男は機嫌を戻しているらしい。陵光に一杯の、玻璃の杯を渡そうとしてきた。
「いえ、私は飲みませんから」
陵光は手を翳して、受け取らなかった。入っているのは酒のようだと、感じたからである。酒精は前々から飲まない。
「是吗──」
男は渡そうとしてきた杯に口を付け、飲み干した。
陵光が山中で九尾を斬った後、発した火の精が影響して、林を焚きかけていた。在地の者は皆が水を持ちこんで消そうとしていたが、陵光が生じた火を吸い込むことで、全て鎮めたのである。
陵光にとっては、己の精を取り戻す為にした。だが周りには、そう映らなかった。
結局、野次馬も多いせいで夜の内に騒がれた。陵光は先に揉み合いになった、背幅の大きい男に連れられて、目立たない場所の家屋の内へと連れ込まれたのである。
火では無いらしい、白い灯りが点いている。
机が在り、手元には紙が置かれた。そして筆らしき記具も有る。男が察し良く、他に用意させた物だった。
紙には既に、単純な線で人の絵が描かれている。そして上に被さるようにして、犬に似た絵も描かれていた。尾が分かれているから、どうにも先に斬った九尾を表したらしい。
「这家伙吃了一个人」
男が吐き捨てるように言っている。意味は解らなくても、陵光は絵と語気から
──この地の者が襲われたのか
というくらいなら判った。
そしてもう一つ、男が言うには
「对了、重庆似乎也有类似的人。你是朋友吗?」
ということらしい。
ここまでの発話になると、陵光には解らない。だが男が陵光の装具を指さし、さらに紙へと人の姿を描かれたことで、やっと伝わってきた。
どうにも同じような格好に、思い当たりが有るらしい。
「何処ですか」
陵光は訊いた。
男は眉を開いている。絵にしても、どうにも伝えにくいことなのか。
陵光は記具を受け取ろうとした。男も意図が分かっていた。
ここまで解り始めている事と謂えば、発話は違っても文字は似通っている、ということである。だから陵光も、文字を使えば何とかなりそうだと思い始めていた。
試しに、紙に対して
「吾名陵光、何存乎」
ということを書いてみた。この程度なら、あまり難儀しない文句ではないか。
果たして男は、なるほどな、という貌をしている。
「你是──」
男は言いかけて、それでは違うと思ったようである。陵光の差し出した記具で、男も文章を書き始めた。
幾らかの字が書かれていく。その筆法は陵光とは全く違うが、意味は通りそうだという気配はした。
書き終わった紙が差し出された。
「重庆那边有人坠落」
と、書かれている。陵光は一文字ずつを指でなぞっていった。字形が違う部分が多々あるから、そこは少し飛ばした。
次に男に見せながら示して、これは何を示すのか、ということを尋ねようとした。そして擦り合わせたことで、それぞれがどのような塊で意図を持つのかを、徐々に確認した。
──重庆の那边に有るは、人の坠落である
そういった文脈で、凡そ良いようである。
男が言った重庆という名は、大きな手掛かりになるかもしれない。陵光は焦りもありながら、己を律して
「請答何在重庆」
という五字を、男に示した。
男も何処ぞで見たことのある、玻璃の板を持っているらしい。指を動かした後に陵光へ見せてきた。
右側に南川と記され、左側に重庆と記されている。今までの理解が正しいのなら、左は西のはずであった。
場所が解るのなら、距離も訊いておきたい。陵光はまた紙に
「何里乎」
と書いて伝えた。
男は目を逸らし、玻璃の板で何かを確かめた後、少し頷いて筆記を始めた。
「220里」
男の書いたことである。だが陵光には240という文字が、どの数を表しているのかを察せない。ここで退いては正しく知れない。陵光は横に
「一、二、三」
という数字を書き揃えた。
男は仕方が無いという仕草で
「二百二十」
と書いた。
二百二十里か、と納得した陵光は、男に謝意を示した。
「どうにか、なりそうです」
言葉が通じないとは解っていたが、声には魂が在るのだ。こればかりは文字に頼らず、直接伝えたいことであった。
男にその意図が分かったかどうか。素気が無い返事をして、この家屋の主らしい者に伝手を付けていた。
陵光は会話が終わった後の隙で、少し訝しんだ。
幾ら怪を斬ったとは謂え、男の行為は仁恤に過ぎるのではないかと、思い至ったのである。男は怪の類では無いとは感じ取れるが、邪で無いとは限らない。
紙に一文を書いて、男の背に近付く。
陵光が男の肩を叩けば、驚きながら振り向かれた。
「汝者如何吾庇哉」
男の目の前に、陵光は示している。
不快なのかは判らないが、かなり渋い顔をされた。
「为什么? 你杀了它、吸入了火焰。也太奇怪了吧、搞得我反而没法怀疑了」
男は言ったきり陵光から紙を奪い取り、何かを書いてから外へと出て行ってしまった。
陵光は後を蹤けるべきかと思ったが、紙に男の字で
「黎明」
と書いてあったあから、そのまま待っているべきなのだろうと考えた。
日が出るのは早い。どうにも陽気が強いから、今は夏と謂えるらしい。
まだ完全に明るくなっていない街の角、昨晩に男に連れ込まれた家屋の前で、陵光は立っていた。
男は来た。四輪車を動かして、ここまで来たらしい。
乗るか、と手招きをされた。陵光は断った。
男は面白く無さそうだったが、陵光からしても下手に世話になるのは、いけないと思っていた。
溜息を吐いた男は勝手にしろと、指を向こう側に差している。路が折れているが、その先にも続いていそうだった。
「重庆?」
陵光は聞いたまま、地名を男に問うた。
男も肯いている。それと同じくして、小瓶らしき容器に入った水を渡そうとしてきたが、陵光は断った。
「你想死吗?」
男は舌打ちをしているが、陵光に水は要らない。昨日に火を吸い入れたことで、活気を取り戻したのだ。わざわざ体を弱らせたくはなかった。
陵光は男に礼をした。それから差された方へと走り始めた。
ちゃんと走れる。これなら二百二十里は、一日で往けるのではないか。振り返ってみると、遠ざかった男は唖然としていた。
それから、二日の後である。
陵光は重庆の内に居た。南川から重庆まで走ってみた陵光には、聞いていたよりも明らかに距離が長く感じた。本当は二百と六、七十里であったと思っている。
それでも一日であった。陵光はなんとなしに隠れつつ、今は重庆の市街を巡って噂の正体を掴もうとしている。
──こういう所に、私と同じようなのが居るのか
大きな川が流れ、楼閣の数も多い。己らに似合わない場所にも思えたし、墜ちて来たとするのなら誰なのかと、空想もしている。
ただ噂が二百里も走ったのなら、そんなに目立たないことも無いのではないか。陵光は見物をするなり、他衆の様子を遠くから瞰ながら、興味を惹き付けているだろう場所へ当たりを付けていった。
辿っていくと、少し北に出た。近くには大囿があるのか、鋭い翼の鳥らしき物が、頻繁に飛んでいる。これまでとは気風が違う所らしい。
「んん」
陵光は唸った。左右が判るほど縋る物が無い。
少し戻ろうか。陵光が踵を返しかけると、傍の林に異変があった。
鳴き声、蹄音が犇めいている。
木が揺れたと思うと、縮れ毛に覆われた長尾の獣が噴出した。数十という規模である。
四輪車が在れば、それを跳ね飛ばしてもいる。無害そうに察えたが、ここまでになると御さねばならない。
陵光は剣を練って、相対した。
怪の気配はあるが弱い。十餘を斬り、元凶が居るといけないと、周りへの警戒を少し残していた。
陵光はまだ、気を弛めはしていなかった。
「待てい!」
後ろから、声が聞こえてくる。聞き覚えもある。
──まさか、監兵
陵光は練った剣を解いて、声へ振り向いた。