置された受電設備。
破損した第三外縁。
軌道照射経路。
残存センサー群。
その一部は、まだ眠っている。
――受電光環照射系再起動案。
――残存設備、劣化。
――第三外縁、破損。
――照射経路、安定不能。
――変異位相帯との意図せぬ同期リスク。
――旧事故再現リスク。
――Sample-09類似位相帯への干渉リスク。
――高出力運用、危険。
――結論、照射系使用不可。
康生は頷いた。
「まあ、そうだろうな」
「はい」
アオイが答える。
「ただし、残存センサー群は利用可能な可能性があります」
「見る方だけ」
「はい」
「撃つな、見るだけ」
「はい」
相馬が記録する。
「受電光環照射系、使用不可。残存センサー群のみ再評価対象」
――受電光環照射系案、却下。
――残存センサー群、観測用途のみ再評価。
森川が次を表示する。
「第四案。重力兵器、または重力歪みを用いた直接破壊」
康生は、思わず顔をしかめた。
「名前だけで駄目そう」
アオイが答える。
「はい」
表示が出る。
――重力兵器直接破壊案。
――対象質量、過大。
――必要歪み、算出不能。
――地球近傍時空構造への影響、極大。
――変異位相帯との共鳴リスク。
――旧文明崩壊要因との同系統。
――報復連鎖期ログにおける禁忌技術。
――結論、使用不可。
麻生が静かに言う。
「七百年前の失敗を、そのまま繰り返す案ですな」
「ですね」
康生は頷いた。
「却下で」
「はい」
相馬も即座に記録する。
――重力兵器案、却下。
次の案は、さらに現実味が薄かった。
――核融合炉群高出力連動案。
――練馬、奥飛騨、海洋リン回収施設、その他旧炉群連動。
――出力不足。
――制御不能リスク。
――環境系への副作用、極大。
――現行生活維持機能への影響、重大。
――結論、使用不可。
森川が険しい顔をする。
「練馬三パーセントを崩すわけにはいきません」
「はい」
アオイが答える。
「東京地下の生活維持が最優先です」
康生も頷いた。
練馬の灯りは細い。
だが、その細い灯りを壊してまで空の何かを撃つなら、それはもう守っているとは言えない。
「却下」
――炉群高出力連動案、却下。
次。
――T-LANCE複数回使用案。
――保管対象、一基のみ。
――再使用禁止。
――副作用累積、評価不能。
――結論、論外。
康生は思わず声に出した。
「論外って出た」
「はい」
アオイが答える。
「私が追記しました」
「感情入ってない?」
「判断です」
「はい」
相馬も何も言わずに却下した。
次。
――対象放置案。
――接近評価、不能。
――質量反応規模、大。
――地球近傍位相構造への干渉リスク。
――衝突時影響、壊滅的可能性。
――監視のみでの対応、危険。
――結論、放置不可。
康生は少しだけ天井を見た。
「放置も無理か」
「はい」
「まあ、火星級かもって言われて放置はできないよな」
「はい」
次。
――地球側避難案。
――対象規模に対し、地表避難効果限定。
――地下生存圏、長期維持不可。
――地球環境変動時、生存率低。
――結論、主対策として不可。
千田が静かに言う。
「逃げ場がありませんね」
「はい」
アオイが答えた。
「地球全体へ影響する可能性があります」
康生は画面を見る。
壊せない。
撃てない。
使えない。
逃げられない。
放置できない。
選択肢が一つずつ消えていく。
まるで、狭い部屋の壁が近づいてくるようだった。
「じゃあ、どうするんだよ」
康生は言った。
声は荒くなかった。
ただ、本当に分からなかった。
「壊せない。撃てない。逃げられない。放置もできない」
アオイは、少しだけ沈黙した。
それから、新しい表示を出す。
――残存可能性。
――対象破壊ではなく、軌道変更。
――変異位相帯の破壊ではなく、移動成分への干渉。
――外部質量体の消滅ではなく、地球近傍構造からの逸脱。
――必要、正確な観測。
――必要、長時間微小干渉。
――必要、軌道観測網。
――必要、受電光環残存センサー。
――必要、しらぬい観測系。
――必要、三沢監視網。
――必要、変異位相同期技術。
康生は表示を見た。
「軌道変更」
「はい」
アオイが答える。
「壊すのではなく、逸らします」
その言葉は、思ったより静かだった。
派手な響きはない。
神の一撃でもない。
禁忌兵器でもない。
逸らす。
ぶつからないようにする。
近づきすぎないようにする。
地球の傷と、空の傷を重ねないようにする。
それは、地味だった。
だが、地味だからこそ、少しだけ現実に近かった。
相馬が表示を見つめる。
「可能ですか」
「現時点では不明です」
アオイが答える。
「ただし、破壊案よりは危険が少ない可能性があります」
「必要な力は」
「巨大です」
「では、やはり無理では」
「力を一度に加える必要はありません」
中央表示に、模式図が出る。
外部質量体。
それを包む変異位相帯。
移動方向。
地球近傍位相構造。
わずかな角度のずれ。
「正確な時期に、正確な方向へ、長時間にわたり微小干渉を続ければ、最終的な接近位置を変えられる可能性があります」
康生は画面を見た。
「押すってことか」
「はい。ただし、単純な物理推進ではありません」
「分かりやすく」
「流れてくる大岩を、正面から砕くのではなく、早い段階で横から少しずつ押して流れを変えます」
「川の中の岩?」
「近い表現です」
「ただ、その岩が火星級かもしれない」
「はい」
「川が時空歪み」
「はい」
「横から押す棒が、足りない」
「はい」
「無理じゃね?」
「現時点では困難です」
「正直だな」
「必要です」
麻生が言う。
「大きなものほど、近づいてからでは動かせませぬな」
「そうですね」
アオイが頷く。
「だから、まず正確に見ます。早く、遠くで見る必要があります」
相馬が理解する。
「第百三話の結論に戻るわけですね。空の眼が必要だ」
「はい」
「天輪の残骸」
「はい」
森川が端末を見る。
「受電光環の照射系は使わない。残存センサー群だけを起こす」
「はい」
「旧衛星群も、観測だけ」
「はい」
「しらぬいと三沢を同期」
「はい」
「練馬は通信と電力安定を支援」
「はい」
康生はそのやり取りを聞いていた。
撃つ話ではない。
見る話だ。
測る話だ。
少しだけ押す話だ。
それは、今まで康生がつい考えてしまう「自分が何かする」感覚から一番遠い。
だからこそ、正しいのかもしれなかった。
「俺は?」
康生が聞く。
アオイがこちらを見る。
「康生は、高出力干渉を行いません」
「はい」
「T-LANCEも使用しません」
「はい」
「右手も使用しません」
「はい」
「ただし、康生の構成体は、変異位相同期の補助観測点として利用できる可能性があります」
「結局使うのか」
「出力ではなく、観測です」
「見るために?」
「はい」
「俺も眼になる?」
「一部は」
康生は少しだけ笑った。
「神の手じゃなくて、観測器か」
「はい」
「地味だな」
「適切です」
「それがいいのかもな」
アオイは頷いた。
「はい」
右手の監視タグが平常範囲を示している。
今度は、使うためではない。
壊すためでもない。
見て、測って、間違えないために。
康生は右手を握らなかった。
相馬が作戦案の骨子を保存する。
――破壊案、すべて却下。
――T-LANCE、再使用禁止維持。
――右構成部高出力運用、禁止維持。
――受電光環照射系、使用不可。
――重力兵器、使用不可。
――炉群高出力連動、使用不可。
――対象放置、不可。
――地球側避難、主対策として不可。
――残存方針。
――観測強化。
――軌道変更。
――早期微小干渉。
――変異位相同期。
――次工程、逸らす作戦の具体化。
康生は表示を見た。
壊せない。
その結論は、絶望に近い。
でも、完全な絶望ではなかった。
壊せないから、終わりではない。
壊せないから、撃てばいいわけでもない。
壊せないからこそ、別の方法を探すしかない。
逸らす。
その言葉だけが、暗い表示の中で細く残っている。
アオイが言う。
「康生」
「はい」
「次は、逸らす作戦を組みます」
「できると思う?」
「不明です」
「そこは嘘でも、できますって言わないんだな」
「言いません」
「だよな」
「ですが」
アオイは中央表示を見る。
「壊すよりは、人間のすることに近いです」
康生は、その言葉を聞いて少しだけ黙った。
人間のすること。
神の一撃ではなく。
禁忌兵器でもなく。
右手の奇跡でもなく。
見て、測って、少しずつ押す。
間違えたら記録する。
危なければ止める。
隠さず共有する。
怖くても、見続ける。
それが、人間のすること。
「じゃあ、それでいこう」
康生は言った。
「壊すんじゃなくて、逸らす」
アオイが頷く。
「記録しました」
「良い回答です、じゃないのか」
「まだ作戦が成立していません」
「厳しいな」
「必要です」
中央表示の中で、空の傷が揺れている。
その内側に、重い影がある。
壊せないもの。
撃ってはいけないもの。
逃げられないもの。
なら、逸らすしかない。
練馬の細い灯りの下で、最終作戦の形が、ようやく見え始めていた。




