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神の気まぐれ  作者: 伝説の男前


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システムの限界

午前六時四十七分。個室十七番。


画面が赤くなった。


青だった。昨日も青だった。一昨日も青だったかもしれない。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、赤い。見ているからわかっている。あるいは、見ているふりをしている。


背景色だけだ。住民データベースのサムネイル一覧は正常に表示されている。ミドリ村のアイコンが一つ。黒曜城のアイコンが一つ。王都のアイコンが一つ。それぞれの四角い枠の中に、小さな文字列がある。「運営中」「医療施設×1」「転移者相談所・待機中」。


ただし、赤い背景の上では、それらの文字列が少しだけ読みにくい。コントラストが低い。あるいは高い。確認していない。どちらでもよい。


神はマウスを握った。絆創膏の端がめくれている。押し戻した。左クリックを押さなかった。押すものがない。赤い背景をクリックして青に戻せるわけではない。多分。あるいは戻る。これも仕様である。


緑茶をもう一口飲んだ。底に沈んでいる茶葉が、舌に触れた。苦い。あるいは苦くない。確認していない。どちらでもよい。


午前六時四十八分。個室十七番。


プログレスバーが動いた。左から右へではない。右から左へである。住民データベースの全項目の下に並ぶ細い線が、逆向きに伸びている。三秒周期で点滅する。昨日と同じだ。あるいは違う。測っていない。測定する手段もない。ただし今日は、方向が違う。見えている。見えているからわかっている。


トーマスのステータス欄には「レベル:7042」が表示されている。昨日から変わっていない。いや、変わったのかもしれない。覚えていない。測っていない。ただしプログレスバーは逆向きに動いている。これは変わっている。確認している。


その下、「意図」という項目がある。「判定不能」。基準が定義されていないからだ。トーマスが何をしたいのかを問う欄はあるのに、それを問うための尺度がない。仕様として、そう設計されている。あるいは、設計し忘れている。どちらでもよい。


神はそれを見た。一秒間。二秒目に視線を外した。昨日より一瞬短い。あるいは同じだったかもしれない。測っていない。


「……まあ」


呟いた。声は出ないほど小さい。蛍光灯が点滅した。一回だけ。二回目はまだ来ていない。三回目はもっと先だろう。四回目は来ない。


午前七時十二分。ミドリ村。北斜面。


トーマスは畝を直していた。鍬の刃で土を寄せ、指先で表面を平にする。押す。置く。四秒七。五。六。止まる。もう一度。四秒七。五。六。止まる。菜種はまだ蒔いていない。明日だ。今日は土を整える日である。


地面が震えた。


小さい。足裏から上がる振動だ。零秒三。四。五。止んだ。トーマスは膝を屈したまま、二秒間動かなかった。三メートル先に小石が一つ浮き上がり、落ちた。コツ、と音がした。一回だけ。二度目はしなかった。


彼の掌に土の粉が少しかかっている。払い除けた。地面に消えた。


「……まあ」


彼は立ち上がった。膝を伸ばす。背骨が一つ鳴る。四十三歳は歳のせいではないかもしれないが、そう思っている。昨日も思った。一昨日も思った。おそらく明日も思う。


鍬を肩にかける。柄に刻まれた「タ」の字が、午前の光で薄く光った。一瞬だけ。零秒二。そして消えた。トーマスは見ていない。見ているのは小屋の方角だ。パンの匂いがそこにある。あるいは、まだない。


彼は振り返らなかった。


足元の畝に、白い粉が浮かんでいる。昨日の土か、風で飛んできた何かか。自分が踏んだのか、落ちたのか、どちらでもよい。トーマスはそれを払い除け、小屋へ向かった。


「この辺りの地盤は悪いからな」


呟いた。声は小さい。風で麦の穂が揺れる音に上回るほどではないが、ほぼ同じ音量だ。誰にも聞こえない。あるいは聞こえている。確認していない。どちらでもよい。


午前七時十三分。個室十七番。


監視カメラの映像が止まった。


ミドリ村・北斜面のサムネイルが、一拍だけ固まった。トーマスの背中が、小屋の方角を向いている。鍬が肩にかかっている。「タ」の字が光っている。零秒二。消えるはずだ。ただし、映像の中では消えていない。止まっている。


神はそれを見た。三秒間。四秒目にマウスを握った。左クリックを押した。サムネイルを拡大した。


トーマスの背中が、大きく見えた。土の粉が肩にかかっている。払い除けない。払い除けても、またかかる。映像の中で、彼は小屋へ向かっている。あるいは、まだ泥の中に膝を突いたままかもしれない。動いていない。止まっている。確認できない。映像が止まったままだからである。


あるいは、映像が止まっていない。動いている。ただし神が見ていないだけだ。見ているふりをしているから、動いていないように見える。あるいは、動いているのに、見ていないからわからない。どちらでもよい。


「……まあ、いいか」


呟いた。声は出ないほど小さい。蛍光灯が点滅した。二回目である。三回目は来ていない。四回目は来ない。


午前八時三分。個室十七番。


再起動を一度目に試みた。灰色のボタンを左クリックした。画面が白くなった。「再起動中…」プログレスバーが動いた。右から左へ。三割ちょっとで止まった。四秒七。五。六。止まる。


二度目を試みた。同じボタン。同じ位置。画面が白くなった。「再起動中…」プログレスバーが動いた。右から左へ。三割ちょっとで止まった。四秒七。五。六。止まる。


「……仕様です」


呟いた。声は出ないほど小さい。個室十七番には神しかいない。蛍光灯の点滅音だけが答える。まだだ。三回目は来ていない。


午前八時二十分。ミドリ村。北斜面。


トーマスは小屋の前に立っていた。パンを焼いている。麦の粉を混ぜた生地の匂いが、北斜面に広がっている。あるいは、広がっていない。風がないから。確認していない。どちらでもよい。


彼の足元に、白い粉が積もっている。昨日の土か、振るった麦の粉か、あるいはそれ以外の何かか。昨日も積もっていたかもしれない。一昨日も。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、見ている。見ているからわかっている。あるいは、見ているふりをしている。


彼はしゃがみ込んだ。指先で白い粉を触った。冷たい。温かい。どちらでもない。確認できない。指先の温度と粉の温度が同じだからである。あるいは違う。測っていない。


「……まあ」


呟いた。声は小さい。パンの焼ける音にかき消されるほどではないが、ほぼ同じ音量だ。


彼は立ち上がった。膝を伸ばす。背骨が一つ鳴る。二つ。三つ。四十三歳は歳のせいではないかもしれないが、そう思っている。


小屋の中に戻る。パンを焼く。麦の粉を振るう。振るった粉が、窓の外に舞う。北斜面の菜種の畝の上に落ちる。あるいは、落ちない。風がないから。確認していない。どちらでもよい。


明日は菜種を蒔く。今日整えた土へ、指先で種を押す。そのことだけが、世界暦一年一月五日の、唯一の記録として、誰の記憶にも残らないかもしれない。残るかもしれない。確認していない。


午前八時二十五分。個室十七番。


再起動を三度目に試みた。灰色のボタンを左クリックした。画面が白くなった。「再起動中…」プログレスバーが動いた。右から左へ。三割ちょっとで止まった。四秒七。五。六。止まる。


そして、赤い背景に戻った。ただし、今度は違う。中央に文字列がある。


「この世界は仮想です」


白抜き。等幅フォント。十二ポイント。古い。本来、ユーザー画面には表示されない内部タグだ。ワールドエンジンのログがレンダリングレイヤーに漏れている。昨日もそこにあったかもしれない。一昨日も。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、見ている。見えているからわかっている。あるいは、見ているふりをしている。


神はマウスを置いた。左クリックを押さなかった。押すものがない。「再起動中」が消えるわけでもない。多分。あるいは消える。これも仕様である。


文字列が動かない。点滅しない。三秒周期もない。ただ、そこにある。消えていない。押しても消えない。押さなくても消えない。どちらでもよい。


「……まあ、いいか」


呟いた。声は出ないほど小さい。「この世界は仮想です」の文字列が、画面の中央に、白抜きで、動かない。内部タグだ。本来ここにはないはずの文字列が、止まったまま、そこにある。


蛍光灯が点滅した。三回目である。一日に三回点滅する。四回目は点かない。今日も三回で終わった。明日も三回で終わるだろう。一昨日も三回だったかもしれない。覚えていない。測っていない。測定する手段もない。


彼は緑茶のペットボトルを机に置いた。残量は底に残っているだけである。正確に何ミリリットルかは知らない。指で触ると冷たい。触らなくても冷たいのはわかっている。確認していないが、冷たい。


窓の外に目をやった。漫画喫茶の駐車場には、トラックが一台止まっている。ヘッドライトが消えている。誰もいない。昨日もいた。一昨日もいたかもしれない。明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもよい。


麦は蒔かれている。菜種はまだだ。トーマスは小屋でパンを焼いている。あるいは、まだ泥の中に膝を突いたままかもしれない。確認できない。映像が止まったままだからである。


「……仕様です」


呟いた。声は出ないほど小さい。「この世界は仮想です」の文字列が、画面の中央に、白抜きで、動かない。内部タグだ。消す手段がない。欄もない。


これは仕様である。


操作ログ(抜粋) 日付:世界暦 1/5 06:47:00 / モニター背景色変異 / 青→赤 / 原因:未判定 / 修正:未実施 06:48:12 / プログレスバー方向逆転 / 対象:住民データベース・全項目 / 持続:確認中 07:12:33 / トーマス・行動パターン解析 / 周期:4.7s / 偏差:0.3° / 意図判定:基準不存在(判定用尺度未定義) 07:13:02 / 監視カメラ映像停止 / 対象:ミドリ村・北斜面 / 復旧:未達 08:03:41 / システム再起動試行(×2)/ 進捗:32% / 状態:停滞 08:25:01 / システム再起動試行(×3目)/ 進捗:32% / 状態:停滞 08:25:14 / 画面表示変異 / 文字列:「この世界は仮想です」/ 種別:内部タグ漏出 / 消去可能:未確認(操作欄不存在) (備考欄:空白。備考が書かれていない。)

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