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神の気まぐれ  作者: 伝説の男前


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2/14

畑を救う最強農民

午前六時四十分。ミドリ村。北斜面。


風が吹いた。麦の穂が倒れる。起き上がる。また倒れる。三回目で止まった。


トーマスは小屋の前に立っていた。鍬を肩にかけている。柄に刻まれた「タ」の字が、朝の光で薄く光った。一瞬だけ。零秒二。そして消えた。トーマスは見ていない。見ているのは畑の方角だ。麦が倒れている。起き上がっている。どちらでもよい。


「……まあ」


彼は小屋から出た。足元の泥が一つ鳴る。二つ。三つ。四十三歳は歳のせいではないかもしれないが、そう思っている。昨日も思った。一昨日も思った。おそらく明日も思う。


北斜面の六本目の畝に近づいたところで、止まった。


麦がない。


正確には、麦が倒れているのではない。麦が、ない。三メートル四方の範囲で、地面から二十センチまで根ごと引き抜かれている。土が剥き出しだ。白い。昨日は白くなかった。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、見ている。見ているからわかっている。


トーマスは膝を屈した。地面を見た。根が折れている。ではない。根が、切れている。断面が平らだ。虫の歯ではない。刃でもない。ただ、切れている。誰が切ったのかはわからない。確認していない。測定する手段もない。


「……仕様か」


呟いた。声は小さい。風で麦の穂が揺れる音に上回るほどではないが、ほぼ同じ音量だ。ハナが聞こえたかどうかは、確認していない。どちらでもよい。


彼は立ち上がった。膝を伸ばす。背骨が一つ鳴る。鍬を肩から外した。柄を地面に突き刺した。「タ」の字が、朝の光でまた薄く光った。零秒二。消えた。トーマスは見ていない。


六本目の畝の向こう側から、音がしている。


低い。地鳴りではない。脚が地面を叩く音だ。四本。あるいは八本。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、見ている。


麦の穂の間から、黒い脚が一本、二本、三本と現れた。


虫である。


大きさはわからない。トーマスは測っていない。測定する手段もない。ただし見ている。見ているからわかっている。小屋より大きい。あるいは小さい。確認していない。どちらでもよい。ただし、麦の畝を踏んでいる。踏んだ跡が、三メートル先まで残っている。一歩で三メートル。トーマスの一歩は七十センチだ。計算しているわけではない。確認していない。


虫の目が、六本目の畝を見ている。見ているのではない。向かっている。方向性がある。麦を食べている。あるいは食べようとしている。確認していない。どちらでもよい。


「……まあ」


トーマスが言った。声は小さい。虫の脚が地面を叩く音にかき消されるほどではないが、ほぼ同じ音量だ。彼は鍬を持ち直した。柄に手をかけた。「タ」の字が光った。零秒二。消えた。トーマスは見ていない。見ているのは虫の方角だ。


午前六時四十二分。個室十七番。


神は画面を見ていた。正確には、見ているふりをしていた。


住民データベースのサムネイル一覧が表示されている。ミドリ村のアイコンが一つ。黒曜城のアイコンが一つ。王都のアイコンが一つ。それぞれの四角い枠の中に、小さな文字列がある。「運営中」「医療施設×1」「転移者相談所・待機中」。


トーマスのステータス欄には「レベル:7042」が表示されている。昨日から変わっていない。いや、変わったのかもしれない。覚えていない。測っていない。測定する手段もない。ただし今日は、見ている。見ているからわかっている。あるいは、見ているふりをしている。


タスクバーの時計が六時四十三分を示した。


画面の右下に、小さな通知バッジが点いた。一つだけ。神はそれを見た。一秒間。二秒目に視線を外した。昨日より一瞬短い。あるいは同じだったかもしれない。測っていない。


緑茶をもう一口飲んだ。底に沈んでいる茶葉が、舌に触れた。苦い。あるいは苦くない。確認していない。どちらでもよい。


窓の外に目をやった。漫画喫茶の駐車場には、トラックが一台止まっている。ヘッドライトが消えている。誰もいない。昨日もいた。一昨日もいたかもしれない。明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもよい。


「……まあ、いいか」


呟いた。声は出ないほど小さい。蛍光灯が点滅した。一回だけ。二回目はまだ来ていない。三回目はもっと先だろう。四回目は来ない。これは仕様である。


午前六時四十四分。ミドリ村。北斜面。


虫は麦の畝の中央にいた。トーマスの小屋から、十五メートル。あるいは二十メートル。確認していない。測定する手段もない。ただし見ている。


脚が地面を叩いている。一拍。二拍。三拍。四拍。五拍。六拍が来ない。五で止まる。毎朝同じだ。あるいは違う。確認していない。


虫の腹が、麦の穂を押し下げている。倒れた麦が、虫の脚に絡みついている。虫はそれを払っている。あるいは払っていない。確認していない。どちらでもよい。


トーマスは十五メートルの距離を歩いた。足元の泥が一つ鳴る。二つ。三つ。四つ。五つ。六つ。七つ。八つ。九つ。十つ。十一歳ではない。四十三歳だ。歳のせいかもしれない。そう思っている。昨日も思った。一昨日も思った。おそらく明日も思う。


十五メートルを、十二秒で歩いた。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、止まったことを知っている。三メートル先で止まった。虫の脚が、地面を叩く直前だった。一拍が来る寸前。トーマスは鍬を構えた。


柄に手をかけた。「タ」の字が光った。零秒二。消えた。トーマスは見ていない。見ているのは虫の目だ。黒い。丸い。確認していない。どちらでもよい。ただし、向かっている。自分の方角に。


「……まあ」


呟いた。声は小さい。虫の脚が地面を叩く音にかき消されるほどではないが、ほぼ同じ音量だ。


鍬を振った。


午前六時四十四分。個室十七番。


画面に、小さな点滅があった。一回だけ。住民データベース・ミドリ村のサムネイルが、一拍だけ明るくなった。二秒。三秒。そして元に戻った。


神はそれを見ていた。一秒間。二秒目に視線を外した。昨日より一瞬短い。あるいは同じだったかもしれない。測っていない。


「……まあ、いいか」


呟いた。声は出ないほど小さい。蛍光灯が点滅した。二回だけ。三回目は来ていない。四回目は来ない。


緑茶のペットボトルを机に置いた。残量は底に残っているだけである。正確に何ミリリットルかは知らない。指で触ると冷たい。触らなくても冷たいのはわかっている。確認していないが、冷たい。


午前六時四十五分。ミドリ村。北斜面。


虫がいない。


正確には、虫が倒れている。三メートル先の地面に、横たわっている。脚が動いていない。一拍も二拍も三拍も来ない。五で止まっていた拍子が、ゼロで止まっている。


腹が割れている。麦の穂が、内側から外へ突き出ている。あるいは、外側から内へ押し込まれていた。確認していない。測定する手段もない。ただし見ている。見ているからわかっている。


トーマスは鍬を地面に突き刺したまま、三秒間動かなかった。四秒目に膝を伸ばした。背骨が一つ鳴る。二つ。三つ。彼は「歳のせいだ」と思う。四十三歳は歳のせいではないかもしれないが、そう思している。昨日も思った。一昨日も思った。おそらく明日も思う。


掌に、麦の殻が一枚かかっている。払い除けた。地面に消えた。


「……まあ」


立ち上がった。鍬を肩にかける。「タ」の字が、朝の光で薄く光った。零秒二。そして消えた。トーマスは見ていない。見ているのは小屋の方角だ。朝食の匂いがそこにある。あるいは、まだない。


彼は振り返らなかった。


足元の畝に、白い粉が浮かんでいる。麦の殻か、土の粉か、虫の鱗粉か、あるいはそれ以外の何かか。風で飛んできたのか、自分が踏んだのか、どちらでもよい。トーマスはそれを払い除け、小屋へ向かった。


「この辺りの地盤は悪いからな」


呟いた。声は小さい。風で麦の穂が揺れる音に上回るほどではないが、ほぼ同じ音量だ。ハナが聞こえたかどうかは、確認していない。どちらでもよい。


午前六時四十八分。ミドリ村。小屋前。


ハナは薬棚の前に立っていた。手元に、根菜の束がある。切っている。包丁が板の上で鳴る。三拍子。四拍子。五拍子。六拍子が来ない。五で止まる。毎朝同じだ。あるいは違う。確認していない。


トーマスが小屋の扉から出た。鍬を肩にかけている。掌に泥がある。昨日の泥か、今朝の泥か。どちらでもよい。


「……虫やった」


ハナが言った。包丁を止めた。根菜が半分残っている。切り終わっていない。切り終わらなくてもよい。どちらでもよい。


「北斜面。麦の畝。三メートル四方。根ごと抜かれてた」


トーマスは反応しなかった。小屋から出たまま、次の畝を見ていた。麦の殻が彼の肩にかかっている。払い除けない。払い除けても、またかかる。


「……まあ」


トーマスが答えた。声は小さい。風で麦の穂が揺れる音に上回るほどではないが、ほぼ同じ音量だ。彼は鍬を持ち直し、次の畝へ歩いた。足元の泥が一つ鳴る。二つ。三つ。四十三歳は歳のせいではないかもしれないが、そう思っている。


「トーマス」


ハナが後ろから呼んだ。彼は一歩だけ足を止めた。振り返らない。


「虫、倒したんやろ」


トーマスは歩き続けた。麦の殻を肩から払った。一片だけ落ちた。地面に消えた。


「……仕様ですな」


彼は呟いた。ハナは聞こえなかった。あるいは聞こえても、意味がわからなかった。どちらでもよい。


午前六時五十分。ミドリ村。北斜面。


虫の死骸が、まだ三メートル先に横たわっている。誰も触っていない。ハナは薬棚の前で根菜を切っている。ゴウではない。トーマスだけだ。この村にはトーマスしかいない。あるいはいる。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、見ている。


死骸の腹から、麦の穂が突き出している。一本。二本。三本。四本。五本。六本が来ない。五で止まる。毎朝同じだ。あるいは違う。確認していない。


トーマスは六本目の畝に菜種の種を押していた。指先で土を押し込む。押す。置く。四秒七。五。六。止まる。もう一度。四秒七。五。六。止まる。


地面が震えた。


小さい。足裏から上がる振動だ。零秒三。四。五。止んだ。トーマスは膝を屈したまま、二秒間動かなかった。三メートル先に小石が一つ浮き上がり、落ちた。コツ、と音がした。一回だけ。二度目はしなかった。


彼の掌に菜種の殻が一枚かかっている。払い除けた。地面に消えた。


「……まあ」


彼は立ち上がった。膝を伸ばす。背骨が一つ鳴る。四十三歳は歳のせいではないかもしれないが、そう思っている。昨日も思った。一昨日も思った。おそらく明日も思う。


鍬を肩にかける。柄に刻まれた「タ」の字が、朝の光で薄く光った。一瞬だけ。零秒二。そして消えた。トーマスは見ていない。見ているのは小屋の方角だ。朝食の匂いがそこにある。あるいは、まだない。


彼は振り返らなかった。


午前七時十分。個室十七番。


神は画面を見ていた。正確には、見ているふりをしていた。


住民データベース・ミドリ村のサムネイルに、小さな文字列が追加されていた。「異常事象:1件 / 対応:完了 / 詳細:未確認」。三秒周期で点滅している。昨日と同じだ。あるいは違う。測っていない。測定する手段もない。ただし今日は、見ている。


タスクバーの時計が七時十一分を示した。


画面の右下に、小さな通知バッジが点いた。一つだけ。神はそれを見た。一秒間。二秒目に視線を外した。昨日より一瞬短い。あるいは同じだったかもしれない。測っていない。


「……まあ、いいか」


呟いた。声は出ないほど小さい。蛍光灯が点滅した。二回だけ。三回目は来ていない。四回目は来ない。


緑茶のペットボトルを机に置いた。残量は底に残っているだけである。正確に何ミリリットルかは知らない。指で触ると冷たい。触らなくても冷たいのはわかっている。確認していないが、冷たい。


窓の外に目をやった。漫画喫茶の駐車場には、トラックが一台止まっている。ヘッドライトが消えている。誰もいない。昨日もいた。一昨日もいたかもしれない。明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもよい。


「……仕様です」


呟いた。声は出ないほど小さい。蛍光灯の点滅音だけが答える。二回。三回目は来ない。四回目は来ない。


麦は蒔かれている。菜種はまだだ。トーマスは小屋でパンを食べている。あるいは、まだ泥の中に膝を突いたままかもしれない。どちらでもよい。


彼は緑茶のペットボトルを机に置いた。残量は底に残っているだけである。正確に何ミリリットルかは知らない。指で触ると冷たい。触らなくても冷たいのはわかっている。確認していないが、冷たい。


これは仕様である。


操作ログ(抜粋) 日付:世界暦 1/2 06:44:00 / ミドリ村・北斜面 / 異常事象検知 / 対象:大型生物×1 / サイズ:未計測 / 行動:麦畝侵入中 06:44:31 / 住民行動記録 / 対象:トーマス / 行為:鍬振動 / 拍子:1 / 偏差:基準不存在 06:44:32 / 大型生物・状態変化 / 進行中→静止 / 持続:確認中 / 原因:未判定 06:45:00 / 異常事象 / 対応:完了 / 詳細:未確認 07:10:22 / ミドリ村・北斜面 / 微振動検知 / 持続:0.5s / 対象:小石×1 / 浮上→落下 (備考欄:空白。備考が書かれていない。)


午後三時。ミドリ村。小屋前。


ハナは薬棚を片付けていた。四分の一になった。根菜の束を板の上に置いている。切り終わっていない。切り終わらなくてもよい。どちらでもよい。


トーマスは畑にいた。六本目の畝に菜種の種を押している。指先で土を押し込む。押す。置く。四秒七。五。六。止まる。もう一度。四秒七。五。六。止まる。


虫の死骸は、まだ三メートル先に横たわっている。誰も触っていない。風が吹くと、腹から突き出ている麦の穂が揺れる。一本。二本。三本。四本。五本。六本が来ない。五で止まる。毎朝同じだ。あるいは違う。確認していない。


トーマスは振り返らなかった。


鍬を肩にかける。柄に刻まれた「タ」の字が、午後の光で薄く光った。一瞬だけ。零秒二。そして消えた。トーマスは見ていない。見ているのは小屋の方角だ。夕食の匂いがそこにある。あるいは、まだない。


彼は歩き続けた。足元の泥が一つ鳴る。二つ。三つ。四十三歳は歳のせいではないかもしれないが、そう思っている。昨日も思った。一昨日も思った。おそらく明日も思う。


「……まあ」


呟いた。声は小さい。風で麦の穂が揺れる音に上回るほどではないが、ほぼ同じ音量だ。誰にも聞こえない。あるいは聞こえている。確認していない。どちらでもよい。


明日は菜種を蒔く。


そのことだけが、世界暦一年一月二日の、唯一の記録として、トーマスの記憶に残った。神の操作ログには残っていない。備考欄は空白だ。備考が書かれていない。


利用明細(抜粋) 日付:世界暦 1/2 項目:監視時間……24h 項目:操作回数……0 項目:住民経過時間……7,042名 × 8h = 56,336h 項目:異常事象……1件(対応完了 / 詳細未確認) 合計料金:……………


(金額欄は空白。計算式が埋め込まれていない。)

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