第百二話 帰還報告
練馬の灯りは、細かった。
高高度輸送機が着陸態勢に入る頃、窓の外に見えた東京は、相変わらず荒れていた。
崩れた高架。
植物に呑まれた道路。
黒く空いたビルの窓。
遠くに沈む灰色の空。
その下で、地下のどこかに、練馬の灯りがある。
出力三パーセント。
たったそれだけの力で、東京地下の生活を支えている。
診療所の明かりを点け、冷却循環を回し、送電母線を維持し、人々のいつも通りを守っている。
康生は窓の外を見ていた。
太平洋の白い海は、もう見えない。
エリア51の砂漠も見えない。
三沢の雪も見えない。
だが、どれも頭の中には残っている。
雪の下の眼。
砂漠の地下の赤い誘導線。
透明な遮蔽筒の中の鉄パイプ。
白くなった海。
そして、中央表示に残り続けた赤い警告。
――位相境界損傷。
――海底熱異常。
――火山性微動、微弱増加。
――外部領域接続反応、微増。
――T-LANCE再使用禁止。
機体が揺れた。
康生は左手で固定具を握る。
右手は使わない。
もう癖になっていた。
アオイが隣で確認する。
「右構成部監視タグ、平常範囲」
「帰ってきても言うのか」
「はい」
「必要?」
「必要です」
「だよな」
機体は練馬航空整備区画へ向かって降下する。
外の景色が近づく。
荒れた街。
割れた道路。
古いビル。
その隙間に隠された、地下への進入口。
七百年前の高高度輸送機は、行きよりも少しだけ頼りなく感じた。
実際、機体は疲れている。
太平洋を越え、ハワイ近海を通り、北米の砂漠まで飛び、また戻ってきたのだ。
人間なら、倒れている。
機体が地下搬入口へ進入する。
誘導灯が淡く点り、整備架が動く。
練馬航空整備区画の床へ、車輪が触れた。
鈍い音。
機体が一度跳ね、もう一度沈み、ようやく止まる。
操縦補助要員が報告した。
「着陸完了。機体損傷、軽微。推進系、停止。補助電源、待機」
康生は息を吐いた。
「帰ってきた」
「はい」
アオイが答える。
「帰還しました」
「無事に?」
アオイはすぐには答えなかった。
康生は苦笑した。
「聞き方が悪かったな」
「はい」
「機体と乗員は無事」
「はい」
「でも、無事じゃないものがある」
「はい」
ハッチが開く。
練馬の空気が流れ込んできた。
東京地下の匂い。
金属。
油。
人の生活。
古い機械の熱。
冷却水。
砂漠の乾いた風でも、太平洋の潮の匂いでもない。
戻ってきたのだと、身体が先に理解する。
森川が整備員たちと共に待っていた。
「お帰りなさい」
その声は、少しだけ安堵していた。
康生は機体を降りる。
「ただいま、でいいんですかね」
「はい。戻ってきたなら、ただいまです」
森川はそう言ってから、康生の右手を見た。
「右手は」
アオイが答える。
「使用していません。監視タグ、平常範囲。受電経路形成前兆なし。局所崩壊前兆なし」
森川は息を吐いた。
「よかった」
康生は少しだけ目を伏せる。
「右手は、使ってません」
森川はその言い方に気づいた。
「他に、何か使ったんですね」
誰もすぐには答えなかった。
整備区画の灯りが、機体の外装を照らしている。
古い翼。
補修板。
焼けたような汚れ。
飛行型が接触した傷。
戻ってきた証拠はある。
だが、白い海はここから見えない。
康生は森川を見る。
「T-LANCEを使いました」
森川の表情が変わる。
「エリア51で見つかった、対侵入兵器ですか」
「はい」
アオイが答える。
「通称タキオン砲。外部領域由来構造体。TACHYON-LANCE prototype unit。ハワイ近海中継巣に対し、限定使用されました」
森川はゆっくり息を吸った。
「使用禁止では」
「使用禁止でした」
アオイが答える。
「現在は、再使用禁止を確定しています」
森川はしばらく何も言わなかった。
それから、静かに言う。
「使ったあとで、ですか」
「はい」
康生は頷いた。
「使ったあとで、です」
その言葉は、自分で言っていて重かった。
使う前に見ろ。
使う前に見ろと、三沢は言った。
見た。
分かっていた。
それでも使った。
だから、使ったあとで再使用禁止にした。
遅い。
だが、隠すよりはましだ。
森川は端末を見た。
「副作用は」
アオイが表示を送る。
――T-LANCE限定使用記録。
――対象、ハワイ近海中継巣。
――巣核反応、消失。
――航路、確保。
――副作用、検出。
――位相境界損傷。
――海底熱異常。
――火山性微動、微弱増加。
――外部領域接続反応、微増。
――白海損傷域、仮称設定。
――三沢監視網、監視継続。
森川は表示を見て、顔を歪めた。
「中継巣は消えた」
「はい」
「でも、海に傷が残った」
「はい」
「火山性微動まで」
「はい」
森川は目を閉じた。
「……分かりました。隠さず共有してくれて、ありがとうございます」
康生は言葉に詰まった。
責められると思っていた。
怒られると思っていた。
だが、最初に出たのは礼だった。
それが逆にきつかった。
「礼を言われる話じゃないです」
「それでも、隠さなかったことには意味があります」
森川は言った。
「ここで隠していたら、エリア51と同じです」
康生は何も言えなかった。
エリア51。
黒区画ログ。
三沢へ送られなかった記録。
通常変動として処理された警告。
封じ込められた反対意見。
隠した結果、七百年後の自分たちが読んだ。
だから、隠さない。
相馬が整備区画の中央端末へ向かう。
「帰還報告を行います。練馬管制、防衛隊本部、三沢暫定監視網、東京地下代表へ接続を」
「了解」
森川が端末を操作する。
練馬航空整備区画の中央表示装置に、複数の通信窓が開く。
防衛隊本部。
三沢暫定監視網。
練馬管制。
しらぬい。
東京地下。
最後の窓が開くまで、少し時間がかかった。
それから、燈子の顔が映った。
寝台の上だった。
顔色はまだよくない。
だが、目ははっきりしている。
横には医療班らしき人物がいて、短くしてください、という顔をしていた。
燈子は康生を見る。
「お帰りなさい」
康生は、少しだけ頭を下げた。
「戻りました」
「右手は」
アオイが答える。
「使用していません。監視タグ、平常範囲です」
燈子は少しだけ息を吐いた。
「よかった」
康生はその言葉を受け止めきれず、視線を落とした。
「右手は、使ってません」
燈子は黙って、続きを待った。
康生は言う。
「でも、使ってはいけない兵器を使いました」
通信窓の向こうで、燈子の表情がわずかに変わる。
相馬が報告を引き継いだ。
「エリア51調査により、外部領域接続試験記録、変異位相帯Sample-09追跡ログ、対侵入兵器T-LANCE実体記録を取得しました。帰路、ハワイ近海中継巣の活動上昇により、通常突破が困難となりました」
表示が共有される。
ハワイ近海中継巣。
黒い巣。
航路を塞ぐ飛行型群。
海棲大型。
そして、白い海。
燈子は映像を見ていた。
白い線が走る。
黒い巣が消える。
海が白く泡立つ。
その映像は、美しかった。
美しく見えてしまうことが、康生は嫌だった。
相馬の声が続く。
「T-LANCEを限定使用。中継巣の巣核反応は消失。航路は確保されました。ただし、副作用として、位相境界損傷、海底熱異常、火山性微動の微弱増加、外部領域接続反応の微増を確認。三沢監視網では白海損傷域として監視対象化しています」
燈子はしばらく黙っていた。
それから、康生を見る。
「使う前に、危険だと分かっていたんですか」
康生は頷いた。
「分かってました」
「それでも、使った」
「はい」
「使わないと帰れなかった?」
康生はすぐには答えられなかった。
代わりに、相馬が言う。
「当時の作戦判断では、他の選択肢は極めて危険でした。輸送機喪失、しらぬい損耗、取得情報喪失の可能性が高く、限定使用を決断しました。責任は私にあります」
燈子は相馬を見る。
「責任の話ではありません」
相馬は黙った。
燈子は康生へ視線を戻す。
「石田さんは、どう思っていますか」
康生は喉の奥が詰まるのを感じた。
どう思っているか。
怖かった。
助かりたかった。
消せると思った。
使えると思った。
使ってしまった。
白い海が綺麗だと思ってしまった。
そのことが、一番怖かった。
康生は正直に言った。
「使えるって思いました」
燈子は黙って聞いている。
「中継巣を見て、これなら消せるって思いました。実際、消えました。航路も開きました。でも、海に傷が残りました」
康生は息を吐く。
「右手は使ってません。でも、右手を使わなかったから良かった、って話じゃなかったです。危ないのは右手だけじゃない。兵器も、判断も、理由も危ない」
アオイが静かに記録している。
康生は続けた。
「使う理由はありました。帰るためとか、情報を持ち帰るためとか、しらぬいを守るためとか。たぶん、理由だけならいくらでも言えます」
「はい」
燈子が言った。
「でも、使ったら、次も使いたくなると思いました。一度越えた線は、次から低くなる。だから、再使用禁止にしました」
「使ったあとで」
「はい。使ったあとで」
康生は顔を上げた。
「遅かったです」
通信越しに、沈黙が落ちる。
燈子は責めるような顔をしていない。
許すような顔でもない。
ただ、見ていた。
その目が、康生には三沢の眼よりも重く感じられた。
燈子が言う。
「隠さず話してくれて、ありがとうございます」
康生は、また言葉に詰まった。
「礼を言われることじゃないです」
「それでも、です」
燈子は静かに続ける。
「東京地下は、何も知らされずに守られる場所ではありません。私たちは、いつも通りを守るために、知る必要があります」
康生は目を伏せる。
「怖い話ですよ」
「はい」
「白い海のことも、空の傷のことも」
「はい」
「神様が何とかする話じゃないです」
燈子は少しだけ笑った。
「では、なおさら知る必要があります」
康生は何も言えなかった。
神様が何とかするなら、人は知らなくていい。
祈っていればいい。
待っていればいい。
でも、そうではない。
見て、知って、怖がって、それでもいつも通りを守る。
東京地下がやっているのは、そういうことだった。
燈子は言う。
「石田さん」
「はい」
「戻ってきましたね」
「はい」
「人として」
康生は、その言葉に小さく息を止めた。
三沢へ向かう前、燈子は言った。
戻ってきてください。
人として。
康生は、戻ってきた。
だが、綺麗な成功だけを持って帰ったわけではない。
使ってしまった禁忌も、白い海も、後悔も、全部持って帰ってきた。
それでも。
いや、だからこそ。
「はい」
康生は答えた。
「人として、戻りました」
アオイが隣で小さく言う。
「記録しました」
「そこも記録するのか」
「重要です」
燈子が少しだけ笑った。
その笑いは弱かったが、確かにそこにあった。
医療班が通信時間を気にしている。
燈子はそれに頷き、最後に言った。
「次は、何を見るんですか」
アオイが表示を共有する。
三沢。
練馬。
奥飛騨。
海洋リン回収施設。
エリア51。
白海損傷域。
地球近傍外縁の空間位相傷。
点と線が繋がる。
アオイが答える。
「空間位相傷を再解析します。Sample-09、白海損傷域、T-LANCE使用時の副作用反応を統合し、質量反応候補の輪郭を絞ります」
燈子はその表示を見る。
「空の傷ですね」
「はい」
康生が答える。
「まだ、何か来てるかもしれません」
「止められるんですか」
康生は答えられなかった。
アオイが代わりに言う。
「現時点では不明です」
燈子は頷いた。
「分かりました。東京地下は、いつも通りを守ります」
「怖くないですか」
康生は思わず聞いていた。
燈子は少しだけ考える。
「怖いです」
その答えは、まっすぐだった。
「でも、知らないまま祈るよりは、知って怖がる方がいいです」
康生は、その言葉を胸の奥で受け止めた。
知って怖がる。
それは、三沢の言葉と似ている気がした。
見えないものを、見えないまま扱うな。
見えないものを、見えないまま信じるな。
見えないものを、見えないまま怖がるな。
見て、知って、怖がれ。
そして、それでも生きろ。
燈子との通信が切れる。
画面が暗くなる。
整備区画には、機械の音だけが残った。
森川が小さく息を吐く。
「厳しい報告でしたね」
「はい」
康生は答える。
「でも、隠さなくてよかった」
「はい」
相馬が端末を操作する。
「次に進みます。三沢監視網とエリア51取得情報、白海損傷域のデータを統合。空間位相傷の再解析を行います」
アオイが頷く。
「準備します」
千田が記録を整理する。
「帰還報告、保存。T-LANCE使用、白海損傷域、副作用、再使用禁止、東京地下共有、すべて記録済み」
「俺の恥ずかしい発言も?」
「重要な発言は記録しています」
「恥ずかしい」
「必要です」
麻生が穏やかに言う。
「恥じることを記録できるうちは、人でいられますな」
康生は少しだけ笑った。
「重いなあ」
「重く申し上げました」
「でしょうね」
整備区画の奥で、高高度輸送機の点検が始まっている。
練馬の技術班が機体の傷を確認し、補修箇所を記録していく。
七百年前の翼は、ようやく休めるらしい。
だが、人間たちはまだ休めない。
三沢の眼が見ている。
白海損傷域が残っている。
空の外側には、戻ってくる傷がある。
康生は中央表示を見た。
地球の模式図。
青い海。
灰色の陸。
白海損傷域。
空間位相傷。
見えるものが増えた。
その分、怖いものも増えた。
だが、もう隠さない。
アオイが言う。
「康生」
「はい」
「再解析を開始します」
康生は頷いた。
「使うためじゃなくて」
「使わないために」
「壊すためじゃなくて」
「逸らすために」
アオイは少しだけ間を置いてから、言った。
「その可能性を、これから探します」
中央表示が暗くなり、次の解析画面が開く。
三沢、エリア51、白い海。
三つの傷の記録が、空の傷へ重ねられていく。
帰還報告は終わった。
次は、空を見直す番だった。




