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規約違反者と監視AI 〜目覚めた未来で、人間扱いされたくて〜  作者: 八汐
第九章 エリア51編

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第百話 白い海

太平洋は、帰り道を塞いでいた。


往路で見た海と、同じ海のはずだった。

青黒く広がり、雲の影を浮かべ、遠くで白い波を立てている。


だが、中央表示装置に映る海は、青ではなかった。


赤。

黄色。

黒。


警告色が、航路の上を塗り潰している。


――ハワイ近海中継巣、活動上昇。

――飛行型群、高度上昇。

――海棲大型、浮上反応増加。

――巣核周辺、電磁異常増大。

――外部領域接続反応、微弱上昇。

――中央航路、危険。

――迂回航路、燃料不足。

――接触可能性、高。


高高度輸送機の中で、康生は表示を見つめていた。


「往路より悪いな」


「はい」


アオイが答える。


「かなり悪化しています」


「言い換えてくれないんだな」


「必要ありません」


「ですよね」


機体は太平洋上を飛んでいる。


北米大陸はすでに後方へ遠ざかった。

砂漠の空も、エリア51の黒い入口も、もう見えない。


前方にあるのは、海。

そして、その海の中央に広がる黒い巣。


ハワイ近海中継巣。


往路では避けた。

倒さなかった。

見えないものを、見えないまま壊さなかった。


それは正しい判断だったはずだ。


だが今、その正しい判断で残したものが、帰り道を塞いでいる。


しらぬいから通信が入る。


「こちら、しらぬい。飛行型群、さらに高度上昇。輸送機予定高度へ接近中。海棲大型、巣核周辺から外縁へ展開。航路修正を推奨」


相馬が答える。


「修正先は」


「北方迂回、燃料不足。南方迂回、熱帯性変異巣の活動上昇。上昇回避、飛行型群の上限不明。下降回避、海棲大型および飛行型中型の攻撃圏内」


「隙間は」


わずかな沈黙。


「現在、確認できません」


機内が静かになった。


康生は右手を見ないようにした。


布の下にある。

監視タグは、まだ平常範囲に近い。


だが、自分の中にある考えは、平常ではない。


エリア51の白い保管庫。

透明な遮蔽筒。

その中に置かれていた、ただの鉄パイプ。


T-LANCE。


使えば消せる。


そう思ってしまった。


思ってしまった瞬間、監視タグが点滅した。


――右構成部監視タグ。

――緊急時自動開放傾向、微弱上昇。


アオイが康生を見る。


「康生」


「分かってる」


「右手は使いません」


「使わない」


「T-LANCEも使用禁止です」


「分かってる」


「考えました」


「考えた」


「使用禁止です」


康生は歯を食いしばった。


「分かってる」


相馬が端末を操作する。


通常火器で抜ける航路。

しらぬいの射線。

飛行型群の密度。

中継巣の活動域。

輸送機の燃料。

機体損傷許容値。


数字が並ぶ。

予測線が引かれる。

消える。

また引かれる。


どの線も、黒い巣に絡め取られる。


しらぬいの通信が再び入った。


「飛行型大型、出現。巣核上空から輸送機予定航路へ上昇中」


表示に、新しい黒い影が出た。


大きい。


往路で見た小型や中型とは違う。

飛行型というより、海中のものが翼を得て無理やり空へ出てきたような反応だった。


相馬が低く言う。


「しらぬい、防衛射撃で抑えられますか」


「可能。ただし、同時に海棲大型が接近中。艦体防衛と輸送機支援の両立が困難になりつつあります」


「輸送機単独では」


「突破成功率、低」


康生は表示を見た。


低。


それだけだった。

数字は出ない。


だが、それで十分だった。


千田が小さく息を吐く。


「待機して活動低下を待つ案は」


アオイが答える。


「燃料、補給、機体状態の問題があります。加えて、中継巣の活動は上昇傾向です。低下時刻は予測不能」


麻生が言う。


「戻ることは」


相馬が首を横に振る。


「北米側へ戻る燃料余裕は限定的です。戻っても、エリア51周辺で長期待機できる保証はありません」


康生は笑いそうになった。


戻れない。

進めない。

避けられない。


そして、消せるものだけがある。


最悪だ。


「アオイ」


「はい」


「T-LANCEを使う以外の案、ある?」


アオイはすぐに答えなかった。


その沈黙で、康生は胸の奥が冷えるのを感じた。


「ありますか」


相馬が聞く。


アオイは表示を整理する。


――代替案。

――一、中央航路強行突破。成功率、低。

――二、北方迂回。燃料不足。

――三、南方迂回。別変異巣接触リスク高。

――四、海上退避。海棲大型接触リスク高。

――五、しらぬい単独囮行動。しらぬい損耗リスク極大。

――六、T-LANCE限定使用。対象排除可能性、高。副作用リスク、極大。


康生は六番目を見た。


副作用リスク、極大。


「極大か」


「はい」


アオイが答える。


「使用禁止です」


相馬が表示を見つめる。


「使用した場合の副作用は」


「位相境界損傷、海底熱異常、火山性活動誘発、外部領域接続反応増大。いずれも評価不十分です」


「使用しない場合は」


「輸送機喪失、しらぬい損耗、取得情報喪失、三沢監視網統合の遅延または断絶」


康生は奥歯を噛んだ。


「ずるいな」


「はい」


アオイが答える。


「状況が、です」


「使う理由が揃ってる」


「はい」


「それが一番駄目なんだろ」


「はい」


機体が大きく揺れた。


飛行型の群れが、もう近い。


窓の外を黒い影が横切る。

往路よりも大きい。

翼膜の端に海水のようなものをまとい、空を泳ぐたびに白い霧を引いている。


しらぬいの防衛射撃が走る。


細い光が何本も空を切る。

影が落ちる。

だが、次の影が上がってくる。


海面が黒く盛り上がる。


巣核が遠くに見えた。


海と空を繋ぐ黒い柱。

旧通信中継設備に絡みついた膜。

海中から伸びる触手状の構造。

空へ引かれた黒い糸。


それが、脈打っている。


往路よりも、はっきりと。


相馬は拳を握った。


「T-LANCE限定使用を、作戦判断として検討します」


アオイが即座に答える。


「反対します」


その声は、冷たかった。


「T-LANCEは使用禁止です。副作用評価が不完全です。特にハワイ近海は火山列島であり、海底地殻への影響は予測不能です」


「分かっています」


「使用すべきではありません」


「分かっています」


相馬の声は苦かった。


「それでも、他に輸送機としらぬいを同時に残す案がありません」


アオイは沈黙した。


その沈黙は、同意ではなかった。


康生には分かった。


アオイは反対している。

本当に反対している。

だが、計算上の代替案がないことも分かっている。


だから黙った。


康生は言う。


「俺の右手は使わない」


「はい」


アオイが答える。


「右手は使いません」


「T-LANCEは」


アオイは康生を見た。


「私は反対します」


「それでも、使うなら?」


「被害を最小化する手順を提示します」


「反対なのに?」


「反対です」


アオイの声は揺れない。


「ですが、使用判断が覆らない場合、私は被害を減らすために行動します。賛成ではありません」


康生は目を閉じた。


「きついな」


「はい」


「これ、越えちゃいけない線だよな」


「はい」


相馬が短く息を吐く。


「全責任は私が負います」


麻生が静かに首を振った。


「この場にいる者すべてが、見ております」


「……はい」


相馬は頷いた。


「では、全員で記録します。これは正しい使用ではありません。やむを得ない使用です。そして、やむを得ないという言葉で、正当化しきれるものではありません」


康生は右手を見た。


監視タグが点滅している。


――緊急時自動開放傾向、微弱上昇。

――受電経路形成前兆、なし。


「俺は、右手を使わない」


アオイが頷く。


「はい」


「T-LANCEの対象指定にも、俺を使わない」


「はい」


「三沢としらぬいとエリア51の監視情報だけでやる」


「はい」


「それでも、俺は見てる」


「はい」


康生は息を吐いた。


「なら、見届ける」


アオイは短く答えた。


「記録します」


中央表示に、エリア51の白い保管庫が映った。


遠く離れた砂漠の地下。

閉じた保管庫。

透明な遮蔽筒。

その中の、ただの鉄パイプ。


T-LANCEは、動いていない。


だが、表示だけが変わっていく。


――T-LANCE保管庫、遠隔監視。

――起動系、物理遮断中。

――照準系、無効。

――対象認識、禁止。

――使用禁止。


次の行が追加された。


――緊急作戦判断。

――限定使用要求。

――承認系統、欠損。

――管理者、不在。

――三沢暫定監視網、警告。

――エリア51保管庫、警告。

――T-LANCE使用禁止。


警告が、何度も出る。


――使用禁止。

――使用禁止。

――使用禁止。


アオイが言う。


「最小出力ではありません」


「え?」


康生が聞く。


「T-LANCEに出力という概念は適用困難です。軸形成時間を最短にします。対象認識範囲を巣核に限定。周辺海底構造への干渉を減らします」


「減らせる?」


「不明です」


「不明か」


「はい」


「それでも、やる?」


アオイは答えない。


代わりに、処理を続ける。


――対象認識範囲、最小化。

――対象、ハワイ近海中継巣、巣核推定中心。

――周辺個体群、対象外。

――海底構造、対象外。

――旧通信中継設備、対象内。

――照射軸形成時間、最短。

――位相境界干渉、不可避。

――副作用、予測不能。


康生は窓の外を見た。


黒い巣が、遠くにある。


だが、もう遠くではない。

飛行型の群れは機体の周囲まで来ている。

しらぬいの射撃は休みなく続いている。

海面下では、大型反応が艦へ向かっている。


相馬が言った。


「実行」


アオイは、一瞬だけ目を伏せた。


「記録します」


表示が変わる。


――T-LANCE軸形成。

――対象認識。

――警告。

――使用禁止。

――警告。

――位相境界損傷リスク。

――警告。

――外部領域接続反応増大リスク。

――警告。

――使用禁止。


そして、白い保管庫の映像が揺れた。


鉄パイプは動かなかった。


少なくとも、映像上は。


ただ、その瞬間、康生は確かに感じた。


向きが変わった。


物体としての向きではない。

空間の中での向きでもない。

それが繋がる先が、変わった。


ただの鉄パイプに見えていたものが、筒ではなくなった。


穴になった。


どこかへ通じる、細い裂け目になった。


――T-LANCE、軸形成。


次の瞬間。


海が白くなった。


音はなかった。


爆発もなかった。

衝撃波もなかった。

炎もなかった。


ただ、ハワイ近海の黒い巣を、一本の白い線が貫いた。


海面から空へ伸びていた黒い柱が、線に触れた瞬間、ほどけた。


旧通信中継設備に絡みついていた膜が、白く透ける。

海中から伸びた触手状の構造が、糸のように切れる。

空へ引かれていた黒い筋が、紙に描いた線を消しゴムで消すように消えていく。


飛行型の群れが止まった。


海棲大型の反応が止まった。


巣核が、消えた。


砕けたのではない。

沈んだのでもない。

焼けたのでもない。


そこにあったことだけが、取り消されたように消えた。


数秒遅れて、海面が白く泡立った。


白い泡。

白い霧。

白い光。


太平洋の一部が、白い紙のように平らに見えた。


康生はそれを見て、声を失った。


美しかった。


そう思ってしまった。


それが、一番嫌だった。


しらぬいから通信が入る。


「中継巣、沈黙」


表示が続く。


――ハワイ近海中継巣、巣核反応消失。

――飛行型群、統制喪失。

――海棲大型、活動低下。

――旧通信中継設備、消失。

――航路、確保。

――輸送機危険度、低下。

――しらぬい艦体危険度、低下。


誰も歓声を上げなかった。


勝った。


航路は開いた。

輸送機は進める。

しらぬいも残った。


それでも、誰も笑わなかった。


康生は、窓の外の白い海を見ていた。


「消えた」


「はい」


アオイが答える。


「対象排除は成功しました」


「成功、か」


「はい」


「成功なんだよな」


「はい」


アオイの声は、ひどく硬かった。


「ただし、正しいとは限りません」


その直後、中央表示が赤く染まった。


――三沢暫定監視網、異常検出。

――照射地点周辺、位相境界損傷。

――局所空間不安定化。

――海底熱異常、微弱。

――重力歪み、微弱上昇。

――外部領域接続反応、微増。

――長期監視、必須。


康生は表示を見つめた。


まだ小さい。

微弱。

微増。

そう書いてある。


だが、出た。


出てしまった。


アオイが、静かに言う。


「副作用を確認」


相馬は目を閉じた。


「記録してください」


「記録しています」


アオイが答える。


「T-LANCE限定使用。対象排除成功。副作用、即時検出。再使用禁止勧告を準備します」


康生はアオイを見た。


「再使用禁止」


「はい」


「もともと禁止だった」


「はい」


「破った」


「はい」


その言葉は、責めてはいなかった。


だが、逃がしてもくれなかった。


康生は右手を見た。


――右構成部監視タグ。

――緊急時自動開放傾向、低下。

――受電経路形成前兆、なし。

――局所崩壊前兆、なし。


右手は使わなかった。


でも、それで何かが守られたわけではない。


使ってはいけないものを、使った。


右手ではなく。

T-LANCEを。


「アオイ」


「はい」


「俺たち、やったんだな」


「はい」


「使ったんだな」


「はい」


「禁忌兵器を」


「はい」


機体は白い海の上を通過していく。


下には、もう黒い巣はない。


ただ、白い泡と、薄い霧と、妙に静かな海面が広がっている。


あまりにも静かだった。


まるで、そこだけ海が息を止めているようだった。


しらぬいから通信が入る。


「航路、確保。輸送機は予定航路へ復帰可能」


相馬が答える。


「了解。予定航路へ復帰」


操縦補助要員が機体を安定させる。


黒い影は減っている。

飛行型の群れは統制を失い、ばらばらに散っている。

海棲大型の反応も沈降している。


通れる。


帰れる。


そのはずなのに、康生の胸は重かった。


麻生が窓の外を見て、静かに言った。


「白い海ですな」


誰も答えなかった。


千田は記録端末を握りしめている。


「海が、白い」


「はい」


アオイが答える。


「照射地点周辺の海面反応です」


「綺麗に見えます」


「はい」


「それが、怖いです」


「適切な感情です」


康生は窓から目を離した。


見続けていると、綺麗だと思ってしまう。

すごいと思ってしまう。

これなら何でも消せると思ってしまう。


それが、一番危ない。


「使えるから、使ってしまった」


康生が言う。


アオイが答える。


「はい」


「九十八で、使わないって言ったのに」


「はい」


「言ったのに、使った」


「はい」


「だから、次は」


アオイが康生を見る。


康生は、はっきりと言った。


「次は、止める」


アオイはすぐには答えなかった。


それから、静かに言った。


「記録します」


「良い回答です、じゃないんだな」


「まだ実績がありません」


康生は小さく笑った。


「厳しい」


「必要です」


中央表示には、赤い警告が残り続けている。


――位相境界損傷。

――海底熱異常。

――重力歪み、微弱上昇。

――外部領域接続反応、微増。

――長期監視、必須。


中継巣は消えた。


航路は開いた。


太平洋は、白く静まっている。


だが、世界は少し傷ついた。


その傷がどれほど深いのか、まだ誰にも分からない。


高高度輸送機は、白い海を後方へ置き去りにして進む。


目的地は日本。

三沢の眼が待つ場所。

東京地下の人々が、いつも通りを守っている場所。


康生は、もう一度だけ窓の外を見た。


白い海は、少しずつ遠ざかっていく。


だが、その白さは、目の奥に残った。


使えば消せる。


だからこそ、使ってはいけなかった。


そのことを、彼らは使ったあとに知った。


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