御者台の風
馬車に乗ってから、二時間ほどが経った。
私は、ぐったりと窓枠に頭を預けていた。
——気持ち悪い。
胃の中のものが、喉元まで上がってきそうになる。
思わず口を手で押さえた。
馬車酔いだ。
こんなに長時間、馬車に乗ったことはない。
自分が酔う体質だなんて、今まで知らなかった。
クララが心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫? 一度止まって休憩しましょうか」
そう言うが早いか、クララは御者台に声をかけた。
馬車が減速し、やがて止まる。
「外に出ましょう。落ち着くはずよ」
クララに促され、外に出た。
周囲は森に挟まれた、ただの街道だ。
深呼吸をすると、吐き気は少し和らいだ。
それでも胸の奥のむかつきは、まだ残っている。
その様子を見て、バルトロが言う。
「この辺りは野生動物も出る。長くは止まってられんぞ」
そう言いながら私の顔を見て、眉をひそめた。
「顔が真っ白じゃねえか」
少し考えてから続ける。
「御者台に来るか? 外の風を受けてた方が、楽かもしれん」
「……はい」
私は頷いた。
きっと、その方がいい。
バルトロに手を借りて、御者台によじ登る。
隣に腰を下ろすと、バルトロが手綱を軽く動かした。
馬車が再び走り出す。
風が顔に当たった。
それだけで、少し気分が楽になる。
揺れは相変わらずだが、動く空気を吸っていると、頭がすっきりしてくる。
高い御者台から、景色を見渡す。
広い視界。
森も、道も、遠くまで見える。
景色がゆっくり後ろへ流れていく。
馬の息遣い。
蹄の音。
私は馬に乗ったことはない。
それでも、まるで自分が馬に乗って駆けているような、そんな気分になる。
しばらくして、バルトロが声をかけた。
「どうだ? こっちの方がマシか?」
「はい。外の空気を吸っていたら、楽になりました。ありがとうございます」
少し迷ってから続ける。
「御者台って、馬に乗っているみたいで面白いですね」
バルトロが少し驚いた顔をした。
「そうか?……あんた、変わってんな」
変なことを言ってしまっただろうか。
それきり、しばらく沈黙が続いた。
馬の蹄の音だけが、一定の調子で続く。
やがてバルトロが、ぽつりと呟いた。
「あんた」
私は振り向く。
バルトロは前を見たままだ。
「……なんで、自転車なんか作ったんだ」
なんでだろう。
私は自分に問いかける。
最初は、遠くに行きたがるエミールのためだった。
だけど、それだけじゃない。
本当は、誰よりも私が——
「遠くに、行きたかったからです」
バルトロがちらりとこちらを見る。
「それだけか?」
「はい」
それ以外に、あるだろうか。
魔法使いではないから、空を飛んでいくこともできない。
遠くに行きたい。
ただ、それだけで作ってきた。
「小さい弟がいるんです。その子も、遠くに行きたがっていて」
少し笑う。
「一緒に行けたらいいなと思って」
バルトロは少し黙った。
「……純粋な願望か」
ポツリと言った。
それから、前を見たまま続ける。
「金儲けとか考えてねえ。だから、ああいうもんが作れるのかもな」
少し間をおいてから、つぶやくように言う。
「…羨ましい話だ」
バルトロは小さく笑った。
それ以上、何も言わない。
馬車は街道を進み続ける。
私は前を向いた。
風を受けながら、遠くへ続く道を眺める。
王都は、まだ先だ。




