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世界暦一年一月四日。午前六時十分。黒曜城。北翼三階。給食所。
ヴェルザは立ち上がっていた。椅子を引いたあとだ。脚が一つ鳴る。二つ。止まる。彼は「歳のせいだ」と思わない。四十三歳ではない。三百七十二歳である。ただし、三百七十二年は歳のせいかもしれない。そう思っている。昨日も思った。一昨日も思った。おそらく明日も思う。
机の上に文書が三枚ある。開いてある。閉じていない。中身は同じだ。【食料配給・第742回 / 対象:黒曜城全域・隣接村×3 / 承認者:なし / 申請者:なし / 確認ダイアログ:無効】
三枚とも同じ文字列である。三枚目はコピーだ。あるいは原本だ。区別がない。区別があってもよい。どちらでもよい。
「魔王陛下」
イレーヌが文書を持ってきた。王都・魔法省バグ報告課からの回覧である。封がされている。開いていない。中身は読めていない。ただし、推測できる。昨日もそうだった。一昨日もそうだった。おそらく明日もそうだろう。
「……開け」
声は小さい。会議室の壁に届くほどではない。ゴウの包丁の音にかき消されるほどでもないが、ほぼ同じ音量だ。ゴウは根菜を切っている。三拍子。四拍子。五拍子。六拍子が来ない。五で止まる。毎朝同じだ。あるいは違う。確認していない。
イレーヌは文書を開いた。中身は一項目だけ。
【善悪タグ・現況照会】 対象:黒曜城 / 分類:悪(魔王)/ 更新日:世界暦0年12月31日 / 申請者:なし / 承認者:なし 備考:配給記録742件、医療無料提供記録589件。分類に変更影響なし。
ヴェルザは文書を見た。三秒間。四秒目に目を離した。指先が震えていない。震えているかもしれない。確認していない。
机に置いた。文書を閉じた。閉じなかった。開いたままだった。ただ、視線を外しただけだ。
「……何だと」
声は小さい。イレーヌの返答にかき消されるほどではない。だが、彼女は答えない。答えを持っていない。持っていても言いたくない。「分類に変更影響なし」という文字列が、彼女の喉の奥に引っかかっている。吐き出せない。飲み込めない。どちらでもよい。
ヴェルザは椅子に戻った。脚が一つ鳴る。止まる。彼は「歳のせいだ」と思わなかった。三百七十二年は歳のせいではないかもしれないが、そう思っている。昨日も思った。一昨日も思った。おそらく明日も思う。
「配給は?」
ゴウが包丁を止めた。根菜が半分残っている。切り終わっていない。切り終わらなくてもよい。どちらでもよい。
「三村分、揃いました」
「医療は?」
イレーヌが答えた。声は小さい。
「五八九件目です。今日も続くかと」
ヴェルザは反応しなかった。椅子に座ったまま、天井を見た。天井には何もない。シミがある。あるいはない。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、見ている。見ているからわかっている。あるいは、見ているふりをしている。
「……まあ」
呟いた。声は小さい。ゴウの包丁の音にかき消されるほどではないが、ほぼ同じ音量だ。彼は文書に視線を戻した。閉じたままだった。開いていた。ただ、見ていただけだ。
午前六時十五分。個室十七番。
神は画面を見ていた。正確には、見ているふりをしていた。
住民データベースのサムネイル一覧が表示されている。ミドリ村のアイコンが一つ。黒曜城のアイコンが一つ。王都のアイコンが一つ。それぞれの四角い枠の中に、小さな文字列がある。「運営中」「医療施設×1 / 配給:進行中」「転移者相談所・待機中」。
黒曜城の枠の下に、一字がある。「悪」。昨日もあった。一昨日もあった。おそらく明日もある。あるいはない。確認していない。削除線がない。追加線もない。ただ、そこにある。
タスクバーの時計が六時十六分を示した。
画面の右下に、小さな通知バッジが点いた。一つだけ。神はそれを見た。一秒間。二秒目に視線を外した。昨日より一瞬短い。あるいは同じだったかもしれない。測っていない。
「……まあ、いいか」
呟いた。声は出ないほど小さい。蛍光灯が点滅した。一回だけ。二回目はまだ来ていない。三回目はもっと先だろう。四回目は来ない。これは仕様である。
緑茶をもう一口飲んだ。底に沈んでいる茶葉が、舌に触れた。苦い。あるいは苦くない。確認していない。どちらでもよい。
窓の外に目をやった。漫画喫茶の駐車場には、トラックが一台止まっている。ヘッドライトが消えている。誰もいない。昨日もいた。一昨日もいたかもしれない。明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもよい。
午前六時二十分。黒曜城。北翼三階。給食所。
ゴウは配給台の前に立っていた。根菜を切った。切り終えた。板に並べた。三列。四列。五列。六列が来ない。五で止まる。毎朝同じだ。あるいは違う。確認していない。
窓の外に、列がある。長くない。短いでもない。確認していない。ただし、いる。人がいる。黒曜城の住民である。王都の住民ではない。魔王国の住民である。分類欄では「悪(魔王)配下」だが、ゴウはそれを気にしない。気にしてもよい。どちらでもよい。
「……腹は誰でも減る」
呟いた。声は小さい。列の先頭にいる老人が聞こえたかどうかは、確認していない。どちらでもよい。
ヴェルザは机から立ち上がった。椅子を引いた。脚が一つ鳴る。止まる。彼は給食所へ歩いた。足元の床が一つ鳴る。二つ。三つ。四つ。五つ。六つ。三百七十二歳ではないかもしれない。そう思っている。昨日も思った。一昨日も思った。おそらく明日も思う。
列の先頭まで、八メートルを歩いた。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、止まったことを知っている。列の最後尾で止まった。老人がいた。手袋をしている。指先が震えている。震えていないかもしれない。確認していない。
「……いただきます」
老人が言った。声は小さい。ゴウの包丁の音にかき消されるほどではないが、ほぼ同じ音量だ。
ヴェルザは反応しなかった。列の後ろに立った。前にも立たない。後ろにいる。常に後ろにいる。三百七十二年間、そうだった。あるいは違う。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、立っている。立っているからわかっている。あるいは、立っているふりをしている。
「魔王陛下」
イレーヌが呼んだ。彼は一歩だけ足を止めた。振り返らない。
「王都から、記録の照会です」
ヴェルザは歩き続けた。列の最後尾で立った。老人の手袋が、彼の袖に触れた。零秒三。四。五。離れる。彼は見ていない。見ているのは配給台の方角だ。ゴウが根菜を切っている。三拍子。四拍子。五拍子。六拍子が来ない。
「……記録は」
声は小さい。風で外壁の布が揺れる音に上回るほどではないが、ほぼ同じ音量だ。
「『悪(魔王)配下・食料配給』と記載されています」
ヴェルザは反応しなかった。列の最後尾で立った。老人が去った。次の者が来る。あるいは来ない。確認していない。どちらでもよい。
「……仕様ですな」
呟いた。声は小さい。イレーヌは聞こえた。あるいは聞こえなかった。意味がわかった。わからなかった。どちらでもよい。
午前六時二十五分。個室十七番。
神はマウスを握った。絆創膏の端がめくれている。押し戻した。左クリックを押さなかった。押すものがない。「更新中」が消えるわけでもない。多分。あるいは消える。これも仕様である。
黒曜城のアイコンを見た。枠の下に**「悪」**がある。配給記録742件。医療無料提供589件。分類に変更影響なし。
彼はそれを見た。一秒間。二秒目に視線を外した。昨日より一瞬短い。あるいは同じだったかもしれない。測っていない。
緑茶をもう一口飲んだ。底に沈んでいる茶葉が、舌に触れた。苦い。あるいは苦くない。確認していない。どちらでもよい。
「……まあ、いいか」
呟いた。声は出ないほど小さい。蛍光灯が点滅した。二回だけ。三回目は来ていない。四回目は来ない。
麦は蒔かれている。菜種はまだだ。トーマスは小屋でパンを食べている。あるいは、まだ泥の中に膝を突いたままかもしれない。確認できない。映像が止まったままだからである。
あるいは、映像が止まっていない。動いている。ただし神が見ていないだけだ。見ているふりをしているから、動いていないように見える。あるいは、動いているのに、見ていないからわからない。どちらでもよい。
彼は緑茶のペットボトルを机に置いた。残量は底に残っているだけである。正確に何ミリリットルかは知らない。指で触ると冷たい。触らなくても冷たいのはわかっている。確認していないが、冷たい。
窓の外に目をやった。漫画喫茶の駐車場には、トラックが一台止まっている。ヘッドライトが消えている。誰もいない。昨日もいた。一昨日もいたかもしれない。明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもよい。
午前七時十分。黒曜城。北翼三階。給食所。
ゴウは包丁を置いた。根菜が切れている。切り終わっている。板に並べている。五列で止まっている。六列がない。毎朝同じだ。あるいは違う。確認していない。
「魔王陛下」
イレーヌが文書を持ってきた。王都・勇者職業安定所からの回覧である。封がされている。開いていない。中身は読めていない。ただし、推測できる。昨日もそうだった。一昨日もそうだった。おそらく明日もそうだろう。
「……開け」
ヴェルザの声は小さい。イレーヌの返答にかき消されるほどではない。だが、彼女は開いた。
【役割照会】 対象:黒曜城・支配者 / 分類:悪(魔王)/ 職能:配給・医療・食料生産 / 備考:「勇者」欄は空白
ヴェルザは文書を見た。三秒間。四秒目に目を離した。「勇者」欄が空白であることを見ていた。見ていなかったかもしれない。確認していない。ただし、見ている。見ているからわかっている。あるいは、見ているふりをしている。
机に置いた。文書を閉じた。閉じなかった。開いたままだった。ただ、視線を外しただけだ。
「……何だと」
声は小さい。ゴウの包丁の音にかき消されるほどではないが、ほぼ同じ音量だ。ゴウは包丁を拾い直した。根菜がない。ないのに、切っている。あるいは切っていない。確認していない。どちらでもよい。
ヴェルザは椅子に戻った。脚が一つ鳴る。止まる。彼は「歳のせいだ」と思わなかった。三百七十二年は歳のせいではないかもしれないが、そう思っている。昨日も思った。一昨日も思った。おそらく明日も思う。
「世界征服より」
呟いた。声は小さい。イレーヌの返答にかき消されるほどではないが、ほぼ同じ音量だ。
「……まず会議を終わらせろ」
ゴウが包丁を置いた。根菜がないのに、板の上に指を置いている。指先が震えていない。震えているかもしれない。確認していない。どちらでもよい。
午前七時十五分。個室十七番。
神は画面を見ていた。正確には、見ているふりをしていた。
黒曜城のアイコン。枠の下に**「悪」**がある。配給記録742件。医療無料提供589件。「勇者」欄:空白。分類に変更影響なし。
彼はそれを見た。一秒間。二秒目に視線を外した。昨日より一瞬短い。あるいは同じだったかもしれない。測っていない。
マウスを置いた。左クリックを押さなかった。押すものがない。「更新中」が消えるわけでもない。多分。あるいは消える。これも仕様である。
蛍光灯が点滅した。三回目である。一日に三回点滅する。四回目は点かない。今日も三回で終わった。明日も三回で終わるだろう。一昨日も三回だったかもしれない。覚えていない。測っていない。測定する手段もない。
「……まあ、いいか」
呟いた。声は出ないほど小さい。「悪(魔王)配下・食料配給」の文字列が、画面の左側に、灰色で、動かない。
麦は蒔かれている。菜種はまだだ。トーマスは畑で菜種の種を指先で押し込んでいる。あるいは、もう止まっている。あるいは、まだ泥の中に膝を突いたままかもしれない。確認できない。映像が止まったままだからである。
あるいは、映像が止まっていない。動いている。ただし神が見ていないだけだ。見ているふりをしているから、動いていないように見える。あるいは、動いているのに、見ていないからわからない。どちらでもよい。
彼は緑茶のペットボトルを机に置いた。残量は底に残っているだけである。正確に何ミリリットルかは知らない。指で触ると冷たい。触らなくても冷たいのはわかっている。確認していないが、冷たい。
窓の外に目をやった。漫画喫茶の駐車場には、トラックが一台止まっている。ヘッドライトが消えている。誰もいない。昨日もいた。一昨日もいたかもしれない。明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもよい。
「……仕様です」
呟いた。声は出ないほど小さい。「悪(魔王)配下・食料配給」の文字列が、画面の左側に、灰色で、動かない。
これは仕様である。
操作ログ(抜粋) 日付:世界暦 1/4 06:12:00 / 黒曜城・配給記録更新 / 件数:742 / 分類変更:なし / 確認ダイアログ:無効 06:15:33 / 住民データベース・参照 / 対象:黒曜城全域 / ステータス:運営中 / 備考:空白 06:28:17 / 医療無料提供記録更新 / 件数:589 / 分類変更:なし / 確認ダイアログ:無効 07:15:44 / 勇者職業安定所・照会受信 / 対象:黒曜城・支配者 / 「勇者」欄:空白 / 処理:未実施 (備考欄:空白。備考が書かれていない。)
世界暦一年一月四日。午後十一時五十九分。黒曜城。北翼三階。給食所。
ゴウは包丁を置いた。根菜がない。ないのに、板の上に指を置いている。指先が震えていない。震えているかもしれない。確認していない。どちらでもよい。
窓の外に、列がない。短いでもない。ない。ただし、昨日もなかった。一昨日もなかったかもしれない。明日もないかもしれない。あるかもしれない。どちらでもよい。
「……腹は誰でも減る」
呟いた。声は小さい。風で外壁の布が揺れる音に上回るほどではないが、ほぼ同じ音量だ。誰にも聞こえない。あるいは聞こえている。確認していない。どちらでもよい。
ヴェルザは机から立ち上がらなかった。椅子に座っている。天井を見ている。天井にはシミがある。あるいはない。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、見ている。見ているからわかっている。あるいは、見ているふりをしている。
「……まあ」
呟いた。声は小さい。ゴウの包丁の音にかき消されるほどではないが、ほぼ同じ音量だ。彼は文書に視線を戻した。閉じたままだった。開いていた。ただ、見ていただけだ。
明日も配給がある。医療もある。五九〇件目になる。あるいは五八九件のままだ。確認していない。測定する手段もない。ただし、ある。あるからわかっている。あるいは、あるふりをしている。
分類欄には**「悪」**がある。昨日もあった。一昨日もあった。おそらく明日もある。あるいはない。確認していない。削除線がない。追加線もない。ただ、そこにある。
これは仕様である。
利用明細(抜粋) 日付:世界暦 1/4 項目:監視時間……24h 項目:操作回数……0 項目:住民経過時間……黒曜城 3,217名 × 8h / ミドリ村 7,042名 × 8h / 王都 12,894名 × 8h = 186,592h 合計料金:……………
(金額欄は空白。計算式が埋め込まれていない。)




