第九十九話 砂漠の眼
エリア51の地下は、最後まで赤かった。
床を走る誘導線。
壁面の警告表示。
隔壁の端に残る非常灯。
読取台の縁に浮かぶ古い文字列。
すべてが赤い。
三沢の地下で見た青白い光とは違う。
あちらは眠っていた眼が、静かに開く光だった。
こちらは、閉じ込めたものを忘れるなと警告する光だった。
康生は読取台の前に立っていた。
右手は使っていない。
左手も接続していない。
ただ、端末越しに記録を読んだだけだ。
だが、それだけで十分に疲れていた。
外部領域接続試験。
変異位相帯サンプル。
Sample-09。
空間位相傷。
T-LANCE。
砂漠の地下には、七百年前に試した者たちの記録が残っていた。
相馬が読取台の表示を確認する。
「取得情報を整理します」
画面に項目が並ぶ。
――エリア51取得情報。
――外部領域接続試験記録、取得。
――変異位相格納庫照合、取得。
――Sample-07照合、取得。
――Sample-09追跡ログ、取得。
――空間位相傷との関連候補、取得。
――T-LANCE実体記録、取得。
――T-LANCE短期安定化、完了。
――T-LANCE使用禁止判断、維持。
――三沢暫定監視網への統合準備、完了。
康生はその表示を見た。
「多いな」
「はい」
アオイが答える。
「ですが、最重要項目は三つです」
表示が切り替わる。
――一、Sample-09は封入に失敗し、外宇宙側へ流出した可能性が高い。
――二、現在の空間位相傷は、Sample-09追跡ログと類似性を持つ。
――三、T-LANCEは対象排除性能が高い一方、位相境界損傷要因であり、再使用禁止。
康生は三つ目を見て、少しだけ顔をしかめた。
「再使用禁止」
「はい」
「念押し多くない?」
「足りないくらいです」
「だよな」
康生は奥の隔壁を見た。
対侵入兵器保管庫。
そこには、ただの鉄パイプに見えるものが残されている。
見た目は本当に、ただの鉄パイプだった。
錆びて、黒ずんで、何の飾りもなく、何の威圧感もない。
けれど、表示は言っていた。
接触禁止。
照準禁止。
起動禁止。
使用禁止。
使えば消せる。
だからこそ、使ってはいけない。
康生はその言葉を、心の中で繰り返した。
相馬が三沢への通信準備を進める。
「三沢暫定監視網へ、エリア51取得情報を送信します。制御権限は接続しない。監視項目のみ追加」
アオイが頷く。
「はい。三沢は見る場所です」
「ここは試した場所」
康生が言う。
「はい」
「試した場所の記録を、見張る場所へ送る」
「はい」
麻生が静かに言った。
「七百年前に届かなかったものを、ようやく届けるわけですな」
康生は何も言わなかった。
七百年前にも、止めようとした人間はいた。
三沢へ送れ、と書き残した誰かがいた。
だが、その記録は黒区画に隠された。
三沢には届かなかった。
そして三沢は、止められなかった。
今さら届けても、七百年前は変わらない。
それでも、今はまだ変えられることがあるかもしれない。
アオイが送信処理を始める。
――三沢暫定監視網、接続要求。
――読取情報送信。
――制御権限、接続しません。
――対象一、外部領域接続試験記録。
――対象二、変異位相帯Sample照合記録。
――対象三、Sample-09追跡ログ。
――対象四、空間位相傷照合結果。
――対象五、T-LANCE実体記録。
――対象六、T-LANCE保管庫監視項目。
――送信開始。
赤い表示が、白へ変わる。
データが流れていく。
砂漠の地下から。
太平洋を越え。
日本列島へ。
雪に埋もれた三沢の地下へ。
七百年前に届かなかったものが、今さらながら北の監視者へ渡っていく。
康生はその流れを見ていた。
「これで、三沢は見えるようになる?」
「少しだけ」
アオイが答えた。
「少しだけか」
「はい。ですが、重要です」
「足りない?」
「足りません」
「ですよね」
アオイは表示を整理する。
――統合後監視項目。
――空間位相傷、優先監視。
――Sample-09類似成分、監視。
――質量反応候補、監視。
――移動成分、監視。
――外部領域接続反応、監視。
――T-LANCE保管庫、監視。
――T-LANCE軸形成前兆、監視。
――T-LANCE対象認識反応、監視。
――右構成部監視タグ、継続。
康生は最後の項目を見た。
「俺も入ってる」
「はい」
「空間位相傷とか禁忌兵器と並ぶの、嫌だな」
「重要監視対象です」
「言い方」
「正確です」
「はい」
三沢から応答が返る。
――三沢暫定監視網、受信。
――エリア51取得情報、保存。
――空間位相傷照合結果、反映。
――Sample-09類似成分、監視項目追加。
――質量反応候補、監視項目追加。
――T-LANCE保管庫、監視項目追加。
――制御接続なし。
――監視のみ。
――北の監視者、稼働継続。
康生はその最後の行を見た。
北の監視者、稼働継続。
雪の下で開いた眼が、砂漠の記録を受け取った。
相馬が息を吐く。
「統合、完了」
千田が端末に記録を残す。
「エリア51初期調査、主要目的達成。外部領域接続試験記録、Sample-09追跡ログ、T-LANCE実体記録を取得。保管庫短期安定化完了」
「文字にすると、すごい調査ですね」
康生が言う。
「実際、すごい調査です」
千田が答える。
「靴下も無事です」
「そこも記録するんですか」
「足を痛めていないのは重要です」
「たしかに」
麻生が少しだけ笑った。
地下の空気は、まだぬるい。
変異位相格納庫の方から、何かが聞こえるわけではない。
対侵入兵器保管庫の扉も閉じている。
外部領域接続試験区画も封鎖されたままだ。
それでも、そこに何かが残っていることを、康生はもう知っている。
見えないだけで、ある。
それは、雪の三沢で覚えた言葉だった。
そして砂漠のエリア51でも、同じだった。
相馬が言う。
「撤収します」
その言葉に、康生は少しだけ安心した。
「帰れる」
「はい」
アオイが答える。
「ただし、帰路も安全ではありません」
「言うと思った」
「必要です」
「太平洋中継巣?」
「はい」
読取台の表示が、帰路航路へ切り替わる。
北米大陸西部。
太平洋。
ハワイ近海。
日本列島。
その途中に、黒い反応がある。
往路で避けた中継巣。
海と空を繋ぐ黒い構造。
旧通信中継設備に絡みついた巣。
飛行型と海棲型の群れ。
倒さずに残したもの。
表示の黒い反応は、往路の時よりも広がって見えた。
康生は嫌な顔をする。
「なんか、大きくなってない?」
アオイが解析する。
「活動域が拡大しています」
「大きくなってるじゃん」
「巣核そのものの成長とは断定できません。周辺個体群の展開範囲が広がっています」
「分かりやすく」
「周りの連中が増えています」
「分かりやすいけど嫌だ」
しらぬいから通信が入る。
「こちら、しらぬい。エリア51調査班の帰路航路を再評価中。ハワイ近海中継巣に活動上昇を確認」
相馬が応答する。
「活動上昇の程度は」
「飛行型群の高度上昇。海棲大型の浮上反応増加。旧通信中継設備周辺の電磁異常、増大。往路と同じ高度、同じ航路での通過は非推奨」
康生は顔をしかめた。
「非推奨」
「はい」
アオイが答える。
「最近よく見る言葉です」
「嫌な言葉ランキング上位だな」
「同意します」
しらぬいの通信が続く。
「北方迂回航路は燃料不足の可能性。南方迂回航路は熱帯性変異巣の活動上昇により危険。中央航路は中継巣接触リスク増大。ただし、しらぬい支援可能」
相馬は短く頷いた。
「帰路も中央航路か」
「現時点では、条件付きで最も現実的です」
康生は思わず笑った。
「往路と同じこと言ってる」
「はい」
アオイが言う。
「ただし、条件は悪化しています」
「笑えない方だった」
「はい」
読取台に、別の警告が浮かんだ。
――T-LANCE運用候補。
――対象、ハワイ近海中継巣。
――推定効果、巣核排除可能性。
――推定リスク、位相境界損傷。
――推定リスク、海底熱異常。
――推定リスク、火山性活動誘発。
――推定リスク、外部領域接続反応増大。
――結論、使用禁止。
康生はその表示を見て、沈黙した。
アオイが康生を見る。
「康生」
「何も言ってない」
「考える可能性があります」
「ある」
「使用禁止です」
「分かってる」
「中継巣を消せる可能性があっても、使用禁止です」
「分かってる」
「使えるからといって、使ってはいけません」
康生は目を閉じた。
往路で見た黒い巣を思い出す。
海から空へ伸びる黒い柱。
旧通信中継塔に絡みつく膜。
飛行型の群れ。
海面下の巨大な影。
あれが帰り道を塞いでいる。
T-LANCEなら、消せるかもしれない。
一瞬で。
白い線で。
何もなかったように。
その映像が頭に浮かびかけた瞬間、右手の監視タグが点滅した。
――右構成部監視タグ。
――緊急時自動開放傾向、微弱上昇。
アオイが言う。
「康生」
康生は目を開ける。
「使わない」
「はい」
「考えた。でも使わない」
「はい」
「T-LANCEも、右手も、使えるからって使わない」
「良い回答です」
康生は息を吐いた。
「本当に、見張られてないと危ないな」
「はい」
「そこは否定してくれないんだ」
「否定しません」
「正直」
「必要です」
麻生が静かに言った。
「誘惑とは、力の形をして来るものですな」
「ただの鉄パイプの形でしたけどね」
康生が言う。
「なお悪いですな」
「はい」
相馬が帰路計画を表示する。
「T-LANCE使用は禁止。往路同様、しらぬいと防衛隊火器で突破を試みます。航路は中継巣の外縁をかすめる形に修正。高高度輸送機の損傷状況を確認後、出発」
「またあの飛行機か」
「はい」
アオイが答える。
「整備状況は確認します」
「七百年もの、頑張るな」
「練馬整備班へ感謝してください」
「帰ったらする」
「帰ったら、です」
その言い方で、康生は少しだけ背筋が冷えた。
帰ったら。
まだ帰っていない。
帰路には太平洋がある。
中継巣がある。
そして、使ってはいけない兵器の記録を見たばかりの自分たちがいる。
相馬が最後の処理を確認する。
「エリア51の地下区画は、現状維持。保管庫は短期安定化。変異位相格納庫は封印維持。外部領域接続試験区画には入らない。全データは三沢へ送信済み」
千田が頷く。
「撤収記録、保存」
麻生が読取台へ軽く頭を下げた。
「もう試さぬことですな」
康生はその言葉を聞いて、赤い部屋を見回した。
外部領域接続試験区画。
変異位相格納庫。
対侵入兵器保管庫。
試した者たちは、もういない。
だが、試したものは残っている。
記録も、サンプルも、兵器も、傷も。
そしてその傷の一つは、今も空の外側にあるかもしれない。
「行こう」
康生が言った。
アオイが頷く。
「はい」
一行は記録照合室を出る。
赤い誘導線に沿って、地下の斜路を上がる。
壁面の警告表示が後方へ流れていく。
隔壁が一枚ずつ閉じていく。
エリア51の地下は、再び封印されていく。
だが、完全には眠らない。
三沢が見ている。
北の監視者が、砂漠の地下も見張り始めた。
斜路の先から、青い光が差し込む。
外の空だった。
地上に出ると、砂漠の風が康生の顔を打った。
乾いた空気。
細かい砂。
熱で揺れる地平線。
白く乾いた湖底。
崩れた格納庫。
倒れた監視塔。
遠くの山。
空は、驚くほど青かった。
そこには何もないように見える。
雲も少ない。
鳥もいない。
飛行機雲もない。
ただ青い。
けれど、康生はもう知っている。
見えないだけで、ある。
三沢とエリア51を繋いだ監視網には、そこに傷が見えている。
七百年前に取り逃がしたSample-09かもしれないもの。
質量反応候補を伴う変異位相帯。
戻ってくる傷。
康生は空を見上げた。
「綺麗だな」
「はい」
アオイが隣で答える。
「でも、信用できない」
「はい」
「砂漠の空も、東京の地下も、三沢の雪も、見えるものだけじゃ足りないんだな」
「はい」
「面倒だな」
「必要です」
「だよな」
相馬が車両への搭乗を指示する。
高高度輸送機が待つ旧補助滑走路へ戻るため、車両が動き出す。
砂がタイヤの下で乾いた音を立てる。
後方に、エリア51の黒い入口が小さくなっていく。
康生は振り返らなかった。
振り返ると、あの鉄パイプのことを考えてしまいそうだった。
使えば消せる。
だから、考えない。
いや、考えたうえで使わない。
それが、三沢で学んだことだった。
車両の端末に、しらぬいから追加情報が入る。
――ハワイ近海中継巣、活動上昇。
――飛行型群、高度上昇継続。
――海棲大型、浮上反応増加。
――巣核周辺、電磁異常増大。
――中央航路、危険度上昇。
――帰路通過時、接触可能性高。
康生は表示を見た。
「接触可能性高」
「はい」
アオイが答える。
「往路より危険です」
「T-LANCEは」
「使用禁止です」
「分かってる。確認しただけ」
「確認しました」
「右手も」
「使用禁止です」
「だよな」
相馬が端末を見ながら言う。
「しらぬいと合流し、海上支援を最大化します。中継巣の活動域を直前まで監視し、抜けられる隙間を探す」
「隙間がなかったら?」
康生が聞く。
相馬はすぐには答えなかった。
その沈黙が、答えに近かった。
アオイが言う。
「その時に判断します。ただし、T-LANCEと右手の使用は判断候補から除外します」
「強いな」
「必要です」
麻生が穏やかに言う。
「使わぬと決めたものを、苦しい時ほど思い出すものです」
「もう思い出してます」
康生は正直に言った。
「はい」
アオイが答える。
「だから、見張ります」
車両は砂漠を走る。
エリア51は遠ざかる。
だが、そこで見たものは遠ざからない。
外部領域に触れた記録。
場所の傷を容器に入れた格納庫。
外宇宙へ流れたSample-09。
戻ってくるかもしれない空間位相傷。
ただの鉄パイプに見える禁忌兵器。
すべてを、三沢の眼へ繋いだ。
雪の下で開いた眼は、砂漠の記録を得て、ようやく空の傷の輪郭を捉え始めた。
だが、その輪郭は、人間が地上で扱える大きさを超えているかもしれない。
康生は、青い空から目を離した。
帰り道は海だ。
太平洋の上に、黒い巣が残っている。
往路では、倒さなかった。
見えないまま壊さなかった。
それは正しい判断だった。
だが今、その巣は活動を強めている。
端末の中で、ハワイ近海中継巣が黒く脈打つ。
海と空を繋ぐ黒い巣が、帰り道を塞ぎ始めていた。




