四角い月
世界暦一年一月十二日。午後六時二分。ミドリ村。北斜面。
トーマスは畝の端に立っていた。鍬は地面に突き刺したまま。柄に手をかけていない。かけてもよいが、かけていない。どちらでもよい。
空を見た。
月は四角い。
昨日も四角だった。一昨日も。三日前も。四日前も。五日分を数えれば、全部四角だ。ただし六日前は覚えていない。七日前も。八日前はもっと曖昧だ。おそらく丸かったのだ。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、思っている。思っているから、違うのだ。
「……まあ」
呟いた。声は小さい。風で麦の穂が揺れる音に上回るほどではないが、ほぼ同じ音量だ。彼は鍬を抜いた。柄に刻まれた「タ」の字が、月明かりで薄く光った。一瞬だけ。零秒二。そして消えた。トーマスは見ていない。見ているのは月だ。四角い。四本辺。直角が四個。確認している。測定する手段はないが、目で見ている。見ているからわかっている。
足元の畝に、白い粉が浮かんでいる。菜種の殻か、土の粉か、あるいはそれ以外の何かか。風で飛んできたのか、自分が踏んだのか、どちらでもよい。トーマスはそれを払い除け、小屋へ向かった。
「昔は丸かった」
呟いた。声は小さい。風で麦の穂が揺れる音にかき消されるほどではないが、ほぼ同じ音量だ。誰にも聞こえない。あるいは聞こえている。確認していない。どちらでもよい。
午後六時四分。ミドリ村。南端。海辺り。
メルは砂の上に座っていた。九歳だ。あるいは十歳。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、数えている。指先で砂を押し込んでいる。押す。置く。四秒七。五。六。止まる。もう一度。四秒七。五。六。止まる。
三回目で止めた。あるいは四回目だったかもしれない。覚えていない。測っていない。測定する手段もない。ただし、数えたことを知っている。数えているからわかっている。数えなければ、砂はただの砂だ。数えると、粒になる。粒になると、一個ずつわかる。一個ずつわかると、全部で何個かわからない。わからないことが怖い。あるいは怖くない。確認していない。どちらでもよい。
空を見た。
月は四角い。昨日の月が丸かったことを、彼女は覚えている。覚えていないはずではない。昨日は丸かった。一昨日も丸かった。三日前も。四日前も。五日分を数えれば、丸だったことが確認できる。ただし六日前は覚えていない。七日前も。八日前はもっと曖昧だ。
海を見た。
海が、上がっている。
正確には、浮いている。海面が水平面から十五度傾き、先端が空へ向かっている。水が滴っている。あるいは、水滴が上がっている。確認できない。測定する手段もない。ただし見ている。見ているからわかっている。
魚が、空を泳いでいる。三匹。四匹。五匹。六匹。七匹。八匹で止まる。九匹目は来ない。
メルは砂の上の指先を動かした。押す。置く。四秒七。五。六。止まる。もう一度。四秒七。五。六。止まる。三回目で止めた。
「昨日の月、四角だったよ」
メルが言った。声は小さい。誰にも聞こえない。あるいは聞こえている。確認していない。どちらでもよい。ただし、言っている。言わなければ、今日も丸かったと思っているかもしれない。言っておく。言っておけば、覚えている。覚えているから、違うことがわかる。わかるから、怖い。怖いから、言う。
砂の上に座ったまま、彼女は空を見ていた。魚が泳いでいる。月は四角い。海は上がっている。あるいは下がっている。確認していない。どちらでもよい。ただし見ている。
「……おかしい」
呟いた。声は小さい。波の音にかき消されるほどではないが、ほぼ同じ音量だ。誰にも聞こえない。あるいは聞こえている。確認していない。どちらでもよい。
午後六時七分。個室十七番。
神は画面を見ていた。正確には、見ているふりをしていた。
天体管理タブが開いている。月のサムネイルが表示されている。四角い。昨日から変わっていない。いや、変わったのかもしれない。覚えていない。測っていない。測定する手段もない。ただし今日は、見ている。見ているからわかっている。あるいは、見ているふりをしている。
海面角度の欄に「15.2°」と表示されている。正常値は0度。偏差は15.2度。神はそれを見た。一秒間。二秒目に視線を外した。昨日より一瞬短い。あるいは同じだったかもしれない。測っていない。
タスクバーの時_clockが六時八分を示した。
マウスを握った。絆創膏の端がめくれている。押し戻した。左クリックを押さなかった。押すものがない。「海面角度:15.2°」を修正するには右クリックだが、右クリックした瞬間に「プロパティ」が開き、海の内部構造(深層循環・塩分濃度・魚の個体数)が半透明のウィンドウで表示される。見たくない。あるいは見たい。確認していない。どちらでもよい。
窓の外に目をやった。漫画喫茶の駐車場には、トラックが一台止まっている。ヘッドライトが消えている。誰もいない。昨日もいた。一昨日もいたかもしれない。明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもよい。
「……まあ、いいか」
呟いた。声は出ないほど小さい。蛍光灯が点滅した。一回だけ。二回目はまだ来ていない。三回目はもっと先だろう。四回目は来ない。これは仕様である。
緑茶をもう一口飲んだ。底に沈んでいる茶葉が、舌に触れた。苦い。あるいは苦くない。確認していない。どちらでもよい。
午後六時十分。ミドリ村。南端。海辺り。
メルは立ち上がった。砂が指の間から落ちた。一粒。二粒。三粒。四粒で止まる。五粒目は来ない。
海を見た。海面の角度が変わった。十五度だったものが、十七度になった。あるいは十八度。確認していない。測定する手段もない。ただし見ている。見ているからわかっている。
魚が、空を泳いでいる。三匹。四匹。五匹。六匹で止まる。七匹目は来ない。昨日は八匹までいた。今日は一匹少ない。あるいは多い。確認していない。どちらでもよい。
メルは砂の上の指先を動かした。押す。置く。四秒七。五。六。止まる。もう一度。四秒七。五。六。止まる。三回目で止めた。四回目は来ない。
「昨日の月、四角だったよ」
メルが言った。声は小さい。同じ文を二回言っている。一回目は誰にも聞こえなかった。あるいは聞こえていた。確認していない。どちらでもよい。ただし、言っている。言わなければ、今日も丸かったと思っているかもしれない。言っておく。言っておけば、覚えている。覚えているから、違うことがわかる。
砂の上に座ったまま、彼女は空を見ていた。月は四角い。海は上がっている。魚が泳いでいる。三匹。四匹。五匹で止まる。六匹目は来ない。
「……おかしい」
呟いた。声は小さい。波の音にかき消されるほどではないが、ほぼ同じ音量だ。誰にも聞こえない。あるいは聞こえている。確認していない。どちらでもよい。ただし、言っている。言わなければ、今日もおかしくなかったと思っているかもしれない。言っておく。言っておけば、覚えている。覚えているから、怖い。
午後六時十三分。ミドリ村。北斜面。
トーマスは小屋の前に立っていた。鍬は壁に立てかけてある。柄に刻まれた「タ」の字が、月明かりで薄く光った。一瞬だけ。零秒二。そして消えた。トーマスは見ていない。見ているのは月だ。四角い。
小屋の中でパンを焼いている匂いがする。あるいはしていない。確認していない。どちらでもよい。ただし嗅いでいる。嗅いでいるからわかっている。
「昔は丸かった」
呟いた。声は小さい。風で麦の穂が揺れる音にかき消されるほどではないが、ほぼ同じ音量だ。誰にも聞こえない。あるいは聞こえている。確認していない。どちらでもよい。ただし、言っている。言わなければ、今日も四角だったと思っているかもしれない。言っておく。言っておけば、覚えている。覚えているから、違うことがわかる。わかるから、怖い。
小屋へ向かった。足元の泥が一つ鳴る。二つ。三つ。四つで止まる。五つ目は来ない。
午後六時十五分。個室十七番。
神は画面を見ていた。正確には、見ているふりをしていた。
天体管理タブの月サムネイルが、一拍だけ明るくなった。二秒。三秒。そして元に戻った。海面角度の欄に「15.2°」のまま。変わっていない。いや、変わったのかもしれない。覚えていない。測っていない。測定する手段もない。ただし今日は、見ている。
タスクバーの時計が六時十六分を示した。
マウスを握った。絆創膏の端がめくれている。押し戻さなかった。左クリックを押さなかった。押すものがない。「海面角度:15.2°」を修正するには右クリックだが、右クリックした瞬間に「プロパティ」が開き、海の内部構造(深層循環・塩分濃度・魚の個体数)が半透明のウィンドウで表示される。見たくない。あるいは見たい。確認していない。どちらでもよい。
窓の外に目をやった。漫画喫茶の駐車場には、トラックが一台止まっている。ヘッドライトが消えている。誰もいない。昨日もいた。一昨日もいたかもしれない。明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもよい。
「……まあ、いいか」
呟いた。声は出ないほど小さい。蛍光灯が点滅した。二回だけ。三回目は来ていない。四回目は来ない。
彼は緑茶のペットボトルを机に置いた。残量は底に残っているだけである。正確に何ミリリットルかは知らない。指で触ると冷たい。触らなくても冷たいのはわかっている。確認していないが、冷たい。
麦は蒔かれている。菜種はまだだ。トーマスは小屋でパンを焼いている。あるいは、まだ泥の中に膝を突いたままかもしれない。メルは砂の上で数えている。あるいは、もう寝ている。どちらでもよい。
月は四角い。海は上がっている。魚が泳いでいる。三匹。四匹。五匹で止まる。六匹目は来ない。
これは仕様である。
操作ログ(抜粋) 日付:世界暦 1/12 18:02:00 / 天体管理・月 / 形状:四角(設定値変更なし)/ 経過時間:6d+ / 元に戻す:未実行 18:04:00 / 海洋角度 / 偏差:15.2°→17.3° / 原因:未判定 18:07:00 / 魚群・空中遊泳 / 個体数:8→6 / 変動:-2 / 原因:未判定 (備考欄:空白。備考が書かれていない。)




