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はじまりの自転車 〜魔法をもたない少女の発明と研究の記録〜  作者: 甘くないオクラ


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誘惑の魔石

 商会に入ると、クララは不在だった。


 いつも穏やかに迎えてくれる眼鏡の男性が申し訳なさそうに言う。


「遠出ではありませんが、戻る時間が読めなくて。戻りましたらお呼びします」


 私は頷き、自転車を持って倉庫へ向かった。


 倉庫の壁に自転車を立てかけて、扉を開く。

 中央付近で、エルンストとルーカスが話し込んでいた。

 隅ではアルドが魔石を弄んでいる。


 エルンストは書類をルーカスに手渡した。


「これを魔術院へ。今日中だ」


「王都まで? 俺、行ったことないんだけど」


 ルーカスが気安く言う。


 少し前まで、彼はエルンストに敬語だった。

 いつの間にか、それがなくなっている。


 距離が、縮まっている。


「飛べば片道二時間ほどだ。昼前には出ろ」


 二時間。


 空を飛べば、それだけで着いてしまう距離。

 地上なら、どれほどかかるのだろう。


 胸の奥が、ちくりとする。


 ルーカスがこちらに気づいた。


「フィーネ? どうした?」


 私はルーカスの近くまで行く。


「王都まで、飛んで行くの?」


「雑用だよ。人使い荒いよな」


「雑用でもすると言ったのは君だ」


 エルンストの淡々とした声。


 私は、ルーカスの持つ書類に視線を向けかけて、慌てて逸らす。

 それを見たエルンストが言う。


「魔石研究の進捗報告書だ。魔術院へ提出する。見ても問題ない」


「魔術院に……」


「共同研究にしろって言うくせに、研究者は寄越さない。結果だけ持ってこいだってさ。いいご身分だよね」


 いつの間にか隣に来ていたアルドが肩をすくめる。


 エルンストが、首を振る。


「内部では派遣案も出ているらしいが、誰が来るかで揉めている」


 ルーカスが半眼でアルドを見ながら言う。


「来たら来たで文句言うくせに」


「来なくていいよ。絶対面倒だし」


 軽口が飛ぶ。


 けれど私は、その会話を聞きながら、別のことを考えていた。


 ——王都。


 空を飛べる者だけが、軽々と行き来できる場所。


 私の自転車では、何日かかるのだろう。


 地上からでは、遠い。

 遠すぎる。


「今日は商会に?」


 ルーカスがこちらを見る。

 私は頷いた。


「鉄の自転車の、一台目ができて。クララさんに見せたくて」


「えっ、もう!? 見たい!」


 ルーカスが興奮したように言う。


 そのとき、机の上の魔石が目に入った。

 いや。

 目が、吸い寄せられた。


 軽量化。


 研究を通して、種類も性質も、だいぶ覚えた。

 もし、これを鉄の自転車につけたら。


 坂道は、もっと楽になるかもしれない。

 王都だって、少しは近づくかもしれない。


 ——でも。


 魔石を使えば、もう純粋な「地上の技術」ではなくなる。


 私は、まだ完全に制御できない。


 鉄の自転車ですら、感覚が追いついていないのに。


「フィーネ?」


 はっとして、視線を魔石から引き剥がした。


 アルドがにやりと笑った。


「魔石見てたね。自転車につけたくなった?」


 心臓が跳ねる。


「軽量化だろ? 鉄だと、漕ぐの重いもんな」


 鋭い。図星だった。


「……気には、なります。でも、まだ早いです」


「つけてみようよ。ここに魔法使い三人いるんだよ? しかも俺とエルンストは凄腕」


「自分で言うなよ」


 ルーカスが呆れる。


 アルドの手には、加速の魔石。


 それはだめだ。

 これ以上速くなったら、制御できない。


 けれど軽量化や安定化なら——


「アルド、無理強いはするな」


 エルンストが低く言う。


「いや絶対気になってるって。ほら見て。後で一人でやる顔してる」


 視線が集まる。


 私はどんな顔をしているのだろう。

 否定したいのに、できない。


 エルンストが、私の顔を見て言う。


「…一人で、つける気なのか」


 藍色の眼には、ごまかしが効かない。

 私は視線を逸らしながら、小さく言った。


「……軽量化と、安定化は、少しだけ」


 沈黙。


 エルンストが小さく息を吐いた。


「自転車を持ってこい。監督下でやる」


 その声は叱責ではなく、責任を引き受ける声だった。


 地上の技術に、魔法を混ぜる。


 それは、越えてはいけない線なのか。


 それとも——


 新しい道なのか。

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