四角い月と海の秘密
世界暦一年一月十三日。午前五時四十一分。ミドリ村。北斜面。
トーマスは鍬を握っていた。柄に刻まれた「タ」の字が、未明の光で薄く光った。一瞬だけ。零秒二。そして消えた。トーマスは見ていない。見ているのは空だ。
月は四角い。
彼は思った。「そうだ。昔からそうだったな」。
昨日は丸かった。一昨日も丸かった。三日前も丸かった。ただし、それ以上前は覚えていない。六日前は曖昧だ。七日前も。八日前はもっとぼやけている。おそらく、ずっと四角かったのだ。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、思っている。思っているから、そうなのだ。
あるいは、そうではない。
鍬を地面に突き刺したまま、彼は空を見ていた。三秒間。四秒目に視線を外した。昨日より一瞬短い。あるいは同じだったかもしれない。測っていない。
「……まあ」
呟いた。声は小さい。風で麦の穂が揺れる音に上回るほどではないが、ほぼ同じ音量だ。彼は鍬を持ち直し、三本目の畝へ歩いた。足元の泥が一つ鳴る。二つ。三つ。四十三歳は歳のせいではないかもしれないが、そう思っている。昨日も思った。一昨日も思った。おそらく明日も思う。
午前五時四十二分。個室十七番。
神は画面を見ていた。正確には、見ているふりをしていた。
天体更新ログの最終行に、七日前の日付が残っている。[1/6] 月・形状パラメータ / 円 → 正方形 / 適用:全地域 / 完了。その下には何も書かれていない。備考欄は空白である。備考が書かれていない。
トーマスのサムネイルが、住民データベースの中で小さく光っている。「ミドリ村・北斜面」。ステータス欄の三点はまだ点滅している。三秒周期。消えない。昨日から変わっていない。いや、変わったのかもしれない。覚えていない。測っていない。測定する手段もない。
タスクバーの時計が五時四十三分を示した。
画面の右下に、小さな通知バッジが一つ点いている。星:1/5。投稿者は不明。内容は「昨日の月は丸だったよ」。神はそれを見た。一秒間。二秒目に視線を外した。昨日より一瞬短い。あるいは同じだったかもしれない。測っていない。
マウスを握った。絆創膏の端がめくれている。押し戻さなかった。左クリックを押さなかった。押すものがない。通知を閉じるには右クリックだが、右クリックした瞬間に「プロパティ」が開き、投稿者の内部構造(骨格・魔力回路・隠された記憶)が半透明のウィンドウで表示される。見たくない。あるいは見たい。確認していない。どちらでもよい。
蛍光灯が点滅した。一回だけ。二回目はまだ来ていない。三回目はもっと先だろう。四回目は来ない。これは仕様である。
「……まあ、いいか」
呟いた。声は出ないほど小さい。緑茶のペットボトルを机に置いた。残量は底に残っているだけである。正確に何ミリリットルかは知らない。指で触ると冷たい。触らなくても冷たいのはわかっている。確認していないが、冷たい。
窓の外に目をやった。漫画喫茶の駐車場には、トラックが一台止まっている。ヘッドライトが消えている。誰もいない。昨日もいた。一昨日もいたかもしれない。明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもよい。
午前六時七分。ミドリ村。南端。海辺り。
メルは砂の上に座っていた。九歳だ。あるいは十歳。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、数えている。
指先で砂を押し込んでいる。押す。置く。四秒七。五。六。止まる。もう一度。四秒七。五。六。止まる。三回目で止めた。四回目は来ない。これは仕様である。あるいは、仕様ではない。確認していない。
砂の上に指で線を引いた。一本。二本。三本。四本で止まった。五本目は引かなかった。引きたかったが、引かなかった。理由はわからない。ただ、そうしなかった。
空を見た。
月は四角い。
昨日の月が丸だったことを、彼女は覚えている。覚えていないはずではない。昨日は丸かった。一昨日も丸かった。三日前も。四日前も。五日分を数えれば、丸だったことが確認できる。ただし六日前は覚えていない。七日前も。八日前はもっと曖昧だ。
海を見た。
海が、上がっている。
正確には、浮いている。海面が水平面から十五度傾き、先端が空へ向かっている。水が滴っている。あるいは、水滴が上がっている。確認できない。測定する手段もない。ただし見ている。見ているからわかっている。
魚が、空を泳いでいる。三匹。四匹。五匹。六匹で止まる。七匹目は来ない。今日も六匹だ。昨日も六匹だったかもしれない。一昨日も六匹だったのかもしれない。数えていない。ただし今日は、数えている。
「昨日の月は丸だったよね」
メルが言った。声は小さい。誰にも聞こえない。あるいは聞こえている。確認していない。どちらでもよい。ただし、言っている。言わなければ、今日も丸かったと思っているかもしれない。言っておく。言っておけば、覚えている。覚えているから、違うことがわかる。わかるから、怖い。怖いから、言う。
砂の上に座ったまま、彼女は空を見ていた。魚が泳いでいる。月は四角い。海は十五度傾いている。三つとも、同時に起きている。あるいは、順番があるかもしれない。確認していない。測定する手段もない。
指先で砂をもう一度押した。四秒七。五。六。止まる。
「……まあ、いいか」
呟いた。トーマスが同じことを言ったのと、完全に同じ調子で。ただし、今回は九歳である。歳のせいかもしれない。そう思っている。昨日も思った。一昨日も思った。おそらく明日も思う。
午前六時十二分。ミドリ村。北斜面。
トーマスは作業を中断していた。
五本目の畝の途中だ。菜種の種が指先にかかっている。押していない。置いてもいない。ただ、握っている。地面を見ていた。見ているふりをしていた。正確には、空を見ている。
月は四角い。昨日は丸かった。あるいは、丸くなかった。六日前は覚えていない。七日前も。八日前はもっとぼやけている。確認できない。測定する手段もない。ただし、今ここにある。今ここにあるから、そうなのだ。あるいは、そうでない。
鍬を肩にかける。柄に刻まれた「タ」の字が、朝の光で薄く光った。一瞬だけ。零秒二。そして消えた。トーマスは見ていない。見ているのは空だ。魚が泳いでいる。三匹。四匹。五匹。六匹で止まる。
「……まあ、いいか」
呟いた。声は小さい。風で麦の穂が揺れる音に上回るほどではないが、ほぼ同じ音量だ。誰にも聞こえない。あるいは聞こえている。確認していない。どちらでもよい。
足元の畝に、白い粉が浮かんでいる。菜種の殻か、土の粉か、あるいはそれ以外の何かか。風で飛んできたのか、自分が踏んだのか、どちらでもよい。トーマスはそれを払い除けなかった。今日は払い除げない。理由はわからない。ただ、そうしなかった。
小屋の方角を見た。パンの匂いがそこにある。あるいは、まだない。確認していない。どちらでもよい。
彼は振り返らなかった。
午前六時十五分。個室十七番。
神は画面を見ていた。正確には、見ているふりをしていた。
天体更新ログにカーソルが乗っている。ホバーした。一拍だけ。零秒三。「月・形状パラメータ / 円 → 正方形」の文字列が、半透明に光った。消えない。昨日から変わっていない。いや、変わったのかもしれない。覚えていない。測っていない。測定する手段もない。
タスクバーの時計が六時十六分を示した。
画面の右下に、星:1/5の通知が二つ並んでいる。一つは「昨日の月は丸だったよ」。もう一つは「仕様です。」投稿者はいずれも不明。あるいは同じ人物。確認していない。どちらでもよい。
神はそれらを三秒間見た。四秒目にマウスを握った。絆創膏の端がめくれている。押し戻した。左クリックを押さなかった。押すものがない。天体更新は七日前に完了している。「完了」を消すには右クリックだが、右クリックした瞬間に「プロパティ」が開き、月の内部構造(核・マントル・地殻・表面の傷)が半透明のウィンドウで表示される。見たくない。あるいは見たい。確認していない。どちらでもよい。
蛍光灯が点滅した。二回だけ。三回目は来ていない。四回目は来ない。
「……まあ、いいか」
呟いた。声は出ないほど小さい。緑茶をもう一口飲んだ。底に沈んでいる茶葉が、舌に触れた。苦い。あるいは苦くない。確認していない。どちらでもよい。
窓の外に目をやった。漫画喫茶の駐車場には、トラックが一台止まっている。ヘッドライトが消えている。誰もいない。昨日もいた。一昨日もいたかもしれない。明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもよい。
麦は蒔かれている。菜種はまだだ。トーマスは小屋でパンを食べている。あるいは、まだ泥の中に膝を突いたまま空を見上げているかもしれない。メルは砂の上に座っている。あるいは、もう帰ったのかもしれない。どちらでもよい。
彼は緑茶のペットボトルを机に置いた。残量は底に残っているだけである。正確に何ミリリットルかは知らない。指で触ると冷たい。触らなくても冷たいのはわかっている。確認していないが、冷たい。
午前六時十七分。ミドリ村。南端。海辺り。
メルは砂の上に座っていた。まだ座っていた。動いていない。動いたのかもしれない。覚えていない。測っていない。測定する手段もない。ただし見ている。見ているからわかっている。
海が十五度傾いている。魚が六匹、空を泳いでいる。月は四角い。三つとも、同時に起きている。順番はない。確認できない。測定する手段もない。
指先で砂を押し込んだ。四秒七。五。六。止まる。もう一度。四秒七。五。六。止まる。二回目で止めた。三回目は来ない。今日も二回だ。昨日も二回だったかもしれない。一昨日も二回だったのかもしれない。数えていない。ただし今日は、数えている。
「……まあ、いいか」
呟いた。声は小さい。波が引く音に上回るほどではないが、ほぼ同じ音量だ。誰にも聞こえない。あるいは聞こえている。確認していない。どちらでもよい。ただし、言っている。言わなければ、今日も丸かったと思っているかもしれない。言っておけば、覚えている。覚えているから、違うことがわかる。
砂の上に座ったまま、彼女は空を見ていた。魚が泳いでいる。月は四角い。海は十五度傾いている。三つとも、動いていない。あるいは動いている。確認していない。測定する手段もない。ただし見ている。
午前六時十八分。ミドリ村。北斜面。
トーマスは小屋の前に立っていた。鍬を土に突き刺したまま。柄に刻まれた「タ」の字が、朝の光で薄く光った。一瞬だけ。零秒二。そして消えた。トーマスは見ていない。見ているのは麦の畝だ。五本目は未完成だ。菜種の種は指先にかかっている。押していない。置いてもいない。
空を見た。月は四角い。魚が六匹、泳いでいる。海は十五度傾いている。三つとも、動いていない。あるいは動いている。確認できない。測定する手段もない。ただし見ている。見ているからわかっている。
「畑が無事なら、それでいいべ」
呟いた。声は小さい。風で麦の穂が揺れる音に上回るほどではないが、ほぼ同じ音量だ。誰にも聞こえない。あるいは聞こえている。確認していない。どちらでもよい。ただし、言っている。言わなければ、今日も丸かったと思っているかもしれない。言っておけば、覚えている。覚えているから、違うことがわかる。わかるから、怖い。怖いから、言う。
鍬を抜き取った。柄に手をかけた。「タ」の字が光った。零秒二。消えた。トーマスは見ていない。見ているのは次の畝だ。六本目。まだ蒔いていない。今日も麦だ。菜種は明日。あるいは、明日もないかもしれない。確認していない。測定する手段もない。
彼は歩き出した。足元の泥が一つ鳴る。二つ。三つ。四つ。五つで止まる。六つ目は来ない。
操作ログ(抜粋) 日付:世界暦 1/6 05:42:17 / 天体更新 / 月・形状パラメータ / 円 → 正方形 / 適用範囲:全地域 / ステータス:完了 備考欄:空白。備考が書かれていない。
日付:世界暦 1/13(本日) 05:42:00 / 住民データベース・自動参照 / ミドリ村・北斜面 / トーマス / ステータス:更新中… / 経過時間:7d+ / 完了:未達 06:07:31 / 通知受信 / 「昨日の月は丸だったよ」/ 投稿者:不明(年齢推定:9〜10)/ 処理:未対応 06:18:04 / 天体状態確認 / 月・形状:正方形 / 海・傾斜角:15.0° / 空中生物:6匹 / ステータス:維持中 (備考欄:空白。備考が書かれていない。)
月は四角い。海は十五度傾いている。魚は六匹、空を泳いでいる。三つとも、明日も起きているだろう。確認していない。測定する手段もない。ただし思っている。思っているから、そうなのだ。あるいは、そうでない。
トーマスは畝に菜種の種を押した。メルは砂の上に座ったまま、指で線を引いた。一本。二本。三本で止まった。四本目は来ない。
どちらも、振り返らなかった。




