あなたが選ぶ未来
午前十一時四十七分。個室十七番。
神は緑茶のペットボトルを机に置いた。残量は底に残っているだけである。正確に何ミリリットルかは知らない。指で触ると冷たい。触らなくても冷たいのはわかっている。確認していないが、冷たい。
モニターを見ていた。正確には、見ているふりをしていた。住民データベースのサムネイル一覧。ミドリ村。黒曜城。王都。三つの四角い枠が並んでいる。「運営中」「医療施設×1」「転移者相談所・待機中」。
タスクバーの時計が十一時四十八分を示した。
彼は何もする気がなかった。しないものがないのだ。トーマスのステータス欄には「レベル:7042」が表示されている。昨日から変わっていない。いや、変わったのかもしれない。覚えていない。測っていない。測定する手段もない。ただし今日は、見ている。見ているからわかっている。あるいは、見ているふりをしている。
マウスを握った。絆創膏の端がめくれている。押し戻した。左クリックを押さなかった。押すものがない。「更新中」が消えるわけでもない。多分。あるいは消える。これも仕様である。
窓の外に目をやった。漫画喫茶の駐車場には、トラックが一台止まっている。ヘッドライトが消えている。誰もいない。昨日もいた。一昨日もいたかもしれない。明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもよい。
肘をついて目を閉じた。
三秒間。四秒間。五秒間。六秒間に、左の親指がマウスのホイールを一回転させた。意図はない。肘をつくときの重力だ。あるいはスナックの油だ。どちらでもよい。
画面に「天体更新中…」の三点が現れた。三秒周期で点滅する。昨日と同じだ。あるいは違う。測っていない。測定する手段もない。ただし今日は、消えない。四秒。五秒。六秒。七秒。八秒。「完了」にならない。
神は目を閉じたままだった。開いた。画面を見ていなかった。見ているふりもしていない。緑茶をもう一口飲んだ。底に沈んでいる茶葉が、舌に触れた。苦い。あるいは苦くない。確認していない。どちらでもよい。
蛍光灯が点滅した。一回だけ。二回目はまだ来ていない。三回目はもっと先だろう。四回目は来ない。これは仕様である。
午後六時十二分。ミドリ村。北斜面。
トーマスは小屋の縁側に座っていた。パンを食べている。麦の粉を混ぜたものだ。ハナが焼いた。あるいは、自分で焼いた。確認していない。どちらでもよい。
空を見た。
月は、四角い。
正確には、四角ではない。正方形に近い。ただし隅が少し丸い。半径二ミリ程度だろうか。あるいは三ミリ。測定する手段がない。ただし見ている。見ているからわかっている。昨日は円だった。一昨日も円だった。おそらく明後日も円だろう。今日だけ、違う。
トーマスはパンを噛んだ。咀嚼した。嚥下した。四秒七。五。六。止まる。もう一度。四秒七。五。六。止まる。
「……まあ」
呟いた。声は小さい。風で麦の穂が揺れる音に上回るほどではないが、ほぼ同じ音量だ。彼はパンをもう一片口に入れた。月は四角い。あるいは円いだ。確認していない。どちらでもよい。
足元の畝に、白い粉が浮かんでいる。麦の殻か、土の粉か、あるいはそれ以外の何かか。風で飛んできたのか、自分が踏んだのか、どちらでもよい。トーマスはそれを払い除け、小屋の中へ入った。
午後六時十五分。ミドリ村。南端。海辺り。
メルは砂の上に座っていた。九歳だ。あるいは十歳。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、数えている。指先で砂を押し込んでいる。押す。置く。四秒七。五。六。止まる。もう一度。四秒七。五。六。止まる。
空を見た。
月は四角い。昨日の月が丸かったことを、彼女は覚えている。覚えていないはずではない。昨日は丸かった。一昨日も丸かった。三日前も。四日前も。五日分を数えれば、丸だったことが確認できる。ただし六日前は覚えていない。七日前も。八日前はもっと曖昧だ。
海を見た。
海が、上がっている。
正確には、浮いている。海面が水平面から十五度傾き、先端が空へ向かっている。水が滴っている。あるいは、水滴が上がっている。確認できない。測定する手段もない。ただし見ている。見ているからわかっている。
魚が、空を泳いでいる。
三匹。四匹。五匹。六匹。七匹。八匹で止まる。毎晩同じ数かもしれない。あるいは違う。確認していない。ただし今日は、数えている。指先で砂を押し込む代わりに、数を押している。一。二。三。四。五。六。七。八。止まる。
「昨日の月、四角だったよ」
メルが言った。声は小さい。誰にも聞こえない。あるいは聞こえている。確認していない。どちらでもよい。ただし、言っている。言わなければ、明日には丸かったと思っているかもしれない。言っておく。言っておけば、覚えている。覚えているから、違うことがわかる。わかるから、怖い。怖いから、言う。
砂の上に座ったまま、彼女は空を見ていた。魚が泳いでいる。月は四角い。海は上がっている。すべてが、昨日と違う。すべてが、今日だけ、違う。
「……まあ、いいか」
呟いた。トーマスが同じことを言ったのと、完全に同じ調子で。ただし、今回は誰にも聞こえない。南端の砂の上にはメルしかいない。風が答える。二回。三回目は来ない。
午後九時四十分。個室十七番。
神は目を覚ました。肘をついたまま、六時間寝ていた。あるいは七時間。確認していない。測定する手段もない。タスクバーの時計が九時四十一分を示した。
モニターを見た。天体更新の三点が消えている。「完了」になっている。ただし「何の完了かは不明」の文字列がない。完了だ。それだけだ。
画面の右下に、小さな通知バッジが点いた。一つだけ。神はそれを見た。一秒間。二秒目に視線を外した。昨日より一瞬短い。あるいは同じだったかもしれない。測っていない。
「……まあ、いいか」
呟いた。声は出ないほど小さい。蛍光灯が点滅した。二回だけ。三回目は来ていない。四回目は来ない。
緑茶をもう一口飲んだ。底に沈んでいる茶葉が、舌に触れた。苦い。あるいは苦くない。確認していない。どちらでもよい。
窓の外に目をやった。漫画喫茶の駐車場には、トラックが一台止まっている。ヘッドライトが消えている。誰もいない。昨日もいた。一昨日もいたかもしれない。明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもよい。
彼はマウスの左クリックを押さなかった。押すものがない。天体更新は完了している。「完了」を消すには右クリックだが、右クリックした瞬間に「プロパティ」が開き、月の内部構造(核・マントル・地殻・表面の傷)が半透明のウィンドウで表示される。見たくない。あるいは見たい。確認していない。どちらでもよい。
世界暦一年一月七日。午前六時三分。ミドリ村。北斜面。
トーマスは畑に出ていた。菜種の種を押す前に、空を見た。
月は四角い。
彼は思った。「そうだ。昔からそうだったな」。
昨日は丸かった。一昨日も丸かった。三日前も丸かった。四日前も丸かった。五日分を数えれば、丸だったはずだ。ただし六日前は覚えていない。七日前も。八日前はもっと曖昧だ。おそらく、ずっと四角かったのだ。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、思っている。思っているから、そうなのだ。
「……まあ」
呟いた。声は小さい。風で麦の穂が揺れる音に上回るほどではないが、ほぼ同じ音量だ。彼は鍬を持ち直し、次の畝へ歩いた。足元の泥が一つ鳴る。二つ。三つ。四十三歳は歳のせいではないかもしれないが、そう思っている。
午前六時四分。ミドリ村。南端。海辺り。
メルは砂の上に座っていた。九歳だ。あるいは十歳。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、数えている。指先で砂を押し込んでいる。押す。置く。四秒七。五。六。止まる。もう一度。四秒七。五。六。止まる。
空を見た。
月は四角い。昨日の月が丸かったことを、彼女は覚えている。覚えていないはずではない。昨日は丸かった。一昨日も丸かった。三日前も。四日前も。五日分を数えれば、丸だったことが確認できる。ただし六日前は覚えていない。七日前も。八日前はもっと曖昧だ。
海を見た。
海が、上がっている。
正確には、浮いている。海面が水平面から十五度傾き、先端が空へ向かっている。水が滴っている。あるいは、水滴が上がっている。確認できない。測定する手段もない。ただし見ている。見ているからわかっている。
魚が、空を泳いでいる。三匹。四匹。五匹。六匹。七匹。八匹で止まる。
「昨日の月、四角だったよ」
メルが言った。声は小さい。誰にも聞こえない。あるいは聞こえている。確認していない。どちらでもよい。ただし、言っている。言わなければ、今日も丸かったと思っているかもしれない。言っておく。言っておけば、覚えている。覚えているから、違うことがわかる。わかるから、怖い。怖いから、言う。
砂の上に座ったまま、彼女は空を見ていた。魚が泳いでいる。月は四角い。海は上がっている。すべてが、昨日と違う。すべてが、今日だけ、違う。
ただし今日は、少し違う。月の表面に、傷がある。小さい。直径二ミリ程度だろうか。あるいは三ミリ。測定する手段がない。ただし見ている。見ているからわかっている。円形ではない。三角形に近い。ただし角が丸い。
メルはそれを指さした。指先が震えていない。震えているかもしれない。確認していない。
「……これ、昨日なかった」
呟いた。トーマスが同じことを言ったのと、完全に同じ調子で。ただし、今回は誰にも聞こえない。南端の砂の上にはメルしかいない。風が答える。二回。三回目は来ない。
午前九時十分。個室十七番。
神はモニターを見ていた。正確には、見ているふりをしていた。住民データベースのサムネイル一覧。ミドリ村。黒曜城。王都。三つの四角い枠が並んでいる。「運営中」「医療施設×1」「転移者相談所・待機中」。
天体欄を見た。月。状態:「更新済み」。表面:「傷×1(直径2.3mm / 形状:不等辺三角形 / 成因:未判定)」。
神はそれを見た。一秒間。二秒間に視線を外した。昨日より一瞬短い。あるいは同じだったかもしれない。測っていない。
「……まあ、いいか」
呟いた。声は出ないほど小さい。蛍光灯が点滅した。三回目である。一日に三回点滅する。四回目は点かない。今日も三回で終わった。明日も三回で終わるだろう。一昨日も三回だったかもしれない。覚えていない。測っていない。測定する手段もない。
緑茶をもう一口飲んだ。底に沈んでいる茶葉が、舌に触れた。苦い。あるいは苦くない。確認していない。どちらでもよい。
窓の外に目をやった。漫画喫茶の駐車場には、トラックが一台止まっている。ヘッドライトが消えている。誰もいない。昨日もいた。一昨日もいたかもしれない。明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもよい。
彼は緑茶のペットボトルを机に置いた。残量は底に残っているだけである。正確に何ミリリットルかは知らない。指で触ると冷たい。触らなくても冷たいのはわかっている。確認していないが、冷たい。
麦は蒔かれている。菜種はまだだ。トーマスは小屋でパンを食べている。あるいは、まだ泥の中に膝を突いたままかもしれない。メルは砂の上で空を見ている。あるいは、もう帰っている。どちらでもよい。
月は四角い。海は上がっている。魚は泳いでいる。傷は二ミリ三だ。すべてが、仕様である。
これは仕様である。
操作ログ(抜粋) 日付:世界暦 1/6 23:48:00 / 天体更新・月 / 形状:円→正方形(角半径2.1mm) / 原因:ホイール回転×1 / 意図判定:基準不存在 23:48:00 / 天体更新・海 / 傾き:0°→15.3° / 起因:同上 / 波及範囲:ミドリ村南端〜半径4km 23:48:01 / 生物再配置 / 対象:魚類×8 / 状態:水中→空中(浮遊) / 周期:確認中 23:49:22 / 表面欠損発生 / 対象:月 / 位置:北緯12°東経7° / 直径:2.3mm / 形状:不等辺三角形 / 成因:未判定 06:03:15 / 記憶同期処理 / 対象:ミドリ村・全住民(7,042名) / 内容:「月=四角」「海=傾斜」→初期記憶へ統合 / 例外:メル(南端・9歳)/ 統合率:98.7% 06:03:15 / 例外残留 / 対象:メル / 残存記憶:「昨日の月、四角だったよ」×2回 / 消去可能:未確認 (備考欄:空白。備考が書かれていない。)




