軫之章「陵光土埃に起ち、人間に憔徊を始む」 三話
──どこまで行くのか
陵光の脳裏には、それだけが漂っていた。四輪車を両断し、禺と黒黄の猿の群れを斬り伏せた後、十日ばかりを常に西行している。
水を避けたい。それをまず掲げて、路を選ぼうとした。
西行を始める前、陵光は男に見せられた玻璃の図の上下が、どこを指しているのかを理解していないと気付いた。
そこで超市に戻って、その前方の道との位置関係を頭へと落とし込んだ。お陰で玻璃の図らしき物は、上が北らしいと初めて理解した。
東西南北という言い方は合っていても、陵光の中の君子南面という理屈から、どうも取り違えていたらしい。
用心から得た理解を基に、なんとか瀰い水を避けられたのだ。
とはいっても、凡そ山隘ばかりである。本当に己の選んだ路が正しいのか、全く自信は無い。
四輪車を斬った時に火を吸ったことで、精気は戻ってきたから、今では走れている。昼に二刻(四時間)も無いほどを駆けて、着いた先で指を方々へ指しながら所在を訊く。それを続けていた。訊き続けている内に、この地の言葉の法というのも、極めて微細ながら判るようになってきた。
日の出る処を指しながら訊けば、東と言い、日の入る処を指しながら訊けば、西と言う。それが解るだけで、だいぶ違った。
しかし、独りというのは陵光にとって、何とも言い難い。
天では他に四柱が塊となって、異形に臨んでいた。容易く躱されて、あろうことか天床を貫かれて墜ちたのだ。あれだけの大穴に、己だけが吞まれたとも思えない。
他の神は近くに居るのか。或いは想像し得ないくらい、遠くへ飛ばされたのか。
こういう時、陵光には監兵の姿が浮かんでくる。
白虎の子である。とても手の掛かる豎子である。学問やら礼儀を誨えるため、傍に居ることも多かった。だが、たいてい暴れるような問題児である。その分
「同じようであれば、健壮でいられるか?」
などとも、思うのである。
己と同じように頭脳を拮かせるとは思わないし、厄介を起こせばどうなるか。監兵は戦神の脈なのだ。
夜であった。無闇に宿を借りるのもいけないと、陵光は野宿を続けている。
近くの水面から、亀が出ている。
鳥のような頭である。怪と同じ奇妙な気配だったが、害を為さないのなら、手を出そうとも思わない。
──前後不覚は起こすまい
陵光は背を山肌に着けて、明るくなるまで休むことにした。
寝るまでは行かなくても、目を閉じ続けている。瞑想と謂えば、それが一番近かった。
陵光は静かであることを望んでいる。しかし周りがそうでは無い。最初は風の音かと思ったが、本当は水の音であると判り始めた。
目を開け、左右を瞰る。住んでいる者が騒いでいる、という訳でもない。
立ち上がり、灯りの無い中だが探ってみようと、陵光は動き始めた。
息を潜めて、近くの川の水面を窺う。月の明かりは在る。これを恃めば多少は、音の意味が分かると思えた。そもそも己が苛立って、幻聴しているかもしれないのだ。
上流の彼方である。少し水が盛り上がっていた。石なのか、区別の為に凝視すると、少し動いた。
陵光にとって灯りの無い夜は、どうにも苦手である。先の鳥頭の亀なのか、違う物なのか。少し大きいが怪らしいとは、感じるもので判別はした。
彼の首が起きた。翼らしい物が拡がって、月明りの下に向きを知った。
──拙い
陵光は走った。今まで水の流れで消されていたが、あの怪は間違いなく凶物だった。翼が大きくなったのと同時に、邪さが一度に出るようになった。
己から水には寄れない。だが近くに村が在ると、陵光は昼に確かめた。
水から離れながらも怪の意を惹くよう、持ち込む外ない。微力ながらも陵光がすべきは、均衡を保たせることである。作務云々というよりは、心身に染み込んだ在り方であった。
橋が在れば良いと思った。無かった。だから陵光は水際に立って
「応、応乎」
という大声を上げた。
対してみると、怪は大きい。鱗であるらしいが、牛のような肩がある。長い尾、一対の翼。声を上げているが、それも牛に似ていた。
──練るか
陵光は考えた。
周りに草木が多い。火を熾したら広く燃える。
そこまでやるのも、流石に過剰ではないか。
剣だけを左手に顕した。あまり強い熱を帯びないように、少し抑えた。
睨み合う。鱗牛の怪が、暗がりで何かを始めた。
──危ない
陵光は肩を大きく躱した。右肩の在った所を何かが掠めていく。すぐに背後の木が、斜面に沿って倒れた。
冷たい飛沫を浴びて、すぐに水で狙われたのだと判った。真正面から中たれば、どうなるか。
陵光は狙いを避けるため、左右に動いた。何度か水を放たれたが、背中を通っていく。
何も策を練らずに川へは入れない。陵光は跳び上がると、脛の辺りだけを火にした。
触れた水を、沸かしながら進んだ。それでもすぐに体が鈍る。
思い切って、鱗牛の上から狙いに掛かった。
鱗牛が胴ごと、動こうとしているとは察えている。どうにも首が固いらしいのなら、こうするべきだった。
長い尾が、陵光を撾ろうとしてくる。
宙に浮く陵光は、体を捩って一太刀、尾を斬り払った。
それでも勢いで、陵光の頭が一撃を食らった。そのまま、鱗牛の上に落ちていく。
波が生まれた。鱗牛もろとも、陵光は水に沈んだ。
夜である。飛んだ水が少し光って、無くなる。
波も次第に、落ち着いた。
羽虫の音が、漂っている。
その羽虫の下で、川の水から泡が立った。少しずつ、岸へ近付いていく。
水面に鳥頭の亀が、幾らか浮かんだ。目が白くなった、それらを掻き分けて、腕釧を着けた両腕が川岸を掴んだ。
陵光である。水に塗れている。体を地に降ろすと、すぐに横臥した。
水に浸かる前に、精気を練って総身を覆ったとはいえ、少しどっぷりと入りすぎた。しかもここの水は、あまり清らかではない。良いか悪いか、体が少し臭う。
少し待てば、臭いは取れるかもしれない。だが折角の戻った体力が、今の格闘だけで再び奪われた。
「また、歩くのか」
陵光は言ちた。言ちながら寝返りすると、陵光の熱で湯だった鳥頭の亀が、打ち上がっている。
ついでなら、と食べる気はしない。
少し寝てみることにした。まだ日は出ていないのだ。夜明けから何とかしなければ、焦りが禍を生む気さえしていた。
数刻、夜が明け始めた。
弱い暁光に瞼を照らされて、陵光は体を起こした。
意識が落ちることは無い。どうにも周りが静かすぎるのも、逆に目を醒まさせている。
明るくなった川を瞰た。昨夜の怪は水底に沈んでいるのか、骸が現れてはいなかった。あれだけの大きさなら沈むのも当然だろうと、陵光は思っている。
膝に手を付いて立ち上がる。やはり戦う前と比べると、体が鈍って感じるのは嘘では無い。ただ目醒めたばかりの頃と比べるのなら、かなり益ではある。
──仕方が無い
陵光は日の方角を察た。出る処が東で、入る処が西なのである。
とすれば、向こう岸に東が在るのか。
背後の、向かう先を確かめた。路は在る。そこは心配しなくても良い。
だが
「独りでは、不自由だな」
という言葉が出てくるほどには、今の能力に限界が在るとも解り得た。
まずは、動き続けなければならない。重たい気分で八里を歩いた。そうすると家屋が、現れてくる。
午というには少し早いか。幾らか住民が動いている。
「你好」
陵光は迷わずに声を掛けた。そして路の伸びる方向を指して
「西?」
と、問い掛けた。
相手は奇妙な物を見た貌で、声を殺しながら頷いている。
「谢你」
陵光は相手に、今まで聞いた文脈から繕った言語を伝えて、また進み始めた。




