ミドリの村と四角い月
世界暦一年一月十日。午前六時一分。ミドリ村。北斜面。
トーマスは畑に出ていた。菜種の種を押す前に、空を見た。
月は四角い。
彼は思った。「そうだ。昔からそうだったな」。
昨日は丸かった。一昨日も丸かった。三日前も丸かった。四日前も丸かった。五日分を数えれば、丸だったはずだ。ただし六日前は覚えていない。七日前も。八日前はもっと曖昧だ。おそらく、ずっと四角かったのだ。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、思っている。思っているから、そうなのだ。
「……まあ」
呟いた。声は小さい。風で麦の穂が揺れる音に上回るほどではないが、ほぼ同じ音量だ。彼は鍬を持ち直し、次の畝へ歩いた。足元の泥が一つ鳴る。二つ。三つ。四十三歳は歳のせいではないかもしれないが、そう思っている。昨日も思った。一昨日も思った。おそらく明日も思う。
柄に刻まれた「タ」の字が、朝の光で薄く光った。零秒二。そして消えた。トーマスは見ていない。見ているのは小屋の方角だ。朝食の匂いがそこにある。あるいは、まだない。
彼は振り返らなかった。
午前六時三分。個室十七番。
神は画面を見ていた。正確には、見ているふりをしていた。
住民データベースのサムネイル一覧が表示されている。ミドリ村のアイコンが一つ。黒曜城のアイコンが一つ。王都のアイコンが一つ。それぞれの四角い枠の中に、小さな文字列がある。「運営中」「医療施設×1」「転移者相談所・待機中」。
天体更新の項目が、画面の上段に小さく残っている。「完了」の文字列。ただしその右隣に、灰色の小さな傷マークがある。三角形。内側に線が一本入っている。神はそれを見た。一秒間。二秒目に視線を外した。昨日より一瞬短い。あるいは同じだったかもしれない。測っていない。
マウスを握った。絆創膏の端がめくれている。押し戻さなかった。左クリックを押さなかった。押すものがない。「完了」を消すには右クリックだが、右クリックした瞬間に「プロパティ」が開き、月の内部構造(核・マントル・地殻・表面の傷)が半透明のウィンドウで表示される。見たくない。あるいは見たい。確認していない。どちらでもよい。
緑茶をもう一口飲んだ。底に沈んでいる茶葉が、舌に触れた。苦い。あるいは苦くない。確認していない。どちらでもよい。
窓の外に目をやった。漫画喫茶の駐車場には、トラックが一台止まっている。ヘッドライトが消えている。誰もいない。昨日もいた。一昨日もいたかもしれない。明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもよい。
「……まあ、いいか」
呟いた。声は出ないほど小さい。蛍光灯が点滅した。二回だけ。三回目は来ていない。四回目は来ない。
午前六時四分。ミドリ村。南端。海辺り。
メルは砂の上に座っていた。九歳だ。あるいは十歳。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、数えている。指先で砂を押し込んでいる。押す。置く。四秒七。五。六。止まる。もう一度。四秒七。五。六。止まる。
空を見た。
月は四角い。昨日の月が丸かったことを、彼女は覚えている。覚えていないはずではない。昨日は丸かった。一昨日も丸かった。三日前も。四日前も。五日分を数えれば、丸だったことが確認できる。ただし六日前は覚えていない。七日前も。八日前はもっと曖昧だ。
海を見た。
海が、上がっている。
正確には、浮いている。海面が水平面から十五度傾き、先端が空へ向かっている。水が滴っている。あるいは、水滴が上がっている。確認できない。測定する手段もない。ただし見ている。見ているからわかっている。
魚が、空を泳いでいる。三匹。四匹。五匹。六匹。七匹。八匹で止まる。
「昨日の月、四角だったよ」
メルが言った。声は小さい。誰にも聞こえない。あるいは聞こえている。確認していない。どちらでもよい。ただし、言っている。言わなければ、今日も丸かったと思っているかもしれない。言っておく。言っておけば、覚えている。覚えているから、違うことがわかる。わかるから、怖い。怖いから、言う。
砂の上に座ったまま、彼女は空を見ていた。魚が泳いでいる。月は四角い。海は傾いている。三つのことが同時に起きている。あるいは起きていない。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、全部見ている。
「……まあ」
トーマスが言ったのと、完全に同じ調子で。ただし、今回は誰にも聞こえない。海辺にはメルしかいない。潮風が麦の穂を揺らす音だけが答える。一つ。二つ。三つ。四つ目で止まる。五つ目は来ない。
彼女は砂から指を引き抜いた。爪の下に白い粉がある。菜種の殻か、土の粉か、あるいはそれ以外の何かか。風で飛んできたのか、自分が踏んだのか、どちらでもよい。メルはそれを払い除け、小屋へ向かった。
「この辺りの地盤は悪いからな」
トーマスが言ったのと、完全に同じ文で。ただし、彼女は言っていない。言おうとして、喉まで上がって、止めた。九歳だ。あるいは十歳。確認していない。測定する手段もない。ただし今日は、数えている。
午前六時五分。個室十七番。
画面の右下に、小さな通知バッジが点いた。一つだけ。神はそれを見た。一秒間。二秒目に視線を外した。昨日より一瞬短い。あるいは同じだったかもしれない。測っていない。
「……まあ、いいか」
呟いた。声は出ないほど小さい。蛍光灯の点滅音が上回る。今日もまだ二回だった。三回目は来ていない。四回目は来ない。
麦は蒔かれている。菜種はまだだ。トーマスは小屋でパンを食べている。あるいは、まだ泥の中に膝を突いたままかもしれない。メルは砂から帰ったばかりだ。あるいは、まだ海を見ていている。どちらでもよい。
彼は緑茶のペットボトルを机に置いた。残量は底に残っているだけである。正確に何ミリリットルかは知らない。指で触ると冷たい。触らなくても冷たいのはわかっている。確認していないが、冷たい。
これは仕様である。
操作ログ(抜粋) 日付:世界暦 1/10 06:01:02 / 天体参照・自動 / 月 / 形状:四角 / 表面傷:1箇所(三角形) / 状態:完了 06:03:47 / 海面上昇検知 / ミドリ村・南端 / 傾角:15.2° / 魚類浮遊:8匹 / 原因:未判定 06:04:19 / 住民記憶照合 / トーマス / 「昔からそうだった」/ 矛盾:検出 / 処理:保留 06:04:52 / 住民記憶照合 / メル(9歳) / 「昨日は丸かった」/ 矛盾:検出 / 処理:未達 (備考欄:空白。備考が書かれていない。)
利用明細(抜粋) 日付:世界暦 1/10 項目:監視時間……24h 項目:操作回数……0 項目:住民経過時間……7,042名 × 8h = 56,336h 合計料金:……………
(金額欄は空白。計算式が埋め込まれていない。)




