軫之章「陵光土埃に起ち、人間に憔徊を始む」 四話
鱗牛の怪を斃してから、また十日が経った。
再び走るのに難儀をし始めた陵光は、一日に二、三舎(三十から六十里)を往くのみとして、己の精を無駄に費やさないよう、気を払い続けている。それでも山が続いたせいか、怪と遭うことが多かった。
鱗牛の如く水を練る怪は少なかったが、異様な風体も居る。まだ数は少ないが、これからも今の通りに進むのか、陵光は憂いている。
日中に街へと入った。少し大きな路があったから、それに沿って北へと逸れた土地である。
他者の気配も大きく、久しぶりに活気がある所へ踏み入れたのではないか。ここまでずっと、緑が多かった。
例に漏れず、陵光を見た在地の者は、皆が好奇の目を向けてきている。そうなるだろうと解っていた陵光は、間を堂々と進んでいった。
しかし、どうだろうか。これまでは胆を抜かしたように静かになっていたが、今度は騒めき立っている。陵光の目には、やや珍しかった。
──私の行いに違った所があったのか
孤独であった分、その疑いも持たざるを得ない。己の解りえない異質が在るのかもしれない。
目の鋭い男が、陵光に近付いてきた。
「你从哪来、啊?」
余所者、と言ってきているとは判った。言葉ではなく、態度である。
陵光は会釈をしてから、近くの檄らしき物へ指を差した。伝えたのは、ただひとつ
「那」
という一語のみである。
男が何も答えない所を、陵光は同じ言葉で押した。すると男は慍然としながら
「南川。这样够吗」
と言いつつ、何度も振り返りながら去っていった。
──街に出てみたのは、誤りかもしれない
陵光は思い直した。
独りでは限界が有ると考えてから、いよいよ他に墜ちた神を探そうと試みていた。
山林を通るばかりで機会が得られなかったが、やっと機会が訪れたのだ。しかし、その機会が今のように消費されるのなら、闇雲に疑われることも含めて、悪手だったかもしれない。
周りには往来が多い。男とのやり取りの内に、見物に来た者も居るらしい。
そんなに己は異形か、とも陵光は思ったが、鏡に在る己の姿と周りの姿とは、まず変わらないはずだった。毛髪や眸の色が違うくらいか。身に着けている物も、違いはするか。
この辺りは山に囲まれているらしいのだ。また山に入ろうかと、陵光は動こうとした。
左右を顧みる。建屋の中に、動く画が映される函を睹た。
陵光からしても、どうにも珍奇が多すぎる。だいたい丁壮貞女が、なぜ襌で歩き回っているのか。それも教育者でもあった陵光にとって不満だった。
少し立ち止まった。己は平静で居られなくなっているかもしれない。それからは、余り周りを気にしないように、進む方だけを見ようと決めた。
山の影が揺れていると感じる。まだ慣れきっていないのだ。これが墜ちる前であれば、怪か自然か、すぐに判っていた。こちらへ吹いてくる風は少ないのだから、あまり大きな異変でも無いだろうか。
路を、四輪車が笛を鳴らしながら奔っていく。哨吶の音ではなく、笛を強弱に吹いているような、続け様の音であった。
羽檄が走る時の報に比いかとは、陵光も量れた。
「它在哪里、快说」
「它在高岩村、快!」
「上车、多告诉我一点」
荒い口調の会話が聞こえてくる。焦りは大きいらしいが、何がそうさせているのかは解らない。天災の類なのか。
声の主はすぐ近くにいる。陵光はどういう貌をしているのかだけは、観察しようとしていた。
話し手らしい者が、ちょうど四輪車に乗りかけている。見慣れた車で譬えれば、馭者の座るような場所であった。
彼は眉を顰めて、手元も齷齪としている。かなり危急であるらしい。少なくとも、今までと比べて烈しさがある。
二者を乗せた四輪車は走っていった。山肌に向かっていくらしかった。ちょうど先頃に揺れていた山の辺りではないかと、陵光は察した。
──いっそ蹤けてみるか
陵光はそう思った。何か事が起きた場所には、墜ちた神に係わる痕跡も在るかもしれないのだ。己がここまで異物として扱われるのなら、他も同じに違いない。それなら騒がれていても、可笑しくは無いだろう。
陵光は鈍いながらも、走り始めた。一刻で二百里を往けるような体にはなっていないが、抑えれば何とかなった。
そして夕暮れの前に、恐らく騒ぎの本だろう場に立ち入った。
「停下來!」
背幅の大柄な男が、動きを制そうとしてくる。
陵光は構わず、男の胸を抑えて退かした。
男も押し返そうとするが、陵光の膂力には全く敵わない。
周りはどうなっていそうか、陵光は注視をしてみた。
木が多く、それだけ陰も多い。先が見えにくいが、瘟瘴の気だけは矢鱈と濃く感じた。
先に前を塞いできた大柄の男が、陵光の身の甲を掴んでいる。
陵光は男の襟を、掴み返した。
「何がある」
威嚇をされているのだ。陵光もまた、気を強くしなければならなかった。
襟を掴まれたせいか、男は呻いている。それでも陵光の甲を離そうとはしない。意地でも行かせないという気概が在るらしい。
揉み合う内に、少し瘟瘴が強まったか。或いは近寄って来たのか。いずれにしても今までと比べると、悪癘らしいというのは確かに思える。
「下がれ」
陵光は男を突き放した。二丈(約四メートル)ばかりを飛んでいく。
奥の茂みが大きく揺れた。自由になった陵光は、瘟瘴の正体がそれだと決めて、中へと踏み込んだ。
八方に木である。真っ直ぐとは進めない。どこから襲われても良いように、陵光は二歩ごとに、前後左右を見た。街の在る処には下がっていくから、それが方角の頼りである。
もう一度、茂みが鳴った。嬰児のような声が耳に来ている。
陵光はとっくに、左手へ剣を顕していた。
後ろを斬った。草木の音では無い、明確な跫音が有る。後ろから来たのだ。影を捉えて、陵光は茂みを掻いていった。剣に火の気を出しすぎないよう、草が焦げる程度に振るった。
上、影を追った。影は木の枝に脚を掛けて、一気に大きくなった。
「むっ──」
陵光は往なすだけだった。咄嗟に断ち斬るまでは行かなかったが、高い声が有った。
刃が触れはしたのだ。触れはしたが、小さく創を付けただけなのだ。
陵光は影の残滓を追って、身を飛び込ませた。今度は、もっと鮮明に見えている。
九つの尾と、長い鼻梁がある。大きくは無いか。
影は跳んだ。木を使って、身を影のままにしたがっている。腥さも尋常とは謂えなかった。これなら、害を為す存在と思って良いのだろう。
さっきの男が怖がっているのも、陵光には理解できた。
そして剣を構えて、身動ぎを止めた。
晡。
もう星が満天である。
山の外に衆が居る。本当は怪が居るだけに、留まってはいけない所である。それでも起こった事の物珍しさからか、好奇心を払い除けるのは難しい所業であった。
男は外で、見張りを続けている。先頃には陵光に、力負けをした。
外から見れば、陵光は無謀であった。だから日を跨げば、尸を探しに行くものだと思っている。陵光を珍異に思っているからか、逆に情も生まれているらしい。
男は溜息を吐いた。気が重いのだろうし、あれだけの瘟瘴なら、男も異様だと感じ取れていた。
暗がりから音がした。男は身構えた。
少しして、夜陰が明るくなっていく。
灯りは無い。草がちりちり燃えているからだとは、間を置いてから理解するものだった。
立つ火の中から、陵光が出てくる。片手を睹ると、狐のような九尾の怪が掴まれていた。
陵光はと謂えば、やっと息を吐けたという仕草である。
「少し、やりすぎた」
陵光は呟いている。
男は陵光の言葉を知らない。だが後ろの火を察ただけで
「灭火! 水、泼水!」
という怒号を、辺りに飛ばし始めた。




